パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
タルティーン ベーカリーの真実 創始者チャド・ロバートソンに訊く
黒船、到来。
サンフランシスコから、超大物が日本に上陸する。
タルティーン ベーカリー。
08年に、"食のオスカー"「ジェームズ・ビアード財団賞」で最優秀ペイストリー・シェフ賞を受賞、アメリカのベストベーカリーに選出された店。
東横線の地下化に伴い跡地に建設される話題の商業施設「ログロード代官山」の目玉として、この春オープンする。



「タルティーン ベーカリー&カフェ」
日本1号店
2015年春オープン

渋谷区代官山町13番1号 ログロード代官山 5号棟

タルティーン ベーカリーのオーナー、チャド・ロバートソン。
日々粉にまみれ、魂の結晶である「カントリー・ブレッド」(パン・ド・カンパーニュ/田舎パン)を作り上げた。
彼は本気だ。
日本の小麦と一から向き合い、カントリーブレッドの新バージョンをリクリエイトするつもりである。
2015年2月4日、代官山T-SITEで行われたこのトークショーは、チャドの静かなる決意表明だった。

開演前の控え室、チャド・ロバートソンは小さなポットを持ち出した。
そこには、彼がサンフランシスコから持ち込み、日本の小麦でついだ発酵種が入っているのだ。
「時間がきた」
といって、粉と水を入れ、種継ぎを行う。
かってパン酵母(イースト)がなかった時代、パン職人たちはなにより種を大事にし、種を抱いて寝、腰に結びつけて一日中持ち歩いたという。
種とともに生きるサムライ。
チャド・ロバートソンに、私はそんなイメージを重ねた。

「たしかに天然酵母を育てていくのはすごくむずかしいんですけど、種継ぎは自分の娘にごはんをやるようなもので、ある意味儀式みたいなものなんですね。
あらゆるところにスターター(初種)を持ち歩くことをしていて、そういうことも日本のスタッフに伝えていきたいと思っています」

タルティーン ベーカリーを東京に作る。
ベストベーカーといわれるチャド・ロバートソンには、多くの出店オファーがあったが、それらを蹴って東京を選んだのはなぜだったのか。

「ずっと日本の文化に興味がありました。
食もそうですし、クラフト(陶器など手仕事のもの)も大好きだったんです。
私は日本と関係が深くて、はじめて弟子入りしてくれたベーカーは日本人でした。
彼女は新しい店で日本に戻ってきて働いてくれるかもしれません。
また、うちのヘッドベーカーのロリは日系人で、彼女にこのお店の立ち上げをまかせようと思ってます。
日本人といっしょにやるのはごく自然なことなんです。
日本人とも何度か仕事をしたことがあります。
日本人の哲学、ディテールにこだわるところ、クオリティにこだわるところを、私はリスペクトしているので、ぜひ日本でやりたいと思いました」

チャドがパンを志すことになったきっかけ。
リチャード・ブルドンが設立した伝説的なパン屋、バークシャーベーカリー
そこで自家培養発酵種(天然酵母)パンとの衝撃的な邂逅を果たした。

「最初は料理人になろうとしていました。
テキサスで育ちましたが、そこから出たいと思ったんですね。
料理人になれば、世界中どこでも職があるだろうと思って。
それで料理学校に入ったんですけど、先生のひとりに『おもしろい店があるから会いに行ったらどうか』と言われて、週末マサチューセッツのパン屋リチャード・ブルドンさんに会いに行きました。
テキサス育ちの私は、発酵種、長時間発酵のパンの匂いに衝撃を受けました。
こんなにいい匂いのパンは見たことも食べたこともありませんでした。
帰るときには弟子になりたいと決めていて、『弟子にさせてください』と頼んだんです。
『いいよ』と言われて、そこからすべてがはじまりました。
師匠はカリスマみたいな人です。
そのときガールフレンド−−いまの妻(リズさん。ペストリーシェフ)ですが−−もいっしょにいて、急にパン屋になると言いだすなんて『クレイジー』だと言われたんですけど、いまでもそれをつづけているわけです」

カントリー・ブレッドのオリジンへ遡る。
チャド・ロバートソンは大西洋を渡り、アルプスへと旅立った。

「あるときリチャード・ブルドンに
『私の師匠のところに行ってみろ。そろそろ他の人から習ったほうがいい』
と言われたんですね。
それで、フランスのアルプスにある、大きな薪窯のパン屋パトリック・ルポール(ブーランジュリー サヴォワイヤルド)に行きました。
そこに妻と引っ越して働くようになりました。
ものすごく水分量が高くて、手でもっただけだとテーブルの上にべちゃんとなってしまう、スケッパーを使わないと扱えないような生地でした。
自家培養発酵種を使っていて、発酵は長時間、薪窯をひじょうに熱く350℃まで上げて、そこからだんだん温度を落としながら焼いていく。
素材はとてもフレッシュな挽きたての全粒粉と湧き水。
そこでたくさんの経験を積みました。
フランスにいつづけたかったんですけど、若いんだから国に帰って自分のパン屋を開けと言われて、それで薪窯のあるパン屋をオープンしました」

彼は生涯かけて追いつづけることになる魂のパンをその薪窯パン屋で学んだ。
アルプスの透き通った空気と、おいしい湧き水、フレッシュな小麦粉。
発酵を見守り、火と対峙し、まさにパンを作ることは自然と対話することだった。

「パンは、粉と塩と水と薪窯を使って焼きます。
最初に教えられたのは、パンを焼くにあたって自分ができるのは、場を用意して「導く」ことだということです。
自然のプロセスに手を貸すということです。
自分の焼くパンは、最高の材料と発酵種を使って、発酵に目を配って作ります。
1日に3回種継ぎをして、酸味と甘さのバランスが適切になるようにしています。
自分がちょうどいいと思うのは、種継ぎをしてから1時間しか経ってない若い種。
それから生地をこねて、とても長い発酵をとります。
材料の可能性を引き出すために、発酵の力を材料の力といっしょに働かせます。
それを一旦オーブンに入れたら自分の手を離れて、あとは自然にまかせるしかない。
オーブンから出てくるとき、パンにはひとつひとつ表情がちがって、サプライズがあります。
もっとも楽しくて、満足する瞬間です。
それが自分にとってのパン作りだと思います」

「若い種」。
それがチャドのパン作りにとって、キーワードとなる。
さまざまな香りの萌芽、それが熟しすぎず、ひとつになる前の状態で、若々しいままに共存させようとしているのではないか。
そう思ったのは、トークショーのときに供された、わずかサンフランシスコで15時間前に焼かれたばかりのカントリーブレッドを食べたときである。

それはサンフランシスコから運ばれたとは思えないフレッシュさ、やわらかさであった。
最初にやってきたのは、荒々しい野生酵母の香り一撃。
かなりワイルドなパンだと覚悟した。
ところが…。
口溶けはクリーミー。
次々と溶け旨味の液となって、ごはんをよく噛んだときのあのやさしい甘さがあふれるのだ。
そして、ゆるやかな酸味、ヨーグルトのような乳酸菌的な甘さ、穀物的な香り…瞬間ごとにさまざまな風味が訪れて、香りたちがセッションをはじめるのだ。
なんとスケールの大きなパン。
選ぶのではなく、あらゆるものを含み込み、肯定する懷深さ。
これが、チャド・ロバートソンが見つけた「若い種」というタイミングの力なのだ。
そこには北米産小麦のパワフルさも寄与しているにちがいない。

フランスでチャドが体得したのは、パンだけではなく、パンと一体となった豊かな食文化だった。

「実際のところ、フランスではいろいろ食べあわせるというより、パンばっかり食べてました。
ただで働いていたので、ただで食べられるパンを食べていたのです。
ジャーを持っていくと農家が絞ったワインを入れてもらえるワイナリーがあって、水よりも安い。
飲んでいたのはそういうワインでした。
地元で作られたチーズが安かったんですね。
それで、カリフォルニアに帰ってからは、自分の店に乳製品を取り入れました。
私は取り入れるのが得意なんです。
日本での最初の滞在でもダシが大好きになりましたし」

サンフランシスコ近郊ポイントレイズ。
国定公園にもなっている海辺の丘陵地帯に、チャド・ロバートソンは最初の店を持った。
レンガの薪窯を築き、機械を使わずあえて手ごねで生地と向かい合った。

「最初の店はポイントレイズにありました。
冬でも寒すぎることがなく、気温が発酵にちょうどいい場所で、長時間発酵に向いています。
世界中どこに行ってもその温度帯(65°F=18.3℃)を使って発酵をとります。
家の隣りに隣接したコテージを工房にしていたので、仕事と住居がいっしょでした。
そこでひとりで働き、ベーシックな方法でパンを焼いていました。
窯があって温度が上がりやすいので、冬は窓を開けて温度を調節しながら、実験を繰り返していました。
いまは機械を取り入れているんですけど、そのときは手ごねでやりたかった。
というよりは、プリミティブなパン作りに戻ってやってみたかったんですね。
根源的なところからスタートしてなにができるか。
それを2年間つづけたわけです
日本でもそんなふうに、挽きたての粉を使って実験をして、カントリーブレッドをネクストレベルに上げていきたいと思っています」

サンフランシスコは一年を通じて気候が温暖で、温度はある程度一定している。
サンフランシスコサワードゥと呼ばれる、この地域に特有の発酵種は、そうした気候条件の賜物である。
フランスのルヴァン種によるパン作りと、地域に根差したサンフランシスコサワーのベストミックスこそ、タルティーンのパンなのだ。
翻って、東京の気候はどうか。
夏は高温多湿、冬はサンフランシスコより冷える東京の気候を味方につけられるか。
タルティーン ベーカリー トーキョーの成否を握るポイントになるだろう。

もうひとつのポイントは素材。
彼が日本にきてまずはじめたのは、日本の小麦と製粉所を探すことだ。

「きのうはそばの製粉所を訪ねたんですけど、そばの製粉はゆっくり挽いて風味を残す。
そばの製粉は風味を最優先します。
自分は20年間、発酵によって風味を出すことに尽力してきたんですけど、これからは粉。
製粉も手がけて、新鮮な粉の風味を追究していきたいと思います」

チャド・ロバートソンが、来日早々そばの製粉工場を訪れたと聞いて、鋭い嗅覚に舌を巻いた。
小麦の製粉が製パン性を考慮するのと異なり、そばの製粉はなによりも風味を重視する。
チャドが考えるパンのスタイルを日本の伝統に探すなら、そばがもっとも近しい。
彼は、パンを作ることは「メディテーション」(瞑想)だと言う。
それもそば打ちと共通している。

「日本の素材は世界的に評価されています。
季節を重視する文化があって、旬のものをもっともおいしいタイミングで出すんですね。
残念ながら、パン用小麦は例外みたいで、それはもしかしたら、小麦文化の国ではないからかもしれません。
数年前にアメリカ西海岸でも、挽きたての小麦のムーブメントが起きました。
コーヒーでは20年前からすでに起きていた動き。
ブルーボトルコーヒーのジェームス・フリーマンさんがあちらにきてらっしゃいます。
友だちなんです。
コーヒーも挽きたてがいちばん。パンも同じなんですね。
パン職人も鮮度について考えるようになった。
肉や魚はすごく新鮮さにこだわっているのに、小麦だけは古いものを出されたりします。
穀物は特にそういう傾向があります。
それを変えるムーブメントを起こしていきたい。
日本の製粉技術は正確ですけども、新鮮さについてはそうではありません。
細かく挽きすぎていますし、外皮をぜんぶ除いてフレーバーをなくしてしまうというやり方が残念なので、パートナーとしていっしょにやってくれる製粉所を探しています。
他のパン職人と組んで、自分たちで粉を作るようなムーブメントを起こせたらいいですね」

期せずして、同じくサンフランシスコ発であるブルーボトルコーヒーのオープニングパーティ翌日に、このトークショーが行われたのは象徴的である。
第三世界の農場を訪れて自ら豆を仕入れ、その風味がもっとも活きるような焙煎・抽出を行う、サードウェーブコーヒーのムーブメント。
それに触発され、アメリカ西海岸で、挽きたての小麦によるパン作りが、すでにブームになっていたというのだ。
昨年「小麦ヌーヴォー」が行われたり、日本でも同じムーブメントが同時並行的に動きだしていたところだった。
まさにグッドタイミングで到着した「黒船」が「挽きたて」のムーブメントを強力に後押しすることだろう。

「日本の小麦がどれぐらい使えるかについてはリサーチ中です。
池田さんにアドバイスをもらったり、正人(THINK GREEN PRODUCE代表取締役の関口正人さん)と製粉所をまわっているところです。
できれば日本の小麦を100%使いたい。
それができるかはわからないんですが、うまくいくバランスでやりたいと思います。
できるだけ日本の農家をサポートしたい。
それで足りなければ、各国の小麦を使うことを考えたいと思います。
日本の小麦の質はすばらしいですし、いまのところ焼きあがったものもとてもおいしいので、いい予感がしています」

サンフランシスコに、日本の十勝産キタノカオリ(アグリシステムのもの)が持ち込まれ、すでに試作が行われている。
「I like Mochi Mochi」(日本の小麦はもちもちの食感が特徴)とチャドは笑って言う。

ミューズリーやグラノーラといった穀類を見直す動きも、タルティーンが大きな関心を寄せるところだ。

「雑穀がぎっしり詰まっているパンなんかもこれから作っていきたいと思っています。
カントリーブレッドをベースに、いろんな穀物を練りこんだようなパンをどんどん作っていきたい。
そばだったり、押し麦だったり、大麦だったり、そういうものを入れたい。
栄養価があるのにいまあまり食べられていない穀物をとれるように。
穀物にはフレーバーがあります。
パンと合わせることでフレーバーの集合を作り、満足感のあるパンを作っていきたい」

サンフランシスコでは、かぼちゃの種、粗挽きのとうもろこし、ローズマリーを入れた「ポレンタ」、ゴマ、フェンネル、ポピーをまぶした「セモリナブレッド」を提供するなど、タルティーンのパンは穀物の香りにあふれている。
それは現代が失ってきた食文化への回帰だ。
チャドは日本の伝統的な穀物に関心を抱いている。
アワやヒエといったいま食べられなくなった穀物、玄米のような精白しない素材にも新たな光が当てられるはずだ。

「かって人びとはもっと全粒粉を食べていたはずです。
消化できるまで調理するのはいまよりもたいへんだったはずなのに。
日本にきて麦ごはんにとろろをかけて食べたんですけど、麦ごはんには香りがあるので白米よりとろろに合いますね。
現代では、精白したり、精米したものが好まれるようになっていっていますが、玄米のほうが栄養価もあると思います。
パンもいっしょで、全粒粉や雑穀のほうが、味も風味も繊維質もあります。
かってのところに原点回帰させたいと思っています」

チャドはうなぎやそばといった日本食を好む。
焼き鳥から得たインスピレーションは、カントリーブレッドのスライスに醤油を塗ってバーベキューのように焼くというNYでのイベントに結実した。
あるいは、焼きそばパンを作るというアイデアまである。
カフェで供されるピッツァやタルティーヌにも日本ならではのメニューが登場する予定だ。
タルティーヌと日本食が出会ってどんなケミストリーを起こすか、興味深い。

「いろんなものに対して僕はオープンでいたい。
人からも素材からも、日本にきてインスピレーションをすごく受けているんですね。
サンドイッチを作るのも日本の素材を使いたいし、いろんなものから影響を受けて決めていきたいと思っています。
パンに重量感があって、旨味がたくさんあると、お肉とかおかずみたいな扱いで、焼いたりとかできると思うんですね。
最高の素材を使って、自分のできることをやりたいと思います」

カントリーブレッドは発酵種だけで作られるが、バゲットのような薄い皮が要求されるものや、クロワッサンやブリオッシュのような「ペストリー」には、パン酵母(イースト)も併用される。

「生地は3、4種類がありまして、ポーリッシュ種を使ったり、若いものや熟成したものを使ったり、パン酵母も使うんですけど、必ず発酵種は合わせるようにしています。
発酵種を入れると消化しやすくなりますし、栄養価も高いからです。
ブリオッシュでも、(最後の種継ぎからの熟成が)1時間ぐらいの、作ったばかりの発酵種を使うんですね。
そうすると、すっぱくないんですけど、すごくおいしいものができます。
バゲットもそうで、若い発酵種を入れると、甘くて深みがある、おいしいものになります」

サンフランシスコのタルティーン ベーカリーで、午前中の名物はクロワッサンだ。

「おいしいクロワッサンは東京にすでにいっぱいあって、パリよりも多いぐらいなんですけど、僕もこの町で作るのがとても楽しみです。
バターを折り込んで、発酵種も入れて、24時間の長時間発酵を行います。
挽きたての小麦を使います。
日本ならではの素材でフレーバーをつけようと思っています」

かっては手でこね、薪窯を使っていたが、いまは手に入る限り最高の機械を求める。
たとえば、サンフランシスコにある巨大なオーブン。
それは薪窯に匹敵するような破格の蓄熱量を誇るけれども、段ごとの温度調節ができない。
だから、午前中にペストリー(クロワッサンなどのヴィエノワズリー)を焼き、午後にパン(カントリーブレッドやバゲット)を焼く。
夕方にこなければパンを手にすることができないという風変わりな、しかし頑固な営業形態は、このオーブンに起因するのだ。
東京ではどうなるのか。

「サンフランシスコで使っているオーブンは日本に支店がなくて、ハイン社(ルクセンブルグ)の同じようなタイプのものを使うことになりました。
前から使いたかったオーブンなので、楽しみにしています。
段ごとに温度調整ができるので、パンを1日3回出しながら、同じオーブンでペストリーも焼こうと考えています」

ハイン社のオーブンはヨーロッパでも最高の性能を誇る。
炉床に石が使われ、内部に張り巡らされたパイプを特殊なリキッドが循環することにより、薪窯に近い効果を得ることができるのだ。

かってチャド・ロバートソンは午前中サーフィンを楽しみ、午後にパンを焼いていた。
仕事に埋没せず、人生を楽しむという姿勢は、パン作りにもいい循環を起こしているにちがいない。

「タルティーン ベーカリーのシフトには夜勤がないんですね。
朝4時に働きはじめたとしても午後には終わります。
東京では2シフトにしたいと思っています。
6時にはじめたら午後早めには終わる。
もうちょっと遅めの10時にはじめたら夕方には終わる。
クレイジーな時間帯に働かせることはしません。
効率を上げて、できる時間にできることを一生懸命やってもらって、パンの新鮮さを保つためにもすごく大事だと思います」

日本のベーカリーはどこでも長時間労働を強いられている。
タルティーンでは、仕事の効率を上げ、集中して取り組むことで労働時間を短くしている。

「タルティーンには世界中いろんなところから働きにきた人がいます。
はじめてきた人は、働いている人の態度とか、幸せそうな感じとか、リラックスしていることにびっくりするんですね。
だんだんなじんでくると、ただリラックスしてるだけじゃなく、すごく真剣だということがわかる。
それはバランスを保っているからだと思います。
お互いにサポートしあって、チームワークがとても強いですし、たとえば病気のときにも助け合って、ストレスがない。
とても自信があるので、リラックスしているんですけど、真剣なんですね。
そのバランスだと思います」

リラックスしているから楽しく、真剣に仕事ができる。
真剣だから集中して短時間に仕事ができる、というバランス。
ややもすると長時間労働になりがちな日本のベーカリーに、タルティーンが新しい風を吹きこむことを期待したい。(池田浩明)

2015年2月4日、DAIKANYAMA T-SITE GARDEN GALLERYで行われた、TARTINE BAKERY Chad Robertson Talk Session In Tokyoにて収録。
出演は池田と関口正人さん。

翻訳協力・茂木恵実子(フェルマンタシオン)

(北海道の小麦畑を訪ねるチャド・ロバートソン)

パンラボ特別編集『パンの雑誌』をガイドワークスより5月下旬に発売します。
タルティーン ベーカリー日本上陸に密着したドキュメントも掲載する予定。
お楽しみに。
職人インタビュー comments(1) trackbacks(0)
ヴィロン エグゼクティブシェフ 牛尾則明 【職人インタビュー 008】
うしお・のりあき
ル・スティル専務取締役。
1960年、兵庫県姫路市に生まれる。
高校卒業後、ニシカワ食品に入社。
ビゴの店での研修を経て、直営店の立ち上げや商品開発に携わる。
2003年6月、シェフとして渋谷にヴィロンをオープン。

誰も登ろうとしなかった高い山へ、あえて踏み込む。
一種の冒険であり、賭け。
パリでもっともおいしいバゲットを、その通りに作り、その通りに販売する。
そのためにまず取りかかったのは、希少なフランス産小麦を輸入すること。
数億を投じて、パリさながらの店舗を東京の一等地に作り、フランスの伝統を守りながら、日本人の繊細な技術でそれを超えるようなバゲットを作る。
牛尾則明は、パン職人冥利につきるようなプロジェクトをシェフとしてまかされ、予期せぬアクシデントに出遭いながら、期待値を上回るクオリティで実現した。
1000行の物語は、地方の一高校生が、パン工場に就職するところからはじまる。


「働いてる人は、みんなランニングに腹巻き、汗でべとべと。
帰りに『パン屋だけは絶対やめとこうな』と仲間で話し合った」

「もともと、僕、手作業でなにかをやるというのはものすごく好きでしたから。
でも、仕事にそれを選ぼうというところまでは思わなかったですね。
若い頃だから、給料のいいところ、大きな会社に就職、そういう一心で外資の会社を受けたんですけど、そこが落ちてしまった。
学校の先生といろいろ話をして、パン屋さんどうかなと。
農業高校の食品加工科に入ってたので、製菓製パンの工業機器の勉強はしてましたんで。
ニシカワ食品という兵庫県加古川市の会社に入るんですけども、そこは高校時代、授業で工場見学に行ってるんですよ。
労働環境はものすごく厳しくて、オーブンのところなんかものすごく暑い。
いまのように空調もなにもないですから、窓開けっ放し。
働いてる人は、みんなランニングで腹巻きして、汗でべとべとですよ。
帰りに『パン屋だけは絶対やめとこうな』と仲間で話し合った(笑)。
でも、卒業してみると、そう言いあった4人ともみんなパン屋に就職してた(笑)。
なんか縁があったんでしょうね。
親の手前、就職しないわけにもいかないので、『とりあえず1年はがんばる』と先生には言いました。
その1年のあいだに自分の本当にやりたいことを見つけると。
その年にニシカワ食品11人入ったんですけど、翌年には半分に減り、結局いま残ってるの2人ですね。
ひどいのは、1日で辞めたのもいました。
それぐらい厳しい職場でしたね」

「『教えてくれ』といっても、ばんばん弾かれる。
だったらもう盗むしかないなと」

「パン屋さんって覚えることはものすごくあるんですよ。
計量からはじまって、分割、成形、焼成、冷却、出荷。
ものすごく工程がいっぱいあって、こんなたくさんのものを覚えるのたいへんだなと思った。
僕は単純にこう思いました。
いちばんむずかしいものにトライして習得すると、あとはついてくるんじゃないかと。
いまとなってはものすごく安易な考えだったんですけど、そういう思いでその当時の上司に『なにがいちばんむずかしいんですか?』と訊ねたら、それは、おまえ、フランスパンだよ
フランスパン覚えりゃ、あとはついてくるんだって勝手な思いで、『じゃ、フランスパン教えてくださいって言ったら、
『ペーペーの素人のおまえにできるわけがない。教えられない』
教えてくれないんですよ。
僕は別の仕事をしていたんですが、フランスパン焼いてるところは通路のすぐ横でしたから、いつも見えるんですよね。
じーっと立ち止まって見てると怒るんですよね。
昔の職人さんでしたから、技を取られるという感覚で、『どけ『あっちいけと怒られるけども、やっぱり興味ある。
カット入れたらクープが割れますよね。
菓子パンとか食パンとかは、そういう変化ってないんですよね。
単にふくれるだけ。
弾けて割れるという変化ないんで、なかなか興味深いなと。
それで、『教えてくれ『教えてくれといっても、ばんばん弾かれて、だったらもう盗むしかないなと。
教えてくれないんだから。
通り際にちょっとずつ見て、盗む。
そこは常に通るとこなんで。
パンの本や教材は会社にたくさんありましたから。
自分で独学ですよね。
『正統フランスパン』というレイモン・カルヴェルさん(フランス国立製パン学校教授。日本に本物のフランスパンを伝えた人物)の本があって、それは端から端まで読みました。
学習だけでは駄目だから、みんなが帰ったあと、自分で仕込んだり。
最初はぜんぜんパンにならないんですけど。
そういう試行錯誤をしながら、ま、そんなにものすごくいいものではないんだけど、それなりにパンができるようになってきた」

「次、おまえ、切れ。
俺より早かったら、このポジションおまえにやる」

「ちょうどそのぐらいのタイミングで、フランスパンをやってる人が胃潰瘍になったんです。
で、来週から入院するという話を聞いて、上司に『僕にやらせてください』と言ったら、『いや、おまえにはできない』
『できないかどうか、判断してくださいよ』
『わかった』
生地35キロぐらいをどーんとあげて、『時間計れ』って上司が言って、自分でがーっと切りはじめたんですね。
350グラムにカットしていくんですよ。
めちゃめちゃ早いんですよ、それが。
すごいなあと思って。
ちょうど100個ぐらいできるんですけど、だいたい10分ぐらい。
『次、おまえ、切れ。俺より早かったら、このポジションおまえにやる』
そんなの勝てるわけないですよね。
『何グラムにカットするんですか?』って訊いたら、『知らない』って言うんですよ。
もう自分が切り終えたときに、はかりの重りを変えてるんですね。
『おまえはそれを見てなかったのか? おまえには最初から資格ないよ』
時間計れって言われたもんだから、僕は時計しか見てないですからね。
で、『何グラムですか?』『知らない』っていう押し問答を5分10分した頃に、『じゃあ350で切れ』って言われて。
1個切ったら、持っただけで『軽い』『重い』って返されるんです。
結局、40分ぐらいかかったのかな。
その生地はもうアウトですよね。
ふくれすぎてる。
過発酵。
それが頭にきてね。
僕、その当時14、5時間働いてたんですけど、仕事を終えたあと、食パンとかの古生地を利用して一生懸命練習した。
やっぱりコツがあるんですね。
その人がやるのじっと見ながら、『そうか、ああいうふうにやるのか』って思いながら、1ヶ月近くかかって、やっと10分ぐらいで切れるところまでいったんですよ。
ところが、10分だとその人に勝てないですよね。
『俺より早く切れたら』だから、最低でも9分で100個切れないといけない。
あと数十秒って、なかなかそっからが縮まらないんですよ。
そしたら、ある人が『スケッパー(パン生地を切る包丁)があまり切れてないんじゃないの?』と教えてくれた。
そういや、けっこう手応えが硬くて、さくさく切れないんですよね。
工務室に行ってグラインダーで研いだら、紙がさーっと切れるぐらい鋭くなった。
するとね、9分半ぐらいでいける。
でも、1歩まちがえると指が切れますからね。
練習中には手を刺しました。
ひと月半ぐらいしたとき、その上司に、『もう1回テストやってください』
『じゃ、やれ』
僕、9分22、3秒で切った。
そしたら『明日からおまえやれ』って、そのポジションを確保したんですよね」

