ポワンタージュ(麻布十番)
2013.06.07 Friday 04:27
180軒目(東京の200軒を巡る冒険)
いつきても活気がある。
ランチのときには行列ができていることもざらだ。
奥に向かって長い店舗の、右がわにはガラスのケースと、バーカウンター。
左側には椅子席。
料理を食べる人、昼過ぎにはお茶をする人、酒を飲む人。
そのあいだを料理やパンをもった店員が行き交う。
ただパンを買いにきただけでも、この雰囲気に浸ると気分が高揚する。
中川清明シェフがこの店を開いたきっかけはどういうものか。
「弟(中川英司シェフ)が、イタリアや、日本のいろんなイタリアンレストランで働いたりしていたので。
どうせだったらいっしょにやろうかと。
去年の6月で10周年を迎えました。
ここに住んで4代目、父の代までは酒屋をやっていたんですよ。
生まれも育ちもここで。
3、40年前までは、料亭街で、その中で酒屋をやっていた。
近所に支えられてきました。
形はどうあれ、地元密着で商売できたらと、この業態になりました。
パン買えたり、酒飲めたり、食事できたり。
パン屋なら、値段も抑えることができますし」
ブーランジュリーであり、トレトゥール(惣菜屋)、カフェ、バール、クッチーナ(食堂)でもある。
本格的な料理とパンを、コストをかけず低価格で供する。
つまり、いま流行のバールやスタンディングバーのような業態を10年前から先取りしていたことになる。
夜だけの営業ではなく、朝から晩までノンストップで開いている点、誰でも入りやすいという点では、もっと先をいっているかもしれない。
ランチタイムが終わったあとの午後3時。
料理人が休憩に入った時間帯には、テイクアウト用に売られていたランチセットやサンドイッチをあたためてサービスする。
パンも売り場にあるものから選ぶ。
焼きたてのあたたかいチャバタやカプチーノといっしょに食べれば満足度は高い。
「はじめは弟の料理に合わせた食事パンや、志賀シェフに教えられたハード系が中心でしたが、地元の人がついてこられないところがあって。
あんぱん、菓子パン、カレーパンとバリエーションが増えました。
アイテムは100種類ちょっと。
多品種少量生産で、買物を楽しんでいただく。
種類があると、お客さんは選ぶのが楽しいじゃないですか。
その代わり、作るほうはクオリティを保つのがむずかしいですね。
ごちゃごちゃしてますけど、それがいいという方もいらっしゃるので」
ミルクフランス(180円)
ポワンタージュといえばミルクフランスが有名である。
巻き付いた薄い皮はうっすらとかりかり。
中身はむにゅっとしてやわらかく、唾液で丸くなって、ミルクの風味を発揮する。
それがクリームにある練乳の口溶けと響きあって、しかも甘すぎない。
いま甘さの頂点にいるのに、しかしさわやかであるという心地よさ。
ガラスケースに並んだたくさんのパンを迷いながら買う。
繁盛店だけに、あとからあとからとお客は押し寄せる。
対面販売だけにいつまでも迷いつづけることはできないという、そのちょっとしたプレッシャーが、パンを選ぶ楽しみにいっそうのスパイスをふりかける。
店に入ってまず目につくのは、低温長時間発酵バゲット、それからドライフルーツや大納言などの入った小さいポーションのハード系のパン。
ペルティエ時代の志賀勝栄シェフが得意としていたものだ。
「志賀シェフにお世話になったのは赤坂のペルティエです。
志賀さんのパンがいちばん好きでしたし。
それまでは、デパートのパン屋、町のパン屋でやってきました。
勉強になったことは、挙げればいろいろあります。
志賀シェフが重要視しているのは、イマジネーションすること。
自分の求めてるものに向かって、仕事を組み立てる。
ルセット、工程、発酵であり。
まず、自分でイマジネーションすること。
そんなこと考えたこともなかった」
ポワンタージュ=一次発酵。
