パンの研究所「パンラボ」。
painlabo.com パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。 |
これは、オーナー西山逸成自身が語る、ル・プチメックの過去と未来である。
みなさんに知ってほしい。
この屈折、この激しさ、この偶然、この誠実、このセンスがなければ、
プチメックのパンは決してできあがらなかったということを。
プチメックを愛してやまない人たち、西山の後を追いかける若い作り手たちに
すべてを読んでほしくて、この長い長い独り語りをそのまま、関西弁も直さずにアップする。
スーツケース引きずりながらお店に行って、
「フランス行きます」っていうたんです。
料理の専門学校に1年行って、その後フランス料理を4年やったあと、
フランス行こうとしたんですよ。23の頃です。
僕らのときはワーキングホリデーがまだなかった時代なんで、
(料理人として働くために)フランスに行った人はみんな潜り。強制送還覚悟で。
僕も一応領事館とか電話したけど、門前払い。
で、ビザなしで行こうとしたら、僕の先輩に当たる人が捕まった。
いまは危ないからやめとけっていわれて、予定してたのいけなくなっちゃったんですよ。
行けるようになるまでなにか時間つぶしに、料理じゃないことをしたいなって思ったんです。
フランス料理やってたら、デザートするんで、お菓子のことはある程度知識としてつくんですよね。
でも、パンはいくら賄いで作ろうとしてもうまくできなくて。
パンだけは、どこかに潜りこまないと作れるようにならないなと思って、パン屋で働こうと思った。
で、京都でおいしいクロワッサンを探したんですよ。
それで見つけたのが、僕の師匠にあたるフリアンディーズさん。
当時そこがいちばんおいしいと思って、募集の貼り紙もなかったんですけど、
「働かしてください」いうて、無理矢理働かせてもらった。
そこで3年間やったら、またフランスに行きたいという思いがふつふつとこみあげてきて、
26のときフランスに一人で旅行いったんですよ。
師匠に、「休みつないで、フランス行かせてほしい。どうしてもいかないと気が収まらないから、
しばらく休みがなくなってもいいから1週間ください。行けば納得するから」って。
みんなに、「師匠納得させるためだったら、行きは困るけど帰りの飛行機は落ちてもいい」
ぐらいのこといってて。
1週間行ったら、フランスで働かなくちゃ気が済まなくなってて、京都に戻ってきたとき、
スーツケース引きずりながらお店に行って、「1年後にやめます」いうたんです。
「フランス行きます」って。
「僕は1年の間にフランスで働けるコネを探すから、師匠は人探してください。引き継ぐから」。
飛行機の中で、
「あー、俺はもうパン屋はできないな」と思いながら
パリに行った。
1年経って、フランスの受け入れ先は決まったのに、お金持ってなかったので、
どうしようと思った。
フランスでは、潜りだからお給料もらえない可能性がある。
みんながいってたのは、1年で100万ぐらい蓄え持ってかなきゃいけないって。
そのとき、ちょうど競馬のG1レースやってた。
僕、麻雀もパチンコも賭け事は一切やらないし、ルールも知らなくて。
修行してたパン屋さんが全員競馬好きな人で、いまみたいにネットで馬券買えない時代なんで、
祇園の場外馬券場に、仕事が休みのやつが買いにいかされる。
僕、やりもしないのに買いにいかされてて。
フランスに行くお金がなかったから、「俺、強運だし、ひょっとして」と思って。
1000円で5点買いしたら、10万馬券(1000倍)がきて、それが104万になって。
そのお金でみんなにごちそうして、残りのお金をフランに変えて2年間フランスに行った。
もうこれ、神様が「フランスに行け」といってることだと思った。
それで27のとき、フランスに働きにいったんです。
今度は料理をやることにして、向こうで2年料理をやった。
僕は師匠のところ(フリアンディーズ)で落ちこぼれで、最初に3年働いたのに、
バゲット成形できなかったんですよ。
ぜんぶ先輩らに横で直してもらってた。
僕は飛行機の中で、「あー、俺はもうパン屋はできないな」と思いながらパリに行ったんですよ。
「才能ないから、バゲットの成形すら俺はできなかった、認めてもらえなかった。
俺はもうパン屋できないから料理でがんばんなきゃ」と思って、フランスに行ったんです。
日本に帰ってきたとき29やったんですね。
30でお店をしようと思ってて、残り1年あるんでなにしようかなと考えてたとき、たまたま師匠に、
フリアンディーズの2軒目だすから手伝えっていわれて。
師匠のいうことだから断れないから、「やります。ただし僕はお店やりたいんで1年でいいですか」
っていって、師匠と僕とで2号店立ち上げた。
1年手伝ったとき、できなかったバゲットの成形とかも普通にできるようになってて。
ある日突然みたいに。
で、パン屋いけるかもと思って、パン屋やったんです。
棚に並べるものがパンである必要はなかった。
Tシャツでも靴でもカバンでもよかった。
実際自分でやったら、ひとの店を立ち上げるよりもっとたいへんでしたね。
死ぬかと思いましたけど(笑)。
厨房が変わると、段取りも見えてない。
自分の店だから自分らしいものを、と余計なことも思っちゃって。
だから混乱するんですよね。
いまでこそ評価されてますけど、いまやってるようなパンの作り方、
自分自身がわからないでスタートしてますからね。
パンが好きで好きで、俺は一流になった、技術がついた、と思って店やったんじゃなくて、
予定した年齢にきたから店やろうとしただけで。
いまは、ハード系のパンがどうだとか、自家製酵母がどうだとか能書き垂れてますけど、
そんなことぜんぜんわかってなくて。
ただ、赤いお店(京都の1号店)みたいに、ああいうビストロチックな内装と外装と、
(昔のフランス映画の)ポスターが貼ってある店がやりたかったんです。
棚に並べるものがパンである必要はなかった。
あの棚に並んでるのが、Tシャツでも靴でもカバンでもよかった。
とにかくこんな店がしたかっただけだ、ってよくいうんですけど。
ただ、ポスターにしてもなんにしても、そのお店をやったら、
くる人がよろこんでくれるかなというのがあって。
実際、赤い店オープンしたときは、ボーダーのシャツきた女の子の比率が圧倒的に高かったですし。
トレイも持たずに、貼ってあるポスターだけ見て、素通りして帰ってくる人もいっぱいいて、