地方の一パンメーカーであるニシカワ食品が、なぜヴィロンを生み出すことができたのか。
資本力、経営力があったことはもちろんだが、それに加えて、もの作りの伝統、切磋琢磨しあう職人の文化が存在したことが大きな理由である。
牛尾則明というパン職人は、厳しい上下関係を揺りかごにして生まれてきた。

「『これ作ったの誰だ?』
『私です』スタッフのひとりが言うと、叩かれる」

「そのうち、営業の人に、『フランスパン最近、評判いいよ。おまえのパン、割れ方きれいなんだよ。見た目が前とちがうよ』って言われて。
(クープ[フランスパンの切れ込み]を入れるための)かみそりも、自分で割り箸に挟んで、マイかみそりを作ったりして、いちばんきれいに割れるかみそりの角度をいろいろ検討もして、それでまあすごくきれいなものができるようになっていました。
当時の社長(ニシカワ食品の創業者・西川隆二。ヴィロンを経営する株式会社ル・スティルの西川隆博社長の祖父)は、毎日工場に入ってこられて、僕のフランスパンを見てるんですよ。
やっぱりその社長も、『おまえの腕はなかなかいいな』と思ってくださって。
『おまえは、もうちょっと本格的に勉強するか。フランスパンといえば、ビゴさんだろ。ビゴさんに話するから、修行に行け。その間の給与はうちが出すから』。
そう言われて、僕はうれしかったですよね。
『そんなこと、会社のお金でさせてもらえるんですか』
3ヶ月半ぐらい、三宮プランタンの地下の、ドゥースフランスっていうビゴさんのお店で働くことになった。
ニシカワ食品では、週休1日で、14、5時間働いてましたから、よその店にいっても楽勝だと思っていました。
そしたら、ドゥースフランスの仕事開始は朝2時半。
みんな三宮近くのマンションに缶詰で寝泊まりしている。
2時に起きて2時半からスタートなんですね。
初日からみんな話もしないんですよ。
黙々と仕事をするんですね。
僕にとっては、見たことない光景なんですよ。
ニシカワ食品では、パートのおばちゃん連中とがやがや話しながらやっていた。
ちがうんですよ。
ぜんぜん話をしない。(*1)
朝食もない。
その当時、松岡徹(現パンテコのオーナーシェフ)さんって店長がいらっしゃって、すごく怖い人で。
前日には、松岡さんが『牛尾君、今日は歓迎会してやるよ』って、三宮でみんないっしょに食事してわいわいやって、『明日からよろしくお願いします』『あー、がんばってね』って言われていた。
次の日、松岡店長が店にくるのが、だいたいオープン30分前の9時半頃。
『おはようございまーす。昨日はどうもありがとうございました』って昨日の光景を思い浮かべながら普通言いますよね。
無視なんですよ。
『あれ、なんで?』と思ったので、いっしょにやってる連中に、『松岡さん、機嫌悪いの?』
『いつもあんなだよ』(*2)
松岡さん、ばーっと店見て、何個かパン持ってくるんです。
『これ作ったの誰だ?』
『私です』スタッフのひとりが言うんですよ。
麺棒持ってきてかこーんって頭叩くんですよ。
『何がいけないかわかるか?』
『焼き色が甘かった』
かこーん『ちがう』
『発酵が足りない』
かこーん『ちがう』
『折り込みがずれてる』
『そうだ』(*3)
みんな松岡さんがくる9時半が近くなってくると、そわそわしてるのがわかるんですよ。
それぐらい怖かったですね。
ビゴの店に行ったんだけど、僕が実質教わったのは松岡さん。
その当時のビゴさんは、ラジオだ、テレビだで引っぱりだこだったんで、現場でいっしょに仕事するというのは、本当に何日かだけでした。
松岡さんにほとんど教わってたんですよね」

「午前2時半から働いて、夜の8時半まで。
帰ってから、またみんな『正統フランスパン』とか本読んでる。
『これはえらいとこにきたわー』」

「朝の2時半から仕事に入って、お昼ごはんが昼の3時半なんですよ。
そのとき使ってたオーブンがダブルで4段。
片方に4段、片方に4段、合計8段にパンを入れて、8階の食堂に上がるんですよ。
で、いちばん最初に窯に入れたのが焼けるまでに降りてこないといけないんですよ。
交代要員っていないですから。
マックスで14分しかないんですよ。
だから、がーっとクープを入れて、がーっと窯に入れて、それでがーっと8階まで上がって降りてくる。
でも、エレベーターだけで5、6分かかっちゃうんですよ。
だから、実質、食べてる時間っていうのは7、8分なんですよね。
そうすると、どんぶりもんしか食べられないんですよ。
かき込むものしか。
14分で行って帰ってきて。
休憩なんてないですからね(*4)。
それで夜の8時半まで働いて、そこで仕事終わりです。
2時半から働いて、夜の8時半ですよ。
お昼ごはんが3時半ですからね。
帰りに大衆食堂みたいなところで食事して、帰って風呂に入ると、またみんな『正統フランスパン』とか本読んでるんですよ(*5)。
『これはえらいとこにきたわー』と思って(笑)。
だいたい10時半ぐらいに寝ますよね。
で、また2時に起きますよね。
みんな睡眠時間は3時間ぐらい
で、休みが月1回。
それで僕その子たちの給料見せてもらったことあるんだけど、僕のもらってる給料の半分ぐらいでしたからね。
『えーっ』って。
『おまえらなにが楽しくて、そんな劣悪なところで。そんな給料でやってんの』って。
その頃、ビゴで修行を1年した、2年したっていうと、次に就職するときに、すごく給料の値段が上がるんですよね。
ビゴで1年いたならいくらあげるよっていうのもあるし、本場のフランス人の元で教えてもらったほうがいい(*6)。
でも実際は、教えるのは松岡さんなんですよ。
松岡さんはものすごく厳しくて、僕、いまだに怖いですからね。
東京にきて、もう9年近くになるんですけど、いちばんはじめに、当時恵比寿でやってらっしゃったパンテコに行って、松岡さんに挨拶しましたから」

「パン生地にまだ触ってないうちから、ばーんと叩かれる。
『おまえはパンの気持ちがわかんないのか?』」

「とにかく、松岡さんがくるまでは、自分のやりたい速度で仕事は進んでいくんですけど。
松岡さんがくる前になると、みんなぴりぴりしちゃって。
松岡さんの教え方というのは、たとえばバターロールなら、松岡さんが麺棒で伸ばしたのを、3人ぐらい並んで、みんながそれぞれ向こうから巻いていく。
そうやってやるんですけど、僕、まだ松岡さんの伸ばしてくれたパン生地に触ってないうちから、叩かれるんですよ。
『なにがいけないんですか』っていったら、
『自分で考えろ』
人の作ったの見てもわかんないんですよね。
で、また触ろうとすると、かーん。
『ちがう。そうじゃねえんだよ』
なにがちがうんだろうなと思ったら、生地に触ろうとするときに持っていく、手の角度のことを言ってるんですよ。
角度が急だと生地にとってダメージが大きいから、できるだけフラットに、平行に手を降ろしていかなくちゃいけない。
これは後でわかったんですけども。
それを言わないんですよね。
『おまえはパンの気持ちがわかんないのか?』とか抽象的なことはおっしゃるんだけども。
『おまえな、もうちょっと手を台に向かって低くから入っていけ』とか、言ってくれればわかるんだけども、言わないんですよね。
ばんばんばんばん、正解が出るまで叩かれますからね。
頭が真っ白になるし、パニックですよ。
でも、僕はよそ者ですよね。
ビゴの従業員と同じように扱ってくれてるな、というのは感じましたね。
それはうれしかったですね。
おまえはよそからきてるからいいよ、じゃなくて。
手は叩かないんですよ、職人だから。
いまだに、松岡さん、まー怖いですよ」

「『30っていったら30で量れ。31、29グラムって言ってない。俺は30グラムって言ってるんだ』
松岡さんは秤を使わずにそれを見極められる」

「バターロールって30グラムなんですよ。
『牛尾、切れ』って言われて、僕が切ったのを、松岡さんが丸めていく。
で、切ると、まあね、3分の2ぐらい返されるんですよ。
松岡さんは目をつぶって丸めるんですよ。
『軽い』『重い』『軽い』『軽い』
どんどんどんどん返ってくるんですよ。
僕は秤を使ってるんですよ。
30グラムの生地なら、普通は1グラムぐらいの誤差はOKですよね。
それぐらいの精度でいかないと、時間がかかって大変なんですけど、ダメなんですよ。
松岡さんは1グラムのことを言っている。
『30っていったら30で量れ。31、29グラムって言ってない。俺は30グラムって言ってるんだ』(*7)。
松岡さんは秤を使わずにそれを見極められますからね。
量るとたしかにちがう。
『できるだけ切りくずを出すな』とか、『スケッパーで切る回数は2回にしろ』とか。
きついっすよ、そりゃ。
大変でしたね。
左手で持っただけで30グラムを見極めないといけない。
『秤にのっける段階でこれは何グラム多いのか判断できるだろ』っていうんですよ。
切って秤にのっける瞬間ですね。
『これは1グラム多いのか、1グラム足りないのか、また、2グラム多いのか判断しろ』
カンカン秤っていう、天秤式の秤があるんですが、皿があって、竿があって、下に重りがついてる。
枠がついてて、ちょうど真ん中に矢印があるんですけど、竿がその真ん中で止まればプラスマイナス0なんですよ。
だけど、枠の上に当たれば重い。
下に下がれば軽いんですよ。
松岡さんが分割するのを見てると、上がるか下がるか、竿が上がりかけたときの速度で、これは何グラム軽い重いって、判断されてるんですよ。
秤がぶらぶらしているのが静まって、ちょうど真ん中に到達するところまで待ってると、とてもじゃないけど、ぜんぶ終わるまで1時間以上かかりますよね。
置いた瞬間に秤が上がる速さを見る。
ものが載ってないと下に降りてますから。
上がる速度で、何グラムか瞬時に判断して、1回で切り終えちゃう。
生地を足すことがほとんどない。
足りないのに生地をくっつけて足すほうが時間かかる。
多い分には、余分を切ってその次のにくっつけてしまえば、くずとしては最小限に収まる。
そういうことをいっぱい教わったと思いますね(*8)。
『生地の気持ちになりなさい』という教えですよね。
フランスパンに限らず、菓子パンでも、食パンでも、バターロールの生地でも。
パンの生地に対してはすべて同じ対応でいけるんですよね。
『生地の思いを知れ』というのは、いま生地がどうしてほしいか考えなさいということ。
いま切ってほしいのか、まだ早いのか、もうちょっと待ってくれって言ってるのか。
それは自分で見極めなさいと。
時間通りにやれば、すべてが解決するわけじゃないんですよ。
23℃にあげた生地と25℃にあげた生地とは同じ1時間発酵させてもまったくちがうんですよね。
何度であげたから何分置こうって、ある程度の判断はもちろんしますが、最終的な判断っていうのは、手で引っ張って、押して、伸ばしてってことをしながら、これはいま切ってよいのかってことを考える。
そういう『深さ』を教わったので、ニシカワ食品に帰ってからは、よくいえば生地と対話するようになりましたね。
それまではすべて時間で配分してましたから。
『待ってくれ、もうちょっと置いてくれ』って生地が言ってる、って感覚になったのは、大元は松岡さんの教えですね。
ビゴさんも、とにかく生地に触ってからでないと分割しないですからね。
『もう5分置け』とか判断をされてました。
僕はそこでいろんなことを培ったなと思っています。
ニシカワ食品にそのままいたら、そんなに深いところまで、パンに対して探求心を持たなかったかもしれないですね。
ぜんぶ手でやるなんて、こんな旧式な古典的なことをやってるところがまだあるんだと思って。
その頃どんどん機械化のほうへいってましたよね。
省力化ということで、機械導入して人を減らしていく。
お店ではともかく、工場ではそういう流れでしたね」

パンテコシェフ松岡徹さんの話
麺棒で叩くって言っても、野球部の監督がケツバットやるように、お尻を叩く程度だよ(笑)。
いまは時代に合わないから、もうそんなことはやってないしね。
当時は、怖かったと思う。
鬼って言われてました。
新しく入ってきたばかりの人というのは、パンに対する愛情がない、丁寧さがない。
まずそこを教えないと、いいものってできないんですよ。
ものを作るって意識が、まだ生まれてないじゃないですか。
会社に勤めて、始業時間から終業時間までやればお金をもらえるという感覚。
それが、口で言ってるだけじゃ直らないんですよ」

松岡徹はフィリップ・ビゴの直弟子である。
ビゴは松岡に「ウイ」か「ノン」しか教えなかったという。
いいパンができれば「ウイ」、商品として店に出せないパンは「ノン」。
どうやれば「ウイ」のパンができるかを具体的に教えることはなかった。
職人の世界で、「技術とは教わるものではなく、盗むもの」とはよくいわれる言葉だ。
単に知識を得るのでは不十分。
上出来と不出来のどこがポイントになっているのか、研ぎすまされた感覚で把握し、問題意識を持つこと。
意識や感覚とは、自らつかみとらなければ決して自分のものにならない。
松岡が、自分がビゴに教わった通りのことを牛尾に伝授するためには、決して「教え」てはならなかったのだ。

「フランス行って、もう愕然としましたね。
バゲットって、こんなまずいもんだったのか」

「かえって、ニシカワ食品に戻ってからのほうが、極める作業に入るという意味で、よりたいへんだったかもしれないですね。
ビゴの店で、決まった設備、決まったオーブンの中でなら、どこまでのレベルかは自分でわからないけど、みんなとほぼ同じことはできた。
ニシカワ食品に帰ってからは、現状のフランスパンをブラッシュアップしました。
もうちょっと、こういうやり方でやれば、もっときれいになるとか、あるいはおいしさの追求ももちろんしないといけない。
そうするうちに、新しくイトーヨーカドーが加古川にくるということになって、そこにパン・ド・ミというお店を出店することになった。
せっかく修行してきたんだし、フランスパンをメインで売れるお店を作ろうか、と。
先代はもう会長になられたあとで、2代目の社長さん(現在のニシカワ食品社長・西川隆雄)の時代ですね。
イトーヨーカドーでは、1日100本ぐらい売ってましたからね。
オープンキッチンで、目の前で焼くというシステムで。
それも成功してですね、そしたら2代目の社長は、『もっと極めろ』と。
『フランス人のお店で働いたというだけじゃなくて、フランス行け』ということで、フランスに10日ほど行かせてもらった。
いまから22年前、僕ちょうど30のときです。
フランス行って、もう愕然としましたね。
フランスのパン、こんなにまずいのか。
バゲットって、こんなまずいもんだったのか。
フランス人のいい加減さを目の当たりにして愕然としましてね。
だから、ビゴさんという人は、フランス人なんだけど、すごく几帳面なところをお持ちなんですよね。
実際に町場で働いてるパン屋さん、ブーランジェ、職人さんというのは、ものすごく大雑把で、ものすごくいい加減だから。
バゲット並べてカット(クープを入れる)しますよね。
普通だと、観光にきた外国人に、『ちょっと1回切らして』って言われても、僕らだったら、断りますよね。
フランス人なら、『ああ、いいよ。切って、切って。それぜんぶ、ぜんぶ切って。ああ、そんなの適当でいいんだよ』(笑)
その観光客、よそを見ながら、切ってますからね。
クープというのは、筋を入れてればいいんだよ、という感覚なんですよ、たぶん。
そういう態度には腹立ちましたね。
僕が求めてたものってなんだったんだろう。
僕らは生地を余らせると怒られるけど、むこうは機械でびゃーっとのばして、がーっと適当な感じですよ。
流れ作業ですから。
1日1000本もバゲット焼かないといけないんだったら、丁寧にしてられないですよね。
それはわからなくもないんですけど、あまりにもそのギャップが、カルチャーショックでした。
だけど、やっぱり原料はちがうな、というのはわかりましたね。
僕らがビゴさんとこで教わってた当時、フランス産小麦って輸入できない時代でしたから、アメリカ・カナダの小麦を使って、フランス産小麦に近い小麦粉を作ろうとしていた。
なおかつ、日本の職人さんってフランスパン扱ったことのない人がほとんどだったから、小麦粉に作りやすさも求めたんですよね。
それで、ビゴさん、レイモン・カルヴェルさんの協力で、リスドオルという粉(日本初、現在でももっともポピュラーなフランスパン専用粉)を日清製粉が開発した。
でも、それは、フランスパン用の粉ではあっても、フランス産小麦ではないんですよ。
だから、あとからフランス行って思ったんですけど、僕らはアメリカ・カナダの小麦を使って、一生懸命フランスのフランスパンを作ろうとしてたんですよ。
それは無理なんですよね。
原料がちがうものですから」

「粉を輸入したら、日本でパリ以上のバゲットが焼けるか?」
「僕はいけそうな気がする」

「僕は、初代の社長に『ビゴさんとこ行け』といわれて、2代目の社長に『実際のフランス見てこい、極めろ』といわれた。
そして、3代目(西川隆博)とは、2人で、パン・ド・ミを関西で8店舗まで展開したんですよ。
8店舗まできたとき、お互いに、これ以上無理かなと。
いまのままで、さらに店舗展開できなくはないけど、なんかちがうな。
これ以上やっていく意義があるのかなって、お互い思いはじめてて。
で、うちの社長も3代目として、なにかを成し遂げないといけない立場ですよね。
社長はフランスに行ったんですよ。
そのときにこのレトロドールのバゲットを食べてるんですね。
僕がフランス行った時代にもあったんだろうけど、そんなおいしいのを食べた記憶がない。
うちの社長がフランスでレトロドールを食べて、『これは日本で売るとおもしろいことになるかもしれない』ということで。
突然、『長期だけどフランスに行ってほしい』と社長に言われて。
『若い子に行かせてあげればいいんじゃないの?』
『それはダメなんだ』僕に行ってほしいと。
なんの意味かわからず、1ヶ月半ほど向こうに滞在しました。
なんのために行ってくれとは言われなかった。
僕の反応を知りたかったんでしょうね。
『この店と、この店と、この店のバゲットを食べ比べて、コメントをくれ』と。
常にいっしょに行動するんじゃなくて、僕は僕で、社長は社長でパリで店回りをしてた。
僕も社長も100軒以上のパンを食べてるんですよ。
その中でも、このレトロドールはなんかちがうなと思ったんです。
グルニエ・ア・パンという店で、レトロドールを、バゲット・トラディションとして売ってるんですけど、それがめちゃめちゃうまいんですよ。
そこのはうまいんだけど、ちがうところのレトロドールはおいしくないとかね。
場所によってずいぶんちがうなと。
でも、うまく作ればおいしいなと思った。
で、グルニエ・ア・パンで、1週間いっしょに働かせてもらった。
そしたら、朝一のはおいしいんですけど、2発目、3発目はおいしくないんですよ。
なんでだろうな。
中へ入ってみると、朝一というのは、前日のいちばん最後の生地を冷蔵して置いとくんですよ。
冷蔵庫に入れたものを、翌朝分割してパンにする。
朝きてから一発目を仕込んでも、開店時間に間に合わない。
だから、前日の最後の生地をストックしておいたものを、切って、のせて、焼くんですね。
だから朝一は熟成の度合いがぜんぜんちがうんですよ。
冷蔵発酵でオーバーナイトさせてるので、16時間以上経ってるんですね。
ところが、朝一にきてから仕込んでいくと、醗酵時間としてはだいたい2時間半から3時間ぐらい。
だから、甘みがぜんぜんちがうんです。
で、それを僕ははじめて知って、『じゃ、おまえらなんでぜんぶ冷蔵でやらないんだ』と質問した。そしたら、
『冷蔵庫にそんなにたくさん入れるスペースない。いくら売れるかわからないのに、冷蔵庫買ったりできるか』
ま、そういわれりゃそうだなと。
それで日本に帰ったら、社長がこの事業(ヴィロン)の話を、はじめてしてくれたんです。
僕も、その実際に食べたレトロドールに興味津々だったんで、
『じゃその粉を仕入れるところから社長やるの?』って訊いたら
『そうしたい』と。
レトロドールがうまいのは、粉のちがいだと社長も思ってた。
だけど、社長が考えたのは、それに近い粉を日本で探すんじゃなくて、まったくそのまんま、そのもの自体を輸入できないか、ということ。
『粉の輸入は俺がやる。だけど、それを輸入したら、日本でパリ以上のバゲットが焼けるか?』と社長に言われたんです。
僕、ああやってこうやってこうやってやればいけるんじゃないかな、と頭の中で思って、
『僕はいけそうな気がする』
『じゃ、契約交渉に行ってくる』って社長、契約にいった」

「おまえの国に、うちのレトロドール作れる職人なんているのか? 
誰でも彼でもに提供できる粉じゃないんだよ」

「VIRON社は、パリから東に80キロ、電車で1時間弱ぐらい行ったところの、シャルトルっていう町にある。
うちの社長がそこ行ったら、VIRONの社長アレキサンドルは日本のこと知ってるんだけど、開発のスタッフは『日本? アジアのでっかい国だろ』って中国とまちがえてるくらいで(笑)、日本のことはほとんど知らないですよ。
『ニシカワ、おまえ契約っていうけどな、おまえの国にうちのレトロドール作れる職人なんているのか? それを見てみないと、誰でも彼でもに提供できる粉じゃないんだよ。まして、おまえのとこ外国だろ?』と言われて。
それで、社長が帰ってきて僕に『行ってくれ』と。
ということで、今度は僕がフランスに行って、VIRON社の研修センターで1週間ぐらい缶詰になった。
通訳はいるんだけど、やっぱり専門用語が入ってくると通訳もわからなくて、VIRON社の開発スタッフとのコミュニケーションがむずかしい。
そうすると、だんだん開発スタッフがしゃべらなくなってきて、こんなことを言ってきた。
『とにかく、おまえ見てろ。これから2日かけて俺がやるから、それを見てろ。3日目、4日目、おまえはひとりでやれ』
それだけを言って、淡々と仕事していくんですよ。
僕は同じように作らないといけないんで、仕込みの時間、窯の温度をチェックしたり、『生地の状態を見せろ』といって触らせてもらったり、という感じでやって。
一連の工程を、オーバーナイトなので2日がかりで彼らやるんですね。
で、3日目、4日目で、彼らと同じことを、僕が2日間でやり遂げた。
5日目には、『おまえのスペシャリテ、おまえのいちばん自信あるのをやれ』と言われた。
僕はバゲットをやったんですけどもね。
そしたら、まあ、簡単にできるんですよ。
彼らやっぱりすごく雑だから、『もっとこうやったほうが、すごくきれいにできるんだよ』ってことを教えてあげたぐらいで。
『なるほどそうだよね』って、彼らも言うぐらいに打ち解けて。
それで、先代の社長、フィリップ・ヴィロンさんも握手してくれて、
『これならいい。じゃあ、ニシカワと契約してやるよ』と言ってくれた。
それで契約に至ったんですよ」

「やっても、やっても、ぜんぜんバゲットができない。
ほとんど固まらない生地を無理矢理すくって、その時点でダメなのに、翌日に冷蔵庫を開けると、もっとダレている」

「最初の年、輸入した粉からはバゲットがぜんぜんできなかった。
その年の麦も出来がよくなくて、薄力粉ぐらいのタンパク量しかなかったんでね。
レトロドールは、年によるばらつきがものすごくある。
送られてきた粉を、奥本製粉さんに頼んで調べてもらったら、タンパク量が8.5っていうんですよ。
タンパク8.5って、それ薄力粉と変わんねえぞと。
薄力粉でバゲットなんてできないよね。
で、ヴィロンのアレキサンドルに訊いたら『10.5だよ』っていうんですよ。
『おまえな、どう計っても8.5なんだよ』
『そんなことない。10.5だ。じゃ、そのデータ送るから』
送られてきたデータ見たら、10.5なんですよ。
奥本製粉さんといろいろ話してると、日本は計測方式がアメリカ式で、フランスはドイツ式なんだとわかった。
だから、彼らの言う10.5というのは、アメリカ式のほうが低く出るから正解なんですよ。
ドイツ式の10.5は、日本の計測方式だと8.5なんですよね。
これ、どうやってもどろどろなんですよ、生地が。
塊にならないから、かなり悩みましたね。
フランスではぜんぜん普通にいいのができてた。
日本にフランスパンができる職人さんがいるんだって彼らがびっくりしましたけど、僕はその当時で、もう20年以上も、いろんなものを作ってきた経験があるわけですから。
どんなパンでも普通にできるはずなんだけど。
でも、できないんですよ。
粉は、向こうで製粉したものを袋に入れて送ってきてもらってるわけだから、VIRON社で僕が作ったときと同じものですよね。
機械も、ミキサー、オーブン、分割機、ぜんぶフランス製を使ってますから、同じものですよね。
環境はちがいますから、これはまあしょうがないですけどね。
日本のほうが湿度は高い。
それ以外に条件を思いつかない。
なんでできないんだろうって、ずーっと思ってて、2週間ぐらい寝れなかったですね。
なんでかっていうと、オーバーナイトなんで、今日ダメだと明日しかないんですよ。
今日仕込んで明日焼いてダメ、そうすると、また次の日にしか結果が出ないんですよ。
1日に5回やれれば5回結果が見れるわけですよね。
オーバーナイトだから1日1回しか結果が見られない。
明日ダメだとあさってしかないんですよね。
やっても、やっても、イーストの量変えたり、水の量も少しいじったり、醗酵時間を変えたり、塩の量も少しいじったり。
冷蔵の保存の温度帯もいじったり、いろいろやってもぜんぜんできないんですよ。
手粉まみれになってやっと成形しても、焼いたらせんべいみたいですよ。
もう仕込んだ段階で無理だと思うんですよ。
ほとんど固まらなくて、ペーストに近いような生地。
それを無理矢理すくって、その時点でダメなのに、翌日に冷蔵庫を開けると、もっとダレてますよね。
水しゃぱしゃぱっぽいんですよ。
これじゃ話にならない。
それで、かなり悩んで。
オープンの日はもう6月18日と決まっていた。
僕が試行錯誤してたのが、5月中頃。
社長に『どれぐらいテストメイクしたらいいの?』と訊かれて、
『3日もあればいいんじゃないの?』っていってたんですよ。
で、たまたま粉も早くきたんで、『前倒しでやろうや』ってやったからよかったけど」

