パンの研究所「パンラボ」。
painlabo.com
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
ブレッドプラントオズ(都立大学)
189軒目(東京の200軒を巡る冒険)

メゾン・カイザーの総帥、エリック・カイザーに会ったとき。
私は以前から思っていた疑問をぶつけた。
なぜ、カイザーのパンはあんなにはまるのか。
一度食べると何度でも何度でも食べたくなる。
普通のパンとはちがう、「なにか」としか呼べないものが確かにそこにある。
エリック・カイザーはにやりとして、こう言った。
「ドラッグ」と。
彼は自分のパンを麻薬だといい、なぜそうなのかについては口を濁した。

その秘密を私に教えてくれた人がいる。
大島剛志さん。
メゾン・カイザーで技術指導の責任者を務めていたが独立、ブレッドプラントOZを立ち上げた。
彼がつかんだメゾン・カイザーの秘密は、その店でいかんなく発揮されている。

葉山ボンジュールという老舗のパン屋で修行したあと、はじめて覗いたメゾン・カイザーの厨房でこのように思ったという。
「フランスの仕事は簡単なんだな。
よくいえばダイナミック、悪くいえば大雑把。
前の店ではみっちり鍛えられましたから。
親方に右向けと言われて右を向いているのに、5度ちがう、6度ちがうといわれるような。
カイザーでは、右向けといわれて右さえ向いていればそれでいいというような感じでしたね。
本当はどっちも繊細なんだけど、繊細さの方向がぜんぜんちがう。
カイザーの場合、科学的なところで繊細。
粉の選び方、塩の選び方。
職人の勘でやってるところがない。
ぜんぶが合理的。
好みだからこっちにしよう、という仕事じゃないんですよね。
繊細の意味がちがう」

エリック・カイザーの繊細な「科学」。
それがマニュアル化され、パリ、ニューヨーク、東京、全世界で同じパンを提供することを可能にしている。
だが、それをつかさどる科学の核心まで知った者はおそらく少数だ。

「その部分は隠されているから、自分で追求しないと、知ることができない。
誰がやってもおいしくできるようになってます。
ぜんぶ手でやらないといけないという日本の職人さんと同じぐらい繊細に、機械でできるようにするには、マイクロの部分を追求するしかない。
たとえば、粉を選ぶ場合も、製法によって粉の粒子、グルテン量に向き不向きがあります。
何時間発酵させるならば、この粒子が向いているという考え方」

小麦粉の性質を判断するためのデータといえば、タンパク量・灰分(ミネラルの量)が一般的である。
メゾン・カイザーでは、もうひとつ粒子の大きさにも目を向けているというのだ。
粒子が粗いと、粒子と粒子のあいだにより大きな隙間ができるので、ふくらませると(酵母が空気を吐けば吐くほど)だんだんそれが開いて、ガスを保持しなくなる。
よって長時間発酵には粒子の粗い小麦粉は向いていない、というのが大島さんの教えてくれた理論である。

「あるいは塩ですが、天然の塩ならなんでもいいのかというとそうではない。
塩はカルシウムとナトリウムからできていますが、ナトリウムの部分が少ない塩がいいのか、多い塩がいいのか。
ナトリウムには生地を引き締める効果がある。
どれだけ引き締めるかで、食感にも発酵にも影響がある。
(ナトリウムが少ないと生地がだれやすいので長時間発酵に向いていない)
エリック・カイザーが合理的に調べてある。
現場のレベルでは(すでに決定されたことが降りてくるので)誰でもできるようになっている。
職人の勘に頼っている仕事は1個もない」

従来なら職人技と呼ばれていた部分。
その中には、理屈がわからないから勘でやるしかない、という側面があるのかもしれない。
ナトリウムイオンの濃度までわかっていれば、この塩とこの小麦粉の組み合わせでどれぐらい生地が引き締まるかがわかっていれば、職人技で毎日調整するまでもなく、品質を安定させることができる。

そして、メゾンカイザーが麻薬である所以(ゆえん)とは。
カイザーといえばルヴァン(自家製酵母種)だが、そこに秘密はあった。

「メゾンカイザーと僕の店はいっしょ。
乳酸菌の活性に特化した製法です。
(自家製酵母によって)いろんな酵母も拾ってくるんですけど、特化するのは乳酸菌。
乳酸菌に注目してパンを焼いている。
だから、いくら食べてもお腹にもたれないんですね。
なんとなく食べてっちゃう。
乳酸菌はお腹にもたれないようにできてるから。
大事なのは(酵母とそれ以外の菌の)バランス。
乳酸菌は発酵力がない。
むしろ、生地をだれさせる。
(発酵のとき)どの温度帯でやってくかのさじ加減が微妙なところで。
少し上にいっても、下にいっても(思うようなパンが)できない。
何割酵母を育て、何割乳酸菌を育て、と科学的に仕上がりやボリュームをコントロールする。
理に適って考えるので、修正するのもスピードが速い」

乳酸菌の甘さ。
それが人を狂わせ、他のパン屋にない、もうワンパンチをカイザーのパンに加えている秘密だった。
他の従業員には教えなかった秘密を大島さんはどのように知り得たのか。

「それとなく聞いたり。
なんとなく言葉を濁していたところを自分で調べたり」

メゾン・カイザー時代、木村周一郎社長の片腕だった。
「木村は豪快。
『日本一のおいしいパンを作るために仕事をしているんじゃないよ』と常々言っていました。
メゾンカイザー高輪店というお店があったら、そこに買いにくるお客様の生活にパンが入っていって、日常が素敵になったらいい。
日本一おいしいパンを作ってもお客様に届かなければ意味がない」

職人が自己満足のためにパンを作ることを禁じる。
それが木村さんの経営哲学である。
まだメゾン・カイザーが高輪1店舗だった時代。
毎日のように自宅に職人たちを招いて、飲み交わし、パン屋のあるべき姿をとことん語り合ったと木村さんは言っていた。

「もともと木村には『独立します』と言っていたんですが、一昨年、突然呼ばれました。
『会社をやめろ』
メゾンカイザーで働いている職人さんの夢になるお店をやれと。
材料とかの助けはすると言ってもらいました。
やりたいことをやろう。
フランスという枠の中だけでは満足できない思いがあった。
メゾン・カイザーのときは制約がありました。
明太フランスを作ったらクビになるぐらい(笑)。
生地のベースは同じですが、そこから派生させている。
ちょっとだけでも、もう少しこうだったらいいのになという部分が以前からあった。
それが自分のやりたいこと。
配合をいじってる」

バゲットOZ(300円)
鼻腔に食い込んでくる甘さ、香ばしさに、ざくざくと崩れ落ちる食感。
メゾンカイザーのバゲットモンジュの血を引いている。
けれども、中身のしっとり感、やわらかさ、ふわふわ感は、日本人が好きなバゲットの感じ。
歯で折るのではなく、撫でられる。
まず、塩気が先頭を切って、ぐいぐい引っ張る。
なんともいえない甘さが空気として口中に満ちて、塩がさらにそれを盛り上げる。