販売の子が「西山さん、どうしましょう」。
「いい、いい。それもお客さんだし、狙い通りだからいい」っていってたぐらい。
だから僕はそういう人らによろこんでほしくて、やってたんですよね。
普通の3斤棒の食パンと三角サンドとか作って、
師匠のコピーみたいなことやってた。
なぜ料理ではなく、パンでいくことに決めたかというと、当時、京都でもビストロとか増えてて、
おいしい店が何軒もあったんですよ。
もう僕がやる必要ないなと思っちゃったんですよね。
あと、料理屋さんは単価が高いんで、友達や親にきてくれっていいにくかったりとか。
とにかく誰でもこれるものはなんだって考えた。
あの頃、東京では平松さん(レストランひらまつ)が、
ガストロノミー(本格的フランス料理)されてて、もっと間口を広げるためにって、
ビストロ作って、カフェ・デ・プレ作って。
あ、なるほど、ガストロノミーを頂点とした三角形を作らはったのかと思いました。
だけど、僕ならもっとちがう方法論で、広い客層に訴えかけることができるっていう思いが
すごくあって。
カフェも単価が安くって間口が広くなるんですけど、
僕はそれ以外にパンも作れて料理も作れるんだから。
その、もっとちがう方法論というのが、サンドイッチ。
どっちかっていうと、パンよりサンドイッチが先なんですよ。
師匠は僕がお店やるときに「まさかパン屋やるとは思わなかった」っていいましたからね。
サンドイッチ屋やると思ってたって。
あとから知ったんですが、先輩も後輩も師匠も、
僕がパン屋やるっていったらみんなすごく心配してたらしい。
「大丈夫か、こいつ潰すんじゃないか」って。
だから、僕の師匠、毎日プチメックの前を車で通ってたらしいんですよ。
「大丈夫かな、お客さん入ってないし」って。
1年目は、それこそ普通の3斤棒の食パン作って、三角サンドとか作って、
師匠のコピーみたいなことやってた。
要はああいう内外装したかっただけなんで、パンにまったくこだわりがなくって(笑)。
「自分でもなんだかわかんないけど、おいしいもんできてしまったよね」っていうのが、昔はすごく多くって。
うちが98年にオープンしたとき、関西ではブルディガラさんができて、コムシノワさんができて、
ちょうどタイミングいっしょだった。
関西圏の雑誌『HANAKO WEST』なんかがパン特集で取りあげるとき、
何につられてうちの店きてるかっていったら、内外装に興味を持ってなんですよ。
横並びにされるのが、ブルディガラさん、青い麦さん、コムシノワさん、一流店ばっかり。
みんなハード系のパン作ってるのに、うちだけ町パン屋のパン作ってて。
お客さんはそれ見てくるから、期待してきますよね。
これじゃまずいって、あわててハード系作り出したんですよ。
だから、ずっとお店のロッカーに辻調(料理学校)の本置いてあって、お客さんに質問されても
僕答えられなくて、少々お待ちくださいって、あわてて本を見て答えてた日々だった(笑)。
最初の3年間とか、取材いくらしてもらっても、技術的なことも答えれないですし。
「何を狙ってこうしたんですか」って訊かれても、
「こういう思いがあって」とかぜんぜん答えれなくって。
もちろん、いまは答えれますよ。
当時は、「ブルディガラにいた山崎豊さんが『カフェ-スイーツ』の何号でこういってたから」とか。
「どうしてミキシングが短いんですか」って訊かれたら、
「『月刊専門料理』のパン特集で、ブロートハイムの明石さんが、香りが飛ぶから
ミキシングしすぎちゃいけないっていてたんで短くしました」ぐらいしか根拠なかったんですよね。
自分でもなんだかわかんないけど、
おいしいもんできてしまったよね、っていうのが、昔はすごく多くって。
パンを知らなかったんで、見た感じで作ってた。
フランスから原書を買って帰ってたんですよ。
それ真似しよう、こんな成形の仕方そっくりにしようって作るんですね。
焼き上がったのと写真と見比べて、「もっと色濃いよね」とか。
で、食べてはじめて、「うわ、おいしいよね」って感じなんです。
そんなレベルです、僕(笑)。
なんせ僕、厨房から離れられなかったんで。
ずっと泊まってるような状態だったんで。
僕、パン屋さんあまりまわらないです。
例えば、音楽を突き詰めてやってる人がいますよね。
一切外にも出ずに引きこもって音楽を作ってる。
あるとき同時に、突然アメリカとかヨーロッパとか世界中で
同じ音楽が流行る瞬間ってあるじゃないですか。
それってネットを通してとか、情報を集めて知ったんじゃなくて、
いいもの作ろうとして突き詰めていった結果、必然としてそこにたどりつくということが
偶然同時に起きて、あそこでも流行ってる、ここでも流行ってるって、なったりしますよね。
パンもそれといっしょだと思ってて。
よその食べて、なるほどこうなってるのかって組み立ててコピーするのもひとつの手なんです。
だけど、なんせ僕、昔は厨房から離れられなかったんで。
ずっと泊まってるような状態だったんで。
そこでしか情報がないというか、自分のやるもんがすべてだったんですね。
そしたら、もっとおいしいもの作ろうと思って、
突き詰めていろいろ変えていってできあがったものが、
結果としてフランスで流行ってるもんといっしょだったってことが、一瞬起きたんですよ。
ハード系の生地の冷蔵長時間発酵です。
ハード系のパン、いまでこそ冷蔵長時間発酵ってもので作りますよね。
僕、かなり昔からそれをやってて。
それは、勉強して思いついたんじゃなくて、
このままじゃ寝る時間なくて死んじゃうというのがあって。
冷蔵庫の中で、パンになんか起きてる。
パンの製法って、いろいろあると思うけど、大きく分ければ2つにしか分かれないと思うんです。
僕は、ストレート法と、発酵種法しかないと思ってるんですよ。
ストレート法っていうのは、すべての材料ぜんぶまぜちゃって、
その日のうちに焼き上げるところまでいくやり方。
一方、発酵種とか、ルヴァン(自家製酵母)とかを添加したりするのは、発酵種法なんですよね。
昔は知らなかったから、師匠のところではぜんぶストレート法だったんで、
馬鹿正直にストレート法をやってたんです。
そしたら寝る時間がなくて、倒れて、本当に死ぬぞこれと思って。
なんとかしなきゃって生命の危機を感じたから、省略する方法を考えはじめた。
菓子パンだったら、生地玉っていって、まるめて冷蔵庫で置いとけるのに、