『渋谷のいまの水道水、硬度いくつですか?』『いま67前後ですね』
社長とマツキヨに駆け込んで、そこでヴィッテルを買った」

「そのとき、川崎のエスプランという店の塩田さんという社長と打ち合わせをしたんだけど、僕はもうバゲットのことばっかり考えていて、社長の話も聞いてないんですよ。
塩田社長は職人さんなんですよ。
『牛尾さんもたいへんだよね。パン作りは本当むずかしいよね』って。
『別にそんなこと、この場で話されても困るわ』って思いながら、僕は上の空で聞いていた。
『牛尾さん、軽井沢って行ったことある?』
『すいません、ないです』僕はぜんぜんちがうこと考えてて。
『軽井沢ね、あそこパン作りすごくむずかしいんだよ』
塩田社長は、軽井沢の浅野屋でも修行されてるんで。
『すごくパンが作りづらいんだよ。あそこね、水の硬度が高いんだよ。すごい硬水だから、ぷりっぷりになっちゃうんだよ』
それ聞いて、『おっ、ちょっと待てよ』と思った。
『そんなに硬度高いんですか?』
『日本の中ではけっこう高いところなんだよ』っていわれて。
『そうなんですか? ぷりぷりになるんですか』
『もう、ぷりっぷりでさ、とにかくのびないんだよ。だから、普通より7、8%水入れないとダメなんだよ』
『えっ、そんなにちがうんですか! すいません、僕、帰っていいですか。ちょっと用事思いだしたんで』
そっから、電車の駅まで5分ぐらいなんだけど、渋谷の水道局に電話して、
『渋谷のいまの水道水硬度いくつですか?』
『いま67前後ですね』
『もしかしたら、これかもしんねえわ』と。
で、渋谷駅降りて、社長とマツキヨに駆け込んで。
ヴィッテルって水ありますよね。
エビアンでもよかったんだけど、ヴィッテルはだいたい硬度が308ぐらいなんですよ。
フランスの硬度ってだいたい300から350。
帰りにそこでヴィッテル買って、その日、夕方からがーって仕込んで。
小麦粉を水で練った瞬間に、『あ、これだ』って思ったんですよ。
なぜかというと、生地になる。
固まるんです。
『生地になってるわ』と思って。
そうすると、これは翌日、どのくらいの、どんなものが焼けるかって僕わかったから、
『社長、もうできたよ。これ、きっと大丈夫』
『じゃ、明日、楽しみにしてくるわ』
次の日、めちゃめちゃいいの焼けたんですよ。
ぱーんと上がるし、中の内相もぼこぼこぼこって蜂の巣状態になってる。
『これだよー!』」

「コレットに行ってなかったら、コントレックスに行き着かなかった。
いろんな経験の中で、無駄なものってひとつもないと思う」

「そしたら社長が『専務、悪いんだけどさ、それいくらで売るの?』って言うんですよ。
フランス小麦は普通の小麦の3倍ぐらいするんで、全量ヴィッテルで仕込むと、たぶんバゲット1本500円以上の売価設定じゃないと売れない。
その当時、300円以上のバゲットってなかったんですよ。
こりゃダメだ、と思って。
でも、待てよ、それなら、硬水を作ればいいのかと。
で、いろいろ調べると、理論上できなくはないんですよ。
要は、マグネシウム、カルシウムを添加すればいいわけなんで。
その添加量というのは、10リッターに対して1ccとか。
もう100万分の1g(ppm)を超えて、ppb(10億分の1g)レベルでの添加をしないといけないんですね。
そんなの現実的には不可能なんですよ。
100リッターで10ccぐらいならできなくはないんですけど、それも安定してないんですね。
作れたとしても。
それより簡単な方法ないのかなと思って。
で、また悩みまして。
硬水から、カルシウム・マグネシウムを取り除くのは簡単なんですよ。
フィルターを噛ませればいいので。
だけど、添加するというのは、基本的にどこの国でもやったことがないんですね。
で、ヴィッテル全量じゃだめ。
原価を安く抑えられて、なおかつ300以上の硬度をキープできる方法を考えた。
そのとき、思いだしたのが、パリで1ヶ月半パン屋巡りしてるときのことなんです。
通訳をしてくれた、パリ在住の日本人の女の子が、
『牛尾さん、お酒飲めないんですよね。じゃあ、お水のバーってあるんだけど』
『なんだよそれ』
『いろんな国のお水がものすごくたくさん種類あるから、行く?』
それがちょうど、フォーブル・サントノーレにある、コレットっていうセレクトショップ(パリの流行が作られるともいわれる有名店)の地下なんですよ。
そこではじめてコントレックスっていう水を飲んだ。
『これ、超硬水なんだよ』ってその子が教えてくれて。
そこではピエール・エルメのお菓子が食べられるんですよ。
僕、いまでも好きなんだけど、そこではじめてイスパハンを食べた。
ラデュレ時代にエルメの作った、ライチの実が入ってるお菓子なんですね。
それを食べて、コントレックスを飲んだ。
ものすごい硬い水だなと思って。
硬度が1500ぐらいあったと思う。
もう硬水どころか超硬水なんですよ。
それを思いだした。
マツキヨにたしかコントレックスって売ってたよなって。
じゃ、ブレンドしたらどうなんだろう。
計算式にあてはめると、8対2、コントレクッス2割、渋谷の67の硬度の水道水8割でブレンドすると、ちょうど350になる。
「これだ!」と。
コントレックスって、1.5リッター220円ぐらいだった。
2割だけでいいわけですから、知れてるやん。
値段も抑えて硬度もキープできるという方法を、やっとそこで見いだすことができた。
だから、僕、たぶんその子がコレットに連れてってくれなかったら、コントレックスというところに行き着かなかったと思うんですよ。
だから、いろんな経験をしていく中で、無駄なものってひとつもないんじゃないかなって思う。
たとえば、寄り道、脇道、なんかわからないけどこの店入ってみようかなって。
日本でもそうだけど、フランス行くと特にそうですよね。
自分になんの興味もないようなものが置いてあっても、なんかおもしろそうだと思ってふっと入るって、ものすごく大事なんだなと。
いつかなんかのときに、どんなふうに役立ってくれるかわからないから。
旅に行ったり、どこかに出かけたときには、時間を惜しみなく使って、いろんなところに立ち入ろうというのは思いましたね。
いまから9年前といえば、ちょうどダイエットブームの時代。
デトックス、排泄物を出すということで、コントレックスも重宝されだした、そのはしりの頃でしたからね。
それがちょうど合致して、最終的にそれに行き着く、到達することができて、いまがある。
その経験は大きかったですね。
でないと、僕、バゲットできなかったら夜逃げしかないと思ってましたからね。
そのために僕、東京にきたわけだから」

「古きよき時代のバゲットがここにはある。
もうパリには残念ながらないよ。おまえが継承してくれ」

「フランスにいま、うちのレトロドールみたいな焼き色のバゲットってもうないんですよ。
フランスの子供たちも、マクドナルドさんとかの影響で、やわらかいものを食べるようになって、咀嚼時間も短く、咀嚼力もだんだんなくなって、顎が突き出てきてるんですね。
そうすると、焼き色の濃いバゲットって『硬いからいやだ』っていう子供たちがだんだん増えてきた。
フランスって、店に並んでるバゲットの焼き色が、ぜんぶばらばらですからね。
いろんな色がある。
お客さんが『右から何番目のそれ』って選んでいく売り方をする。
そうすると、色の白いほうから売れていくので、店主は白いのをどんどん焼こうとしますよね。
白いのを焼くほうが焼き時間も短縮できるから、1日に焼ける本数も増えるし、労働時間の短縮もできるから、どんどん白いほうに進んでいく。
色の濃いバゲットってもうないですよ。
だから、アレキサンドルもうちにくると、
『古きよき時代のバゲットがここにはあるんだね。もうパリには残念ながらないよ。おまえのとこが継承してくれ』と言います。
僕は日本人なんで、窯で焼くときには、途中で手前と奥を入れ替えたり、差し替えたりしながら、ぜんぶ同じ色になるようにしますよね。
フランス人は奥、手前関係ないですからね。
当然、奥のほうが焼き色はよくついて、手前のほうは若干白くなっても、いっぺんにそれをぜんぶ出しちゃうんで。
手前は白い、奥はやや色がついてる。
それがだんだん、奥はやや白い、手前はかなり白いで出すようになっちゃうんですね。
そういう、時代の変化がパリでもいまかなりある。
でも、レトロドールって『黄金の古(いにしえ)』っていう意味なんで、そういう意味でも、うちがなんとか継承していければなと思いますけど。
この界隈に住んでるフランス人の方にも、
『こんなバゲット、昔はあったけど、いまはないよねー』『懐かしいよねー、これは変えないでね』って必ず言われます。
うちに来店したフランス人の方は感動しますもんね。
『こんなバゲットがここにあるんだ』って。
フランスでは残念ながら、労働時間が週35時間って決められてますから、彼らそれ以上働けないし、働かないですから」

「『フランスっぽい』とか、『フランス風だね』とか、それやめようよ。
パリの15区とか、6区あたりにあるのが、ぽんと抜け出して、この町にどんときた、そのままでやろうよ」

「僕も社長もね、この店作るときにね、
『「フランスっぽい」とか、「フランス風だね」とか、それやめようよ。そんなのどこにでもあるから。パリのお店、15区とか、6区あたりにあるのが、ぽんと抜け出して、この町にどんときた、そのままでやろうよ』と。
原料も基本フランス、仕入れるものはほぼフランスの食材を入れて、設備も空気以外はぜんぶフランスでいこうと。
インテリアもデザインも日本人だけど、フランス在住の日本人が手がけたので、やっぱりちがうんですよね。
そこで生活をしてる人の感覚・感性というのはやっぱり日本人とはちがう。
ちょっとしたところなんですが、この階段のところも縮み塗装という、特殊な塗装なんですよ。
値段が高い。
フランスでは一般的に使っているんですけど、日本ではほとんど見ないですね。
でも、テクスチャがやっぱりちがうんですよね。
それを知ってる人も少ないんだけど、そこはこだわりとしてやろうということになりました。
そういうところを、いちばん重視しましたね。
普通、日本人がデザインすると、天井が赤なんて考えられないですね。
でも、別にそんな居心地悪くないし、パリならいくらでも、こんな店、普通にあるんで。
図面で見たときは『えー』って思いましたけど。
できてしまえば、ぜんぜん受け入れられているというか、『天井、なんでこんな赤いの?』なんていう人いないですよね。
だけど、やっぱり『本物』とか『らしさ』っていうのは、そういう細部の積み重ねじゃないかと思うんですよね。
クロワッサンもフランスのまんまですからね。
『そんなでっかいクロワッサン』っていわれるけど、パリではあの大きさが主流っていうか、普通。
逆に日本のサイズのクロワッサンがフランスにはないんですよ。
ルセット(レシピ)も基本フランスのままだし、大きさももちろん、目方もフランスそのまんまで。
販売台の高さもフランスのパン屋さん30軒ぐらい計らせてもらった。
みんないっしょの高さなんですよ。
それでこの高さにしたんだけど、日本人の女性にとってはやっぱりちょっと高い。
でも、日本ナイズはいっさいやめようということで、そのままやりましたけどね。
背の小柄なご婦人の方はちょっと背伸びしてる方もいらっしゃいますけど。
1個を日本ナイズしちゃったら、ぜんぶがそっちに移行しちゃうのでやめようと。
ただひとつだけ日本ナイズできなかったことがあるんですよ。
なにかわかりますか?
お水なんですよ。
フランスって、店に入っても、お水出てこないですよね。
おしぼりなんて、うちはランチ・ディナーで出しますけど、フランスでは出てこないですね。
最初、オープンしたときにはうちでもお水を出さなかったんですよ。
お客さまに『水ほしいんだけど』っていわれたら、メニュー持っていって『エビアンいかがですか』っていうスタイルだったんですよ。
かなりお叱り受けまして。
『ふざけんな』『水も出てこないカフェなんて聞いたことない』と。
オープンしたのが夏だったこともあり、さすがにそこだけは仕方がないなという。
ここは日本だし、お客様あっての商売だから、ここは我々が折れないと仕方がないと。
だけど、商品に関しては一切妥協しないように。
新製品も出さない。
フランスって新製品が出ないんですよ。
パリだけだと商品が足りないから、いろんな地方の、ブルターニュとか、ブルゴーニュとか、地方のパンも寄せ集めて、サンドイッチ含めて60アイテムぐらいにはしてます。
パリのパン屋さんでも20アイテムないぐらいですからね。
だから、そこだけは一切日本ナイズせずに」

オープン当時、店の中はお客さんでいっぱいだけど、売り上げは悲惨でしたね。
バゲットを毎日300個廃棄してました。

オープン当時はさんざんでしたね。
店の中、お客さんがいっぱいなんですよ。
センター街の若い子ばっかりくる。
『なんだ、この店』ってことでね。
1回きたら『高っけ。クロワッサン245円、高っか、ばかじゃないの?』
『カレーパンないの? あんぱんは?』
『すいません、ございません』
それでみんな帰っちゃう。
ずーっとこれの繰り返し。
店の中はお客さんでいっぱいなんだけど、売り上げは悲惨でしたね。
バゲットを毎日300個廃棄してました。
日本はフランスより湿度が高いので、すぐに持たなくなるんですね。
この空間だけ湿度をフランス並みに30%ぐらいにできないか、っていうのも考えました。
理論上、できなくはない。
だけど、一歩外に出ると60%、夏だと80%ぐらいあるわけですね。
その環境でバゲットはもたない。
そうすると、焼き上げ回数を増やすしかないんですね。
いつもほぼあったかいものを提供するしか解決方法はなかったので。
オープン当初から1日12回焼きをしてます。
だいたい50分に1回のペースで、30本出す。
50分後、また30本出す。
売れないもんだから、それがそのまま30本あるんですよ。
50分前に焼けたものが。
引きますよね、焼きたて出しますよね。
次の50分後また30本ほぼあるんですよ。
1日40本も売れない。
30本ぐらいだったかな。
1回30本を12回、1日360本ぐらい焼いたのを、300本捨てるわけですよ。
そうすると、産業廃棄物だから、捨てるのにお金がいる。
オーバーナイトして2日がかりでパンを焼いて、原価の高い材料を使って焼いたものを、またお金を使って捨てるわけですよね。
4ヶ月ぐらいそんな状態でしたからね。
オープン当時、1ヶ月の赤字が1千万超えてました。
社長に『どこまでこれつづけるの』って訊いたら、『やれるまでやろうよ』っていうから、『わかった。とにかくいいものしか出さないようにはするからね』。
宣伝広告なんか一切やらなかったから。
『絶対わかってくれる、絶対わかってくれる』しか、社長は言わないし。
『あー、これは軌道に乗るまで時間かかるだろうな』とは思ってたんだけど、結局、センター街の若い子がこなくなったのが、開店2ヶ月後ぐらい。
4ヶ月過ぎたあたり、5ヶ月目に入った頃に、だんだん東急本店さんのお客様が、もしくは神山町の外国人の方がいらっしゃって、買ってくださるようになっていった。
この場所にオープンするときは、賛否両論、本当にいろいろあったんだけど。
パン屋としてはだめだよっていう人がほとんどだったかな。
そんなコアな商売をする場所じゃないって言われつづけて。
大手パンメーカーの方もここの市場調査をしてくださったり。
通行人がどれぐらいいるかとか、立地的にどうだとか。
『やめたほうがいいよ』といわれたんだけど(笑)。
東急本店の真向かいで、シースルーのエレベーターから見えるわけですから。
これは可能性あるから、ここでやろう。
1階2階で88坪あるんですよ。
そんな場所って東京にもうない。
田舎者が出てきて不動産屋に『80坪以上がほしいんだけど』っていったら『ばかじゃないの』っていわれるぐらい。
自由が丘にあったんだけど、ぜんぶアパレルに取られちゃう。
飲食は嫌われるんです。
唯一この場所は、オーナーさんが『パンも好きだしいいよ』って言ってくださった。
僕らが想定してたお客様がやっぱり多かった。
センター街のお客様を集客したかったわけではないし。
それこそ、文化レベルの高い、文化村で観劇した帰りの方とかを、この場所でお迎えしたいと想定していました。
業界の方がたはみなさん大反対、『やめたほうがいい、絶対失敗する』って言われた。
オープン当初はそんな状態だったので、『それ見たか』と思われた方も多いんじゃないかな。
最初の3、4ヶ月って業界のいろんな方がくるでしょ。
がらがらなわけですよ。
商品は山ほどあるしね。
見ればわかりますよね、売れてないって。
半年過ぎてからは、早かったですね。
だいたい1年ぐらいで黒字になり、2年目以降は利益もどんどん出てきましたしね」

「食パンだけのお店を今年やりたい。
カウンターが1個あるだけ、その後ろはファクトリーになってて、食パンが並んでる」

「『みんなのぱんや』をさらに特化した、食パンだけのお店を今年やりたいなと。
アメリカ・カナダの、特等粉といわれる粉をいま探してるんですよ。
それで1種類食パンを作って、あとは内麦(国内産小麦)で1種類。
食パンが2種類しかないお店。
それぐらい特化したお店をやりたいなと。
商品はだいたい8割方完成してるんですけど、いま場所探しをはじめて、夏までにはなんとかできれば。
老舗でいうとペリカンさんとか、業態としてはあんな感じです。
カウンターが1個あるだけの店。
その後ろはファクトリーになってて、食パンが並んでる。
1本(2斤)買いしてもらう。
それぐらいのサイズで売ろうかと。
2アイテムしかないわけだから、その代わり、とびきりなものを作らないとだめですけどね。
そこはもう職人技が問われるところなんで、がんばります。
内麦のほうは、いま『ゆめちから』というのが出てきてるんでそれメインで、あとはなにをブレンドするかですね。
そっちはそっちでやってます。
昔はアメリカ・カナダ産の1CWがいちばんよいとされていたんですけど、いま1CWでも産地によっていろいろランクがあるんで、1CWイコールおいしいにはなかなかならない。
じゃあ、食パンにしておいしい粉はなんなんだということで、製粉会社を通じて探しています。
製法は確立したものになってるんですが。
湯種(お湯で小麦粉を混ぜることでα化させる)と液種(水分の多いしゃばしゃばの状態の中種を作って熟成させる)をミックスした感じですね。
それをオーバーナイトすると、甘みがより増すんですね。
湯種と液種とレトロドールの製法を合体したような食パンを作れれば、というところです。
食パンを冷蔵発酵させるのはけっこうむずかしい。
食パンっていうと、生地の使用量がものすごいので、冷蔵庫にかなりのキャパシティがいる。
まして、食パン2アイテムの専門店となると、5坪ぐらいの冷蔵庫がいるんじゃないでしょうか。
それと同じだけの広さのホイロ(生地を温めて保存する機械)もいりますよね。
なかなかそれはむずかしいですよ。
リスクは大きいですよね。
1000本売るつもりの設備投資して、50本しか売れなかったらもてあそぶし、どうしようというのはあるんですけど。
まあ、挑戦ですかね」

「パリでお店を出したい。
パリ市主催のバゲットコンクールに出て、ガチンコで勝負したいですね」

「あとはパリで1軒お店を出したいですね。
VIRON社に働きかけて、『いっしょにやろうよ』ってことで。
いろいろ場所探ししてるんですけど、いまパリも景気がよくないのもあって、いい場所ってなかなか売らない。
VIRONという名前にはしないですけどね。
VIRONというと、『日清製粉』っていうお店があるのと同じことになりますから。
名前はもちろん変えますけど、このスタイル、この商品群で勝負したいなと。
どこまで受け入れてもらえるのか。
日本人の繊細さがわかってもらえればいいんですけどね。
(日本人の繊細さと、フランスの原料、伝統が合わさったときに、ヴィロンというスペシャルなものができた?)
そうだと思いますね。
融合してはじめてそうなったんですね。
パリ市主催のバゲットコンクールが毎年あるんですけど、それに出たいんですよ。
でも、レトロドール使ってるからって、日本から出場っていうのはだめなんですね。
別に外国人でもいいんだけど、出場の権利は、パリにお店を構えてるっていうのが条件。
ガチンコで勝負したいですね。
コンクールはもう10何年やってますけど、7割方レトロドールを使ったところが優勝してるんですね。
もちろん作り手にもよりますけど、やっぱり粉がちがいますからね。
出したいなとは思います。
最終的には、それが夢です」

パンテコ松岡徹の読み方
*1…「スタッフが仕事に集中してて話ができない。本気でパンを作ってたら話なんてできないもんなんです」
*2…「店に出ている商品の問題点やスタッフに対する質問を真剣に考えているから無視しているように見える。当然、スタッフはそのことをわかっている」
*3…「『今日は悪かった』で終わらせるんじゃなくて、なにが悪いかまで追求しないと、うまくならない。質問するのは、相手の考え、理解度を問うている。やれといわれたことをやるんじゃなく、知識があって仕事をしていれば答えられる」
*4…自分のパンは最後まで自分で作るのがうちのルールだった。パンに責任を持たせるために、他のスタッフに手をださせない。ただ厳しいということではなく、自分のパンに責任を持つということを、牛尾君はいいたいのだと思う」
*5…「仕事中に必ず質問されるので、予習復習をしているのです」
*6…「この部分は牛尾君の思い違いだと思います。本当は、ビゴで2年修行すると、他の店で5,6年修行した人のレベルになるという意味で、彼らはあまり給料のことは深く考えていなかった。当時のスタッフのうち3名が、3年でオーナーシェフや新規オープン店のシェフになっています。他の店に行ったら、機械も材料もすべてちがう。マニュアルでやってるんだったら通用しない。教わるか、自分で考えるかのちがい」
*7…「ニシカワ食品で35キロの生地を10分で切るというシーンが出てきますが、それとの対比が興味深いですね。早く切るのがえらいと牛尾君はいってない。妥協しないということを彼はいってる。妥協したら負け。『1グラムが、そのうち2グラム、3グラムになるぞ』と僕はいっていた。牛尾君はそのことに気づいた。妥協しないという気持ちが大事なんです。いいパンを作るのは、技術ではない。技術以前の気持ち。それがもの作りの楽しさ。そこまで追求しないと楽しくない。もっといいもの作るには、もっと妥協しないにはどうしたらいいかを考える。牛尾君はドゥースフランスで別の人種を見たんだと思う」
*8…「生地を大切に扱うということ。生地になるべくストレスを与えないように。*7と同じく、分割が速いだけではダメで、生地に対してやさしく、かつ速くということが大事なのだと、彼はいいたいのでしょう」



ル・スティル社長 西川隆博インタビューにつづく


パンラボ単行本増刷完了しました。


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カンパーニュを伝えた男 ピエール・ブッシュ【職人インタビュー 007】
1981年、日本ではじめての自家製酵母種パン専門店であるルヴァンを創業。
1985年、オーガニック原料の輸入と、国産小麦による自家製酵母種パンを手がける(株)ノヴァを設立。
現在はベーカリー部門を閉じ、酵母の研究にいそしむ。


「日本のパンの歴史。そのパズルの中に大事なピースがない。
このままでは永遠にパズルは終わらない」

いま自家製酵母のパンはさまざまな場所で見かけられるものになった。
だが、この人がいなければ、現在の隆盛はなかっただろう。
ピエール・ブッシュ。
フランスから、パン・ド・カンパーニュを伝えた男。
彼のプロフィール、日本で最初の自家製酵母パン専門店であるルヴァンを設立するまでの経緯を知るには、単行本『パンラボ』からの引用を読んでいただくのが、もっとも早い。

(引用はじめ)
1975年。
ひとりの若者がヒッチハイクで4ヶ月かかつてフランスから日本にたどりついた。
ピエール・ブッシュはオーガニックレストランを営み、マクロビオティックを実践していた。
味噌や醤油など日本の伝統的な発酵食品を学ぶためやってきたのだった。
当時の東京にはすでにあらゆるパンがあった。
食パン、菓子パンはもとより、フランスパン、ドイツパン…。
たったひとつだけ、大事なパンがなかった。
自家製酵母種を使った伝統的な製法のカンパーニュ。
パンの歴史の原点に位置する、もっとも素朴で、基本のパン。

「なぜ私がパン屋になったかというと、フランス人で、外人だから?
パンが好きだから。
探して見つからないとなると、
食べたいパンを自分で作るしかなかった。
すべての基本はカンパーニュ。
当時、日本にパンの土台がないと強烈に感じました。
パンというパズルの中に大事なピースがない。
このままでは永遠にパズルは終わらない」