「配合をいじってる」と大島さんが言った言葉の意味。
カイザー的な甘さにプラスαの馴染み深さ。
フランスパン専用粉の定番リスドオル(日清製粉)の風味を嗅いだのだ。
カイザー粉と呼ばれるメゾンカイザートラディショナルに、リスドオルを20%ブレンド。
ライ麦2%、小麦粉全粒粉2%も加えて風味を出している。

タラモドッグ(250円)
メゾン・カイザーではいくら待っても食べることができないだろう、明太フランスがここにはある。
麻薬的。
明太子とパンがいっしょに歌う。
明太子の塩気がフランスパンの味わいを震わせ、拡大させる。
いっしょに和えられたじゃがいもの甘さによって、明太パワーが押し広げられ、パンへと波及して、中身の白さとも、皮の香ばしさとも相性を作りだす。
激しい海の香りが鼻へと流れこみ、口の中はぴりぴりがやまず、しかも飲みこんだときには塩気と小麦が呼応し、とても甘くなっている。

アップルシナモン(180円・夏期休止中)
ドライアップルとシナモン入りのドーナツ。
この食感はどうしたことだろう。
歯を降ろすとともに沈みこんでいき、沈んで沈んで戻ってこない。
噛み切る瞬間だけ少しもちっとしてあっさり歯切れる。
高級なソファに腰をかけたような。
やわらかい、という言葉では正確ではない。
単にふにゃふにゃなのではなく、食感にニュアンスがありながらの、極限のソフトさ。
シナモンシュガーの甘さの当たりのやわらかさも、ドーナツらしからぬもの。

「ドーナツは息子のために作ったものです。
もちろんカイザーにはありません。
ルヴァン(自家製酵母種)を使うことでもちっとした食感がでるのですが、それだとコシが強すぎる。
木村が開発して、僕もサポートした、特別な脱脂粉乳。
乳酸菌を多量に含んでいるので、食感がソフトになる。
ルヴァンの中にいる乳酸を活性化させ、やわらかくする。
薄力粉を使ってやわらかくした食感とはちがう。
歯ごたえがありながら、口溶けがよくなる」

食べたこともないドーナツ。
それを作りだす理詰めのクリエイティビティ。

「勘だけで仕事をする職人さんは結局誰かの真似になってしまう。
マイクロがわかると、オリジナルができるようになるんですよ。
これやるとこうなるって、(試作をしなくても)想像と結果が一致してくる。
理にかなってないことはやってません」

そして、秘密を聞きだしたと興奮ぎみだった私に、以下のように釘を刺した。

「まだあれはほんのさわりです。
本質を知ってしまったら発酵の魔力に取り憑かれますよ」

引き出しはまだたくさんある。
OZがかける「発酵の魔力」がシーンを変えるのはこれからだ。



東急東横線 都立大学駅/東急田園都市線 駒沢大学駅
03-6421-2571
8:00〜20:00

サッカロマイセスセレビシエ

まさこジャム

パンラボ

200(東急東横線) comments(0) trackbacks(0)
ラ・ヴィ・ア・ラ・カンパーニュ(中目黒)
181軒目(東京の200軒を巡る冒険)

この店の陰影は、薄暗い納屋に差す光線を思い起こさせる。
床に落ちる光が、コンクリートの三和土の素朴な質感やガラス瓶の色彩に気付かせたり。
あるいは、暗い部屋に吊るされたバラがわずかな光のためにかえってうつくしく浮かび上がる。
ラ・ヴィ・ア・ラ・カンパーニュ=田舎の生活。
幼い日に、田舎の家の片隅に置かれた使われていない古い品物がまるで宝物に見えたように。
この店に置かれたアンティークも、混乱した世界からひとつの美意識によって拾い集められた宝物である。
キリスト像や棚、ハーブを入れている大きなガラス瓶、十字架の刻まれた教会の椅子。

「ここにあるものはヨーロッパで買ってきたもので、19世紀や1920年ぐらいまでのものが多いですね」
とオーナーシェフのロシャン・シルバさんはいう。

パンもアンティークのようだ。
ひび割れが、皺が、ふぞろいの形が、なにかを語りかける。
しかも、この宝物は日々作られ、日々消えて、生きる糧となるのだ。

「パンは本を読んで独学で勉強しました。
本の通りやってもなかなかうまくいかない。
粉とお水の分量を何パーセントにするかとか、試行錯誤を重ねて、自分で考えてやっています。
うちのお店3店舗の分、伊勢丹などデパートに卸すものも、ここで作っています。
元々は鎌倉でカフェをはじめて、そのあと池尻でちいちゃな雑貨屋さんを開きました。
古い家を探して、すべて内装も自分で作りました。
天井、床、壁。
地震が怖いので、大事なところは大工さんも入れましたが。
家具もすべて自分で選びました。
元々は洋服屋だったのですが、アトリエを持っていてすべてオリジナルを作っていますし、このお店で売っているアロマも自分たちで作っています」

都市での生活があらゆるものを買うこと=消費によっている一方、田舎の生活は自分で作ること=ブリコラージュによって営まれる。
たとえば、壁の塗りムラは風合いとなって、なめらかな既製品の壁紙よりよほどあたたかい。
ラ・ヴィ・ア・ラ・カンパーニュというコンセプトによって、インテリアのうつくしさと、シルバさんの生き方が重なり合う。

「パンも昔から興味がありました。
すべて自分で作るほうが、安心で、おいしい。
よそで買ってくるより、おもしろいもの、変わったものを作りたい。
ヨーロッパで日常的に食べられているパンではなく、ちょっと挑戦。
カンパーニュに紅茶を入れてみたり。
赤ワインのパン、ミルクパン、バニラのパン。
形もちょっと変えて、おいしそうに見えるように。
パンはずっと作っていきたいと思っています。
朝3時から働かないと9時の開店には間に合わないけど」

香水のパン(360円)
パンで香水を表現する。
なんとうつくしい思いつきだろう。
ローズペタル、ハイビスカス、マリーゴールド、ブルーマロウ、ラベンダー。
ハード系だが少し甘味がつけられている。
これらのハーブのミックスは、甘さとあいまって、ローズシロップのピンク色を思わせる。
それがバラを想像させ、ひいては香水への連想へとつながるのだ。
味覚が記憶とさまざまな近くの連合であることをそれは思い起こさせる。

シルバさんは、アパレル会社の経営者として成功している。
何人もの社員を雇う立場にある人が、未明から起き出し、自らパンを焼くのはなぜなのか。

「パンを作ることは趣味ではじまっています。
儲けるとかじゃなく、楽しく、いいものを作って、みんなによろこんでもらえたらいいかな。
食べ物は体の中に入るものだし、おいしいものを食べたら幸せになれるから、ちゃんと作りたい」