なんでハード系はやらないんだろうって、試しにやってみようと思った。
少量のハード系の生地をパンのトレイにのっけて冷蔵庫の中に置いて帰って、
翌日焼いてみたんですよ。
そしたら、寝かさずに焼いたものと、寝かせて焼いたものと食べ比べたら、
圧倒的に寝かせて焼いたもののほうがおいしかったんですよ。
当時は言葉では説明できなかったですけど、冷蔵庫の中でパンになんか起きてる、ってわかって。
おまけに、冷蔵庫の中に入れといたらいいんだから、寝れるぞって思って。
これで寝る時間が確保できるっていうのが先やったんです。
じゃ、これもいけるんだったら、これもいけるんじゃないかってどんどんやってって、
いまの製法にいきついた。
それ以降ずっとつづいてるやり方です。
結局、冷蔵庫で熟成してたってことですよね、酸化しないように。
「パンのレシピなんて人間が考えだしたものなんだから、
自分で考えればいいんだよ」
「プチメックのバゲットは?」って訊かれたとき、カツオと昆布の出汁のたとえ話するんですよ。
さっきいったストレート法で作る、3時間発酵の基本のバゲットっていうのは、
長時間発酵したバゲットに比べて味が薄く感じますよね。
それ(基本のバゲット)が僕はカツオと昆布の出汁だと思うんです。
カツオと昆布の出汁ってそれだけ飲んでも強い味は感じない。
じゃ、それをもっとおいしくするためにはどうすればいいかといったら、
2つ方法があると思ってて。
1つは昆布とカツオの出汁を煮詰めていく、
うまみが出るまでぎゅーっと味が濃くなるまで煮詰める。
それがうちの長時間発酵のバゲットなんです。
もうひとつ、カツオと昆布の出汁をおいしくするには、
しょうゆっていう熟成された発酵物を一滴二適落としてやれば、全体がぽーんとおいしくなる。
これが発酵種法です。
しょうゆにあたるものが、うちでいうルヴァンの種などの発酵種。
それを添加してやることで、生地ぜんぶに味が行きわたるって理屈だと僕は思ってるんです。
そんなこともぜんぜん知らなくて、
師匠から教えてもらった配合がすべてだと思ってパン作ってた頃、
僕が天才だと思っている、青い麦の福森さんに無邪気に質問した。
「福森さん、どうやったら自分のパンって作れるんですか」
「パンのレシピなんて人間が考えだしたものなんだから、自分で考えればいいんだよ」
「まったく、この人、何いってるんだろう」ってその頃は思ってたんですけど、
その意味がちょっとわかったような気になったのは、冷蔵長時間発酵にたどりついた、
3年目、4年目ぐらいでした。
閉店のとき、朝イチと同じ状態でパンが並んでる。
なんのために一日やったんだろう。
うちの1軒目のお店、見向きもされなくて、最初の3年間赤字垂れ流し。
赤いお店(1号店)をはじめたとき、お客さんからすごくいろいろいわれて。
「パン屋に見えない」
「あんぱんがない、食パンがない」
「硬いパンしかない」
「パン屋にしては照明が暗すぎる」
「入りづらい」
散々なこと僕はいわれつづけてるわけですよ(笑)。
お客さんがあまりにもこないから見てたら、1人目お客さんいたら、
2人目も比較的入ってきてくれるんですけど、最後の1人が出て行ったら、
次の1人目は怖がって入ってこない。
パン屋に見えないから。
だから、なんとか入ってきた人の足止めしなきゃと思って、
ポップに作り方とかいっぱい説明書きのように書いた。
いまだにうちのポップ、よそのパン屋さんよりぐだぐだ書いてるんですよ。
たくさん書くのは、足止めるために、時間稼ぎでやったことの名残が残ってるんです。
それぐらいうちはお客さんこなかったんで、パンもものすごい数捨ててきた。
それこそ、朝オープンして、厨房で仕事がんがんやって、閉店するとき表に出たら、
朝イチと同じ状態でパンが並んでるんですよ。
サンドイッチもパンも売れてなくて。
僕、なんのために一日やったんだろうって(笑)。
それが、毎日つづいた。
お店なのに電話止まったことありますし。
アルバイト代も払えなくて、僕個人のキャッシュカードで限度額30万引き出して、
お給料払ったことが2回ぐらいあるんですよ。
それぐらいお金がなくって。
だけど、「じゃあ、あんぱん作ったら売れる」っていう発想には不思議といかなかったですね。
3年目に、「もう今年ダメだったらダメかもしれない。考えなきゃいけない」って
追いつめられたときに、一週間のうちに、それこそ僕にとって当時の神様、
青い麦の福森さんとビゴさんが立て続けにきはったんですよ。
その当時、カイザーもない、ポールもない、サブロンさんもいない時代。
日本のパン業界の有名人トップ誰といったら福森さん、ビゴさんってイメージだった。
その2人が立て続けにきて、すごいほめてくれたんですよ。
福森さんに、「ぜんぜんパン売れないんですよ」って相談したら、
「店構えからして売る気ないだろう」っていわれちゃって。
僕はそのつもりなかったんですけど、
先生らから見たらもっとわかりやすくないと売れるわけないというのあって。
「だけど、お前みたいな店も必要だからがんばれ」って、すごい励まされて。
ビゴさんには、「ビゴさん、潰れそうです」っていったら、「石の上にも3年だ」っていわれて。
「じゃあ、我慢してがんばろう」と思ったら、
そのあとに『カーサブルータス』とかわーっと取材にきて。
で、なんとか軌道に乗ったいうのがあるんですね。
4年目にお客さんがくるようになって、業者さんにお金が滞らなくなって、
まずお金の心配しなくてよくなったのがいちばんほっとした。
お客さんの大行列を見ながら、
うわごとのように「まちがってる、まちがってる」と
いいつづけてた。
『カーサ』以降、関西圏の雑誌が全国区になったんですよ。
そしたら、店にくるお客さんも、「沖縄からきました」「北海道からきました」。
店の前に止まる車もナンバーが名古屋とか静岡とか。
それ見てスタッフがすごいなすごいなっていってたんですけど、
今度は売れすぎるようになっちゃって。
いくら作っても、ひどいときには3時過ぎにはからっぽになっちゃって、
もうおっつかなくなったんですよ。
売れない頃はパンの出来が許せなくって、だからお客さんがこないんだって思っちゃうんですね。
これが原因でお客さんこなくなっちゃうんだよとか怒ってたのが、売れるようになってくると、
出さなきゃいけないから、もういいからだせとか、80点でもだせとかなってくるんですよ。
それやってるうちに、
「なんかまちがってるんじゃないか」って、ふと厨房で仕事やりながら思いはじめて。