1978年、2度目の来日のとき、小さな電動石臼を持参した。
全粒粉の自家製酵母パンを主食にしていた彼は、まず、全粒粉を探したが、自然食品店にもなかった。
当時、小麦の粒は、自由に市販することが法律(食料管理法)で許されていなかった。
伝手をたどって農家から買った麦を石臼で挽き、カンパーニュを焼いた。
70年代まで、フランスでも自家製酵母は下火になっていた。
人びとはバゲットなどイーストで作られたパンを食べていたが、オーガニックブームが起こって、自然食品店や有名レストランで求められるようになった。
だが、当時住んでいたプロヴァンス地方に彼の求めるカンパーニュはなかった。
自分の店で出すパンを、400キロ離れたところまで、買いに行った。
そのパン屋が薪窯で焼くさまを目に焼きつけ、手本にした。
水分たっぷりでうまく扱えないほどの生地。

「身が詰まったパンや重いパンはよく出回っている。
しかしパンは穴(気泡)が空かないと…。
穴が空くには元気な酵母種が大事だし、それだけでなく水も重要。
たくさん水が入ったほうがグルテンがやわらかくなってのびやすく、小麦本来のおいしさを引き出す」

パン作りの根拠にしたのは、350年前の農学書。
高校のとき、骨董好きの友人が農家でみつけ、なぜか彼に渡した。
その本の内容に彼は釘づけになった。
「フルーツからもパンが作れる」
それからレーズンで自家製酵母を起こす作り方に取り組むようになった。
1981年、日本で最初の自家製酵母パン専門店ルヴァンを設立した。
その直前、彼は帰国した。
パリでたった1軒、何代にもわたって、昔ながらの製法でカンパーニュを焼きつづける、リオネル・ポワラーヌに挨拶するために。
「あなたのパン、大ファン。私は日本でカンパーニュを広めます」
ポワラーヌはいった。
「遠い日本でもパンのルーツであるカンパーニュを作れるなんて! こんなうれしいことはないよ」(引用終わり)

「カンパーニュは私にとっての『飯』だから。
これがあればあとはなんにもいらない」

インタビューは、栃木県那須塩原にあるピエール・ブッシュの自宅で行われた。
「ここが私のパンラボです」
と、彼は自分の工房を紹介した。
パン屋を畳み、現役から退いたあとも、日々、自分や家族、友人のためにパンを焼く。
よりよいパンを求めての実験、挑戦である。

「いつも同じ量で焼きます。
そのほうが比較しやすい。
配合だけじゃなく、発酵時間など、すべて記録します。
きのうはこうなってた、きょうはこうなってたと。
原因をつかみたい。
種がすべて。
種によって、風味は決まっちゃう。
酵母がすべてだからね。
種をちょっと失敗したら、ごまかしはできるんだけど、わかる人にはわかる。
パンにはなったけど、目指してるパンとはちがう。
種がしっかりしてれば、あとはよっぽど失敗しなければ、いいパンになる」

ピエール・ブッシュは、自作のバゲットカンパーニュを、こういいながらふるまってくれた。
「これは、私にとって『飯』だから。
いつもこれ食ってるんだね。
いつも同じパンしか食べない。
オリジン(原点、基礎、元、源)のパン、基本のパンね。
あとはなにもいらないもん」

私はそれを夢中になって食べた。
味わいは充実して、とても豊かだが、風味も食感もあたたかく、尖りはない。
酸味はかすか。
たしかに、たくさんの気泡のせいで重さはほとんどなく、軽さの裏側にはめまいがするような複雑さがあった。
香ばしさ、発酵の香り、全粒粉の濃い味わい、あらゆるものがじわじわと滲みだし、移ろっていく。

(ブッシュ氏の振る舞った、バゲットにゴマペースト、納豆、チーズのタルティーヌ)

「発酵とは、命が宿っていること、酵母菌が生きていることそのもの。
毎秒変化していく、発酵の魅力、不思議さ」

ピエール・ブッシュは自らの焼くパンを、「オリジンのパン」と呼ぶ。
それは人類がいちばんはじめに出会ったパンと同じものだという意味が込められている。
ファラオ時代のエジプトで、放置した生地が偶然ふくらんでいるのを見て、人がはじめて発見した発酵の奇跡。
彼はパンを焼くたびに、その原点を現出させようとする。

(人類最初のパンをブッシュ氏が再現したもの)

「私の焼きたいパンは基礎のパンだ。
ナチュラルなこと、オーガニックにずっと関心を持っていたので、そういうパンを大事に思うようになった。
日本でとれた小麦を使ってそういう素朴なパンに親しんでもらえたらいいな。
基礎のパンには生命力が満ちあふれている。
酵母菌が命そのもの。
毎秒、変化していく発酵の魅力、不思議さ。
ほかの発酵食品と比べて、変化の進み具合がパンはできあがるまでが速いから、ある意味ではわかりやすい。
パンだって、種ができるまでは数日間かかるけど、発酵にもっと時間を要する食品もある。
味噌、しょう油、ワイン、日本酒。
味噌は、半年、1年、2年。
パンは短期間ですべてのプロセスがものになっちゃう。
私みたいなせっかちな人は、すぐ結果が出るから合ってるね(笑)」

味噌、しょう油、納豆、漬け物。
滲みわたるようでも、安らぐようでも、取り憑かれるようでもある、発酵食品の魅力。
かつて、イーストのパンしか知らなかった日本人は、パンもそれらと同じであるという視座が欠けていた。
そのことを、彼は「土台がない」と表現しているのかもしれない。

イーストの大量生産に成功すると、人は発酵という神秘にますます介入するようになる。
「イーストはパン用酵母菌を集めたものです。
その酵母菌は自然なもので、自然界ではほかの菌や微生物とともにいます。
しかし、研究室において酵母菌だけ集めるには、まず抗生物質を使って他の菌を殺し、単一の酵母菌だけを選んでえさを与え、培養して、クローンのように増やしていきます。(註1)
工場でイーストを生産するとき、培養地はモラセス(砂糖を精製するときに発生する糖蜜)でナチュラルのようだけど、そのほかにもリン酸、チッ素、栄養剤などもしっかりと入れるようですね。(註2)
たしかに、そうした純粋なものを与えれば酵母菌はたくさん増える。
でも、完全に純粋なものって、本当は自然界にはないんですね。
自然界では色々な菌が家族のようにいっしょに生きている。
化学肥料や農薬をやると土が荒れてしまうように、もしかしたら菌の世界でも、自然が整えたバランスを崩したらなにかが荒れてしまうのではないでしょうか。
お米だって、精米されるときに、命の入っている芽を取って、ぬかを取りのぞく。
小麦を製粉することも同じ。
分解して、分けた上で、使いたい部分だけ取って、純粋にする。
人間の頭の中に、純粋だと安心するという、なにかフォルムのようなもの(思考のフォーマット)があるんだね。
人間の心理の中にそういうものがあるんだと思う。
科学的に純粋だから、ミスがないかぎり、イーストはいつもパンの作り手の思った通りに動いてくれる。
一方、自家製酵母というのは、ひとつのものだけを育てることができません。
全体を活かして培養するんだから、酵母菌だけではなく、乳酸菌など、いっしょにいる微生物も育つ。
発酵というプロセスにおいて酵母菌は中心的な働きをもっています。
しかしそれだけでなく、他の菌の複雑な働きの影響を受けるため、できたパンに豊かな味わいや深みのある香りが加わる」

科学は、本来分けることのできないものを分けた。
「ふくらむ」という見た目の現象だけに着目して、見えないものを切り捨てた。
たとえば、乳酸菌は必須アミノ酸など人体にとって極めて有用なものを作り出す。
発酵の生み出す、そうした目に見えない作用まで、イーストの普及は失わせることになった。

「酵母菌と乳酸菌のバランス、それがパン作りの醍醐味。
種はすべてなんだよ。自由に遊べたらとても楽しい」

ピエール・ブッシュが、「パンのすべて」と呼ぶ種づくり。
古代以来の長い経験によって培われた技術は、イーストの登場によってパン職人にとって必須のものでなくなり、発酵を待つ長い時間からも開放された。
だが、本来パン職人の仕事とは、種を作り、種を育てるという作業からはじまると彼は考える。

「自家製酵母の場合、乳酸菌が増えやすい。
乳酸菌は他の雑菌の繁殖を防ぐから、酵母菌を他の雑菌から守る。
酵母菌の力をより高めながら、乳酸菌も活かしたい。
酵母と乳酸菌のバランス、そこがポイントだね。
乳酸菌の働きを抑えて、酸味の少ないパンも作りたい。
逆に、カンパーニュの場合は、乳酸菌がまったくなくても物足りない。
パンの種類によって種の個性のバランスをとることがとってもむずかしいけれど、反面それがパン作りのおもしろさ。
ドイツ人は乳酸菌の働きをよく活かしている。
ある程度酸っぱいほうがライ麦パンはおいしい。
ものによるんだね。
現在、日本の多くの自家製酵母パン屋さんではどの種類を食べても同じような味がするように感じますが、それではものたりないのではないでしょうか。
いろんなバリエーションをそろえるのはパン屋の腕だと思う。
たとえば、パン屋さんは3種類の種があればさらにバリエーションを増やせる。
ひとつは乳酸菌の働きがとても弱い種で、酸味のない菓子パンもできる。
もうひとつは、発酵力がしっかりとありながら、乳酸菌の働きも活かして静かな酸味の出来るパン。
また乳酸菌の働きをしっかりと活かした種は、個性的で酸味のきいている通好みのパンになる」

「種はすべてですよ」と、ピエール・ブッシュは何度も繰り返した。
彼がかつて営んでいたNOVAベーカリーも、何種類かの酵母を使い分け、さまざまなパンを作りだしていた。
単に副素材を混ぜ込んで目先を変えるのではない。
発酵の神秘によって、小麦の味わいを存分に引き出し、あるいは発酵の風味を加えて、単にあれとこれを組み合わせるというものを超えた、複雑微妙な味わいを提供すること。それがパン職人の本当の仕事だと、彼は言おうとしていたのではないか。

「いま、大規模なパン屋、大手メーカーで、なにを目指しているか。
イーストが飽きられたところがあるので、酸味も入れたいと思っている。
ドイツのサワードゥ(サワー種)が市販されていて、最近みんなが隠し味として入れたがってる。
いいことだね。
種はすべてなんだよ。
種のオリジナリティで自由に遊べたら、とても楽しい仕事」

「焼き上がったパンを見ているときの満足感がなんともいえない。
豊かというか、かっこいいんです」

ルヴァンのあと、ピエール・ブッシュが設立したのが(株)ノヴァ。
ベーカリー部門はいまはすでにない。
「1999年の8月に閉店しました。
それまでは自分でパンを焼いていた。
もともと身障者です。
体が持たなくなっちゃった。
つづけてたほうがよかったとたまに思いますよ。
いまでも厨房に立つと楽しくてしょうがないもん。
体はくたくたになるけど。
焼き上がったパンを見ているときの満足感がなんともいえないですね。
自分のスタイルは、種類は少なく、1種類のパンを100個どーんと作ること。
それが並んでると達成感がある。
豊かな気分になる」

それを言う彼は、実に幸福そうな微笑みを浮かべていた。
きっと脳裏には100個の同じパンが並ぶ壮観が浮かんでいたにちがいない。
そして一転し、彼の表情は、戦う人のように険しくなった。

「作るときだって、大変なんだよ。
必死だよ、時間勝負。
時間との戦い。
想像してごらん。
このぐらいの生地(両手を広げる)4キロ、8つに分けると500グラム。
8個に切る時間、成形する時間、窯に入れる時間があるとするでしょ。
その何倍もの生地、50キロはまるで山なんですよ。
でも、8個と同じように短時間で、凝縮してやらないと。
なぜかというと、発酵が進んじゃうから。
100個というのはスピーディにやらないと。
1個目と100個目でちがってくる。
1個目を(ベストの発酵状態になって)窯に入れるとき、(まだベストまでいってない)100個目も入れなきゃいけない。
それはいけない。
時間との勝負がなんともいえないんだよ。
自分との戦い。
2人、3人いるとすると、呼吸が大事。
ひとつのテーブルを囲んでアイコンタクトだけで作業が進む。
職人の世界、職人の空気ね。
半端じゃないよ。
オーケストラのメンバーといっしょ。
パンという作品、一日の作業という作品をいいものにしたい。
勝負なんだから、ミスしちゃだめね。
その空気がなんともいえないね。
ちょっとタイミングがずれただけで、他の職人の表情に怒りがぴっと出るからね。
みんなができのいいものを作りたいんだっていう、同じ目標を持って。
いい意味での緊張感がとてもなつかしいですね。
パン屋をまた復活したいなと思う時もあるよ」

「白いパンはかつては王様しか食べられなかった。
白を手に入れたい。白という色には特別ななにかがある」

自家製酵母と全粒粉を使ったカンパーニュ。
「パンのオリジン」とは、ひとつの思想である。
パンの歴史は、科学と技術の発達によって、穀物というマクロレベルのものから、酵母や旨味というミクロなものまで、人類が分けつづけてきた連続であると、ピエール・ブッシュはいう。
それ以前の姿、もっともシンプルな素に戻って、すべてを考えようと、彼は呼びかける。

「人間は、本能的にものをより分けたり、組み合わせたりしたがってる動物ではないでしょうか。
パンもそうだし、米もそう。
どこの国や時代にいってもそうだと思うんだけど、人間は、食べやすく、もっとおいしくするために、食べにくいところを取り除く。
そうすると、分けるということになっちゃうんだよね。
小麦粉を挽くと全粒粉ができる。
エジプト時代でも石臼で挽いて、ふるいにかけていた。
ふすま(皮)がふるいに残って、小麦の芯の白いところだけ選ばれる。
お米もそうじゃないですか。
白米のほうが玄米より甘い。
でも玄米をよく噛んで食べたらヘルシー。
ほうきの役目をして、胃腸をきれいにしてくれる。
なんで白米がいいのか、不思議でしょ。
人間には、白=純粋というイメージがあるんじゃないかな。
白、ホワイト。
自分のほしい白を体に入れたい。
昔から人間にとって、白という色には特別ななにかがあると思う。
きれいで、純粋だからなのでしょうか」

フルール・ド・ファリーヌ。
直訳すれば、粉の花。
ふすまを丹念にふるって、ブラウンを完全に取り除いたあとの、目の覚めるような純白の粉を、フランス語でそう呼ぶ。
王侯貴族しか食べられない、権力と富の象徴。
小麦粉だけではない。
米、砂糖、塩。
人は褐色を嫌って、それを取り除くたび、豊かになったと錯覚するが、体に有用なミネラルを実は捨て去っている。

「白いパンは昔は贅沢なもので、王様しか食べられなかった。
農民はふすまを食べていた。
日本だって、農民はおいしいお米を作って、大名に納めた。
雑穀とかふすま、いま家畜のエサになっているようなものは、人間が食べていた。
この苦労を何千年もしてきて、王様と同じものを食べたい、という気持ちが、人間の細胞のどこかにある。
それがこの100年でぱっと手に入るものになった。
私のおじいちゃんは白いパンを食べられなかったんだからね」

「バゲットをみんなが食べられるようになったのは、第1次大戦以降。
真っ白のバゲットを食べると、自分の地位まで上がる。

パン・トラディショネル(伝統的なパン)とも呼ばれる、フランスパン。
その伝統は、数千年を誇るカンパーニュに比べたら、実は最近のことに過ぎない。

「歴史を見ると、第1次大戦が終わってから、経済が豊かになって、白いパンをみんなが食べるようになった。
昔は王様とか金持ちしか食べられなかった。
それを庶民も食べたいって思った。
フランスという国は平等を大事にする。
上と下をなくすという主義。
だから、バゲットをみんなが食べるようになった。
第2次大戦終わってから、田舎まで『バゲットうまいぞ』となった。
バゲットは真っ白。
食べたとき、自分の地位まで上がる。
食べてみたかったものを食べられるようになったんだからね。
60年代になっても、バゲットよりおいしいパンはない、という時代がつづいた」

白い小麦粉、イースト、そしてミキサーが、白くてふわふわのパンを誰もが食べられるようになるための三種の神器である。

「戦争中、機械のミキサーが発達するようになった。
1秒間に1回の回転だけだったのを、1.5倍、2倍の速さでも回せるようになった。
そうすると、同じ生地が軽くなる。
空気が入って、グルテンが出せるようになって。
しかも、酸素が入ると白くなる。
白でふわっと軽い。
ずっと自家製酵母の重たいパンしか食べてこなかったからね。
金持ちになりたい、王様になりたいという、人間のどっかにある欲望を白いパンがくすぐったんだよね。
欲張るから、白が欲しいから。
しかし、それは果たして身体にとっていいことなんだろうか?
いろいろ分けたり、組み合わせたり。
原発といっしょ。
科学的な操作への過度な信仰という意味では、原発と共通する部分もあるように感じます。
人間が進歩のために、さまざまな分野でものをばらばらにして部分的に使ったり組み合わせたりしている。
便利さや、メリット、おいしさがあるように、一時的に感じさせてくれたとしても、倫理的に許されるのか、疑問に思うことがあります

「森に入って、東西南北が分からなくなったとき、どうするか。
最初にやってきたところ、オリジンに戻る」

「原発といっしょ」。
あまりにリアリティのある比喩だった。
栃木県那須塩原市は福島第一原発から約100キロの場所にある。
風向きも手伝って、ここにはかなりの量の放射能が降り注いだ。
彼はガイガーカウンターで放射線量を計ったのち、業者に頼んで除染を行ったという。いま私たちが向かいあっているテーブルから見える外の景色は一見美しいが、実は放射能に包囲されている。夕暮れの薄暗さのせいで、ますますそのように思われた。
たしかに、人類はコンクリートの分厚い壁によって、核と平和な世界を完全に分けられると錯覚した。
だが、フクシマの壁は粉々に砕け散り、分けたはずの放射能は私たちの住むこの自然の中に混ざり込むようになった。
私たちはいま、答えの見いだせないような混迷の中にいる。

「問題があると、元を見直そうという気持ちになる。
このままではもうもたないと。
オリジン、源。
そこには全てがある。
もしかして答えがあるのではないか?」

「旅に出かけたとする。
森に入って、東西南北が分からなくなったとき、どうするか。
最初にやってきたところに戻ろうとする。
ここからきたんだ、元はこれなんだ。
甘くて、軽くて、柔らかいパンが豊富にあるけど、大元、原型、パンの源はこれなんだ。
元を知ったほうが、不安がないんじゃないのかな。
原発もそうだけど、どこにいっちゃうのか、困ったときは、元を見直す。
原点に戻って学習して、またちがうところに行ってもいいし。
すべては元なんですね。
日本に伝わってきたもの、菓子パン、デニッシュペストリー、食パン、ドイツパン。
日本にすべては来たんだけど、それらの元はなんだったんですか。
私が日本に来たとき、それがなかったんだけど、元はカンパーニュだよ。
国によっていろいろな種類のパンに分かれたけど、オリジンはこれだから。
元を感じてもらいたかった。日本でのカンパーニュを食べたかった。
自分だけが大事な情報を持ってちゃいけない。
日本のパンの歴史というパズルの中に、最初にあるべきピースがないじゃないか。
入れてはじめて完成する。
そういう思いでパン屋になりました」

ルヴァンの甲田幹夫は、ピエール・ブッシュの元でパンを焼きはじめた。
ルヴァンから、NOVAベーカリーから、たくさんの弟子が巣立って、自家製酵母のパンは全国どこでも食べられるものになった。
最後のピースはやっと収まって、パズルは完成し、パンの全体像は1枚の絵となった。

たったひとつかみのパン種が生地全体を発酵させ、パンがふくらむように、ピエール・ブッシュの伝えたメッセージ、「自家製酵母のカンパーニュ」は、ますます多くの職人たちに共有され、もっとたくさんの人びとに口にされるようになるだろう。

「僕は種蒔きする人なんだよ。
あとはそれをみんなで育てていく。
すべてが種。
種がなければパンはないからね」





註1
複数の酵母研究者に取材したところ、以下のような回答を得た。

「酵母菌を自然界から分離するとき、雑菌が混じらないような純粋状態で取り出すために、カビなどの雑菌が繁殖しないよう、状況によっては抗生物質を使うこともあります。
このとき使われる抗生物質はカナマイシン、クロラムフェニコールなど」

カナマイシンは人に対する毒性がわずかだが、クロラムフェニコールは骨髄に損傷を与えるなど重大な副作用があり、過去に薬害訴訟も起こっている。

「抗生物質を使うのは最初に自然界から分離するときだけ。
そのあとはクリーンベンチという無菌状態を作る機械の中に入れて、植え継いでいく。
クリーンベンチ内は無菌状態なので抗生物質を使う必要がありません。
何度も何度もそこで植え継いでいくので、希釈されます。
酵母が殖えると肉眼でも見えるようなコロニーを形成する。
そこから少しつまんで、植え替えてまた殖やし…というようにして、単一菌にしていきます。
抗生物質というのは、酵母菌にとって不必要なものなので体外に排出されます。
残っていることはまずありません」

つまり、イーストの製造に使われるのは、抗生物質を使ったときの酵母菌から幾世代も経たあとの菌である。
だが、酵母内に残っていないとしても、抗生物質の影響でDNAが損傷を受けるということはないのだろうか。
たとえば、結核の治療にも使われるストレプトマイシンは、バクテリアのみに作用し、酵母菌や人体には作用しないので安全だとされるが、細胞内のミトコンドリアにだけは影響を与えて、RNAの形成を阻害する可能性がある。

「たしかに、DNAに影響を与える可能性が完全にないとは言い切れません。
しかし、自然界から抗生物質を使って酵母を分離する作業は日常的に行われています。
それは、パンだけではなく、アルコール、味噌、しょうゆ、あらゆる食品分野で利用されている。
それで問題が出ていないことが、逆に安全の例証だといえるのではないでしょうか」

註2
イースト会社に取材したところ、以下のようなコメントだった。
「イーストは、生イーストと、ドライイーストに分けられるということを、まずご理解ください。
現在、日本で作られているのは1社を除いてすべて生イーストで、ドライイーストはフランス製が主です。
弊社の生イーストは窒素・リンを栄養源(培養基質)として製造しております。
イースト=酵母であり、生き物である酵母に『天然』や『人工』『合成』という区別はありません。またドライイーストは乾燥工程を有するため『生鮮食品』と『加工食品』の区別で言いますと『加工食品』に該当いたします」
イーストは砂糖きびから採れる糖蜜(モラセス)を栄養分として培養される。培地に補われる窒素やリンは酵母に吸収され、細胞を形成する有機質となる(化学肥料で育った農作物と同じ)。吸収されなかった窒素やリンは何度も洗浄除去されるので、イーストに付着することはない。商品として販売されるイーストは純粋なパン酵母であり、不純物は混在していない。







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006. Zopfの伊原靖友さん・伊原りえさん
いはらやすとも
1965年生まれ。高校卒業後、平塚のパン屋で修行。
1986年から父のパン店で働き、2000年、Zopf(ツオップ)としてリニューアル、店長となる。
常に250種類以上のパンを置き、1日6000個以上を売る。
行列の絶えない大人気店。

いはらりえ
1965年生まれ。伊原靖友夫人。二人三脚でZopfを切り盛りする。


Zopfのパンを食べると、誰もが強烈なイメージにつかまれてしまう。
たとえば、あのカレーパンの、がりがりとして実に香ばしい衣、フィリングのがつんとくるコク、複雑で爽快なスパイシーさ。
噛みしめてわかる、とか、なんとなくそんな味がする、というパンではない。
作り手の抱く、燃え立つようなイメージを舌にインストールされ、繰り返し繰り返し食べたくなる。
驚くべきは、小さな店にあふれ返る250ものパンひとつひとつに、店長伊原靖友のイメージがくっきりと刻印されていることだ。
インタビューでは、期せずして、終始一貫そのことが語られていたと思う。
イメージする力が、どれほどのことを成し遂げるかについてである。


「お好み焼きを食べにいったら、エビとか肉のところをみんなくれて、『食べな、食べな』っていう人だったから結婚したの」

Zopfを開店するはるか前、伊原靖友が発するイメージを共有し、最初の、そして最良の理解者になったのは、りえ夫人だった。
伊原靖友(=伊原)「僕ら高校の同級生なんですけど、それからずっといっしょにいる」
伊原りえ(=りえ)「もう30年」
伊原「高校卒業してすぐパン屋になったんですけど、そのときからすでに、旅行いくとき必ず種(パン種)を持ち歩いてたからね。
今度旅行いく長野の水で作ったらどういう味になるんだろうね、とかさ。
そんなことやってたもの。
やっぱりそういうことを経験して、あとから考えて、『あ、そっか、長野の水って硬度低いからこんな感じになったんだろうね』みたいなのを、イコールで結びつけて吸収していくことを経験していかないと、(一人前になるのは)なかなかむずかしいよね」
りえ「旅行先まで種もってくんだよ。
それを父親に話したら、『そんな人とは別れなさい』といわれた(笑)。
いまさ、女の子とかきて、『りえさん、店長が当たりそうな男だったから結婚したんじゃない?』って聞くわけさ。
『すごく優秀なパン職人だから結婚したんですか? どのへんで見極めたんですか?』とか、本当そういうこと聞くんだけどさ(笑)。
その頃そんなこと考えてないよね。
私が唯一その子たちにいうのは、『いっしょにお好み焼きを食べにいったら、エビとか肉とかのいいのがのっているところをみんな私にくれて、「食べな、食べな」っていってくれる人だったから結婚したの』っていうのね。
いろんな人とお好み焼き食べにいったけどさ(笑)、きっちり半分こする男の人とか、自分のエリアにきたらくれない人とかいるわけよ。
そういうね、なんていうんだろう、豊かさっていうのかな。
見たのはそういうところだけかな。
(女の子は)『えーっ、それで将来性わかりますー?』って(笑)」
伊原「そんなのわかんないよね。
いっしょにやるっていうのはさ、自分だけの力ではないからね、
相手が優秀だから自分はそれにのっかるとかってことではなくて、いっしょにやってくっていうのはぜんぜんちがうもんね。
やっぱりたいへんなことだもんね、いっしょにやるっていうのはね」
りえ「私、看護婦だったんですけど、看護職は天職じゃないかっていうぐらい、のりのりにのれたんですけど。
『やめることになんの悔いもなかったんですか』って訊かれるんだけど、彼、パン屋だったんだし、彼がお店やりたいから、いっしょにやろうっていうなら、それ普通かなって。
夫婦だし」