自分の納得した素材のみを使ってパンは作られる。
「酵母は、海水から採取した海洋酵母を使っていますし、自分で作った種からもパンを作っています。
北海道産は粉の甘さはすごくいいと思いますが、それを使ってハード系を作るのは簡単ではありません。
むずかしい仕事。
水も多めに、80〜90%は入れます(通常の製法では約70%)」

普通のパン屋なら、数種類の基本生地に、混ぜ込むものを変えて、バリエーションを作る。
ラ・ヴィ・ア・ラ・カンパーニュでは、そうではない。

「ひとつひとつのアイテムごとに別の生地を作っています。
うちはミキサーも小さいからいっぺんにたくさんの生地を仕込むことができないですし。
でも、それぞれ別の味になるから、かえっていいと思います。
普通のベーカリーなら、電器オーブンでスチームもあると思うけど、うちにはなにもない。
ガス窯だし、スチームをするなら、お水を自分で汲んで入れないといけない。
それでいいと思います」

食パンの皮のざらざらした質感の、ひび割れのうつくしさ。
それは、限られた設備で作られることによって生じているのだ。

「うちは田舎のイメージで、昔の感じでやりたい。
内装だけが田舎風で、実際に作っているものがちがったら、よくないことだと思います。
コーヒー豆を挽く機械も手で回す。
ひとつひとつ手でやって。
最近、10年間パンをやってきた子を入れたんですが、ここで作るやり方は、他のパン屋さんとはぜんぜんちがうと言ってました。
私は他のパン屋さんで働いていないので。
パンを作ることはおもしろい。
スタッフもすごく気持ちを込めて仕事をしているので、楽しくできています」

ジャムパン
イタリア人であるシルバさんが、日本人にとってなつかしい味のパンを作った。
ほんのりとした甘さはやさしさへつながる。
ふわふわがおとなしく、素朴。
そして、皮が並外れて香ばしい。
水分はやや少なく、唾液を奪われるけれども、みかんのマーマレードに癒されつつ食べていく。
オレンジではなくみかんだからなつかしい。
酸味も、皮の苦みも、尖りがなく、しみじみとするからだ。

彼の、パンに対する思いを形作った、原体験について訊ねた。

「イタリアで生まれて、父はスペイン、母はスリランカ人。
小学校から大学まではスイスで学校に行っていました。
スポーツ終わって、お腹がすいたら、焼きたてのパンをどんどん食べていた。
朝ごはんでも、ランチでも、夕食でも」

シルバさんは、さまざまな国で育ち、暮らしてきた。
だが、どんな国においても、焼きたてのあたたかいパンへの憧憬は変わることがない。

2階のカフェではつい長居をしてしまう。
手作りの料理とパン、そして古い、うつくしいものに囲まれて。

この店の名が付けられたピザトースト、ラ・ヴィ・ア・ラ・カンパーニュ(1000円)。
半斤分の食パンをくりぬいてトマトソースとバジルソース、野菜を入れてトーストし、チーズをとろけさせたもの。
技術を尽くしたような料理ではないが、おいしいものとおいしいものを豪快に融合させ、誰もがしあわせになれるパンである。


東急東横線・東京メトロ日比谷線 中目黒駅
03-6412-7350
モーニング9:00〜11:30 ランチ11:30〜14:30 
ティータイム15:00〜18:00 ディナー18:00〜22:00
無休


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#181
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トツゼン ベーカーズ キッチン(大倉山)
147軒目(東京の200軒を巡る冒険)

横浜のベイシェラトンホテルで、パン職人をしていた内山芳雄店長と、PR・マーケティングをしていた岸本拓也社長が出会って、トツゼン ベーカーズ キッチンは生まれた。

「ホテルの経験が長かったので、ホテルのクオリティを持ったパン屋を開きたいと思いました。
ニューヨークのデザイナーズ・ホテルを手本に、内装、接客、商品を考えました。
一方、僕はヨーロッパのパンが好きで、それを目標にずっとパン職人をやってきた。
ニューヨークとヨーロッパをうまく融合させました。
大倉山は高収入世帯が多い土地柄。
オープン当初は、高級感を出すことで成功しました」

あんずデニッシュ(230円)
あんずのコンポートを丸のままごろごろと使用。
噛むとざくりとした歯ごたえとともに、みずみずしい甘みと酸味がほとばしる。
自家製カスタードクリームにアーモンドクリームを重ねることで、濃厚さと、自然な甘さが両方実現されている。
クリームはまたヨーグルトに似た酸味も含んでいて、それゆえに、他の素材によりかからず食べられる完全さがあるし、あんずのコンポートの中の酸味とも呼び合う。
上出来なクリームがよく焼けたデニッシュ生地の上皮の香ばしさと出会う感じは、たしかにホテルのペストリーを思い起こさせる。

内山さんは、一時大倉山を離れ、横浜市青葉台に出した系列店で自分のスタイルを追い求めていた。
その間、トツゼンでは、経営者である岸本さんが、高級路線から離れ、地元密着のパン屋を試行錯誤していた。
内山さんが再び大倉山に戻ってきたところから、新しいトツゼン ベーカーズ キッチンがスタートを切る。

「別の店で離れていたけど、お互いまたパワーアップして、いっしょにやっていこう」

新しい方向性は、高級路線と地元密着路線のハイブリッドだった。
「やり尽くした中で、いまのスタイルができあがった。
本格的なパンを手軽に、気軽に、子供でも、お年寄りでも、みなさんが楽しめるような商品構成。
パン好きの方も、惣菜パンを好むようなご近所の方にもきていただけるような、市場みたいなにぎやかさ」

内山さんは、大手パンメーカーを振り出しに、リテールベーカリーのチェーン、そしてホテルとさまざまな職場を経験した。
引き出しの豊富さはパン作りに活かされる。

「天然酵母はライ麦から起こして、全粒粉で継いでいます。
ライ麦独自の香りのよさ、全粒粉の雑穀のような味わい。
ライ麦の酵母のいいところ、全粒粉の酵母のいいところ両方出したい。
味が一直線じゃなくて、いろいろ広がる。
ライ麦の香りだけでなく、そこに全粒粉がうまく入り込むことで、やわらかいすっぱさになったり、噛みしめているうちにいろいろな味がでてくるようになります」

ノアレザン(1/2 480円)
自家製酵母生地の味わいにあたたかさがあり、豊かでありながら、飛び跳ねていない。
節度ある濃厚さゆえに、レーズンとクルミを受け止め、バランスを保つ。
レーズンの酸味がパンの皮にある甘みとの間でマリアージュが生まれ、甘美である。
一方、中身の甘さは時間ごとに膨らんで、波状的に押し寄せる感じがあって、次々と破砕し飛散するレーズンとくるみの味わいと混ざりあいながら、味わいを刻々と変化させていく。

(岸本拓也社長)