お客さんがトレー持って、大行列作って並んではるの厨房から見ながら、
うわごとのように「まちがってる、まちがってる」といいつづけてたみたいで。
そのうち、僕は意識してなかったんですけど、
「やめなきゃ、やめなきゃ」っていいだしたらしくて。
最初、売れなかったころは、近所の人もこなかったですし、
「どうせやめるなら有名になってからやめてやる。食べたいときにプチメックはなしだ」って
厨房で叫んでた。
だから、屈折してるのかもしれないですけど、軌道に乗ったら乗ったで、
お金の心配しなくてよくなって、遠くからいろんなお客さんがくるようになって、
「うちってすごいんじゃないか」ってみんながはしゃぎだして、
そのときに僕は「まちがってるんじゃないか」って思いはじめて。
パンないのに3時以降もお客さんくるわけですよね。
これはもちろんやったことないですけど、
「誰か近所でパン買ってきて棚におけば、
『やっぱりプチメックおいしい』って買われるんじゃないか。これっておかしくないか」って、
よく話すようになったんですね。
これは1回ストップしなきゃって自分の中で思ったんですよ。
自分が正しいと思うほうのドアを開けつづけてきたら、
気がついたら新宿まできてた。
でも、銀行とかいろんな人に迷惑かけちゃいけないから、
借金返すまではがんばんなきゃいけないって。
7年目でやっと最初の借金がなくなった。
で、そのとき、10年迎えたら「10周年閉店フェア」をやろうって思った。
スタッフに「どっか行きたい店あるか」って、
本気で紹介するつもりで「残り3年かけてお金ためて、スケルトンに戻す準備するから」とまで
いってたんです。
10年といっても、僕20時間以上ずっと働きつづけてて、オープン以来4年間休み一度もないんです。
普通の人の10年とは、実際の時間感覚でいったらちがうじゃないですか。
そこまでやると、燃え尽き症候群じゃないですけど、
ひとつのこと集中して10年以上やるの無理だなって自分の中で見えてきたんですよ。
たぶん10年以上続けても、どっかで打算がでてきたり、飽きるってことあるでしょうし。
って思ったとき、自分の中で、お店一軒ってことあり得なかったんですよ。
前に進むか下がるかしかなくて、立ち止まるいうのは選択肢としてなかったんです。
下がるというのは、店をやめちゃうことだし、進むというのは、次は職人じゃなくて、
経営者として目指そうということやと自分は思うてたんですよ。
で、9年目でたまたま、不動産屋から物件が頼んでもいないのにくるようになって、
その頃にいいスタッフがたまたま集まって、これって前進めってことかなって僕解釈して。
その頃に結婚してる子や、子供いる子が現れたりして。
僕が雇用者として彼らの生活も責任もちはじめなきゃいけないんだって意識しはじめたんですよ。
もう前に進んで拡大する方向でいこうって決めて、みんなに宣言して。
ただしそうなったら、僕が「触らせない」とか、「がんがんやる」とか、
どんどん悪いほうに進むから
僕は基本、厨房には立たないっていって。
2軒目は厨房とかけっこうお金かかってるんですよ。
なんでかっていったら3軒目やるための2軒目だって。
2軒目で終わったら失敗、3軒目やってはじめて成功になるからっていって。
3軒やったら4軒目って。
もう事業だから立ち止まれないって、スタッフに宣言した上で2軒目やった。
それが9年目。
3軒目が新宿になって、ちょっと計算狂っちゃったんですけど。
やめるか、増やすかしか、経営者として僕のなかでは選択肢がなかったんですよね。
子供の頃からパンが好きで好きで、パン作るのが趣味でって人がやってたら、
こういう発想にはならなかったと思うんですよね。
もちろんいい年をしたスタッフをかかえたからっていうのもあるんですけど、
自分も年取ってきますし、結局、お店をやった時点でいやでも経営者になっちゃうんですよね。
だから、職人でありたい自分がいながら、
どうしてもその前に人雇用してるでしょ、ていう責任が本来ある。
それを考えると、結局人として正しいのはどっちなんだろうって。
10代の頃から、「正しいのはどっちだ?」ってドアが2つあって、
自分が正しいと思うほうを開けつづけてきたら、気がついたら新宿まできてた。
どの国の、どの文化の人でも「おいしい」というものって、絶対ある。
僕はどこまでも素人目線だと思うんですよ。
僕、実はマニアックなことやってるとは思っていないんですね。
じゃないと、店を増やすなんてできないし。
それこそ、世界中の誰が食べてもおいしく感じるところあると僕は思ってるんですよ。
すごい僻地で食べられているものとか、犬を食べるとかはありえないんですけど、
そこまでマニアックにならなければ、酸味のあるものだろうがなんだろうが、
どの国のどの文化の人でも、「おいしい」という最大公約数が人間としてあると思うんですよ。
その中で収めれば、フランス人が食べてもおいしいといってくれた上で、
日本人が食べてもおいしいといってくれる、アメリカ人が食べてもおいしいといってくれるものって
僕絶対あると思ってて。
その枠からでないようにしようというのは意識の中にあるんですよね。
うまくいえないんですけど、極端にすっぱいパンでなければいいとか、この酸味までなら許される、
おいしいって感じられるとか、あると思うんですね。
うちもイースト使ってない、種を継いでるパン(自家製酵母のパン)ってあるんですけど、
それが日本人に受け入れられないかっていえば、
日本人が食べてもおいしいといってもらえると思う。
その最大公約数の中で収まりきってると思ってて。
だから実はマニアックに見せてるだけで、間口広いことやってるつもりではいるんです。
最近やっと、
手を離すことではじめて見えるものもあると
思えるようになった。
僕、もともとは、絵描いたりとか、物を作るのが好きで、そこから延長線上に職業があるんで、
本当はパンを人に触れられるのも嫌なんですね。
職人気質が強い人みんなそうだと思うんですけど。
それこそスタッフに、「クロワッサンとバゲットは触らないでくれ」といってた。
百個からのクロワッサン僕ひとりでやってたんですよ。
職人としては、本当はそれがいちばん幸せだって思ってるんですけど、
最近やっと自分の手を離れても、手を離すことではじめて見えるものもあると思えるようになった。
それを離さなきゃ、今頃ここ(新宿)でお店できてないし。