「外から見えないけども、
開けたらパンが崩れてくるような店にしたかった」

豊かさはZopfを理解するためのキーワードである。
あふれるほど豊かなパンの味わい、あふれるほど積まれたパンの山。
Zopfを開店した当初、伊原靖友の焼きだした大量のパンは、売れずにそのまま残った。
りえ夫人はその場面が夫の目に触れないよう、隠して処分した。

りえ「この人に、気持ちよく商売させてあげたほうがいいと思ったのね」
伊原「パンがたくさんあるパン屋を、ちゃんとやりたいという思いがあった。
そういう思いというのは、従業員の子たちより、やっぱり彼女のほうが、意志を共有する、思いを共有するというのは強い。
だから、そんなふうになったんじゃないかね。
たくさん作るには、たくさん売らないといけないんだけどね。
でも、たくさん作れるけど、たくさん売れない時代ってある。
そういうときには、やっぱり売れ残るんで、じゃもう少し減らすとなったら、そういう思い(パンがたくさんあるパン屋)とは逆行するようなことになってしまうからね。
エコの観点からいうとあんまりいいことじゃないのかもしれないけど。
いちばんはじめにこのお店作ったときのイメージは、『外から見えないけども、開けたらパンが崩れてくるような』。
それが、コンセプトとしてあった。
(パン1個にもあふれるほど味が盛ってあるというのは)ちょっと必要以上というところがあるかもしれないね。
(客が)お金をだすというのは…」
りえ「そこそこじゃね」
伊原「そこそこじゃいけないと思うし」
りえ「豊かな感じでね」
伊原「豊かな感じのところに人が集まるのは、本能だよね」


「彼女がぜんぶ選択肢を用意する。
僕たち、実は力が0.5ずつなんですよ」

伊原夫妻と接していて驚くのは、2人がイメージを完全に共有していることだ。
インタビューにおいても、2人で同時に同じ言葉を語りだす瞬間が何度もあった。
独立した個人が同じイメージを共有し、それぞれ得意な仕事をする。
そのとき1+1=は2以上の力を獲得する。

伊原「感覚、意識がいっしょだっていうのはさ、僕はすごく楽なんですよ。
彼女がぜんぶ選択肢を用意するのよ。
つまり、方向性はいっしょだとしても。その中でもこれとこれとこれってあるじゃない?
ぜんぶはできないからどれか選ばないといけない。
そういうパターンを彼女が用意してくれるんで、じゃ俺はこれをやろうかとか、選ぶだけでいい。
用意するものがトンチンカンだったら選びようがないけど、そんなことにならないしね。
たとえば、僕に、食べたい卵サンドがあります、と。
卵サンドっていっても、卵の大きさがどれだけのものか、どれだけゆでるのか、中になに混ぜるのか、塩の量どれぐらいか、いろいろある。
でも普段いっしょにいてさ、『そういえば、俺の好きなサンドイッチって知ってるでしょ?』っていうだけで、彼女はそれがわかる。
イメージが共有できてればさ、『あ、そっか、わかるよ。あなた好きなのこんなサンドイッチでしょ』って、彼女はA・B・Cみたいなパターンを、同じ方向の中で微妙な変化をさせたものを用意してくれる。
『じゃ、Bでいこうよ。俺、なんにもいってないよね』ってなっちゃうんだけどさ」
りえ「お店で作りやすいサンドにしてみました、これはいまあるものでできるんです、でもこれは特別手を加えないとできないパターンですよ、みたいな3種類とかをそろえて」
伊原「僕の嗜好からは外れないってのが大事なのよ。
そういう選択肢を用意されたときに、180度ちがうものを用意するというのは簡単なんだよね。
でも、狭い幅の中で用意しなかったら、お店としての方向性って失われるでしょ。
だけど、それを伝えるのってむずかしいじゃない。
食べ物のイメージを言葉で表してくださいってなかなかできないんだけど、『俺の好きなこれ』みたいな言い方だけで、彼女用意するから。
シェフがひとりで考えたりなんたりするというお店すごく多いでしょ。
僕たち、実は力が0.5ずつなんですよ。
他のお店が1でやってるところを2人でやってる」


「自分がうまいと思うものしか作れないのよ。人にいわれても、
それが好きでなければ、どうやったら作れるのか想像できない」

なぜ伊原靖友の作るパンは売れるのか。
人は、伊原が世間の動向をいつもキャッチしようとしているからだと想像する。

伊原「それはね、ぜんぜんちがうんだな。
狙ってないんですよ。
狙って作れれる人はいいんだけど、僕は作れないので、これは運。
食で、売れる、売れないというのは、自分が好きと思うものを多くの人が共感してくれるかどうか、そこだけなのね。
共感してくれるものを作りたいと思ってるわけではぜんぜんない。
それはたまたまなのよ。
たまたまこういうパンを作りました、っていったときに、これを同じように僕も好きだよ、私もすきだよっていってくれる人が、多かったっていうだけのことなんだよね。
だから、コンサルタントには絶対なれないね。
どうやったら売れるのがわからないから。
(狙ったら成功していなかったか?)狙えないんですよ。
なぜかっていうと、自分がおいしいとか、うまいって思うものしか作れないのよ。
つまり、(ほかのものには)興味がないからね。
興味がないし、わからないのよ。
例えば、10くらい苦いものを作りたいってなったときにね、それが好きでなければ、どうやったら10苦い味が作れるのかまったく想像できないの。
むしろ、自分の好きなものだったら、すごく複雑なものでもなんとなく想像できるような気がするんだよね。
甘さ1・苦さ10・渋み3とかね。
数字でたとえるなら、そんなふうに複雑に構成されているなにかを、僕が好きだって思っているとしたら、イメージ通りに作るにはどうしたらいいかっていうのがなんとなく想像がつくわけ。
だけどもそうでない、興味の対象外っていうかさ、自分の欲してないものを作ろうとしても、それが仮にね、誰かに『これはむちゃくちゃヒットするんだよ』っていわれても、作れないんだよね。
想像がいかないっていうのかな。
興味がないというのとちょっとちがうのかもしれないけど。
わかりづらいよね。だって、自分でもよくわからないんだもの。
そういう感じ。
伝わりにくいな。
自分が好きだと思うものは考えられる、想像がつく。
だから、それをものにすることができるっていうのかな。
(自分が好きじゃないものは)イメージできない。
イメージできないってのが正しいと思う。
誰かに『こういうもの』って教えられても。
(イメージできたものだったらなんでもできるか?)できてるのかどうかわからないけど、イメージできれば作れるはずだ、と思う」


「レシピは机の上で考える。あんまり試作ってしないんだよね」

りえ「彼はレシピを机の上で考えるんです」
伊原「あんまり試作ってしないんだよね」
りえ「机に座って考えてて、スタッフにぴろっと紙を見せて『これ作ってみて』。
できてきたら自分でぱっと食べて、「あっ」っていって、で、自分で作りにいって完成させちゃう。
そういうパターン」
伊原「味の想像ってさ、自分の好きなもの、持っている(手のうちにいれている)ものだったら、組み立てて、すごく簡単にできる」

伊原は長年の修練の結果、頭の中でパンを焼く能力を獲得した。
伊原の頭の中に、粉はこういう味、酵母はこういう味、この製法はこういう効果があると寸分たがわずインプットされていて、イメージの中で自由自在に組み合わせて、試作することができる、ということなのだろうか。

伊原「自分でもよくわかんないけど。そういうことなのかもしれない。
りえ「発酵10分で、こっちは20分で、何回たたいて、で作って、って(頭の中でやっている)」
伊原「引き出しがむちゃくちゃ多いのかっていわれたら、そうじゃないのかもしれないけど、組み合わせるとどうなるか、って想像するのは好きだし、けっこうはまることが多いね。
(なぜ机上で作ったあと、実際に自分でも作ってみるのか?)あとはさ、感覚ってのがあるじゃない。
たとえば、同じ材料で、同じ工程で作っても、これとこれがちがうって。
見た目じゃわかんないかもしれないけど、自分の中ですごくちがうことってあるのね」


「生地を触っただけで、甘いとかすっぱいとかわかる」

伊原は語りながら目の前のテーブルの上で両手を動かしていた。
目に見えない透明な生地をこねるように。
伊原が自分の手でどうしても確認したいものとは、生地を触ったときの感触である。

伊原「触った感触。
必ず感じながら触るということ。
実際触んないとわかんないからさ。
僕だけじゃないと思うけど、パン職人は、触ったら、すっぱいとかわかる。
いつも作っている生地なら、たとえば今日は甘いとかすっぱいとか、感覚で、触ってわかることってあるんだよね。
それっていまがすっぱいってことじゃなくて、できあがったものが、って話なのね。
(焼き上がったあとの)たとえば4時間後ぐらいのパンを想像しながらみんな作るからさ。
そういうこと感じながら触るってことがすごく大事なのよ。
(いままでの経験がデータとして頭に入ってるからか?)うん。
とっても簡単なことなんだけど、それがないとパン屋ってできないのね。
なぜかっていうと、きのうはこういう感じでこのパンができましたっていうのが、イコールで結ばれてなかったら、次の日、もうちょっとこうしたい、ってときになにもできない。
『こういう感じだったらこのパンができました』の『この感じ』をしっかり覚えてなかったら、そっから変化させることもできないし、維持もできないのね。
触った感じで味がわかって、こういうパンができましたっていうのは、イコールで結ばれてるのよ。
イコールがなかったらどうにもならない。
それはみんな、他の職人さんが、もしかしたらそう思ってないかもしれないけど、体ではやってるはずだよね、絶対に。
感覚を覚えて答えと一致させるっていうのは、むずかしいでしょ。
でもね、それがちゃんとできないと、やっぱりお客さんにお金を払って買ってもらう商品っていうのはなかなかできないと思うね。
想像がつくようになるっていうのは経験だと思うよね。
人よりもたくさん触るとかね。
だってさ、やってみなきゃわかんないなんていったらプロじゃないでしょ。
そういうところは経験が支えてくれるはずだからね。
でも、ただ時間経過で経験が積まれるかっていうとそうではないんだよね。
やっぱり覚える気がなければさ。
これはこれだ。こうするとこうなる、っていうの、覚える気がないと覚えらんないじゃない。
意識しながら経験して、蓄積するっていうの大事だと思うんだよね。
意外と意識しないからさ、みんな。
毎日の仕事に追われるとか、おいしいのができたからいいじゃん、とかさ。
なんでおいしいのができたのかっていうのをちゃんと考えながら作らないと、次の日それができる保証ってひとつもないわけじゃない。
だから、感じながら触るっていうの大事なんだよ」


「誰がまずいっていおうが、『でも、これは自分の思ったものなんです』っていえる自信がすごく大事なことなんだよ」

伊原が抱く「豊かさ」のイメージと、自分が好きなパンを強くイメージし、それを寸分違わず実現する技術。
2つは表裏一体となり、Zopfの魅力を形作っている。

伊原「人って、豊かなというか、気持ち的に、あるいは態度として、おおらかなところに集まるじゃない。
別にバブリーな感じじゃないのよ。
自分もそうだけどさ、なんかぎすぎすしてるところに買いにいきたくない。
なんかサービスしてくれるとか、そんなことでもないんだよね。
余裕があるっていうと、また言い方がむずかしいけども、なんか豊かな感じの、場所であったり、人物であったりとか、そういうところに人が集まるっていうのは、すごくわかる。
だからこそ、自分たちもそうしたいと思うんだよね。
店の子たちも、こんなにいればさ、それぞれいろんな性格もってて、ちょっとあいつはせせこましくていやだなって思うやつもいる。
そういう子には、『自分がどこかお店いこうと思ったとき、そんなんだったら(せせこましかったら)やっぱりやだよね。豊かにおおらかに接してくれるところに、自分だったらいきたいと思うでしょ』って話をする。
みんな(従業員)もそういうふうになってくれればいいなって思うけど」
りえ「人として、魅力のある人じゃないと、将来パン屋さんになっても、商売がうまくいかないからさ」
伊原「だからね、もしかしたらパン屋なんてさ、パンまずくても売れるのかなって思うもんね(笑)」
りえ「究極をいえば」
伊原「さすがにまずかったらむずかしいけど、とびきりおいしくなくてもね。
おいしさって、食べたってその現象だけでおいしいと感じるわけではないからさ。
味そのものの占めるウェイトってもちろん低くはないけども、だけどそれがすべてかといったらそうではないものね。
レストランだって接客はすごく大事だから、そういうことは重視されるけど、こういうテイクアウトのパン屋さんでもそういうことってあるよね。
でも、それを裏付けるにはさ、おいしいってのが裏側にないと、なかなかそういう余裕ってでてこないんだけどね。
いや、おいしいおいしくないってことより、自分の思ったものが作れてるかどうかってことなのね。
だから、そういう自信があれば、それを店の子たちも共有してね、うちのシェフは自分の思った通りのものをこの店に並べてるんだっていうさ、そういう自信を持てるからこそ、豊かさってでてくるわけじゃない。
納得しないものを店にだしてる、いやだなって思いながら売るっていうの、すごく悲しいことでしょ。
悲しいことだし、自分たちだってそういうの売るなんて苦痛なことだと思うから。
そういう自信を持てるような品質を確保する。
そうなると、おいしいまずいっていう判断じゃなくて、自分の思ったものがちゃんと作れてるかどうかっていうのが大事だと思うんだよね。
誰がまずいっていおうが、『だって俺がおいしいと思ってるんだからしょうがないじゃん』ってなるでしょ。
『でも、自分の思ったものなんです、これは』ってものがすごく大事なことなんだよ。
りえ「傲慢な感じに聞こえるんじゃない? 俺の作ったものはうまいから食え!(笑)」
伊原「でも、俺は、自分の作ったものはぜんぶうまいだなんて絶対いわないからさ。
自分と同じように、『俺も好きだよ』『私も好きだよ』っていってくれる人が多ければいいなとは思うけどね」

誰もが好きな最大公約数的なものを作るとき、イメージは薄くなり、結果として誰にとってもそこそこなものができあがりはしないだろうか。
あるいは、自分の好きなものではなくても売るために作る、という姿勢には、ある種の無責任が生じていないだろうか。
他人の好みはわからないが、少なくとも自分の頭の中で起きていることだけは確実である。
絶対に自分のおいしいものを作ろうと強くイメージし、それを実現するまで一歩もひかないことは、傲慢というより、むしろ正直で、まっとうである。


「好きでもないことを仕事にするのはすごくたいへんだし、
やっぱりうまくいかないんじゃない?」

伊原は「楽しい」という言葉を何度も繰り返した。
イメージするのは楽しいからであって、楽しいイメージだから周囲も巻き込まれていく。

伊原「自分の好きだと思うものを作ってると楽しいじゃん。
明らかに苦痛ではないし、やっぱりそういうほうが楽だしね。
いろんなこと我慢しながらやるんじゃなくて。
りえ「いいねー、好きなことが仕事で(笑)」
伊原「急にさ、なんかこんなパン食いてーとか思いはじめてさ、『やろう!』とか火がついちゃうと、(やめられなくて)ぜんぜんダメなんだよね。
アイテムが、がんがん増えちゃうからさ。
お客さんが『おいしい』っていってくれなくても、それはそれでおもしろいわけよ。
自分はすごく好きなのよ。
おいしいっていうか、好きでだしてるんだけど、それを食べたお客さんがまずいっていうのも、それはそれでおもしろいんだよね。
『なんでまずいんだろう?(笑)』って、そういうの考えたりするのもおもしろいのよ。
(自分の好きなものだけ作るというやり方を、凡人がまねしていいのか?)それで生活が成り立つならね。
僕の場合はたまたまなんだよね。
お客さんにたくさんきていただけるというのは。
たまたま、僕の感覚が受け入れられる分母が多かったということであるわけでしょ。
これが少なかったらさ、自分の好きなことやってるけど、生活として苦しいってこともありえたわけだよね。
ただ、自分でそれがいいっていうんであればいいと思うよ。
それで共感してくれる人がたくさんいることができてるんであれば、それは儲かるんだから、もっといいと思うけど。
好きでもないことをやるのはさ、何十年も、まして仕事にするというのは、すごくたいへんだよね。
だし、やっぱりうまくいかないんじゃない?
人が楽しそうになにかやってることを見るっていうのはすごく楽しいじゃない。
だから、やったらいいと思うけど。
どうやったら売れるかってことを先に考えてしまうと、むしろパン屋じゃなくてもいいんじゃないかと思うんだよね。
この間も、うちの若い子が、コンテストに出すっていって、何人も(試作を)やってたんだけどさ、『コンテストでウケるのはどんな形でしょうか』とか、そんなことばっかり考えだしちゃうとさ、コンテストにだすってこと自体がひとつもおもしろいことじゃなくなっちゃうじゃない。
『たしかにね、これ、審査員ウケはいいのかもしれないけど、おまえがなにを作りたいかって意図は、俺にはまったく見えないよ』っていったの。
食べたらまずいわけじゃなくおいしいのよ。
そこそこおいしいんだけど。
でも、このおいしさの中に、自分の意志がどのくらい入ってるのかっていうのはさ、やっぱり楽しさと別のことになっちゃうじゃない。
だから、『もうちょっと自分がどういうの作りたいのか、自分がどういうことしたいのか、それが「楽しい」ってところと一致してくるようになったら、楽しいことはずっと続けていけるんだけどね』って話をするんだよね」


「仕事が苦しいというのは一度もないと思う。
夏休みで3日とか休むと、生地を触りたくてしょうがない」

伊原が「楽しい」というとき、もの作りやクリエーションの、もっとも純粋な楽しさのことをいっている。
儲かることが楽しいというのとは少し異なっている。
「こういうパンがあったらすごくおいしいだろうな」というイメージを、自分の手を使って現実化することの楽しさ。
夢中になるあまり、それができあがるまでやめることもできないほど、イメージに突き動かされる。
行く手を阻む困難すら、おもしろさとして感じられる。

伊原「(プロセスの中には苦しいこともあるか?)あんまりないね。
産みの苦しみとかっていうけど、あんまり苦しんだことないかもね。
仕事が忙しくてたいへんだっていうのあるけど、仕事をすること自体が苦しいというのは一度もないと思う。
りえ「本当に幸せだよねー(笑)」
伊原「最近は年取っちゃったからそうでもなくなったけどさ、夏休みで3日とか休むと生地を触りたくてしょうがないっていうのあったもんね。
触るのが楽しいからね。
『あー、生地触りたい』っていうのは、職人ならみんな持ってると思うけどね。
そういうことが仕事になる、触ると味が想像できるっていうのはすごくおもしろいんだよね。
(パンが)生き物だからとか、そういうのも確かにあるんだけどね。
それはそれであるんだけど、やっぱり触るっていうのはすごく大事なんだよね」
りえ「この人はいい加減に感覚で生きてるから、(一般の人には)わからないかも(笑)」
伊原「達成感はあるんだよ、すごく。
触るだけじゃない、感じるだけじゃない、感じながら触って、それがこういうものになった、こういうものができた、という達成感はすごくあるからね。
『やっぱりそうじゃん、思った通りじゃん』みたいなさ」


「(僕は)運命に沿って生きている人なんだよね。
でも、運に賭けてるとかじゃないの。
だって、好きなことしかやってないから」

りえ「みんな、努力の人だと思ってるんだなー」
伊原「ぜんぜんそうじゃないんだよね。
運命に沿って生きている人なんだよね。
いや、運命じゃないんだよね、運なんだよね。
でも、僕は運だとは思ってない。
運に賭けてるとかじゃないの。
だって、好きなことしかやってないの。
お客さんたまたまたくさんきてくれるし、たくさん買ってってくれるし、店の子たちも楽しく働いてくれるし、っていうことでうまくいってるんだけどね。
イメージできるっていうのは幸せなことだと思うね。
こういうことが楽しいんだって自分でわかんなきゃ、そういうのってイメージできない。
『おまえの楽しいことってなに』っていったときに、そういうことがイメージできない子たちってたくさんいるわけじゃない?
お金がたくさんあってとか、そういうことじゃなくてさ、どういうことが自分にとって楽しいことなのってことが、パンを作るって中に持てるかどうかというのは、すごくむずかしいんだよね。
むずかしいというか、確率の問題なのかな、どうなんだろう。
みんながみんなそう思って仕事してるわけではないし、仕事していけるわけではないのかも。
これを作りたいという、目標ははっきりしてるの。
そこのプロセスは自分の持ってるものすべて使って、なにかに縛られることはまったくないし、こだわりも別に持たずに、最終目標に到達できればいいというだけだからね。
それを考えるのもまた楽しいんですよ。
そんなに複雑なことではないからね。
自分が好きなもの作って、思ったものを作って、それをお客さんが買ってくれるという。
ただそれだけ。
とても楽なんだよ」


「生地の感触を感じろということ、イメージをちゃんと作れるようになれということ。この2つだけあればいいと思う」

伊原のいう「楽しさ」や「イメージ」は学ぶのがむずかしいことのように思える。
Zopfの若い職人たちに、伊原が指導することとはなにか。

伊原「(生地の感触を)感じろ、ということ。
もうひとつは、自分の作りたいものをしっかりイメージしろということ、イメージをちゃんと作れるようになれってこと。
この2つだけあればいいと思う。
商売うまくいかなくても、仕事は楽しい(笑)。
うまくいったほうがいいんだけど、でもそこまで保証できないんだよね。
その人の感覚がむちゃくちゃずれてたらさ、自分の嗜好っていうのがすごく変なところにしか反応できないような嗜好であればさ、商売としてうまくいくわけないんだからさ。
少しの人にしか受け入れられないってわけでしょ。
でも、それはそれでありなんだよね。
そういう人たちは絶対きてくれるから。
量はちょっとでも自分の好きなものを好きですといってくれる人がちゃんといてくれるっていうことでOKとするならば、それはそれで成功なわけじゃない。
それはそれで人それぞれの見方だからね。
でも、少なくとも働いてるってことが楽しいって思えなければさ、つづけていたって意味がないというかさ」


「あの狭い店にね、山のようにパンを焼きだしてくるわけよ。
『いいんだよ、だすんだよ。
きっとお客さんがくるから。だせ!』」

「指標を示してくれて、彼が右だ左だこうするっていって、それに従うっていうんじゃないけど…」
とりえ夫人はいう。
それは、伊原が全身で醸しだす楽しいイメージ、豊かさのイメージに、店の全員が引っ張られ、ひいては客にそれが伝染していくことを、いおうとしていたのではないか。

りえ「あの狭い店にね、山のようにパンを焼きだしてくるわけよ。
『どこにのるのよ、あんた、この狭い店に!』
『いいんだよ、だすんだよ。きっとお客さんがくるから。だせ!』
『うっそー』みたいに思うんだけど、だすとお客さんがきて買っていくみたいなのあって。
だから、無理でも彼がだせっていったものはだす」
伊原「それは、職人がパンを作るってこととちょっとちがってて、完全に商売のほうだけどさ。
お客さんの感じをつかむ感覚っていうのは、もってる人ともってない人がいるよね。『いま、いま!』(波がきている)っていう。
りえ「それに強気だしねー」
伊原「店の子たちも感覚的にすぐれてくるというか、感覚をもってくるとさ、たとえば店開けるときに、今日は(客がたくさん)きそうだみたいな第六感が、的中率が上がってくるとか、やっぱりあるんじゃない?
僕はそれがおもしろいんだよね。
博打かもしらんね、もしかしたらね」
りえ「うちの子たちに商売勘を教えても、たとえばサンドイッチ作る子に『あなたの作るサンドイッチのペースがお客さんの波に合ったらすごく楽しくなってくるから』っていっても、はじめのうちはいってることがわかんない。
『2個ずつ同じ種類だしてったらお客さんの食いつきがよかった日と、10個ずつだしたほうが食いつきがよくってうまくいった日とかあったでしょ、ほら今日なんか』とかっていったら、『わかりました、うまくいきました』。
それが快感になってやってくと、波がつかめて、先に読めてくると楽しくなってくる。
それが商売のおもしろさなんだよね」
伊原「パン職人の楽しさと、商売の楽しさっていうのは、真ん中に一致するところあるけど、両端ちょっとずれてるところがあるんだよね。
たとえばパン職人というのは、おいしいパンを作れればいい、っていうところもちろんあるじゃない。
パン屋の楽しさって買ってもらうところにあるでしょ。
買ってもらうとなると、『今日売り切れました』っていうのは、いいことでもあるし、いいことだけじゃないこともある。
もちろん、最後までちゃんとパンがあるっていうの大事なんだけど、その売れ方っていうの大事でさ。
お客さんの欲してるときにそのパンがあったかどうかって大事なのね。
最後になくなればいいという考え方じゃなくて、それを提供するタイミングであったり、お客さんが今日暑いからちょっとさっぱりしたもん食べたいってときにちょうどうちからだしてるもんが当たったとか、そういうことも考えながら作ってくってことも、パン屋としてはすごく大事。
本当は10ぐらいおいしいのが12ぐらいおいしいと感じさせられるかどうかっていうのはパン屋としての仕事。
そういうこともおもしろさの秘訣だからね。
そう考えると、パン屋っていうのは、おもしろことがありすぎて、困る。