「小麦にもこだわっていて、ぜんぶで17種類使っています。
バゲットにはそのうちフランス産小麦を4種類。
味が増すような石臼挽きの小麦だったり、奥行きがある粉だったり。
産地まではわかりませんが、いろんなメーカーさんから出てるフランス産小麦を取り寄せて、試行錯誤する。
粉もいつも同じ状態ではないので、イメージ通りの味を出すために、季節によって、銘柄を変えたり、配合の割合を変えたりします」

ひとつの粉、ひとつの酵母を突き詰めて、純粋さを追い求めるパンがある一方で、あるものとあるものを融合させるやり方のパンもある。
トツゼンのあり方は後者。
それは材料や製法に限らない。
パン職人と経営者である2人の融合でもあり、アメリカとヨーロッパ、高級と庶民的、ホテルスタイルと街場のパン屋さんの融合でもある。

「いままで勤めてきた職場によってぜんぶ環境がちがっていた。
それによって、つらいこともあるが、逆境に強くなりました。
ただ作るのがうまいとか、それだけでパン職人はできない。
芯が強くないと。
『逃げ』ができる強さ。
ホテルだけの見方だと、街場のパン屋さんのようなパンを作りたくないという頑固なイメージに凝り固まってしまう。
そうでなく、本物指向のパンでありながら、技術的にむずかしくないやり方も取り入れる逃げも持つ。
ぜんぶ本物志向だと行き詰まる」

かつては、入るのに躊躇するようなスタイリッシュさを持った店だったトツゼンだが、逃げや隙を持つことで、誰にも買いやすく、愛されるパン屋へと生まれ変わった。

クリームチーズレーズン(180円)
生地にある、やわらかくて、ほんのちょっとぷりんとした食感。
ヨーグルトに似た甘ずっぱい発酵の香りを少し残して、レーズンの酸味とも合っている。
突如、中から出現する白い壁。
あんこのように包み込まれた大量のクリームチーズが、パンの味わいをすべて白く塗りこめ、かき消すようでありながら、溶けていくにつて、ふたたび戻ってくる生地の中のヨーグルト風味とすばらしい相性を見せる。
その一瞬がこよなく心地いい。

(池田浩明)

東急東横線 大倉山駅
045-548-0568
7:30〜19:00
月曜休み




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#147
200(東急東横線) comments(2) trackbacks(0)
ローゼンボア(東白楽)
145軒目(東京の200軒を巡る冒険)

この店には2台のオーブンがある。
店の奥には、先代の頃からある、古めかしいロールオーブン。
たくさんの鉄板が観覧車のように回転し、裏表まんべんなくパンを焼くことができる。
もう1台は、高崎健人店長が導入した最新の溶岩窯。
客の目の前にあって、そこからフランスパンが焼きだされてくるとき、熱気まで売り場に充満するようだ。

1937年創業の老舗「高崎製パン」の3代目。
「子供の頃からよくパンの袋詰めとか手伝わされてました。
それでパン屋が嫌になっちゃうというのが、だいたいパン屋の息子のパターン(笑)」

1度はサラリーマンになったが、単身赴任が多かった同僚たちのさびしい日常を目にし、会社を辞めて実家のパン屋に帰還した。
いつも子供は店で作ったパンを食べ、親たちの仕事ぶりを眺めて育つような家庭で育まれた感性と会社勤めは合わなかったのかもしれない。

「鶴見のパン屋さんで修行をしたあと、実家のパン屋に帰ってきました。
うちは昔ながらだったから、180度ちがう感じでした。
クリームも自分のところで炊いてなかったし。
あんこは自分のところで、でっかい釜で炊いてたんだけど、よそから買ったほうがうまかった(笑)。
父親の頃は作れば売れる時代で、給食のパンが主だった。
よく、昔ながらがいいっていいますけど、『昔ながら』ってなんでしょうかね?
昔からの味がおいしいとかよくいうじゃないですか。
もっともっとおいしいパンを作りたい。
そう思って変えたら、常連さんに『前のパンも作ってよ』といわれて、『すいません』って謝るんだけど、そのお客さんこなくなっちゃったり。
それでも、売り上げが増えてったから、自分のやったことはまちがいじゃなかったんだと思いました。
変えていかないと生き残ってけない」

高崎さんがもたらした最大の変化は、自家製酵母を自動で管理する機械の導入だった。
「イーストの量を減らして、ほとんどの商品にルヴァン種を入れています。
昔の人がやってたような基本的な製法。
自家製酵母の種の力でおいしいパンを作る。
薄っぺらな味じゃなくなりますね。
イーストだと、3%入れれば1時間でパンできちゃうって思い込みがあるから、発酵の大事な部分を忘れちゃってる感じがする」

ホーム食パン(250円)
ミルクの香りと発酵の香りがかぐわしく混ざりあっている。
舌触りはなめらか、生地は溶けるとクリーム状になる。
ミルクの味わい、小麦の味わいが広がり、さらに溶けて喉に満ちるうまみの濃さ、あたたかく馴染む感じは、ルヴァンならでは。
そして、単に濃いだけでなく、毎日食べられるシンプルさも兼ね備える。

3代目は子供の頃から見てきた古めかしい製パン機械を眺め、必要なもの以外は処分していった。
長く習慣のようになっていた製法や材料を見直し、ブラッシュアップした。
変えるばかりではなく、いいものは残そうとした。

「うちも昔はほとんどの商品を中種(前日に材料を混ぜ合わせてひと晩熟成させる)で作ってました。
でも、中種を置いとく場所が膨大に必要だから、やりきれなくなってきて。
食パンだけは残しています。
1種類はルヴァン種を使うんですが、生クリーム入りのもう1種類は、中種を作って1日寝かせて、ゆっくり熟成させる。
中種はお父さんの製法。
そういう部分を残すことで、社員も勉強になりますしね。
給食のパンって、朝早く学校に持ってかないといけない関係で、前日に作るんですね。
中種で作るとそれでもやわらかい。
だから、昔のパン屋はみんなそうでした。
でも、添加物も入れていたし、俺の代からやめちゃった。
いいところは残すけど、悪いところをどんどん剥いでった。
あるいは、ルヴァン入れたりのような、もっともっと昔の人がヨーロッパでやってた、小麦を熟成させる製法にこだわったり」

全面改修した店構えはモダンだが、店にはどこかなつかしい雰囲気が漂っている。
デニッシュやフランスパンのような新しいパンもあるが、コッペパンや食パンからは、製法は新しいとしても、どこか昔っぽい味がする。

チリビーン
アメリカ・コロラド州に留学経験のある高崎さんが、現地で食べた味を再現。
ホットドッグにチリビーンがのるだけでこんなにスペシャルになる。
ピリ辛のチリソースとソーセージのスモーク感が絡み合い、醸成する風味が、ぷりぷりの肉をさらにおいしくする。
なにより、パン粉をふったドッグパンがたしかにアメリカン。
手で押せばきっと縮んでしまうような、食感のむにゅむにゅ感や、日本の甘いコッペパンにないほどよいリーンさが、ソーセージを活かす。