人の手にゆだねるのはすごく苦痛だったんですけど、それが離してみて、
離したことによってわかったこととか、見えてきたものがある。
それをやっとおもしろがれるとこまできたという感じです。
それはスケールメリットの部分であったり、店を東京にだせたから知り合えた人であったり、
東京にきたから知れたことでもあるし。
パンのこともそうですし、見せ方にしてもそうですし。
これがかたくなに触らせずに、僕が倒れたらこの店終了、とかいうことを京都の片隅でやってたら、
いまだに東京でなにが起きてるかとか、こういう食べ物もあるということも知らずに、
厨房こもった生活をずっとつづけてるわけですよね。
その生き方を否定するつもりもないし、自分も元々はそうだったんですけど、
いまは手を離しちゃって、スタッフにゆだねたりとかして、
そうすることで見えてくることもあるじゃないですか。
それがおもしろいってやっと思えるようになった。
また次、これもできるかもしれないって見えるようになってきたのがいちばん大きいですよね。
だから、職人さんって、ものを作る職業の人はみんなそうだと思うんですけど、
売れなきゃいけない、でも自分の手ですべてやりたい、というのがあって。
でも、まず作れなきゃ、メジャーになれないし、ポップにもなれないし、人目にも触れない。
それで本当にいいのかって葛藤、創作者ってあると思うんですよね。
ビジネスと物作りの葛藤がそうであるみたいに。
食えなきゃいけないけど、やりたくないことはやりたくないし、
パンやっててもそれは一時かなり悩みましたよね。
本当にすごいパンを作りたかったら、
人を雇っちゃダメなんだと思った。
なんかいい言葉ないかなと思ってたら、
コム・デ・ギャルソンの川久保玲さんが「経営もデザインする」って名言残されてて。
デザインするように経営するってことだと思うんですけど。
H&Mとコラボされたときに、「まさかあのギャルソンが、どうしてH&Mと」って、
僕らなんかにはショッキングな出来事だった。
あのときの会見で川久保さんが「いつも創作とビジネスの狭間で苦しんでいる」っていわれてて、
「今回はどこまでビジネスとして成立するか実験としてやってみたい」
みたいなこといわれてたんですよね。
あれは膝を打った。
あれ聞いてわかるっていった人は、
アパレルだけじゃなくて、いっぱいいるとすごく思ったんですよね。
本当にすごいパンを作ることだけを目的にするなら、
人を雇っちゃダメなんだと僕は思ったんですね。
儲け度外視でやれるんだったら、いちばん職人として幸せなこと。
それを、返済したりとか、家賃払ったり、スタッフみんなの生活を保証していかなきゃとか
考えると、やっぱり突き抜けたことやるのって難しいんですよね。
本当にすごいものを作り出す人は、何かを犠牲にしているんだと僕は思ってます。
だから、「おいしいですね」「すごいですね」といわれても、
常に「うちよりすごいとこありますよ」ってなっちゃうのは、100あるうち100だしきれたとしても、
そのときにはどっかでしわ寄せいくと、僕が思っているからなんです。
関わる人みんなが基本幸せにならないといけないと思ったら、60点じゃだめなんですけど、
80点で維持できることを取るようになっちゃいます。
その後ろめたさのようなものがずっと何年もあったんですけど、
最近それが楽しくなってきて、次はこれができるかもしれないとか思えるようになった。
お客さんも、働いてる子も、商業施設も、
みんなが贅沢じゃなくても一線以上のしあわせになる方法
って、僕は絶対あると思ってる。
アップルのスティーブ・ジョブズがすごいなって思うんですね。
じゃあ僕らの業界で、本当の意味でのイノベーションを起こした、
パン業界・飲食業界のジョブズっているかというたら、エルブジのフェラン・アドリアぐらいかと。
アドリアが液体窒素を使って、凍らないものを凍らしたのを見たとき、
「その手があったか」って驚いちゃったんですけど。
それ以外には、僕が思いつくかぎり、厨房からイノベーションが起こるとしたら、
厨房以前の食材の品種改良くらいだと思ってるんですよ。
それが唯一のイノベーションであって、
僕ら職人が本当のイノベーションを起こすことってできるのかと思ってて。
じゃ、職人の世界はいつまでもダメなのかっていったらそうじゃなくて、技術だけじゃなくて、
売り方とか、サービスの仕方とかのイノベーションってあると思ってるんですよ。
そっちでなら僕らの世界でもイノベーションあるんじゃないかと。
だから高い値段にしたくないとか、いろいろ実験的なことやってるつもりなんです。
これでも、みんなに人並みにお給料あげれて、死ぬほど働かなくてやってける仕組みっていうのも、一種のイノベーションじゃないのかっていうのがあって。
僕ら職人はそっち側も考えれるんじゃないかって。
パン好きの人だけでなく、一般の人にも、
「パン屋ってすごい」ってどうしたら思ってもらえるのか。
僕は、そっちを悶々と考えてるんですけど。
いまなにやりたいっていったら、ファミレスやりたい。
そこでクオリティの高いパンの食べ放題やりたいんです。
それをやったらよろこんでくれる人がいっぱいいるんじゃないかって、
僕のいきつくところそこなんです。
エゴとかでやるんじゃなくて、お客さんも、働いてる子も、呼んでくれた商業施設も、
みんなが贅沢じゃなくて、一線以上のしあわせになる方法、喜んでもらえる方法って、
僕は絶対あると思ってて。
それはいつかやってみたいというのが夢としてある。
「美味しいものは高いんだ」って言われたこともあるんですが、
安かろう、まずかろうじゃないものって、僕はやってやれないことはないと思ってて。
もちろん危ないもん入れたりとか、やっちゃいけないことはやらずに、
高くなくておいしいもんって、考えればできるんじゃないかと思ってて。
それはむずかしいことではあると思うんですけど。
職人の仕事はとても魅力的で尊いものだと思ってて。
今でも忙しくて手が足りないときは厨房に立つことがあるんですが、
作りはじめると僕も夢中になって、やめられなくなってしまうほどおもしろい。
職人さんは昔から職人として正しいことをいい意味で変わらずされてきました。
でも、経済が変わりすぎちゃったのが致命的なことやと思って。
末端で生きてる職人らは、昔からなにも変わらず生きてるのに、
世の中が変わって不遇な目に合ってるのが現状だと思ってるんですよ。
それはつらくても受け入れるしかないっていうのは僕、すごくある。