「活気があるってすごく大事。でも、作ろうって意識がないとダメなんだよね。盛り上げようとか、楽しく買ってもらおうとか」

Zopfにくると、大きな紙袋を両手に提げ、自分や家族だけでは食べきれないほどのパンを買って帰る人がいるが、他のパン屋ではめったに見かけない現象である。
店内に入るやいなやアドレナリンがでる。
「買うとお金を使って損する」と考えるのではなく、「せっかくきたのに買わないのは損だ」と考えてしまうような、特別な空間である。
インタビューの前、こんなことがあった。
私が自分のほしいパンを買って、レジでお金を支払ったちょうどそのとき、揚げたてのカレーパンがトレイにたくさんのってでてきて、それを見てもう1個買ってしまった。
その話を披露すると、2人はとてもよろこんだ。

りえ「はまったわ(笑)」
伊原「毎度ありがとうございます(笑)。
おもしろいでしょ。
(作っている)自分も盛り上がる。
買う側もやっぱり盛り上がるんだよね。
盛り上げるんだからさ。
勢いというのすごく大事だよね。
活気があるお店ってすごく大事じゃない。
活気って自然とでないからね。
作ろうって意識がないとダメなんだよね。
盛り上げようとか、楽しく買ってもらおうとかさ。
でも、それをするためには、さっきの話に戻るけど、僕が作りたいものがちゃんとそこにでてることを(店の)みんながちゃんと知ってるかがすごく大事なこと。
自信をもたないと、そういうバックボーンがないと、そういうふうにお店がなっていかない。
(客に)まずいっていわれようと、そんなこと関係ないんだよね。
それよりも、そこのシェフの作りたいものがちゃんと店に並んでるかどうか。
じゃ、このパンはあなたが本当に作りたいものだったんですかっていわれたときに、そうですよってちゃんといえる店ってすごく大事でしょ。
それがないと困るじゃない。
そういう店でありたいと思う」

(池田浩明)


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005. ルヴァンの甲田幹夫さん
こうだみきお
1949年、長野県生まれ。
フランス人よりヨーロッパの伝統的なパン作りを学び、
1984年に、国産小麦自然発酵種パン店「ルヴァン」を開業。


約束の時間を過ぎても、ルヴァンのオーナー甲田幹夫は現れなかった。
2011年3月11日午後5時、地震から2時間余りが過ぎた頃。
ルヴァンに併設されたカフェ、ル・シァレのテーブルからは井の頭通りが見えている。
電車は運行を止め、渋滞で車は動かなかった。
都心から自宅へ徒歩で帰る人たちの列。
夕闇が降りようとする時刻、幹線道路を、こんなにも多くの歩行者がやむことなくつづいているのは奇妙な光景だった。
沈黙と無表情。
疲労のせいなのか、いやそれ以上に、突然降りかかった、誰にも見通せない運命の行き先への不安が、人びとの足取りを重いものにしているように見えた。


甲田はちがっていた。
まだ10代に見える女の子といっしょに、笑いながら現れたのだった。
「さっきそこで友だちになってね」
通りすがりの人と瞬時に仲よくなれる人柄。
「地震たいへんだね」
ル・シァレのテーブルに座っている人たちに話かけては笑顔を誘う。
甲田のいくところ、人と人の垣根が取り払われ、会話がはじまり、共感が通いあう。

私が甲田にはじめて会ったのは、信州上田店を取材で訪れたときだ。
ちょうど従業員全員で食べる遅めの朝食の時間で、甲田は私を同じテーブルに招き入れ、パンをごちそうしてくれたのだった。
印象深い食事だった。
若いスタッフたちの作りだす楽しい空気にやがて巻き込まれていき、パン屋と客という立場を超え、仲間になれたような気がした。


まかないをみんなで食べるのが
お客さんとしてはいちばんうれしい


「まかないをみんなでいっしょに食べるというのが、お客さんとしてはいちばんうれしいんじゃないかと思う。
同じ釜の飯というかな、共同体験というか、みんなのよろこびも増すしね。
常日頃の顔ももちろんいいけど、よそから入ってきたちがう人と、共有できるっていうかな。
スタッフも含めて楽しいというか」

私たちは自分と他者を区別し、自分でないものに警戒心を抱く。
それは本当に必要で、合理的な行為なのか。
甲田に会うたびわからなくなってくる。
IeIe(イエイエ)を訪れたときもそうだった。
杉並区にある自宅を甲田はカフェとして開放している。
普通なら、セキュリティやプライバシーの不安から、思いとどまるだろう。
甲田にそうした考えはない。
自宅だから、部屋にはさまざまな日常のものが置かれ、甲田の気配が伝わってくる。
気詰まりなどではなく、むしろよろこび。
友人のように自分を迎え、心を開いてくれたことに、感動したのだと思う。


商売はしてるんだけど、家庭の延長。
自分たちが食べるために作っているものを、買ってもらう。


「商売はしてるんだけど、家庭の延長というかね。
自分たちが食べるために作っているものを、分けてるというか、買ってもらうというか。
このル・シァレのコンセプトは、カウンターがないということ。
普通はカウンターがあって、足下を見えなくするとか、ものを隠すとかするわけよ。
ここはまったく隠すものがなく、家に招く感覚で。
IeIeと似てるかな。
あわよくば、お客さんが向こうに入って、お皿洗ってもらってもいいかなとは思ってますけど(笑)」
__誰が店員で、誰がお客、じゃなくて。
「そうそう、そんな感覚。
もちろんお客さんとスタッフという立場はあるけど、そんな『感覚』というかね。
うれしいのは、お互いに知らない人同士が話をすること。
それをすごくしてほしいから、ひとつのテーブルにして、席をいっしょに座ってもらうというか」


自分と他者を分けないということ。
それが若い頃からポリシーとしてあり、そのために甲田はパン屋という仕事を選び取ったのではないか。
30を過ぎても定職に就かなかった甲田がルヴァンの事業に参画することになった、その経緯を聞きながら、私はそう思った。
甲田はこういう言い方をした。
パン屋とは、はじめて出会う「矛盾のない仕事」だったと。


パン屋は人によろこばれる。
多少お金も入るし、自分の体にもいいし、みんなが健康になる。
パンだったらやってけるかな、と思った。


「いろんな偶然の出会いが重なって、パン作りを手伝うようになったとき、ブッシュさんていうフランス人が、一生懸命やってたのね。
外国からわざわざ日本にきて、パンを一生懸命作ってるから、なにかがあるかなという感じでね。
直感というか。
自分も30すぎて、なんか将来やらなきゃいけないなというのがあって、そろそろ決まった仕事、決まったことをやっていきたいかなって思ったときに、このパンだったらやってけるかなと思ったのね。
それまでは清涼飲料水とか売ってたんだけど、お金にはなるんだけど、あんまり体によくなさそうだなって自分が思ってたりね。
学校の先生もやってたんだけど、『自分が先生に向いてるのか』とか、『俺みたいのが生徒に教えてもいいのか』とか、なんか考えちゃうわけよ。
『これを自分が一生やってけるんだろうか』とか、そういう矛盾をね。
ところが、このパン屋をはじめると、人によろこばれると。
多少、自分にもお金が入ってくる。
自分の体にもいいし、これをみんなが食べてもらって、みんなが健康になっていけばいいな、というかね。
そんな意味の矛盾がないという感じだったのね。
だから、飛び抜けてわーっといいというんでもなかったけど、なんかつづけてけば自分はある意味楽しくやってけるかなと。
だいたい労働というのは、時間を割って、お金と替えて生きてけってことでしょ。
それが労働だっていうのが当たり前の考えなんだけど、そういうのは自分としては嫌だな。
やってることに楽しみっていうか、そういうのがないと、つづけていけないし。
単純に時間をお金に換えるだけというのは、なんかちがうかなとは思ってたね」

甲田のいう、仕事にまつわる「矛盾」とは、自分と他者が一致しない矛盾ということではないだろうか。
お金は自分と他者を分ける。
お金によって、他者を従わせることができる。
お金が人から人へ手渡された途端に、自分の心と他者の心を一致させる努力を払わなくてもよくなる。
矛盾は矛盾のまま放置され、ひとつの矛盾がさらに大きな矛盾となって、世界中へ広がっていき、自分のところにまた矛盾が巡ってくる。
資本主義社会の仕組みに取り込まれることを忌避していた甲田に、はじめて自分と他者のあいだに矛盾のない生き方を示したのが、パン屋の仕事であった。
甲田は天然酵母のパン屋をどういう仕事だととらえているのか。


パンは売ってんだけど、人を売ってんだよ、結局。


「パンは売ってんだけど、人を売ってんだよ、結局。
それがパン屋だと思う。
パン屋として、人が如実に出るっていうか。
そこがパン屋の魅力っていうのかな。
大変なとこでもあるし。
だから、極端にいうと、人格で商売してるというか、人格を売ってるというか。
もちろん味は大切だけど、もっと大切にしてるのは、精神とか、人とのつながりとかっていうこと。
最終的にはモノではなく人なんだよね。
人とのつながりが重要だし、楽しい。
ものをいくら極めても、限界がある。
でも、人とのつながりって、無限に広がっていくというかね。
たとえば、コーヒー一杯を飲みに、あるお店にいくとするね。
コーヒーもさることながら、働いている人がおもしろいとか、その人とのつながりがあるとか、そのほうがおいしさが倍増するわけね。
究極のコーヒーを飲みにいってうわーおいしいなと思うときもあるんだけど、そこにさらに人が介在すると、よりおいしいわけね。
最終的には、多少そのコーヒーがまずくても、人がよければいいわけよ。
だから、お店にしてもなんにしても、人が大事。
ものよりも人のほうが上。
お金のやりとりはあるけれど、そうじゃないやりとりっていうの?
そこが、お客も、スタッフも楽しい」

パンとお金の交換はきっかけにすぎない。
本当に大事なのは人と人との交換、つまりコミュニケーション。
人間性を売ってくれる店で、対価として客が与えるのは、きっと自分の人間性だろうから。


味よりももっと大切にしているものがあると甲田がいうとき、おいしさをないがしろにしているのではない。
舌で感じるだけの味より、もっとおいしいものがあるといっているのではないか。
自分と他者の垣根が壊れ、客と店員との区別さえわからなくなってくるような楽しい空間を五感で味わうこと。
甲田は、著書や雑誌の連載で、山の頂きで食べるパンほどおいしいものはないとしばしば書く。
そのときのおいしさとは、グルメ本が教えてくれるおいしさではない。
「究極の」美食を食べている人が、その瞬間、実は不幸だということはありうる。
舌の上だけでなく、全身で感じるおいしさ、つまり幸福感こそが本当のおいしさだと甲田はいいたいのではないか。

おいしさは、食べるときの環境とか、人とのかかわりで増幅する。
それをぜんぶ含めておいしさだと思う。


「その場所で、こういう空を見ながらとか、こういう人と食べながらとか、シチュエーションがおいしいというかね。
食べることのおいしさが、環境だとか、人とのかかわりによって増幅するというかな。
それがおいしさというか、よろこびというか。
ぜんぶ含めておいしさだと思う。
よく個展とか、パーティに、うちのパンをだすんだけど、本当にシンプルな食べ物があって、そこにみんなが集まって。
このパーティおめでたいね、おいしいな、そういうのがおいしさだと思うんですよ。
さっきもいった『共同体験』。
共感して、みんなといっしょに食べるということがおいしいというかな。
みんなは、パーティにいろんな食べ物があることが『おいしい』って解しちゃうんだけど、そうじゃないというかな」

立食パーティの冷めた料理を食べ、おいしくないと思うのはよく体験することだ。
考えてみれば、その料理に足りなかったのは、あたたかさでも、品数でも、豪華な食材でもなく、食べている私の「共感」だったのかもしれない。
なにしろ私はしばしば、義務としてパーティに顔を出し、誰と打ち解けるでもなく、疎外感を覚えて帰宅する。
私は甲田にこう尋ねずにいられなかった。
どうしたらあなたのように一瞬にして人と友達になれるのですか、と。


プラスのイマジネーション、ハッピーなイマジネーションを
使っていかないと、苦しくなる。


「イマジネーションというのか…ちょっとどういうふうに話していいかわかんないんだけれども…。
『共同意識』みたいなのは、プラスのほうに解釈することもできるけど、パーティにいったとき孤独になっちゃうというのは、それをマイナスのほうに考えちゃってるというのかな。
たとえば、展覧会のパーティなら、飾られてる作品なんかつなげて、知らない人と話せばいいんだけど、疎外感みたいな感じを受けちゃうというのは、なんだろうな…単純にいっちゃうと、プラス思考ではない、マイナス思考というかね。
人って、離れあってると、マイナスのことを話すんだよね。
『あいつは、どうもこうだ』とか、『あいつは俺のことを悪く思ってるだろう』とか。
そういうふうに考える必要は本当はないんだよね。
そういうふうに考えてはいけないというか。
どんどんマイナス思考っていうか、自分の内側に入っていっちゃうってことに、人間はなりがちなんだよね。
店だってそうだよ。
2つの店(富ヶ谷店と信州上田店)をやってて、お互いにいい方向に考えてればいいんだけど、なんか悪い方向、悪い方向へって想像しちゃうのね。
それはイマジネーションなんだよ、やっぱり。
現実には決してそんなふうに相手のことを思ってないのに、悪いほうへ考えちゃうというか、イマジネーションを変なほうに使っちゃってるというのかな。
さっき店にきてた友だちも、ひとりでマイナスのことをいろいろ考えて、地震をとても不安がっているわけ。
やっぱりプラスのイマジネーション、いいイマジネーション、ハッピーなほうのイマジネーションを使ってかないと、苦しくなるというのかな」


自分が人と打ち解けるのが上手だとしたら、人と打ち解けるイマジネーションを頭の中に持っているという、ただそれだけのことにすぎない、と甲田は伝えたかったのかもしれない。
私たちはマイナスのイマジネーションをまるで現実のように取り違え、ひとり苦しみ、そのために、よりコミュニケーションの場から自ら遠ざかってしまう。
逆にいえば、プラスのイマジネーションは、きっと表情や仕草や雰囲気といった、はっきりと意識でとらえられないレベルで無言のうちに他者に伝わっていくはずだ。

人はしばしば孤独感に苦しむが、まわりに人がいないためにそうなるのではなく、むしろまわりにたくさんの人がいて、なのに誰とも意志を通いあわせられないときにそうなる。
私たちはパン屋でパンを買って食べる。
家族といっしょに、気のおけない友人といっしょに、あるいはひとりで。
パンを食べることはよろこびや安心感を与えてくれる。
もし、ひとりでパンを食べることを、本当は気に病んでいるとしたら。
誰かとパンを食べるのは本当はむずかしいことではないのかもしれないし、パンをいっしょに食べることが自分と他者の垣根を溶かすはずだ。
イマジネーション次第で。
甲田は、ルヴァンやル・シァレによって、パンによって人と人がつながりあう可能性、イマジネーションを人びとに与えようとしている。


甲田にインタビューをつづけながらも、ときどき襲ってくる余震は私たちのテーブルを揺らしていた。
「けっこうくるねえ」
甲田が隣りあった人に話しかけると安堵の笑いが起きる。
藍色の闇が降りてきた井の頭通りを歩く人びとの列はやまない。
その列から、ひとり、またひとりと、ルヴァンに飛びこんできてパンを買い求め、あるいはル・シァレのテーブルであたたかい食事や会話を得て、ひとごこちつくのだった。
多くの店が予定を早めて店を閉じる中、ルヴァンはパンがなくなるまでシャッターを閉じることがなかった。
ある人は、会社と自宅の中間地点にルヴァンがあって、ここでパンを食べることを目標に、自分を励まして歩いてきた、といった。


山小屋ではどんなに人数があふれかえっても、
みんなで詰めて詰めて、食べ物を貸して、暖をとる。
拒否したら死ぬということだから。


「ル・シァレって『山小屋』という意味なんだけどね。
山小屋は、泊まりたいという人を決して拒否しちゃいけないんだよね。
拒否したら死ぬということだから。
だから、どんなに人数があふれかえっても、とにかくみんなで詰めて詰めて山小屋に泊まって。
食べ物がなかったり装備がなかったら、みんなで貸してさ、暖をとって、一夜を過ごす。
そこからここは名前をつけたんだよね。
俺も山いったときにそういう経験があって。
その日、山を下りたところまでいく予定を立ててたんだよね。
でも、出発しようとしたときに、止められて。
距離が長いし、時間も夕方になりつつあるから、危ないからやめろっていわれて。
そのとき、泊まるつもりがなかったから、食料もなかったし、準備も用意もなかったが、みんなで分けてくれて、山小屋へ泊まったのね。
次の日、下っていったんだけど、ものすごく厳しい行程だったわけ。
そのとき強引にいってたら、遭難してたかもしれない。
山小屋っていうのは生死に関わることだから、みんなで助け合う、それは当たり前っていうかね。
山へ行くと、みんな「こんにちわー」とか挨拶してね、すぐ仲良くなる。
すれ違う人と挨拶するわけだから、相手はこれからどんな道だとか、ここいくにはこんな道だとか、情報を教えてくれるんだよね。
山に行くと助け合って、仲良くなって、やっぱり共同体験ということだよね」

__山小屋で食べる食事はおいしい?
「そうだね。
ものは本当にないんだけど。
荷物になるから、なるべくかさばらないように持っていくから、シンプルだし、贅沢なことはなにひとつできないんだよね。
それはやっぱり、おいしく『感じる』んだろうね。
いろんなものがね。
体を動かしてお腹も空いてるし、水一杯もおいしく感じるというかね。
そういうことだと思う」


地震の日、ル・シァレは本当に山小屋=避難所となった。
長い距離を歩いてきた人にとっては、ひとかけらのパンさえおいしく「感じられ」ただろう。
私たちはおいしいものを求めすぎて、おいしく「感じる」ことそれ自体が幸福だということを忘れていないだろうか。
それは、人と打ち解けるイマジネーションではなく、内側に閉じるイマジネーションを持ちすぎるようになった、時代が抱える孤独と表裏の関係のように思える。

地震のあと、スーパーの店頭からパンが消えた。
流通の問題もさることながら、食べ物がなくなるのではないかという「イマジネーション」が、人びとに競ってパンを買い占めさせたのだ。
食べ物が余る時代から、食べ物が足りなくなる時代への転換点。
奪いあうイマジネーションではなく、与えあうイマジネーションを持ちたいと思う。
ひとりで満腹するのではなく、誰かといっしょにパンを分けあうイマジネーションを。
ル・シァレのテーブルで甲田と過ごした、3月11日のことを思い返しながら、そう考えた。
(池田浩明)




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004. ル・プチメックの西山逸成さん

これは、オーナー西山逸成自身が語る、ル・プチメックの過去と未来である。
みなさんに知ってほしい。
この屈折、この激しさ、この偶然、この誠実、このセンスがなければ、
プチメックのパンは決してできあがらなかったということを。

プチメックを愛してやまない人たち、西山の後を追いかける若い作り手たちに
すべてを読んでほしくて、この長い長い独り語りをそのまま、関西弁も直さずにアップする。



3.jpgスーツケース引きずりながらお店に行って、
「フランス行きます」っていうたんです


料理の専門学校に1年行って、その後フランス料理を4年やったあと、
フランス行こうとしたんですよ。23の頃です。
僕らのときはワーキングホリデーがまだなかった時代なんで、
(料理人として働くために)フランスに行った人はみんな潜り。強制送還覚悟で。
僕も一応領事館とか電話したけど、門前払い。
で、ビザなしで行こうとしたら、僕の先輩に当たる人が捕まった。
いまは危ないからやめとけっていわれて、予定してたのいけなくなっちゃったんですよ。

行けるようになるまでなにか時間つぶしに、料理じゃないことをしたいなって思ったんです。
フランス料理やってたら、デザートするんで、お菓子のことはある程度知識としてつくんですよね。
でも、パンはいくら賄いで作ろうとしてもうまくできなくて。
パンだけは、どこかに潜りこまないと作れるようにならないなと思って、パン屋で働こうと思った。
で、京都でおいしいクロワッサンを探したんですよ。
それで見つけたのが、僕の師匠にあたるフリアンディーズさん。
当時そこがいちばんおいしいと思って、募集の貼り紙もなかったんですけど、
「働かしてください」いうて、無理矢理働かせてもらった。

そこで3年間やったら、またフランスに行きたいという思いがふつふつとこみあげてきて、
26のときフランスに一人で旅行いったんですよ。
師匠に、「休みつないで、フランス行かせてほしい。どうしてもいかないと気が収まらないから、
しばらく休みがなくなってもいいから1週間ください。行けば納得するから」って。
みんなに、「師匠納得させるためだったら、行きは困るけど帰りの飛行機は落ちてもいい」
ぐらいのこといってて。
1週間行ったら、フランスで働かなくちゃ気が済まなくなってて、京都に戻ってきたとき、
スーツケース引きずりながらお店に行って、「1年後にやめます」いうたんです。
「フランス行きます」って。
「僕は1年の間にフランスで働けるコネを探すから、師匠は人探してください。引き継ぐから」。


7.jpg飛行機の中で、
「あー、俺はもうパン屋はできないな」と思いながら
パリに行った。


1
年経って、フランスの受け入れ先は決まったのに、お金持ってなかったので、
どうしようと思った。
フランスでは、潜りだからお給料もらえない可能性がある。
みんながいってたのは、1年で100万ぐらい蓄え持ってかなきゃいけないって。
そのとき、ちょうど競馬のG1レースやってた。
僕、麻雀もパチンコも賭け事は一切やらないし、ルールも知らなくて。
修行してたパン屋さんが全員競馬好きな人で、いまみたいにネットで馬券買えない時代なんで、
祇園の場外馬券場に、仕事が休みのやつが買いにいかされる。
僕、やりもしないのに買いにいかされてて。
フランスに行くお金がなかったから、「俺、強運だし、ひょっとして」と思って。
1000円で5点買いしたら、10万馬券(1000倍)がきて、それが104万になって。
そのお金でみんなにごちそうして、残りのお金をフランに変えて2年間フランスに行った。
もうこれ、神様が「フランスに行け」といってることだと思った。

それで27のとき、フランスに働きにいったんです。
今度は料理をやることにして、向こうで2年料理をやった。
僕は師匠のところ(フリアンディーズ)で落ちこぼれで、最初に3年働いたのに、
バゲット成形できなかったんですよ。
ぜんぶ先輩らに横で直してもらってた。
僕は飛行機の中で、「あー、俺はもうパン屋はできないな」と思いながらパリに行ったんですよ。
「才能ないから、バゲットの成形すら俺はできなかった、認めてもらえなかった。
俺はもうパン屋できないから料理でがんばんなきゃ」と思って、フランスに行ったんです。

日本に帰ってきたとき29やったんですね。
30でお店をしようと思ってて、残り1年あるんでなにしようかなと考えてたとき、たまたま師匠に、
フリアンディーズ2軒目だすから手伝えっていわれて。
師匠のいうことだから断れないから、「やります。ただし僕はお店やりたいんで1年でいいですか」
っていって、師匠と僕とで2号店立ち上げた。
1年手伝ったとき、できなかったバゲットの成形とかも普通にできるようになってて。
ある日突然みたいに。
で、パン屋いけるかもと思って、パン屋やったんです。


4.jpg棚に並べるものがパンである必要はなかった。
Tシャツでも靴でもカバンでもよかった。


実際自分でやったら、ひとの店を立ち上げるよりもっとたいへんでしたね。
死ぬかと思いましたけど(笑)。
厨房が変わると、段取りも見えてない。
自分の店だから自分らしいものを、と余計なことも思っちゃって。
だから混乱するんですよね。
いまでこそ評価されてますけど、いまやってるようなパンの作り方、
自分自身がわからないでスタートしてますからね。
パンが好きで好きで、俺は一流になった、技術がついた、と思って店やったんじゃなくて、
予定した年齢にきたから店やろうとしただけで。
いまは、ハード系のパンがどうだとか、自家製酵母がどうだとか能書き垂れてますけど、
そんなことぜんぜんわかってなくて。

ただ、赤いお店(京都の1号店)みたいに、ああいうビストロチックな内装と外装と、
(昔のフランス映画の)ポスターが貼ってある店がやりたかったんです。
棚に並べるものがパンである必要はなかった。
あの棚に並んでるのが、Tシャツでも靴でもカバンでもよかった。
とにかくこんな店がしたかっただけだ、ってよくいうんですけど。
ただ、ポスターにしてもなんにしても、そのお店をやったら、
くる人がよろこんでくれるかなというのがあって。
実際、赤い店オープンしたときは、ボーダーのシャツきた女の子の比率が圧倒的に高かったですし。
トレイも持たずに、貼ってあるポスターだけ見て、素通りして帰ってくる人もいっぱいいて、
販売の子が「西山さん、どうしましょう」。
「いい、いい。それもお客さんだし、狙い通りだからいい」っていってたぐらい。
だから僕はそういう人らによろこんでほしくて、やってたんですよね。


8.jpg普通の3斤棒の食パンと三角サンドとか作って、
師匠のコピーみたいなことやってた。


なぜ料理ではなく、パンでいくことに決めたかというと、当時、京都でもビストロとか増えてて、
おいしい店が何軒もあったんですよ。
もう僕がやる必要ないなと思っちゃったんですよね。
あと、料理屋さんは単価が高いんで、友達や親にきてくれっていいにくかったりとか。
とにかく誰でもこれるものはなんだって考えた。
あの頃、東京では平松さん(レストランひらまつ)が、
ガストロノミー(本格的フランス料理)されてて、もっと間口を広げるためにって、
ビストロ作って、カフェ・デ・プレ作って。
あ、なるほど、ガストロノミーを頂点とした三角形を作らはったのかと思いました。
だけど、僕ならもっとちがう方法論で、広い客層に訴えかけることができるっていう思いが
すごくあって。
カフェも単価が安くって間口が広くなるんですけど、
僕はそれ以外にパンも作れて料理も作れるんだから。
その、もっとちがう方法論というのが、サンドイッチ。
どっちかっていうと、パンよりサンドイッチが先なんですよ。