「父とは1、2年しかいっしょに仕事をする期間がなかったんですが、おだやかな人だったし、直接教えてもらうことってあんまりなかった。
背中で教えてもらうというか、働きぶりから感じとったり。
俺は3代目だから、恵まれてますよ。
ゼロから店を出したら借金返すのもたいへんですけど。
昔からのお客さんの信用がありますし。
学校でも売らせてもらえるから、安定した売り上げもある。
昔の学校でうちのパンを食べてた生徒さんが30ぐらいになって店にきて、同じパンを見てなつかしいなとか。
そういう方たくさんいらっしゃいますよ。
働いてくれてる人の中にも、昔からいるおばあちゃんとかいるし」

客の信用、古い従業員との信頼関係、パン屋で育って培われた高崎さんの舌や感性。
見えない伝統の力が、まるで酵母のように働いて、あらゆるものを熟成させ、いい味わいにしている。

バゲット(小)
焼きたての皮はばりばり弾けて、割れて、こぼれ落ちる。
軽やかな甘さはおかきのようだ。
中身はどんどん溶けて、ルヴァン種のおかげか、ほの明るい甘さを溶けださせて、あっという間に1本食べ終わってしまう。
この食べやすいバゲットを買って帰って、家で好きなものをはさんでサンドイッチを作ったらすごく楽しいだろう。
王道のフランスパンの味わいの中に、軽さや、おだやかな甘さがあるのはなぜかと思ったら、もっともポピュラーなフランスパン専用粉リスドオルに、国産小麦をブレンドしているから。

客の目の前でフランスパンにクープを入れ、窯に入れる。
長いピールを操り、熱さもものともせず取り出したバゲットからは、おいしいパンのサインといわれる、ぴちぴちぴちという小さな音が聞こえてくる。
やっぱり、パン職人は窯前にいるときがいちばんかっこいい。

「うちはパン屋だから、作ってるところがお客さんから見えるようにしたかった。
逆にいうと、パンを作っているほうからもお客さんが見える。
ひと口食べて、お客さんが笑顔になるような商品。
俺たちの仕事ってそのためにやってるわけじゃないですか。
普段やってることってそこにぜんぶつながるんですよ。
なんでこの粉を使うんだ、なんでこのやり方するんだ。
ぜんぶ社員に説明できる。
お客さんが笑顔でパンを選ぶ姿が見たいからそうするんだって。
わかりやすいし、社員のモチベーションも上がります。
それはパンを作ることだけじゃなくて、たとえば、お客さんが並んでるときは、作る人も出てってレジ手伝ったり」

東急東横線 東白楽駅/JR京浜東北線 東神奈川駅
045-491-8856
横浜市神奈川区平川町10-2
6:00〜19:00 
土曜休み

http://rosenb.com/(ホームページを作らせていただきました)


#145
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メゾンイチ(代官山)
144軒目(東京の200軒を巡る冒険)

市毛理シェフがICHIをオープンするまでの歩みは、「経歴」ではなく、「遍歴」という言葉がぴったりくる。
市毛さんほどに、多くの店、多くのジャンル、多くの国々を彷徨い歩いた職人を、あまり知らない。
自分のパンを探す。
キャリアのスタートでいきなりそれに出会ってしまう職人もいれば、長い旅のあとでそれに気づく職人もいる。
やや長くなるが、彼の遍歴の跡を追うことにする。

出発点はパンテコだった。
フィリップ・ビゴが伝えたパン・トラディショナルをもっとも深いレベルで継承する松岡徹シェフの元でキャリアを開始したことは、パンの基礎を学ぶ上でうってつけだったにちがいない。

「パン職人になる前は、料理にしようか、パンにしようか迷っていた。
そんな感覚でした。
だから、パンテコに勤めたあとで料理をやりたくなって、卸先のレストランに転職しました。
それからは、料理人的な感覚でパン作りを見られるようになったかもしれません。
配合表を信じるのではなく、味加減、味付け、そういう感性でパンを作るようになりました。
料理人はレシピに頼るのではなく、味加減の感覚が優れている。
塩加減の大切さ。
塩ひとつでおいしくなる。
パンも、調理しているような感覚。
発酵じゃなく、素材と素材の組み合わせとか、副材料とか、練り込む素材の組み合わせとか、頭でイメージして作っています。
そういう感覚は、その頃に身につけたかもしれないですね」

だが、市毛シェフは料理をつづけなかった。
「挫折したんですね。
パンに戻りました。
自分自身が未熟だったせいもありましたが、やはりパンでいこうと。
料理の世界はお客さんのペースでオーダーが入って、それに合わせて、段取りを組んで、記憶して、やっていかなければいけない。
パンはパン生地のペースに合わせていく。
それが100%であって、他のことに左右されることはない。
自分はやっぱりパンだな。
焼き上げるときのわくわく感、何回やっても楽しいですね。
今日はうまく焼けるかなと。
焼くのがいちばん好きです。
オーブンのガラス越しからダイナミックにふくらんで、クープが割れて、焼き上がっていく。
見ていて楽しい」

自らを「理論ではなく、感覚的な人間」と呼ぶ。
その通り、市毛シェフはゆっくりと話す。
核心を一気に突くのではなく、なにかのまわりを巡るように。
トーク・イズ・チープ。
おそらくは、言葉よりも、自分が感じるもの、自分の手が作り出すものだけを信じている。
パンと自分自身が一対一で対峙する時間だけに本当の生きる手応えを感じるような、根っからの職人なのだろう。

スキーがやりたい、という一心で、日本でもっとも標高の高いパン屋として知られる、横手山頂ヒュッテに勤める。
その後、海外に行きたいという思いをこらえきれず、カナダのケベック州へ。
ケベック州はフランス語圏であり、フランス文化の色濃いところだ。
現地のすしレストランで勤めながらオーナーシェフからワインや料理を吸収する一方、モントリオールにある「すごくいいパン屋」だというフロマンティエで研修もした。

遍歴はそれで終わらない。
「カナダで知り合ったベルギー人の知り合いのところに居候して、ブリュッセルのパン屋さんをいろいろ見たりしました。
当時はベルギーにしかなかった、パン・コチジュアンも、いいパン屋さんだなと、よく行ってました。
カナダで手に入れた1冊の本を持ってまして。
フランス中のパン屋さんが載っている本。
そこで薦められているパン屋さんを巡っていこうと、ユーレイルパス(ヨーロッパの国鉄が乗り放題のパス)を買って、あちこち都市から都市へとまわりました。
わざと夜行列車に乗って、その中で寝たりしていました」