でも、職人さんが悪いんじゃないと思ってるんですよ。
結局、僕らのやってる実体経済が資産経済(金融経済)に飲み込まれたのがすべての元凶。
金融工学とかあの手品みたいなもんかしこい人が作ったのが、世の中の狂いはじめた原因で、
金融経済って実体経済を円滑に動かすために発生してできたはずなのに、
金融経済が大きくなりすぎちゃって、その影響で実体経済=職人世界が圧迫される。
じゃあ、資産経済が悪いのかっていったら、資本主義である以上、認めざるをえなくって。
そしたら、僕ら職人の側も、このまま黙って死んでいったりとか、文句いってるんじゃなくて、
時代に合わせて生き延びる方法を考えたいと思ってるんです。
(最後まで御覧いただきありがとうございました)
JUGEMテーマ:美味しいパン
取材を終えて帰ろうとしたときだった。
渡辺さんが「散歩しよう」とおっしゃって、我々はそのまま渡辺さんに付いていった。
小雨の降る浅草。
インタビューでは語られなかった話もする。
渡辺さんが写真ばかり撮り何も言わない私に気を遣って
「あなたはカメラマンなの?」と声をかけてくださった。
ブログのために撮影をすることがあると話す。
「どういう写真を撮るの?」と問われて「当たり障りのない写真」と答えたとき、
自分が渡辺さんを前にとても緊張していることを自覚した。
長年ペリカンのパンを使用している喫茶店へ案内してくださった。
ピザトースト。
ホットドッグ。
ヨットや音楽や恋や映画や将来の夢や人間の声やファッションやお酒の飲み方のことなど、
話は尽きなかった。
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取材から編集部に戻って間もなく、ペリカンのパンを焼いて食べた。
トースターをおもむろに設置してどんどん焼いていく。
編集部員は匂いにつられてトースターの前に群がり、食料配給のような列を作って
焼けるのを待った。
取材を終えて、しばらく放心状態が続いた。
渡辺さんの言葉やその時の光景を反芻していたら、
興奮が収まるまでに時間がかかったのである。
職人さんの手を離れたパンからでさえ刺激を受け取っているというのに
その作り手である職人さんと触れ合ったことで
許容範囲外の刺激を受け取ったのかもしれない。
これから何人もの職人さんと出会うなかで冷静に対話をしていくためにも
刺激を受け止められるだけの勉強を続けなければいけないと強く感じました。
ペリカンの渡辺さん、ペリカンの皆様ありがとうございました。【D】
(003をお楽しみに…)
JUGEMテーマ:美味しいパン
人を虜にして放さない、ペリカンのパンの魔力について、2代目は、
「理由はわからないけど無性にあれが食べたい、(中略)その欲求の本質的な部分を探って、それに接近していくよう」でいて「さりげなく、細く長くおつきあいができるパン」と。
あるいは、「弾力と張力」という表現をした。
たしかに、ペリカンのパンのおいしさとは、弾力に加えて張力なのである。
歯が食パンの表面に当たり、押し切る瞬間に、張りつめていたものがたわむ。
生地が歯を押し返しながら、やさしく歯切れると、パンの味が滲みだしてくる。
決してすぐにではない。
じわじわと、「甘さ」という言葉で表現されるぎりぎりの、とてもあっさりした精妙な甘さがでてくる。
最初の甘さがなくなっても、別の部分から同じ甘さが現れ、それがなくなってもまた別の部分から甘さが現れる。
だから、いつまでも飲み込むのが惜しいような気さえする。
3代目の渡辺猛は、私が読み上げた父親の言葉を、目を伏せてじっと聞き取り、そしてしばらく考えたのち、自分の言葉に置き換えて、いった。
「自然とか、そういう言葉になっちゃうの。自然」
ペリカンは、食パン、ロールパン、バンズのわずか3種類しか置かない。
昭和24年の創業当時、あんぱんやジャムパンも売る「普通のパン屋」だったペリカンを、2代目店主は切り詰めた品揃えのパン屋として確立した。
昭和30年代から40年代にかけてのことである。
ペリカンはそれ以来まったく不動のように思える。
作り手でさえわからないほどの微妙な「変化」を感じとって訴える常連さんの期待に数十年にわたって応えてきた。
私たちは、雑誌のパン特集にのるパン屋に、「もっと新しいものを」と、移ろいやすい現在を求めて足を運ぶが、ペリカンにだけは変わらない過去を求める。
しかし、それは幻想に過ぎない。
「変わらないというのは嘘だよな。まず、粉とか素材が変化しているじゃん。バターも質が変わっているし。パンを焼く環境にしても、戦前は薪、それから電気、灯油、いまは都市ガス。製造装置も進化している」
変わっているにもかかわらず、まるで変わらない。
人びとの記憶の中のペリカンであるためには、むしろ変わりつづけなくてはならない。
「世代も変化しちゃってるわけじゃん。日本人の質が変化している。そこで昔と変わらないようにしてたら、潰れるぞ」
渡辺は浅黒い肌をしている。
いつもヨットに乗っているからだ。
ヨットを速く動かすには、風や波、そして潮の動きを、鋭敏に感じとらなくてはならない。
ヨットとパン作りには似ているところがあるという。
「いきたい方向にいけない。自分のいきたい方向にいくには紆余曲折しないと」
ペリカンとそれを取り巻く状況を、渡辺は固定したものとして見ていない。
パン屋が相手にするのは、客の記憶や感覚という移ろいやすいものである。
あるいは素材の生産条件や、設備や、経済という、パンを作るために必要不可欠なものも移ろう。
それら刻々と変わりゆく、必ずしも目に見えているわけではない、いくつかの変数を読みとり、複雑な連立方程式に最適の解を与えることが、ヨットの操作に似ているのだという。
時代は潮流のようにいつも流れているにもかかわらず、そこに浮かぶペリカンがまるで灯台のように、いつも私たちから同じ場所にあるように見えているとするならば、それは渡辺の巧みな操舵によるものだ。
時代を超えて多くの人びとの心を捉えて離さないペリカンのパンの魔術的なおいしさ。
それを確立した父に対する渡辺の感情は、アンビバレントなものだった。
「生きてるときは反発ばっかりしてたもん。合わないんだよ」
合わないと思っていた父の元でパン作りを学び、父の残した店を守り抜くことになった渡辺は、実は父親によく似た人なのではないかと、私は思った。
渡辺には、シンプルでありたい、さりげなく、自然でありたいといつも思う心の傾きがあって、言葉の端々にそれが現れる。