師匠は僕がお店やるときに「まさかパン屋やるとは思わなかった」っていいましたからね。
サンドイッチ屋やると思ってたって。
あとから知ったんですが、先輩も後輩も師匠も、
僕がパン屋やるっていったらみんなすごく心配してたらしい。
「大丈夫か、こいつ潰すんじゃないか」って。
だから、僕の師匠、毎日プチメックの前を車で通ってたらしいんですよ。
「大丈夫かな、お客さん入ってないし」って。
1年目は、それこそ普通の3斤棒の食パン作って、三角サンドとか作って、
師匠のコピーみたいなことやってた。
要はああいう内外装したかっただけなんで、パンにまったくこだわりがなくって(笑)。


9.jpg「自分でもなんだかわかんないけど、おいしいもんできてしまったよね」っていうのが、昔はすごく多くって。


うちが98年にオープンしたとき、関西ではブルディガラさんができて、コムシノワさんができて、
ちょうどタイミングいっしょだった。
関西圏の雑誌『HANAKO WESTなんかがパン特集で取りあげるとき、
何につられてうちの店きてるかっていったら、内外装に興味を持ってなんですよ。
横並びにされるのが、ブルディガラさん、青い麦さん、コムシノワさん、一流店ばっかり。
みんなハード系のパン作ってるのに、うちだけ町パン屋のパン作ってて。
お客さんはそれ見てくるから、期待してきますよね。
これじゃまずいって、あわててハード系作り出したんですよ。
だから、ずっとお店のロッカーに辻調(料理学校)の本置いてあって、お客さんに質問されても
僕答えられなくて、少々お待ちくださいって、あわてて本を見て答えてた日々だった(笑)。

最初の3年間とか、取材いくらしてもらっても、技術的なことも答えれないですし。
「何を狙ってこうしたんですか」って訊かれても、
「こういう思いがあって」とかぜんぜん答えれなくって。
もちろん、いまは答えれますよ。
当時は、「ブルディガラにいた山崎豊さんが『カフェ-スイーツ』の何号でこういってたから」とか。
「どうしてミキシングが短いんですか」って訊かれたら、
『月刊専門料理』のパン特集で、ブロートハイムの明石さんが、香りが飛ぶから
ミキシングしすぎちゃいけないっていてたんで短くしました」ぐらいしか根拠なかったんですよね。

自分でもなんだかわかんないけど、
おいしいもんできてしまったよね、っていうのが、昔はすごく多くって。
パンを知らなかったんで、見た感じで作ってた。
フランスから原書を買って帰ってたんですよ。
それ真似しよう、こんな成形の仕方そっくりにしようって作るんですね。
焼き上がったのと写真と見比べて、「もっと色濃いよね」とか。
で、食べてはじめて、「うわ、おいしいよね」って感じなんです。
そんなレベルです、僕(笑)。



なんせ僕、厨房から離れられなかったんで。
ずっと泊まってるような状態だったんで。


僕、パン屋さんあまりまわらないです。
例えば、音楽を突き詰めてやってる人がいますよね。
一切外にも出ずに引きこもって音楽を作ってる。
あるとき同時に、突然アメリカとかヨーロッパとか世界中で
同じ音楽が流行る瞬間ってあるじゃないですか。
それってネットを通してとか、情報を集めて知ったんじゃなくて、
いいもの作ろうとして突き詰めていった結果、必然としてそこにたどりつくということが
偶然同時に起きて、あそこでも流行ってる、ここでも流行ってるって、なったりしますよね。
パンもそれといっしょだと思ってて。
よその食べて、なるほどこうなってるのかって組み立ててコピーするのもひとつの手なんです。
だけど、なんせ僕、昔は厨房から離れられなかったんで。
ずっと泊まってるような状態だったんで。
そこでしか情報がないというか、自分のやるもんがすべてだったんですね。
そしたら、もっとおいしいもの作ろうと思って、
突き詰めていろいろ変えていってできあがったものが、
結果としてフランスで流行ってるもんといっしょだったってことが、一瞬起きたんですよ。
ハード系の生地の冷蔵長時間発酵です。
ハード系のパン、いまでこそ冷蔵長時間発酵ってもので作りますよね。
僕、かなり昔からそれをやってて。
それは、勉強して思いついたんじゃなくて、
このままじゃ寝る時間なくて死んじゃうというのがあって。



冷蔵庫の中で、パンになんか起きてる。


パンの製法って、いろいろあると思うけど、大きく分ければ2つにしか分かれないと思うんです。
僕は、ストレート法と、発酵種法しかないと思ってるんですよ。
ストレート法っていうのは、すべての材料ぜんぶまぜちゃって、
その日のうちに焼き上げるところまでいくやり方。
一方、発酵種とか、ルヴァン(自家製酵母)とかを添加したりするのは、発酵種法なんですよね。
昔は知らなかったから、師匠のところではぜんぶストレート法だったんで、
馬鹿正直にストレート法をやってたんです。
そしたら寝る時間がなくて、倒れて、本当に死ぬぞこれと思って。
なんとかしなきゃって生命の危機を感じたから、省略する方法を考えはじめた。

菓子パンだったら、生地玉っていって、まるめて冷蔵庫で置いとけるのに、
なんでハード系はやらないんだろうって、試しにやってみようと思った。
少量のハード系の生地をパンのトレイにのっけて冷蔵庫の中に置いて帰って、
翌日焼いてみたんですよ。
そしたら、寝かさずに焼いたものと、寝かせて焼いたものと食べ比べたら、
圧倒的に寝かせて焼いたもののほうがおいしかったんですよ。
当時は言葉では説明できなかったですけど、冷蔵庫の中でパンになんか起きてる、ってわかって。
おまけに、冷蔵庫の中に入れといたらいいんだから、寝れるぞって思って。
これで寝る時間が確保できるっていうのが先やったんです。
じゃ、これもいけるんだったら、これもいけるんじゃないかってどんどんやってって、
いまの製法にいきついた。
それ以降ずっとつづいてるやり方です。
結局、冷蔵庫で熟成してたってことですよね、酸化しないように。



「パンのレシピなんて人間が考えだしたものなんだから、
自分で考えればいいんだよ」


「プチメックのバゲットは?」って訊かれたとき、カツオと昆布の出汁のたとえ話するんですよ。
さっきいったストレート法で作る、3時間発酵の基本のバゲットっていうのは、
長時間発酵したバゲットに比べて味が薄く感じますよね。
それ(基本のバゲット)が僕はカツオと昆布の出汁だと思うんです。
カツオと昆布の出汁ってそれだけ飲んでも強い味は感じない。
じゃ、それをもっとおいしくするためにはどうすればいいかといったら、
2つ方法があると思ってて。
1つは昆布とカツオの出汁を煮詰めていく、
うまみが出るまでぎゅーっと味が濃くなるまで煮詰める。
それがうちの長時間発酵のバゲットなんです。
もうひとつ、カツオと昆布の出汁をおいしくするには、
しょうゆっていう熟成された発酵物を一滴二適落としてやれば、全体がぽーんとおいしくなる。
これが発酵種法です。
しょうゆにあたるものが、うちでいうルヴァンの種などの発酵種。
それを添加してやることで、生地ぜんぶに味が行きわたるって理屈だと僕は思ってるんです。

そんなこともぜんぜん知らなくて、
師匠から教えてもらった配合がすべてだと思ってパン作ってた頃、
僕が天才だと思っている、青い麦の福森さんに無邪気に質問した。
「福森さん、どうやったら自分のパンって作れるんですか」
「パンのレシピなんて人間が考えだしたものなんだから、自分で考えればいいんだよ」
「まったく、この人、何いってるんだろう」ってその頃は思ってたんですけど、
その意味がちょっとわかったような気になったのは、冷蔵長時間発酵にたどりついた、
3年目、4年目ぐらいでした。



閉店のとき、朝イチと同じ状態でパンが並んでる。
なんのために一日やったんだろう。


うちの1軒目のお店、見向きもされなくて、最初の3年間赤字垂れ流し。
赤いお店(1号店)をはじめたとき、お客さんからすごくいろいろいわれて。
「パン屋に見えない」
「あんぱんがない、食パンがない」
「硬いパンしかない」
「パン屋にしては照明が暗すぎる」
「入りづらい」
散々なこと僕はいわれつづけてるわけですよ(笑)。
お客さんがあまりにもこないから見てたら、1人目お客さんいたら、
2人目も比較的入ってきてくれるんですけど、最後の1人が出て行ったら、
次の1人目は怖がって入ってこない。
パン屋に見えないから。
だから、なんとか入ってきた人の足止めしなきゃと思って、
ポップに作り方とかいっぱい説明書きのように書いた。
いまだにうちのポップ、よそのパン屋さんよりぐだぐだ書いてるんですよ。
たくさん書くのは、足止めるために、時間稼ぎでやったことの名残が残ってるんです。

それぐらいうちはお客さんこなかったんで、パンもものすごい数捨ててきた。
それこそ、朝オープンして、厨房で仕事がんがんやって、閉店するとき表に出たら、
朝イチと同じ状態でパンが並んでるんですよ。
サンドイッチもパンも売れてなくて。
僕、なんのために一日やったんだろうって(笑)。
それが、毎日つづいた。
お店なのに電話止まったことありますし。
アルバイト代も払えなくて、僕個人のキャッシュカードで限度額30万引き出して、
お給料払ったことが2回ぐらいあるんですよ。
それぐらいお金がなくって。
だけど、「じゃあ、あんぱん作ったら売れる」っていう発想には不思議といかなかったですね。

3年目に、「もう今年ダメだったらダメかもしれない。考えなきゃいけない」って
追いつめられたときに、一週間のうちに、それこそ僕にとって当時の神様、
青い麦の福森さんとビゴさんが立て続けにきはったんですよ。
その当時、カイザーもない、ポールもない、サブロンさんもいない時代。
日本のパン業界の有名人トップ誰といったら福森さん、ビゴさんってイメージだった。
その2人が立て続けにきて、すごいほめてくれたんですよ。
福森さんに、「ぜんぜんパン売れないんですよ」って相談したら、
「店構えからして売る気ないだろう」っていわれちゃって。
僕はそのつもりなかったんですけど、
先生らから見たらもっとわかりやすくないと売れるわけないというのあって。
「だけど、お前みたいな店も必要だからがんばれ」って、すごい励まされて。
ビゴさんには、「ビゴさん、潰れそうです」っていったら、「石の上にも3年だ」っていわれて。
「じゃあ、我慢してがんばろう」と思ったら、
そのあとに『カーサブルータス』とかわーっと取材にきて。
で、なんとか軌道に乗ったいうのがあるんですね。
4年目にお客さんがくるようになって、業者さんにお金が滞らなくなって、
まずお金の心配しなくてよくなったのがいちばんほっとした。


6.jpgお客さんの大行列を見ながら、
うわごとのように「まちがってる、まちがってる」と
いいつづけてた。


『カーサ』以降、関西圏の雑誌が全国区になったんですよ。
そしたら、店にくるお客さんも、「沖縄からきました」「北海道からきました」。
店の前に止まる車もナンバーが名古屋とか静岡とか。
それ見てスタッフがすごいなすごいなっていってたんですけど、
今度は売れすぎるようになっちゃって。
いくら作っても、ひどいときには3時過ぎにはからっぽになっちゃって、
もうおっつかなくなったんですよ。
売れない頃はパンの出来が許せなくって、だからお客さんがこないんだって思っちゃうんですね。
これが原因でお客さんこなくなっちゃうんだよとか怒ってたのが、売れるようになってくると、
出さなきゃいけないから、もういいからだせとか、80点でもだせとかなってくるんですよ。
それやってるうちに、
「なんかまちがってるんじゃないか」って、ふと厨房で仕事やりながら思いはじめて。
お客さんがトレー持って、大行列作って並んではるの厨房から見ながら、
うわごとのように「まちがってる、まちがってる」といいつづけてたみたいで。
そのうち、僕は意識してなかったんですけど、
「やめなきゃ、やめなきゃ」っていいだしたらしくて。

最初、売れなかったころは、近所の人もこなかったですし、
「どうせやめるなら有名になってからやめてやる。食べたいときにプチメックはなしだ」って
厨房で叫んでた。
だから、屈折してるのかもしれないですけど、軌道に乗ったら乗ったで、
お金の心配しなくてよくなって、遠くからいろんなお客さんがくるようになって、
「うちってすごいんじゃないか」ってみんながはしゃぎだして、
そのときに僕は「まちがってるんじゃないか」って思いはじめて。
パンないのに3時以降もお客さんくるわけですよね。
これはもちろんやったことないですけど、
「誰か近所でパン買ってきて棚におけば、
『やっぱりプチメックおいしい』って買われるんじゃないか。これっておかしくないか」って、
よく話すようになったんですね。
これは1回ストップしなきゃって自分の中で思ったんですよ。


1.jpg自分が正しいと思うほうのドアを開けつづけてきたら、
気がついたら新宿まできてた。


でも、銀行とかいろんな人に迷惑かけちゃいけないから、
借金返すまではがんばんなきゃいけないって。
7年目でやっと最初の借金がなくなった。
で、そのとき、10年迎えたら「10周年閉店フェア」をやろうって思った。
スタッフに「どっか行きたい店あるか」って、
本気で紹介するつもりで「残り3年かけてお金ためて、スケルトンに戻す準備するから」とまで
いってたんです。
10年といっても、僕20時間以上ずっと働きつづけてて、オープン以来4年間休み一度もないんです。
普通の人の10年とは、実際の時間感覚でいったらちがうじゃないですか。
そこまでやると、燃え尽き症候群じゃないですけど、
ひとつのこと集中して10年以上やるの無理だなって自分の中で見えてきたんですよ。
たぶん10年以上続けても、どっかで打算がでてきたり、飽きるってことあるでしょうし。

って思ったとき、自分の中で、お店一軒ってことあり得なかったんですよ。
前に進むか下がるかしかなくて、立ち止まるいうのは選択肢としてなかったんです。
下がるというのは、店をやめちゃうことだし、進むというのは、次は職人じゃなくて、
経営者として目指そうということやと自分は思うてたんですよ。
で、9年目でたまたま、不動産屋から物件が頼んでもいないのにくるようになって、
その頃にいいスタッフがたまたま集まって、これって前進めってことかなって僕解釈して。
その頃に結婚してる子や、子供いる子が現れたりして。
僕が雇用者として彼らの生活も責任もちはじめなきゃいけないんだって意識しはじめたんですよ。
もう前に進んで拡大する方向でいこうって決めて、みんなに宣言して。
ただしそうなったら、僕が「触らせない」とか、「がんがんやる」とか、
どんどん悪いほうに進むから
僕は基本、厨房には立たないっていって。
2軒目は厨房とかけっこうお金かかってるんですよ。
なんでかっていったら3軒目やるための2軒目だって。
2軒目で終わったら失敗、3軒目やってはじめて成功になるからっていって。
3軒やったら4軒目って。
もう事業だから立ち止まれないって、スタッフに宣言した上で2軒目やった。
それが9年目。
3軒目が新宿になって、ちょっと計算狂っちゃったんですけど。
やめるか、増やすかしか、経営者として僕のなかでは選択肢がなかったんですよね。

子供の頃からパンが好きで好きで、パン作るのが趣味でって人がやってたら、
こういう発想にはならなかったと思うんですよね。
もちろんいい年をしたスタッフをかかえたからっていうのもあるんですけど、
自分も年取ってきますし、結局、お店をやった時点でいやでも経営者になっちゃうんですよね。
だから、職人でありたい自分がいながら、
どうしてもその前に人雇用してるでしょ、ていう責任が本来ある。
それを考えると、結局人として正しいのはどっちなんだろうって。
10代の頃から、「正しいのはどっちだ?」ってドアが2つあって、
自分が正しいと思うほうを開けつづけてきたら、気がついたら新宿まできてた。



どの国の、どの文化の人でも「おいしい」というものって、絶対ある。


僕はどこまでも素人目線だと思うんですよ。
僕、実はマニアックなことやってるとは思っていないんですね。
じゃないと、店を増やすなんてできないし。
それこそ、世界中の誰が食べてもおいしく感じるところあると僕は思ってるんですよ。
すごい僻地で食べられているものとか、犬を食べるとかはありえないんですけど、
そこまでマニアックにならなければ、酸味のあるものだろうがなんだろうが、
どの国のどの文化の人でも、「おいしい」という最大公約数が人間としてあると思うんですよ。
その中で収めれば、フランス人が食べてもおいしいといってくれた上で、
日本人が食べてもおいしいといってくれる、アメリカ人が食べてもおいしいといってくれるものって
僕絶対あると思ってて。
その枠からでないようにしようというのは意識の中にあるんですよね。
うまくいえないんですけど、極端にすっぱいパンでなければいいとか、この酸味までなら許される、
おいしいって感じられるとか、あると思うんですね。
うちもイースト使ってない、種を継いでるパン(自家製酵母のパン)ってあるんですけど、
それが日本人に受け入れられないかっていえば、
日本人が食べてもおいしいといってもらえると思う。
その最大公約数の中で収まりきってると思ってて。
だから実はマニアックに見せてるだけで、間口広いことやってるつもりではいるんです。



最近やっと、
手を離すことではじめて見えるものもあると
思えるようになった。


僕、もともとは、絵描いたりとか、物を作るのが好きで、そこから延長線上に職業があるんで、
本当はパンを人に触れられるのも嫌なんですね。
職人気質が強い人みんなそうだと思うんですけど。
それこそスタッフに、「クロワッサンとバゲットは触らないでくれ」といってた。
百個からのクロワッサン僕ひとりでやってたんですよ。
職人としては、本当はそれがいちばん幸せだって思ってるんですけど、
最近やっと自分の手を離れても、手を離すことではじめて見えるものもあると思えるようになった。
それを離さなきゃ、今頃ここ(新宿)でお店できてないし。
人の手にゆだねるのはすごく苦痛だったんですけど、それが離してみて、
離したことによってわかったこととか、見えてきたものがある。
それをやっとおもしろがれるとこまできたという感じです。

それはスケールメリットの部分であったり、店を東京にだせたから知り合えた人であったり、
東京にきたから知れたことでもあるし。
パンのこともそうですし、見せ方にしてもそうですし。
これがかたくなに触らせずに、僕が倒れたらこの店終了、とかいうことを京都の片隅でやってたら、
いまだに東京でなにが起きてるかとか、こういう食べ物もあるということも知らずに、
厨房こもった生活をずっとつづけてるわけですよね。
その生き方を否定するつもりもないし、自分も元々はそうだったんですけど、
いまは手を離しちゃって、スタッフにゆだねたりとかして、
そうすることで見えてくることもあるじゃないですか。
それがおもしろいってやっと思えるようになった。
また次、これもできるかもしれないって見えるようになってきたのがいちばん大きいですよね。
だから、職人さんって、ものを作る職業の人はみんなそうだと思うんですけど、
売れなきゃいけない、でも自分の手ですべてやりたい、というのがあって。
でも、まず作れなきゃ、メジャーになれないし、ポップにもなれないし、人目にも触れない。
それで本当にいいのかって葛藤、創作者ってあると思うんですよね。
ビジネスと物作りの葛藤がそうであるみたいに。
食えなきゃいけないけど、やりたくないことはやりたくないし、
パンやっててもそれは一時かなり悩みましたよね。



本当にすごいパンを作りたかったら、
人を雇っちゃダメなんだと思った。


なんかいい言葉ないかなと思ってたら、
コム・デ・ギャルソンの川久保玲さんが「経営もデザインする」って名言残されてて。
デザインするように経営するってことだと思うんですけど。
H&Mとコラボされたときに、「まさかあのギャルソンが、どうしてH&Mと」って、
僕らなんかにはショッキングな出来事だった。
あのときの会見で川久保さんが「いつも創作とビジネスの狭間で苦しんでいる」っていわれてて、
「今回はどこまでビジネスとして成立するか実験としてやってみたい」
みたいなこといわれてたんですよね。
あれは膝を打った。
あれ聞いてわかるっていった人は、
アパレルだけじゃなくて、いっぱいいるとすごく思ったんですよね。

本当にすごいパンを作ることだけを目的にするなら、
人を雇っちゃダメなんだと僕は思ったんですね。
儲け度外視でやれるんだったら、いちばん職人として幸せなこと。
それを、返済したりとか、家賃払ったり、スタッフみんなの生活を保証していかなきゃとか
考えると、やっぱり突き抜けたことやるのって難しいんですよね。
本当にすごいものを作り出す人は、何かを犠牲にしているんだと僕は思ってます。
だから、「おいしいですね」「すごいですね」といわれても、
常に「うちよりすごいとこありますよ」ってなっちゃうのは、100あるうち100だしきれたとしても、
そのときにはどっかでしわ寄せいくと、僕が思っているからなんです。
関わる人みんなが基本幸せにならないといけないと思ったら、60点じゃだめなんですけど、
80点で維持できることを取るようになっちゃいます。
その後ろめたさのようなものがずっと何年もあったんですけど、
最近それが楽しくなってきて、次はこれができるかもしれないとか思えるようになった。


5.jpgお客さんも、働いてる子も、商業施設も、
みんなが贅沢じゃなくても一線以上のしあわせになる方法
って、僕は絶対あると思ってる。


アップルスティーブ・ジョブズがすごいなって思うんですね。
じゃあ僕らの業界で、本当の意味でのイノベーションを起こした、
パン業界・飲食業界のジョブズっているかというたら、エルブジのフェラン・アドリアぐらいかと。
アドリアが液体窒素を使って、凍らないものを凍らしたのを見たとき、
「その手があったか」って驚いちゃったんですけど。
それ以外には、僕が思いつくかぎり、厨房からイノベーションが起こるとしたら、
厨房以前の食材の品種改良くらいだと思ってるんですよ。
それが唯一のイノベーションであって、
僕ら職人が本当のイノベーションを起こすことってできるのかと思ってて。
じゃ、職人の世界はいつまでもダメなのかっていったらそうじゃなくて、技術だけじゃなくて、
売り方とか、サービスの仕方とかのイノベーションってあると思ってるんですよ。
そっちでなら僕らの世界でもイノベーションあるんじゃないかと。
だから高い値段にしたくないとか、いろいろ実験的なことやってるつもりなんです。
これでも、みんなに人並みにお給料あげれて、死ぬほど働かなくてやってける仕組みっていうのも、一種のイノベーションじゃないのかっていうのがあって。
僕ら職人はそっち側も考えれるんじゃないかって。

パン好きの人だけでなく、一般の人にも、
「パン屋ってすごい」ってどうしたら思ってもらえるのか。
僕は、そっちを悶々と考えてるんですけど。
いまなにやりたいっていったら、ファミレスやりたい。
そこでクオリティの高いパンの食べ放題やりたいんです。
それをやったらよろこんでくれる人がいっぱいいるんじゃないかって、
僕のいきつくところそこなんです。
エゴとかでやるんじゃなくて、お客さんも、働いてる子も、呼んでくれた商業施設も、
みんなが贅沢じゃなくて、一線以上のしあわせになる方法、喜んでもらえる方法って、
僕は絶対あると思ってて。
それはいつかやってみたいというのが夢としてある。
「美味しいものは高いんだ」って言われたこともあるんですが、
安かろう、まずかろうじゃないものって、僕はやってやれないことはないと思ってて。
もちろん危ないもん入れたりとか、やっちゃいけないことはやらずに、
高くなくておいしいもんって、考えればできるんじゃないかと思ってて。
それはむずかしいことではあると思うんですけど。

職人の仕事はとても魅力的で尊いものだと思ってて。
今でも忙しくて手が足りないときは厨房に立つことがあるんですが、
作りはじめると僕も夢中になって、やめられなくなってしまうほどおもしろい。
職人さんは昔から職人として正しいことをいい意味で変わらずされてきました。
でも、経済が変わりすぎちゃったのが致命的なことやと思って。
末端で生きてる職人らは、昔からなにも変わらず生きてるのに、
世の中が変わって不遇な目に合ってるのが現状だと思ってるんですよ。
それはつらくても受け入れるしかないっていうのは僕、すごくある。
でも、職人さんが悪いんじゃないと思ってるんですよ。
結局、僕らのやってる実体経済が資産経済(金融経済)に飲み込まれたのがすべての元凶。
金融工学とかあの手品みたいなもんかしこい人が作ったのが、世の中の狂いはじめた原因で、
金融経済って実体経済を円滑に動かすために発生してできたはずなのに、
金融経済が大きくなりすぎちゃって、その影響で実体経済=職人世界が圧迫される。
じゃあ、資産経済が悪いのかっていったら、資本主義である以上、認めざるをえなくって。
そしたら、僕ら職人の側も、このまま黙って死んでいったりとか、文句いってるんじゃなくて、
時代に合わせて生き延びる方法を考えたいと思ってるんです。



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003. シニフィアン・シニフィエの志賀勝栄さん
志賀勝栄は、静けさと、物腰のやわらかさと、知性を漂わせた人物だった。
もしパン職人であると知らなかったら、哲学者か、悟りを得た高僧だと思ったかもしれない。
けれど、その印象はあながちまちがいでないともいえる。
シニフィアン・シニフィエのパンは、その独特の深さによって、ときとして哲学であり、あるいは禅であるように感じられるからだ。

「医食同源」
パンを作るにおいてもっとも大事なことは? という質問に、志賀はこう答えた。

「年齢が50を過ぎた頃から、命をつなぐための健康、というテーマを意識するようになりました。
パンを通じて私に何ができるのか、と」

人間もまた1個の生命体であるならば、舌はサバイバルのためのセンサーでなければならない。
ところが、舌は簡単に騙される。
生き残るのに必要なものだけを感じ分けねばならないのに、舌の欲するままに食べたいものを食べると、成人病を招きよせる。
健康であるためには、まずいものを食べなくてはならないというのが、私たちの常識である。
舌がおいしいと思うものを食べては、健康になれないのか。
医と食は本当に同源なのか。

「おいしいと健康をできるだけイコールにしていきたいと思います。
その2つがちがうことはないにしても、そういうものは安くは作れない、ということはあるかもしれません。
しかし、おいしさを追求することと、医食同源は離れてはいないと思います」