フランス各地を経巡り、とうとう理想のパン屋に出会う。
「リヨンの下のサヴォワ地方、山の中にエコールという集落があって、ブーランジュリー サヴォワイヤールというパン屋さんがある。
自家製酵母を使って、薪窯で焼く、そういう店。
そこに出会ったとき、パン作りの原点のような作り方で、すごくカルチャーショックを受けました。
すごく気に入って、『ここだ』と思って。
直感なんですよね。
長期間居候をさせてもらいました。
自家製酵母を種継ぎして作る。
バゲットは置いてなくて、カンパーニュ系。
パヌトン(キャンバス地を中に張った成形用のかご)で発酵させて、上下2段の巨大な石窯で焼き上げていく。
クラシック、原点的な製法でありながら、大量に仕込んで、ロンドンの自然食品店に卸していた。
1日に1トンとか作っちゃう。
大きいパンだと1個が2キロ。
ダイナミックな感じとかが自分には合ってたんですね。
吸水率が高くて、もちもち。
そこで受けた影響はいまでも活かされてるかもしれないですね。
大自然に囲まれながら、パン作りをしてました」

スペルト小麦を使った田舎パン(399円 1/4)
このパンを食べたとき、手で扱えないほどたくさん水分を入れた大型のパンを石窯で焼き上げるという、フランスの原点的なパン屋の映像がとっさに浮かんだ。
あたたかく、かつ清々しい、酵母の香りが濃厚にある皮。
半透明の中身は光っている。
見事な組織がすばらしいクッションでふわりと舌に着地する。
すばらしく水を含んだ生地がぬめりながら舌に貼り付き、ちゅるちゅると溶けていくと、色でいえば淡い褐色に感じられる小麦の味わいが滲みだしてくる。
酸味の軽さがそこにあいまって快い。
小麦の素の味わいを大事にしながら、酵母の香りや、表面につけられた粉の香りなどで、それを彩っている。

「目指しているのは、水分量の多いパンですね。
パンに限らず、現代の食べ物は、お肉を焼いても、魚でも、そういう料理がおいしいと思われるようになっていますよね。
パンも同じ。
中はみずみずしく、外はぱりっと。
ステーキでも、焼き魚でもまったくいっしょだと思います」

フランスという、遍歴の目的地。
それが本当に終着地点なのか、見定めるための旅がまだ残っていた。

「ヨーロッパの、他の国のパンも見たいと、フランスから出ました。
フランスには憧れてましたが、フランス一直線じゃなくて、大げさにいうと、パンの原点を探ってみようと。
イタリア、ギリシャと行ったんですけど。
思ったのは、フランスって、パンの国だな。
パン屋の数、食べる量、フランスが断トツだと思いました。
と同時に、ギリシアに行けば、オリエンタルな、平たいパンになる。
フランスのパンはおいしいな、極めたい、と思いました。
昔はイタリアでもギリシアでもおいしかったのかもしれませんが、工業化が進んで、だんだんこだわり捨てちゃったんじゃないかな。
こだわりがあるのはフランス。
そのあと、オランダ、ドイツ、ポーランドも行ってみました。
そのたびにフランスがいいなと思いましたし。
最終的には日本に帰るとき、シベリア鉄道で横断して、ロシアのパンを食べながら帰ってきました」

帰国後に、最初に勤めたのは、紀ノ国屋だった。
フランスはもとより、アメリカ、ドイツ、イギリス・アイルランド、中東。
各国の主食であるパンをできるだけ現地に近い形で多種多様に再現するスタイルは、食事パンを作りたいという市毛さんの方向性と合っていたという。

「紀ノ国屋に勤めながら、夜はレストランのキッチンでアルバイトをしたりして、ワインの勉強をしました。
結局は、パンの道を進みながらも、レストランという現場が好きなんでしょうね。
ワインエキスパートの資格を取ろうと、受験勉強みたいにワインを飲み比べていたら、非常にむずかしい試験なのに、まぐれで3ヶ月で受かっちゃった。
テイスティングをするときは味を観察しますよね。
ワインの勉強を通してわかったのは、味というのは時間を通して変わっていくものだということ。
すぐ感じる味、口に入れたあと時間が経ってから感じる味。
相当、味わい方を勉強したかもしれないですね。
パンだけじゃなく、どんな商品でもそうかもしれないですけど、余韻、味の変化とか。
それを脳みそで考えて、計画的に作り上げるんじゃなく、まず作ってみて、なにか感じたら修正するというタイプですね。
ここが弱いな、こうしたいな、自分の気持ちに従って考えていく」

2001年、パリきっての名店という評判のあったメゾンカイザーが東京に進出。
市毛シェフはその門を叩いた。
「東京にメゾンカイザーがオープンすることになり、求人募集をしていた。
メゾンカイザーはパリで行ったことがあり、気に入ったパン屋さんだったので、応募することにしました。
そこで見た製法にショックを受けました。
これだ、と。
画期的といいますか」

エリック・カイザーの行ったイノベーションで有名なのは、自家製酵母を自動的に培養する機械「フェルメント・ルヴァン」の開発である。
実際にカイザーの厨房に入った市毛さんが目を見張ったのは、もっと別の部分だった。

「2次発酵(生地を成形したあとに行う発酵の工程)を低温で行う。
発酵を止めてしまっているようなものなので、大量に作っておいて、焼くとき1個からでも取り出してこまめに作ることができる。
できたてを提供しやすい。
普通は40個生地を作ったら、同じ時にオーブンに入れなくてはならないのに、この製法だと、1個1個時間をずらして焼くことができる。
1次発酵を低温でとる方法はもともとありましたけど、2次発酵を低温でとる方法は、僕はメゾンカイザーに入ってはじめて知りました。

もちろん、作業性だけではなく、パン自体のクオリティも目覚ましい。
「あとは、味、食感。
おいしくて、すばらしいと思いました。
ルヴァンリキッドによって独特な風味が出ますし、長時間発酵によってより熟成された味わいになる。
リキッド状なので、扱いやすいし、取り出しやすい、種継ぎしやすい。
しかも、発酵が速い。
やわらかい生地に練り込んでもすぐ馴染む。
もちろん、温度が大事で、酵母を何度で発酵させるかで、風味とか、酸味、マイルドになるかどうかとか、差は出てくるんですが。
しかし、なんといっても、吸水率が高い生地というのは、できあがりはおいしいんですけど、職人にとっては、べたべたして扱いにくい。
発酵するほど、生地はやわらかくなりますし。
低温長時間だと発酵したときに冷たくて、生地が硬くなってる。
水分がいっぱいだが、硬さがあるので、扱いやすくて、作りやすい。
だからこそ、水をいっぱい加えられるし、(前日仕込んで冷蔵室でオーバーナイトさせることにより)短時間でできる。
イーストと併用してルヴァンリキッドを使う方法、2次発酵を低温で行う方法、メゾンカイザーで知ったこの製法でいこう(独立しよう)と思いました」