例えば、接客に関して、渡辺が心がけているのは、「いかに余計な言葉を重ねないか」「ひとつの言葉で別の気持ちも伝えられないか」である。
あるいは、私が「舌を満足させる」という言葉を使ったとき。
「舌を満足って、そこまでおこがましくないよ。あなたが一週間すべて通して、おいしかったって食事ある?」
ペリカンのパンはただそこにある、という感じがする。
ひとつの強烈な味を押しつけるのではなく、こちらから呼んだときだけ応えてくれる。
主導権は食べる側にあって、意識を働かせたときに、きっちりと、期待した以上のすばらしいものを返してくれるという感じがするのだ。
冒頭に書いた2代目の「さりげなく」という言葉に対する渡辺の解釈はこうだ。
「おこがましくないというか、さりげなくというのは、こっちから自分の存在をアピールするんじゃなくて、という感じじゃないのかな」
それはパンの味にとどまらず、わずか3つしか商品を置かないこと、あるいはまるでパン工場の軒先に棚とテーブルを置いただけ、といったたたずまいのうつくしさにもいえる。
渡辺が父に抱いていた複雑な感情は、死によって昇華された。
「親子ってそういうもんだと思うんだよね。死んでから、ああいい人だったなと」
ペリカンのパンに2代目の記憶が詰まっているように、浅草のいたるところに父の記憶は満ちている。
「町を歩いてもそうだよね。『親父さん元気か?』『いや、もう死んでるんだけど』。うちの親父の記憶を持ってる人、まだ浅草にいるわけじゃん。『親父さんは?』という話が出るかぎりは、親父の影響からは抜け出せないなと。でも、それはそれでいいんだよね。ありがたいし」
そして、渡辺はつけ加えた。
「記憶って大事。記憶ってのは、その人にとってだよな。他人がどう感じるかって、また別なものであって」
記憶は、そこにあって、そこにない。
その例として、渡辺は、近くに置かれていた北京オリンピックの記録写真集を私に示した。
オリンピックが開会してからではなく、開会するまでの準備風景が映されていて、いかにも中国の国柄を表し、たくさんの人びとによる人海戦術によって、スタジアムが建設されていく。
オリンピック会場が完成してしまった以上、その風景はもはやなく、人びとの記憶と写真の中に残されているだけだ。
渡辺の導きによって写真集を見ると、なにげない写真が不思議なものに見えてきた。
パンを食べることも記憶に関わるものであり、現にここにあるパンと、本当はそこに存在しないはずの、パンにまつわる記憶を重ねて食べているのではないだろうか。
いままで食べてきたさまざまなパンの記憶を持って私たちはペリカンのパンを食べ、そして一度ペリカンのパンをおいしいと思ったなら、その記憶をもう一度よみがえらせるためにペリカンのパンを口にする。
記憶は食べる人の数だけある。
パンを作る仕事は、そうした目に見えないものを感じとり、また決して侵すことのできない個人の記憶に常に敬意を払いながら行うものだということを、渡辺はいいたかったのではないだろうか。
そのためには、さりげなく、自然でなければならない。
渡辺はこうもいっている。
「正直に作っていくことがいちばん大事」
昔から続けているロックバンド。
取材中ずっと調子が悪そうだったPC。
配線を確かめている。
外された黒縁の眼鏡。
ドミニク・サブロン自らが、マスコミ関係者向けに、バゲットをオーブンから取り出すデモンストレーションを行ったときだ。
1本1本、バゲットをつかみ出す、手の大きさ。
それは、フランス人であることを差し引いても、瞠目すべきものだった。
私はそれまで数時間をともに過ごしていたというのに、彼がパンを焼きはじめるまでそのことに気づかなかったのである。
バゲットを何気なく手で取ろうとすれば、まず指先からつかんでいくことが自然ではないだろうか。
サブロンはバゲットを軽く扱うことはしなかった。
指ではなく、大きな手のひらで押し包むように確実にバゲットを取り上げ、トレイに取り出していく。
丹念に、1本ずつ。
リズム感も、筋肉や間接の使い方も、日本人の動きの感覚とは異なっている。
力の支点や意識が別のところに置かれたようなその動きや、日本人ではほとんどありえないような手の大きさが、パンの味とどう関係しているのかはわからない。
しかし、まったく別の思考の働き方、あるいは身体や文化の中から、ドミニク・サブロンのパンが生まれてきたことはまちがいのないことだと思った。
オーブンから取り出すときの手つきがなにを意味していたのか尋ねると、サブロンはこう答えた。
「焼き上がりを確かめていたのです」
そして、取り出したばかりのパンを私たちといっしょに食べ、にこにこしていた。
彼が全幅の信頼を置く、日本での責任者・榎本シェフが生地を作り、オーブンに入れるまでを行ったバゲットの焼き上がりは、完全に納得のいくものだったようだ。
サブロン自身がナイフを縦横に走らせて切り分けた一片を、私は口にした。
硬い皮には、少しざらっとした舌触りがあり、そしてぱりっとではなく、ざくっと崩れる。
薄い一枚ではなく、何層か重なったものを噛み割っていくような快感。
けれどもその快感を追い求めることに溺れているのではなく、日常の食べ物として、飽きがこないような地点で謙虚に踏みとどまっているという感じも同時にあった。
だから、私の関心はスムーズに中身の味わいへと移っていった。
ある種のパンのおいしさは「甘い」と表現される。
しかし、このバゲットが舌に与える感覚は「甘さ」未満のものだ。
これも食事パンとしての「踏みとどまり」だといっていいかもしれない。
「甘い」という言葉で表現することを許さず、パンの味がすり抜けていくその先に、さまざまな言葉にならない味わいが飛び出してくるようなのだ。
少なくとも3つや4つの「なにか」が感じられるようだったが、食べる人の感受性によってそれはまったく異なるだろう。
生地の味わいに透明感があるために、ひとつの味が覆いつくしてしまわず、他の複雑な風味が透けて見えるのではないだろうか。
その透明感がドミニク・サブロンの核心ではないかと、私は仮に考えてみた。
私たちとサブロンの間には言語の壁があって、彼がなにを伝えようとしているのか、すぐには見えてこなかった。
例えば、ある人の質問に、ドミニク・サブロンはこのようなやり方で答えた。
そばにいた職人に、レシピのファイルを持ってこさせる。