医と食が同じものとしてクロスする地点がいったいどこにあるのか、その信頼すべき答えをこの人なら持っているはずだ、と志賀勝栄に相対した私は感じていた。

「12、3年前ですが、いっしょに働いている30代の方がガンになりました。
入退院を繰り返したのち、5年後に亡くなりました。
その人の食事の摂り方が悪かったわけではありませんが、そういう不幸なことを目の当たりにすると、普段の仕事で私ができることを考えざるをえません」

志賀がパンと健康について考えていたとき、大地修造という乳酸菌の研究者に出会った。
「パンは果たして発酵食品か?」
大地から発せられた一言に志賀は激しく揺さぶられたという。

「日本の発酵食品といえば、みそ、しょうゆ、つけもの、納豆などが当たりますが、パンはそれらと同じなのでしょうか。
パンはたしかに酵母菌を発酵させて作りますが、発酵ということの意味が、それらと同じなのでしょうか」

発酵食品は、おいしく、また健康のためにもなる。
それは医食同源というにふさわしい食べ物だ。
パンもまた発酵させて作る食べ物なのに、必ずしも健康に役立っているといえないのはなぜなのか。
「発酵」の意味を、パン作りにおいてその言葉がなにげなく使われるときの文脈からもう一歩掘り下げてみれば、パンを医食同源の食べ物として人びとに提供するための方法が見えてくる。

「医食同源と深く関係しているのが、乳酸菌です。
本当の『発酵』の意味とは、そのプロセスに乳酸菌が介在しているということです。
乳酸菌の働きによって、アミノ酸や酵素などの栄養素が豊富になる。
人間の体は、それを作る材料であるタンパク質がないとい支えられない。
発酵食品には、みそ、しょうゆ、納豆、干物、漬け物…といったものがあります。
日本人は伝統的に、これらの発酵食品を食べてきました。
江戸の町には百万人の人びとが暮らしていましたが、みんなが健康に暮らせるだけの食物があったということです」

江戸の町人の標準的な食事は、ごはんとみそ汁に、納豆だけという質素なものであった。
にもかかわらず、平均寿命こそ医学が未発達だったせいで今よりはずっと短かったろうが、成人病で多くの人が苦しむという現代のような事態は起こっていなかった。

「食べ物として摂り入れられたタンパク質は、消化の働きによってアミノ酸に分解され、それが体内で再構築され、細胞ができる。
乳酸菌を十分に摂らないと、必須アミノ酸や酵素などが不足し、人体のシステムが崩れる。
それがガンなどの成人病に影響しているのです」

乳酸菌は糖類を分解して、自ら生き残っていくためのエネルギーを作り、その過程で、ヨーグルトや天然酵母パンのすっぱさの元である乳酸を作り出す。
乳酸菌が作り出すエネルギーとは、人間の細胞を作る材料でもある、たくさんの種類のアミノ酸や、核酸(細胞の中のDNA・RNAの材料)などである。
乳酸菌を食べることはこれらの栄養素を体内に摂り入れることだ。
生きるために必要なアミノ酸は20種類あり、このうち8種類の必須アミノ酸の、ひとつでも不足すれば、残りの7つをいくらたくさん摂っていても、細胞が生成されることはない。
乳酸菌はこの8種類をバランスよく摂るのに役立つ。
ガンとは、つまるところ細胞のミスコピーなのだから、アミノ酸や核酸の不足が関係していることは多いに考えられる。
また、乳酸菌が免疫力を強化することも、実験により報告されている。

「例えば、スーパーで売られているパンの発酵には乳酸菌は介在していません。
ふくらんでいるけど、発酵食品ではないのです」

工業的に生産される酵母(イースト)は、酵母の増殖にもっとも適した温度やpHの培地で培養されたものである。
そのようにして純粋な形で大量に取り出された酵母菌を小麦粉と混ぜることでパンが膨らむ。
酸味のある乳酸菌は邪魔者として排除されている。

つまり、酵母によってパンが膨らむという「原因と結果」のみに着目して、自然界の中から酵母だけを取り出し、パンを作ることに役立てているのだ。
けれども、私たちの生きるこの自然とは、そのような目に見えるものだけからできているのだろうか。
実は、発酵という現象の中に、私たちの目には見えていないけれど大事な要素があって、目に見えるものだけが科学の力で取り出される一方、見えないものが捨て去られてはいないだろうか。
その捨て去ったものに、現代人が手痛いしっぺ返しを食っているとしたら。

「発酵食品としてのパンはいかにして作ればいいのでしょうか?
ひとつは、自家製酵母でパンを作る方法。
もうひとつは、イーストを少量にして、長い時間をかけて酵母をしっかり作るやり方があります。
自家製酵母のパンも、少量のイーストによる長時間発酵も同じことです。
発酵は、酵母菌だけではなく、乳酸菌の働きがあって起こるからです。
乳酸菌の働きによってパン生地のpHが下がり、酵母菌が育つ環境が整う。
スーパーで売られているパンとはちがって、パンそのものの中で菌が分裂し、発酵が起きる。
酵母菌と乳酸菌が協力して、自分たちの住みやすいコロニーを作っているのです」

志賀勝栄といえば、低温長時間発酵のパイオニアである。
(感動的な発見の経緯は、シニフィアン・シニフィエのHP(バゲット・プラタヌの項)に志賀自身の言葉によって記されている。)
その画期的な方法は、おいしさと合理性ゆえに、多くのパン職人に追随され、いまでは当たり前のこととなった。
いま発見者の志賀は、12時間以上にもわたる長い発酵の時間とは、酵母菌と乳酸菌が最大限に増殖した「コロニー」を作るための時間だと考えている。
低温長時間発酵のパンは、乳酸菌をも多く含んだ、「医食同源」のパンだったのである。
けれど、それは健康に役立つからポピュラーになったわけではない。
それまでのパンにない、目覚ましいおいしさによって、多くの消費者に支持された。
つまり、私たちの舌は健康な食べ物を知っていたのだ。
誰に教えられることもなく、頭で考えるよりも先に。

自家製酵母のパンも、低温長時間発酵のパンも、志賀だけが作るわけではない。
にもかかわらず、シニフィアン・シニフィエのパンが唯一無二の輝きを放っているのはなぜなのか。
「酵母菌と乳酸菌のコロニー」と捉えるような、孤高ともいえる認識とイメージをもちながら、パンが作られるからではないか。
例えば、志賀の素材へのこだわりは微生物レベルに及んでいる。

「乳酸菌は6000種類あるといわれています。
ヨーグルトの乳酸菌としてLG21が知られていますが、胃の酸度によってほとんどの乳酸菌は死滅してしまうのに、LG21は生き残って腸まで届く。
そのように、6000種類の乳酸菌はそれぞれ特徴を持っていて、パンのおいしさともそれはつながっています。
この店では、ボッカー社の乳酸菌を使用しています。
あるいは、ドイツパン(ライ麦のパン)を作るときのサワー種が乳酸菌であるように、自分で育ててもいいでしょう」

もちろん、自家製酵母を使用するパン屋はみんな「酸味の少ないパンを」とか「もっと複雑な味わいを」と考えながら、酵母を育てている。
しかし、理想のパンを模索するときの手がかりとして、「酵母菌と乳酸菌のコロニー」というイメージを思い浮かべるならば、素材選びから異なる、独特のパンができあがるのではないか。

志賀の姿勢は、冒頭に記した「パンを通じて私に何ができるのか」という言葉に端的に表れている。
志賀は、今日顧客に手渡すためのパンを焼きながら、「明日のパン」までをも視野に入れているのではないか。
それは、ひょっとしたら志賀自身がオーブンから取り出すのではないかもしれないが、人類が生き延びていくためにぜひ必要なパンなのである。

志賀は「医食同源」について語り終えたあと、こういって立ち去っていった。

「私はもう年なので、疲れたので帰ります。
夜からずっと仕事をしていました」

この高名なパン職人が、いまだに夜を徹して厨房に立ちつづけていることに、大きな感銘を覚えた。


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ペリカン 職人インタビュー取材を終えて

取材を終えて帰ろうとしたときだった。
渡辺さんが「散歩しよう」とおっしゃって、我々はそのまま渡辺さんに付いていった。


7.jpg小雨の降る浅草。
インタビューでは語られなかった話もする。

渡辺さんが写真ばかり撮り何も言わない私に気を遣って
「あなたはカメラマンなの?」と声をかけてくださった。
ブログのために撮影をすることがあると話す。
「どういう写真を撮るの?」と問われて「当たり障りのない写真」と答えたとき、
自分が渡辺さんを前にとても緊張していることを自覚した。


3.jpg長年ペリカンのパンを使用している喫茶店へ案内してくださった。


6.jpgピザトースト。


5.jpgホットドッグ。

ヨットや音楽や恋や映画や将来の夢や人間の声やファッションやお酒の飲み方のことなど、
話は尽きなかった。




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2.jpg取材から編集部に戻って間もなく、ペリカンのパンを焼いて食べた。

トースターをおもむろに設置してどんどん焼いていく。
編集部員は匂いにつられてトースターの前に群がり、食料配給のような列を作って
焼けるのを待った。


1.jpg取材を終えて、しばらく放心状態が続いた。

渡辺さんの言葉やその時の光景を反芻していたら、

興奮が収まるまでに時間がかかったのである。

職人さんの手を離れたパンからでさえ刺激を受け取っているというのに

その作り手である職人さんと触れ合ったことで

許容範囲外の刺激を受け取ったのかもしれない。


これから何人もの職人さんと出会うなかで冷静に対話をしていくためにも
刺激を受け止められるだけの勉強を続けなければいけないと強く感じました。

ペリカンの渡辺さん、ペリカンの皆様ありがとうございました。【D】


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002. ペリカンの渡辺猛さん


人を虜にして放さない、ペリカンのパンの魔力について、2代目は、
「理由はわからないけど無性にあれが食べたい、(中略)その欲求の本質的な部分を探って、それに接近していくよう」でいて「さりげなく、細く長くおつきあいができるパン」と。
あるいは、「弾力と張力」という表現をした。
たしかに、ペリカンのパンのおいしさとは、弾力に加えて張力なのである。
歯が食パンの表面に当たり、押し切る瞬間に、張りつめていたものがたわむ。
生地が歯を押し返しながら、やさしく歯切れると、パンの味が滲みだしてくる。
決してすぐにではない。
じわじわと、「甘さ」という言葉で表現されるぎりぎりの、とてもあっさりした精妙な甘さがでてくる。
最初の甘さがなくなっても、別の部分から同じ甘さが現れ、それがなくなってもまた別の部分から甘さが現れる。
だから、いつまでも飲み込むのが惜しいような気さえする。
3代目の渡辺猛は、私が読み上げた父親の言葉を、目を伏せてじっと聞き取り、そしてしばらく考えたのち、自分の言葉に置き換えて、いった。
「自然とか、そういう言葉になっちゃうの。自然」


ペリカンは、食パン、ロールパン、バンズのわずか3種類しか置かない。
昭和24年の創業当時、あんぱんやジャムパンも売る「普通のパン屋」だったペリカンを、2代目店主は切り詰めた品揃えのパン屋として確立した。
昭和30年代から40年代にかけてのことである。
ペリカンはそれ以来まったく不動のように思える。
作り手でさえわからないほどの微妙な「変化」を感じとって訴える常連さんの期待に数十年にわたって応えてきた。
私たちは、雑誌のパン特集にのるパン屋に、「もっと新しいものを」と、移ろいやすい現在を求めて足を運ぶが、ペリカンにだけは変わらない過去を求める。
しかし、それは幻想に過ぎない。
「変わらないというのは嘘だよな。まず、粉とか素材が変化しているじゃん。バターも質が変わっているし。パンを焼く環境にしても、戦前は薪、それから電気、灯油、いまは都市ガス。製造装置も進化している」
変わっているにもかかわらず、まるで変わらない。
人びとの記憶の中のペリカンであるためには、むしろ変わりつづけなくてはならない。
「世代も変化しちゃってるわけじゃん。日本人の質が変化している。そこで昔と変わらないようにしてたら、潰れるぞ」


渡辺は浅黒い肌をしている。
いつもヨットに乗っているからだ。
ヨットを速く動かすには、風や波、そして潮の動きを、鋭敏に感じとらなくてはならない。
ヨットとパン作りには似ているところがあるという。
「いきたい方向にいけない。自分のいきたい方向にいくには紆余曲折しないと」
ペリカンとそれを取り巻く状況を、渡辺は固定したものとして見ていない。
パン屋が相手にするのは、客の記憶や感覚という移ろいやすいものである。
あるいは素材の生産条件や、設備や、経済という、パンを作るために必要不可欠なものも移ろう。
それら刻々と変わりゆく、必ずしも目に見えているわけではない、いくつかの変数を読みとり、複雑な連立方程式に最適の解を与えることが、ヨットの操作に似ているのだという。
時代は潮流のようにいつも流れているにもかかわらず、そこに浮かぶペリカンがまるで灯台のように、いつも私たちから同じ場所にあるように見えているとするならば、それは渡辺の巧みな操舵によるものだ。


時代を超えて多くの人びとの心を捉えて離さないペリカンのパンの魔術的なおいしさ。
それを確立した父に対する渡辺の感情は、アンビバレントなものだった。
「生きてるときは反発ばっかりしてたもん。合わないんだよ」
合わないと思っていた父の元でパン作りを学び、父の残した店を守り抜くことになった渡辺は、実は父親によく似た人なのではないかと、私は思った。
渡辺には、シンプルでありたい、さりげなく、自然でありたいといつも思う心の傾きがあって、言葉の端々にそれが現れる。
例えば、接客に関して、渡辺が心がけているのは、「いかに余計な言葉を重ねないか」「ひとつの言葉で別の気持ちも伝えられないか」である。
あるいは、私が「舌を満足させる」という言葉を使ったとき。
「舌を満足って、そこまでおこがましくないよ。あなたが一週間すべて通して、おいしかったって食事ある?」
ペリカンのパンはただそこにある、という感じがする。
ひとつの強烈な味を押しつけるのではなく、こちらから呼んだときだけ応えてくれる。
主導権は食べる側にあって、意識を働かせたときに、きっちりと、期待した以上のすばらしいものを返してくれるという感じがするのだ。
冒頭に書いた2代目の「さりげなく」という言葉に対する渡辺の解釈はこうだ。
「おこがましくないというか、さりげなくというのは、こっちから自分の存在をアピールするんじゃなくて、という感じじゃないのかな」
それはパンの味にとどまらず、わずか3つしか商品を置かないこと、あるいはまるでパン工場の軒先に棚とテーブルを置いただけ、といったたたずまいのうつくしさにもいえる。


渡辺が父に抱いていた複雑な感情は、死によって昇華された。
「親子ってそういうもんだと思うんだよね。死んでから、ああいい人だったなと」
ペリカンのパンに2代目の記憶が詰まっているように、浅草のいたるところに父の記憶は満ちている。
「町を歩いてもそうだよね。『親父さん元気か?』『いや、もう死んでるんだけど』。うちの親父の記憶を持ってる人、まだ浅草にいるわけじゃん。『親父さんは?』という話が出るかぎりは、親父の影響からは抜け出せないなと。でも、それはそれでいいんだよね。ありがたいし」
そして、渡辺はつけ加えた。
「記憶って大事。記憶ってのは、その人にとってだよな。他人がどう感じるかって、また別なものであって」
記憶は、そこにあって、そこにない。
その例として、渡辺は、近くに置かれていた北京オリンピックの記録写真集を私に示した。
オリンピックが開会してからではなく、開会するまでの準備風景が映されていて、いかにも中国の国柄を表し、たくさんの人びとによる人海戦術によって、スタジアムが建設されていく。
オリンピック会場が完成してしまった以上、その風景はもはやなく、人びとの記憶と写真の中に残されているだけだ。
渡辺の導きによって写真集を見ると、なにげない写真が不思議なものに見えてきた。


パンを食べることも記憶に関わるものであり、現にここにあるパンと、本当はそこに存在しないはずの、パンにまつわる記憶を重ねて食べているのではないだろうか。
いままで食べてきたさまざまなパンの記憶を持って私たちはペリカンのパンを食べ、そして一度ペリカンのパンをおいしいと思ったなら、その記憶をもう一度よみがえらせるためにペリカンのパンを口にする。
記憶は食べる人の数だけある。
パンを作る仕事は、そうした目に見えないものを感じとり、また決して侵すことのできない個人の記憶に常に敬意を払いながら行うものだということを、渡辺はいいたかったのではないだろうか。
そのためには、さりげなく、自然でなければならない。
渡辺はこうもいっている。
「正直に作っていくことがいちばん大事」


昔から続けているロックバンド。


取材中ずっと調子が悪そうだったPC。
配線を確かめている。


外された黒縁の眼鏡。

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(取材を終えた後の話を、明日UPします)


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001. ル ブーランジェ ドミニク・サブロンのドミニク・サブロンさん

42.jpgドミニク・サブロン自らが、マスコミ関係者向けに、バゲットをオーブンから取り出すデモンストレーションを行ったときだ。
1本1本、バゲットをつかみ出す、手の大きさ。
それは、フランス人であることを差し引いても、瞠目すべきものだった。
私はそれまで数時間をともに過ごしていたというのに、彼がパンを焼きはじめるまでそのことに気づかなかったのである。


44.jpgバゲットを何気なく手で取ろうとすれば、まず指先からつかんでいくことが自然ではないだろうか。
サブロンはバゲットを軽く扱うことはしなかった。
指ではなく、大きな手のひらで押し包むように確実にバゲットを取り上げ、トレイに取り出していく。
丹念に、1本ずつ。
リズム感も、筋肉や間接の使い方も、日本人の動きの感覚とは異なっている。
力の支点や意識が別のところに置かれたようなその動きや、日本人ではほとんどありえないような手の大きさが、パンの味とどう関係しているのかはわからない。
しかし、まったく別の思考の働き方、あるいは身体や文化の中から、ドミニク・サブロンのパンが生まれてきたことはまちがいのないことだと思った。


43.jpg
オーブンから取り出すときの手つきがなにを意味していたのか尋ねると、サブロンはこう答えた。
「焼き上がりを確かめていたのです」
そして、取り出したばかりのパンを私たちといっしょに食べ、にこにこしていた。
彼が全幅の信頼を置く、日本での責任者・榎本シェフが生地を作り、オーブンに入れるまでを行ったバゲットの焼き上がりは、完全に納得のいくものだったようだ。
サブロン自身がナイフを縦横に走らせて切り分けた一片を、私は口にした。
硬い皮には、少しざらっとした舌触りがあり、そしてぱりっとではなく、ざくっと崩れる。
薄い一枚ではなく、何層か重なったものを噛み割っていくような快感。
けれどもその快感を追い求めることに溺れているのではなく、日常の食べ物として、飽きがこないような地点で謙虚に踏みとどまっているという感じも同時にあった。
だから、私の関心はスムーズに中身の味わいへと移っていった。


48.jpgある種のパンのおいしさは「甘い」と表現される。
しかし、このバゲットが舌に与える感覚は「甘さ」未満のものだ。
これも食事パンとしての「踏みとどまり」だといっていいかもしれない。
「甘い」という言葉で表現することを許さず、パンの味がすり抜けていくその先に、さまざまな言葉にならない味わいが飛び出してくるようなのだ。
少なくとも3つや4つの「なにか」が感じられるようだったが、食べる人の感受性によってそれはまったく異なるだろう。
生地の味わいに透明感があるために、ひとつの味が覆いつくしてしまわず、他の複雑な風味が透けて見えるのではないだろうか。
その透明感がドミニク・サブロンの核心ではないかと、私は仮に考えてみた。

私たちとサブロンの間には言語の壁があって、彼がなにを伝えようとしているのか、すぐには見えてこなかった。
例えば、ある人の質問に、ドミニク・サブロンはこのようなやり方で答えた。
そばにいた職人に、レシピのファイルを持ってこさせる。
ステンレスの作業台の上にそれを置き、日本語で書かれたページを自分でめくり、苦労してたどりついたバゲットのレシピを、一同に指し示すのだった。


46.jpg『ブーランジェ』(基本の生地)
クラシック  100%(ドミニク・サブロンが開発した日本製粉の粉)
塩      2.5%
イースト   0.24%
ブーリッシュ 2.5%
ルヴァン種(分量メモできず)


51.jpgレシピを示しながらサブロン氏はいった。
「これを見てください。これだけです。すべて自然のものしか入っていません」
レシピを見ても、パンを作らない私にはちんぷんかんぷんである。
彼がどうしてこのようなことを私たちにして見せるのかもよくわからない。
ただわかったのは、ドミニク・サブロンに何の秘密もないということ。
それゆえにいっそう、サブロンのいいたかったことは謎のまま残るかのようだった。

ドミニク・サブロンは、長いキャリアの中で、ありとあらゆる試行錯誤を繰り返しながら、現在のレシピにたどりついた。
その過程は、すべてのパンに使用されるもっとも基本的なもの、自家製酵母の複雑さに象徴される。
原料は小麦に加え、はちみつや香辛料など。
「香辛料は味に締まりを与え、はちみつはかすかな甘みを与えます」
はちみつを発見するまでは、オレンジやカシスといったものを試したそうである。
自然の中にあるさまざまな食物が、酵母の元となったとき、どのような味わいをパンにもたらすか。
たったひとつのものに関して確かめるだけでも、それは微妙極まるレベルのちがいだろうし、それがさまざまな割合でミックスされるとなると、可能性は天文学的な数にのぼる。
そのような収拾のつかない冒険に出発し、理想の味をつかみだしてくるには、強固な意志と努力、そして狂いのない羅針盤が必要だったにちがいない。
その羅針盤とは、自分の焼くパンの揺るぎない具体像をイメージする力ではないかと思うのだが、これは本人に確かめたわけではない。
けれど、このエピソードも、ドミニク・サブロンがもっともいいたかったこととは、なにかちがうような気がしている。
彼の口調が熱を帯びたのは別のことであったからだ。


67.jpg私の知人に「クロワッサンの熟成」を実験した人がいる。
いくつかのクロワッサンを買ってきて、それをすぐ食べず、熟成させた。
すると、3日後でもぱりっとして軽やかさが残っていたのは、ドミニク・サブロンのクロワッサンだけだったというのだ。
この話を聞いたムッシュ・サブロンは心底うれしそうだった。
「あなたの友人はとてもおもしろいことをしています。いい小麦を使って作られたパンは、長い間置いておくことができるのです」


63.jpgそれが誘い水となってか、以下のような話がはじまった。
「70年代、日本に最初の本格的なフランスパンの作り方をもたらしたのは、レイモン・カルヴェルでした」
レイモン・カルヴェルとは元フランス製パン学校の教授で、フランスにおけるパンの革新においても大きな役割を負った人である。
本物のフランスパンについてほとんど知ることがなかった当時の日本人にとって、彼の来日は革命であり、レシピは衝撃波となって日本中に広まっていった。
そのためにカルヴェルは「パンの神様」とまで呼ばれることもある。

「当時の日本には(パンに適した小麦は)アメリカ産のものしかありませんでした。アメリカ産小麦は味が強いので添加物を入れざるをえない。その作り方の影響が残り、添加物を使ったフランスパンが広まったのです」

それは日本のみの事情ではない。
パンを主食とする国フランスでさえ、「合理化」のため、添加物に席巻されてしまったのだから。
憂うべき事態に革命を起こしたのは若いパン職人たちだった。
その代表的な旗手を2人挙げるなら、ひとりはエリック・カイザー(メゾン・カイザーのオーナーシェフ)、もうひとりがドミニク・サブロンである。
伝統的な製法に回帰したパンの新鮮なおいしさはフランス人に衝撃を与え、2軒はパリでもっとも有名なブーランジェリーとなった。
だからなのだろう、次の言葉をいったとき、サブロンの口調は誇らしげだった。

「フランスパンには2種類しかありません。ひとつはパン・ノーマル(普通のパン)、もうひとつはパン・トラディショナル(伝統的なパン)」

ドミニク・サブロンが後者であることはいうまでもない。


70.jpgパリのドミニク・サブロンで研修を積み、またそれ以前は、志賀勝栄シェフがいた時代のペルティエなど第一級の店でも修業をしたことのある榎本シェフは、ドミニク・サブロンについてこのように語る。

「志賀さんとドミニク・サブロンには共通するところがあります。妥協は絶対にしないということ。それから、食材の味を活かすこと」

日本とフランスを代表するパン職人はともに、材料を大事にすることをもっとも重要視する。

事実、サブロンが自分の仕事としてもっとも心を砕いていることは、良質の小麦を確保することである。
毎年、7〜8月の収穫時期になると、ドミニク・サブロンが買いつけている小麦の農家をまわって、農薬・化学肥料を使っていないかどうかを確認する。

「小麦もワインも同じです。小麦の産地によって、バゲットの味もちがう」


64.jpgこの日、ドミニク・サブロンとは赤坂の店での記者会見ではじめて出会い、いっしょに電車に乗って仙川店まで移動し、オーブンからバゲットを取り出す場面を見せてもらい、そのあと店の前の公園でピクニックをして、ドミニク・サブロン本人の手で切り分けたカンパーニュに、ジャムまで塗って、手渡してくれた。
その間、サブロンが語ったのは、ほとんどひとつだけだったのではないだろうか。
それは、午前中の記者会見ですでに語ったいたのである。
「ドミニク・サブロンの哲学とは、すべて自然のものを使うということです」
あのバゲットの、澄んだ湖の底を覗き込むような透明感は、純粋な小麦でなければありえないものなのだ。


49.jpg自然を大事にするなどということは、どのパン屋のホームページにでも書かれていそうな、見飽きたことにすぎない。
だから、もっと他の秘密があるはずだと私は思い込んでいた。
けれども、ドミニク・サブロンにとってもっとも重要な事実とは、パンは小麦から作られている、という極めて当たり前のことたったひとつなのであった。
私たちはパンを食べ、考えるとき、なにかを添加するのではなく、むしろ削ぎ落とし、もっとも根源的なひとつに立ち返らなければならない。
それが、ドミニク・サブロンから教えられたことである。

参考文献『パンの歴史』(スティーヴン・カプラン著、河出書房新社)



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(002をお楽しみに…)


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