バゲット(199円)
この値段なら躊躇せず手にできるし、まるでフランス人がそうするように、メゾンイチの階段を上がりながら、齧りつくことだってできるだろう。
フランスでのバゲットは1ユーロに満たない。
その日常的なあり方に値段でも接近している。
メゾンカイザーをポピュラーなものへと押し上げたあの甘さ。
このバゲットにはそれがないゆえに、かえって小麦の味わいの本質へ深く分け入っていける。
褐色が目を引くぷるんとした中身。
水分の多さゆえにもちもちっとジャンプする。
はじめはややおとなしげだった、茶色い味わいは豊かに広がってきて、旨味の液体が滴り落ちるようだ。
大声ではなく、実直に、酵母の香りと入り混じった小麦の野の味わいを伝える。

メゾンイチがバゲットに使用するのは北海道産の小麦粉だ。
「メゾンカイザーが使用する小麦粉メゾンカイザートラディショナルは、うちで使っている粉とはちがいます。
シンプルなハード系に関しては、ストレートに粉のちがいが出ていると思います。
メゾンカイザーとは、バターもちがうし、塩の量もちがいます。
うちではバゲットの粉には石臼挽き粉をブレンドしています。
ほぼ全粒粉に近いようなもので、すごく細かく挽いているので、茶色っぽくなります。
メインで使っている北海道産のオペラ(ホクシン)はリーズナブルな粉です。
はるゆたかの値段は跳ね上がっていますからね。
みんなは評価しないような、昔からある小麦ですけど、使ってみたらいけるなと思った。
常に材料に関しては、商品の価格を抑えるために、リーズナブルで、いいものがないかなと探しています。
僕自身、出身が函館ということもあって、北海道には何回も行ってますし、国産を使うなら北海道産だと思っていました。
比較してみると、国内の他の産地よりも、北海道産のほうが、バターに合う気がするし、ワインにも合う。
ヨーロッパの小麦に近いんじゃないかな。
と同時に、和食にも合うかなという感じがしますね」

プチトマトとオイルサーディンのキッシュ(399円)
素材と素材のスリリングな出会い。
うつくしい色合い、味わいの驚くべきマリアージュ。
プチトマトを噛み潰すと、口の中でたっぷりの果汁が弾け飛び、鮮烈な酸味を卵味のほの甘い生地へと押し広げてていく。
のみならず、オイルサーディンの身にも、レモンのひと絞りのように降り掛り、しかしレモンとはちがってさっぱりしすぎない、旨味をも加えていくような、ふくらみある味わいへといわしを昇華させる。
そして、すべてをくるむ台が、小麦の味わいが濃厚であたたかい。
一口ごとにこの体験が味わえるよう計算し尽くされている。

「実際には、パンは試行錯誤しながらできあがっていく。
オイルサーディンもスモークのかかっているいま使っているタイプのほうが断然おいしい。
同じオイルサーディンでもいろいろな種類があります。
プチトマトもどの大きさのものを使うのか。
キッシュは妻が作っているんですけど、かなり考えてますね。
見た目がきれいにこしたことはないかなと。
素材の味がきちんと感じられるように、気を使っていますね。
あんまり種類を入れすぎない。
あれもこれも入れてしまうと、存在感が薄くなってしまう。
うちはシンプルすぎるぐらい、ストレートにやってます」

メゾンイチにくると思わずキッシュとタルトを手に取りそうになってしまう。
単なるアイテム数をそろえるための1商品というなにげなさではなく、並々ならぬ本気度を感じてしまうからだろう。

「メゾンカイザーのパリのお店に行ったとき、キッシュとタルトにいちばん感動したんですよ。
実は、それくらい、メゾンカイザーのキッシュとタルトは、それまで訪れたパン屋さんに比べて、ワンランク上で。
その思いは、メゾンカイザーで働いていても、ずっとおいしかったので、変わることがなく。
キッシュとタルトに関してはカイザーの影響を受けています。
ケーキ屋さんのは繊細すぎるところがあって、ちょっと薄すぎる。
カイザーのは厚みがありますね。
材料や配合はすごくシンプルなものなんですけど。
食感が味わえる作り。
繊細で、空気がふわっていしているのより、硬めのといいますか、しっかりとしたボディのある味を目指しているんですね」

パンがあり、お菓子があり、コンフィチュールがあり、冷蔵ケースの中には色とりどりのパテやテリーヌが並ぶ。
この風景は、ルノートルやフォション、ジェラール・ミュロといった、パリの名店の数々を思い起こさせる。
しかも、その場でワインが飲めて、イートインスペースもあるとなれば、もはやパリですらあまりできない体験とさえいえる。

「毎年のようにフランスには出かけていきます。
昔はパン屋さんばっかりまわってましたけど、だんだん、ジェラール・ミュロ、ストレー、ダヴォリといったお惣菜屋さんによく行くようになりました。
ミュロさんのお店にあこがれは持っています。
お客さんが、どうしようと迷っちゃうような品揃えにしたいなと。
最近はお惣菜を出す店がだんだん増えていくような動きがあるんですけど、パン屋さんじゃないお店も含めて、テイクアウトでこれだけ並んでいる店はなかなかない。
ワインはフランス産に絞っています。
ボルドー、ブルゴーニュは高め、それ以外の地域でも、安くてコストパフォーマンスが高いものを選んで出しています」

西馬込にそれまであった、ブーランジェリー・イチとパティスリー・トレトゥール・イチを統合して、一等地である代官山に移転した。
だが、特別なものではなく、あくまで日常に焦点を合わせるというコンセプトはぶれることがない。

「僕自身が目指しているのは、何回食べても食べ飽きないような、そういう商品を作りたいと思っています。
お店がある限り、何年も何年も、しょっちゅうきていただけるような店にしたいと思っています。
西馬込をオープンしたときから、フランスのパン屋さんの雰囲気を出したいと思っていました。
東京のおしゃれなパン屋さんって、毎日買いにいくというより、高級で特別な感じがする。
ちょこっと並べてあるよりは、たくさんの数が出ていてほしい。
オブジェのようにただ並んでいるのではなく。
フランスはすごく安いので、バゲットの値段は100円台にしたいな。
そういう思いは、代官山にきても同じ」

メゾンイチ(MAISON ICHI DAIKANYAMA)
東急東横線 代官山駅
03-6416-4464
8:00〜22:00
月曜火曜休み

#144


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ロータスバゲット(中目黒)
141軒目(東京の200軒を巡る冒険)



長年修行を積んだパン職人でなければ、おいしいパンは作れないのだろうか。
パン業界と関係ないからこそ、他の分野で培ったセンスやノウハウを活かして、固定観念を壊すような、新しいパンができないだろうか。

ハリウッドランチマーケット(聖林公司)が経営するロータスバゲットは、ゲン垂水オーナーの「ロータスの実が入った素朴なパンを作りたい」というアイデアが出発点だった。
日本で最初の古着屋ともいわれるハリウッドランチマーケットやHIGH! STANDARDなどのブランドを立ち上げ、成功に導いてきた人物。
担当者の両角(もろずみ)さんは、オーガニックのカフェであるボンベイ・バザールの立ち上げに関わり、つづいて、そこで作っていたパンを発展させた、代官山・旧山手通り沿いにロータス・バゲット1号店のオープンもまかされた。