ステンレスの作業台の上にそれを置き、日本語で書かれたページを自分でめくり、苦労してたどりついたバゲットのレシピを、一同に指し示すのだった。
『ブーランジェ』(基本の生地)
クラシック 100%(ドミニク・サブロンが開発した日本製粉の粉)
塩 2.5%
イースト 0.24%
ブーリッシュ 2.5%
ルヴァン種(分量メモできず)
レシピを示しながらサブロン氏はいった。
「これを見てください。これだけです。すべて自然のものしか入っていません」
レシピを見ても、パンを作らない私にはちんぷんかんぷんである。
彼がどうしてこのようなことを私たちにして見せるのかもよくわからない。
ただわかったのは、ドミニク・サブロンに何の秘密もないということ。
それゆえにいっそう、サブロンのいいたかったことは謎のまま残るかのようだった。
ドミニク・サブロンは、長いキャリアの中で、ありとあらゆる試行錯誤を繰り返しながら、現在のレシピにたどりついた。
その過程は、すべてのパンに使用されるもっとも基本的なもの、自家製酵母の複雑さに象徴される。
原料は小麦に加え、はちみつや香辛料など。
「香辛料は味に締まりを与え、はちみつはかすかな甘みを与えます」
はちみつを発見するまでは、オレンジやカシスといったものを試したそうである。
自然の中にあるさまざまな食物が、酵母の元となったとき、どのような味わいをパンにもたらすか。
たったひとつのものに関して確かめるだけでも、それは微妙極まるレベルのちがいだろうし、それがさまざまな割合でミックスされるとなると、可能性は天文学的な数にのぼる。
そのような収拾のつかない冒険に出発し、理想の味をつかみだしてくるには、強固な意志と努力、そして狂いのない羅針盤が必要だったにちがいない。
その羅針盤とは、自分の焼くパンの揺るぎない具体像をイメージする力ではないかと思うのだが、これは本人に確かめたわけではない。
けれど、このエピソードも、ドミニク・サブロンがもっともいいたかったこととは、なにかちがうような気がしている。
彼の口調が熱を帯びたのは別のことであったからだ。
私の知人に「クロワッサンの熟成」を実験した人がいる。
いくつかのクロワッサンを買ってきて、それをすぐ食べず、熟成させた。
すると、3日後でもぱりっとして軽やかさが残っていたのは、ドミニク・サブロンのクロワッサンだけだったというのだ。
この話を聞いたムッシュ・サブロンは心底うれしそうだった。
「あなたの友人はとてもおもしろいことをしています。いい小麦を使って作られたパンは、長い間置いておくことができるのです」
それが誘い水となってか、以下のような話がはじまった。
「70年代、日本に最初の本格的なフランスパンの作り方をもたらしたのは、レイモン・カルヴェルでした」
レイモン・カルヴェルとは元フランス製パン学校の教授で、フランスにおけるパンの革新においても大きな役割を負った人である。
本物のフランスパンについてほとんど知ることがなかった当時の日本人にとって、彼の来日は革命であり、レシピは衝撃波となって日本中に広まっていった。
そのためにカルヴェルは「パンの神様」とまで呼ばれることもある。
「当時の日本には(パンに適した小麦は)アメリカ産のものしかありませんでした。アメリカ産小麦は味が強いので添加物を入れざるをえない。その作り方の影響が残り、添加物を使ったフランスパンが広まったのです」
それは日本のみの事情ではない。
パンを主食とする国フランスでさえ、「合理化」のため、添加物に席巻されてしまったのだから。
憂うべき事態に革命を起こしたのは若いパン職人たちだった。
その代表的な旗手を2人挙げるなら、ひとりはエリック・カイザー(メゾン・カイザーのオーナーシェフ)、もうひとりがドミニク・サブロンである。
伝統的な製法に回帰したパンの新鮮なおいしさはフランス人に衝撃を与え、2軒はパリでもっとも有名なブーランジェリーとなった。
だからなのだろう、次の言葉をいったとき、サブロンの口調は誇らしげだった。
「フランスパンには2種類しかありません。ひとつはパン・ノーマル(普通のパン)、もうひとつはパン・トラディショナル(伝統的なパン)」
ドミニク・サブロンが後者であることはいうまでもない。
パリのドミニク・サブロンで研修を積み、またそれ以前は、志賀勝栄シェフがいた時代のペルティエなど第一級の店でも修業をしたことのある榎本シェフは、ドミニク・サブロンについてこのように語る。
「志賀さんとドミニク・サブロンには共通するところがあります。妥協は絶対にしないということ。それから、食材の味を活かすこと」
日本とフランスを代表するパン職人はともに、材料を大事にすることをもっとも重要視する。
事実、サブロンが自分の仕事としてもっとも心を砕いていることは、良質の小麦を確保することである。
毎年、7〜8月の収穫時期になると、ドミニク・サブロンが買いつけている小麦の農家をまわって、農薬・化学肥料を使っていないかどうかを確認する。
「小麦もワインも同じです。小麦の産地によって、バゲットの味もちがう」
この日、ドミニク・サブロンとは赤坂の店での記者会見ではじめて出会い、いっしょに電車に乗って仙川店まで移動し、オーブンからバゲットを取り出す場面を見せてもらい、そのあと店の前の公園でピクニックをして、ドミニク・サブロン本人の手で切り分けたカンパーニュに、ジャムまで塗って、手渡してくれた。
その間、サブロンが語ったのは、ほとんどひとつだけだったのではないだろうか。
それは、午前中の記者会見ですでに語ったいたのである。
「ドミニク・サブロンの哲学とは、すべて自然のものを使うということです」
あのバゲットの、澄んだ湖の底を覗き込むような透明感は、純粋な小麦でなければありえないものなのだ。
自然を大事にするなどということは、どのパン屋のホームページにでも書かれていそうな、見飽きたことにすぎない。
だから、もっと他の秘密があるはずだと私は思い込んでいた。
けれども、ドミニク・サブロンにとってもっとも重要な事実とは、パンは小麦から作られている、という極めて当たり前のことたったひとつなのであった。
私たちはパンを食べ、考えるとき、なにかを添加するのではなく、むしろ削ぎ落とし、もっとも根源的なひとつに立ち返らなければならない。
それが、ドミニク・サブロンから教えられたことである。
参考文献『パンの歴史』(スティーヴン・カプラン著、河出書房新社)
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