パンを作る工程自体をコンセプトとして掲げ、店の売り物にするのは、当時も、いまも斬新である。
「10年前に名前をつけちゃいましたけど、いま思ってみるとずいぶん大それたことを(笑)。
当時は、長時間発酵に夢中でした。
いまでも発酵って大事だなと思いますけど、パン作りはどこだけをこだわるということじゃなく、工程ぜんぶが大事だと思いますね。
志賀シェフにはまずパン作りの基本があって、あのスタイルがある。
長時間発酵だ、素材だ、国産小麦だ、フランス産だってこだわる要素はいっぱいありますけど、基本は大事だと思いますね」
志賀シェフゆずりの長時間発酵をメインにして店を出発させながら、いま3時間発酵のフランスパンに回帰している。
「たとえば、フランスパンであれば、普通のストレート法(発酵)3時間で、北米産の小麦(リスドオルのような、一般的なフランスパン用小麦粉)、普通の工程の中で、シンプルに塩と水とイーストだけでものすごくおいしいものを作る。
そこを目指して、結局また原点に帰る。
そこすごく大事なこと。
それがわかることで、他のパン作りにも役立つ。
イースト、モルト、塩、水、小麦粉。
砂糖も油脂も入れないで。
志賀シェフのパン作りもマスターしたわけでもないんですが、基本が大事だとつくづく思う」
「いまの環境の中でできる最前を尽くす。
だからこそ基本がある。
パンに限らないんじゃないですか。
もの作りって、これでいいってないんじゃないですか。
死ぬまで、普通においしいパンを目指してがんばるんじゃないのかな。
僕は志賀さんのようにはなれないので、普通においしいパンを目指して、がんばりつづけるだけですかね。
だから、こだわりとかはないですね。
できる限りのことをする」
カンパーニュ
正統派のどっしり感と、ソフトで食べやすいということが両立している。
つまり、皮にはカンパーニュらしい必要十分な厚さがあって、にもかかわらず中身は思いもかけずやわらかいということ。
皮には皮の、中身には中身のライ麦の香り。
中身はミネラル感を含みながら、甘さが発せられる。
一方で、皮からは噛めば噛むほど酸味とうま味が。
味わいの強さとバリエーションに満ち、食べ飽きることがない。
中川シェフは平気な顔で言う。
「夜の6時、7時に出てくるパンもあります。
通勤帰りの人とかで、昼より夜のほうが商品が動くことも。
うちは12時近くまでやっているもので、地元の人たちの生活リズムに合わせて」と。
昼過ぎまでにすべてのパンを焼ききってしまううパン屋が多い中、夜も焼きたてを出す経営努力。
焼きたてパンと料理の香りが店を活気づけ、一杯のコーヒーから飲めることが敷居を下げ、詰めかける客の姿がまたパンを買う客を呼ぶ。
すべてが相互作用で循環しているのだが、それを特別なことでなく、ごく当たり前の顔でやりきっている。
フランボワーズのデニッシュ
編み目と焼き色、ワインレッド、そしておおぶりな形、薄さががうつくしい表情に結実している。
ごくシンプルに、デニッシュの上のたっぷりのフランボワーズジャム。
その酸味を、デニッシュのバター感をまとわせただけで直撃させる。
この薄さがすばらしい。
ほんのちょっとのさくさく感と、ジャムのねちっと歯にくっつく感覚のみ残して、一気に噛み切る快感。
直後に酸味が弾け、喉で甘さを感じる。
かっこいいパンがもったいつけず、放り出してある。
どんな時間でも行きたいときに行ける。
「粋」の本当の意味とはこういうことではないか。
ここに生まれ、ここに育った、麻布という土地が身に付いた人の店である。(池田浩明)
東京メトロ南北線・都営大江戸線 麻布十番駅
03-5445-4707
10:00〜23:00
(ランチ11:30〜15:00、ディナー18:00〜23:00[L.O 21:00]、月曜・第3火曜休み)
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