「オーナーに店名を言われたとき不自然に感じなかったのは、ロータスの花が洋服の柄にも使われていたりして、身近に感じていたからだと思います。
泥の中から出てきてきれいな花を咲かせる蓮はとても魅力的な花です。
内装に使われているパープルも、ハリウッドランチマーケットでよく使われるカラーでもあり、こちらも自然と馴染みました。
オーナーはパン屋のアイデアをかなり昔からイメージされていたようで、外観やユニフォーム、パンのオブジェなんかもオープン1ヶ月前には全て揃いました。
いつのまにこれだけの情報やアイデアを集めてたのか…」

両角さんの仕事は商品開発。
スタッフのアイデアや、職人からの提案によって、パンを試作し、意見を交換しあって、ロータス・バゲットの味に仕立てていく。

ボンベイカフェの名物は、店で炊いたあんこを使った今川焼。
ロータス・バゲットを立ち上げるとき、このあんこを使ったあんぱんを出すことをまず考えた。
「あんこが自慢なので、あんぱんにあんこをたっぷり入れたいと思いました。
薄皮まんじゅうみたいなパンが食べたい、と。
でも、生地からあんこがはみ出てしまう...
職人さんは『できない』と言ったけど、いっしょになって生地をのばして、『こうやったら必ずできるから』と。
毎朝10個作ったら半分以上は破裂。
何ヶ月もかかってやっとできたときは、涙が出ました。
その後お客さまから『もっと普通のあんぱんが食べたい』という声が出たので皮を厚くし、天然酵母を使ったオリジナルのあんぱんが完成しました」

湯捏ね食パン(240円)
ミルクとホシノ酵母がミックスされたやさしい香りが立ち上がる。
持った感じも食感も軽やか。
ふかふかな中に、天然酵母らしいふくらみきれない部分があるので、噛んですぐパンが復元せず、ふかもちっとなるのが愛らしい。
軽さの中に口溶けがあたたかく感じられるのは、小麦の味わい、酵母の風味とともに、それにもまさってミルクがしっかりと滲みだしてくるから。
強すぎない甘さが、ミルクとあいまって、やさしさを演出する。

細長く、口に運びやすいスマートな形は、スタイリッシュなこのパン屋を象徴するかのようだ。
「半分の大きさの食パンが食べたい」という自分たちのわがままから誕生したもの。
「自分で半分に切ればいいのでは?」との声もある中、
「耳好きの方用に」と。
たしかに、自分で半分に切ったのでは、耳が周囲すべてを覆うことはない。

食パンを特徴づける、やさしくほんのりの甘さは、砂糖ではなく、アガベシロップを使用することによるものだ。
「ボンベイ・カフェでもう14年も使っています。
テキーラの原料であるサボテンから作られたもの。
ちょっと入れただけで甘さが出て、GI値が低い甘味料です(血糖値の上昇の速度が低いのでダイエット効果がある)」

やさしい甘さと、ふにっとした食感。
両者は通じ合い、シンクロして、ロータスバゲットのパンに共通するかわいい感じを作り出す。

「ソフトな食感なのは、糖分がある分、生地にやわらかさが出るからです。
やわらかさだけを求めると、甘くなりすぎる。
ナチュラルな感じがいい。
素材の味を壊さないように。
ぜんぶオーガニック、天然酵母。
安心・安全。
あんぱんのあんこもできるだけ砂糖を抑えて、塩で甘さをきかせています。
お子様からお年寄りまで幅広くよろこんでもらえるメニュー作り。
ハード系よりやわらかいパン。
安定感があるホシノ酵母を主に使っていますが、ビワから起こした自家製酵母も使います。
もちもち感があるので、食パンとかフランスパンはホシノを使っています」

両角さんはパンについて素人だと正直にいう。
むしろこの仕事を通じて、いまのパンの世界の現状をストレンジャーとして理解していったと。

「パン職人さんから提案されてくるパンが、すべて甘すぎると思いました。
バターを使いすぎるし、オイリーすぎる。
普通のパン屋さんをあまり知らなかったので、職人さんが提案するものを食べて、世間はそうなんだと感じた。
ペストリーをよく提案してくるのですが、世間ではこういうのをやっているんだと。
それはうちのパンじゃないと思いました。
開店当初より種類は増えましたが、味のラインは変えていません。
口の中でべとつかない感じは大事にしています」

たまごパン(120円)
かわいい甘さ、乙女味がする卵サンド。
歯が少しパンに触れただけで歯切れる軽さ。
生地がなめらかになりすぎず、ほんの少し、気泡が織り成す組織のつぶつぶ感を感じる。
軽やかさと素朴さが両立している。
甘さでいえばなつかしいコッペパンに近いのに、後口にはまるで残らずすっきりとしている。
快い甘さの中にひとときたゆたわせてくれる。

企業文化、企業風土。
同じ場にいる人が知らず知らずのうちに同じ考え、感性を共有するということはありうる。
ハリウッドランチマーケットのような、強烈な磁場であれば、なおのこと。
それはスタッフの中に内面化され、誰かにひとつひとつ指示されるわけではなくても、洋服と同じ哲学や思いを持ったパンが作られていった。

「洋服と共通しているのはシンプルだということ。
うちの洋服というのは、基本はシンプル。
いろいろな形を作って演出するというのは少ない。
それよりも、見た目の色はもちろんですが、着やすさや機能を重視します。
パンでいえば、それは食べやすさ」

広報担当の冨永さんもいう。
「洋服もパンも一貫してるかもしれない。
はじめて食べたとき、ああ、そうかと。
ぜんぜん不思議に思わなかった。
うちの会社にいたらわかるような感覚。
上辺だけの奇を衒ったものを作らず、シンプルに味と食べやすさを追求しています」

最初に誕生した、オリジナルミックスパン(300円)。
「ブルーベリー、蓮の実、よもぎ。
体にいいものばかり。
カフェで出しているいつものブルーベリーに、毎年やっているもちつきに入れるよもぎ、ロータスバゲットのはじまりになったロータスの実。
スタッフの記憶に残っているもの、納得できるものばかりを使ったミックスパンです」

ボンベイバザー、ロータスバゲットともにオーガニックにこだわる。
ときには現地に足を運んで、食材の生まれる現場を見る。
「ブルーベリーを摘ませてもらったり。
実際に行ってみると気持ちも変わって、素材を大事にしようと思います。
ブルーベリーおじさんはすごい(笑)。
あれだけの広い畑を、夏の間は毎日採ってくださって」

焼きたてフランスパン(300円 ブルーベリジャム or オリーブオイル or バター つき)
焼きすぎないゆえに全身が中身。
噛むともちもちして、ぎゅっと音が鳴る。白い小麦の甘さがミルクでも飲んだときのように、ひたひたと舌の上に溜まり、やがて軽やかに口中に発散してくる。
国産小麦ならではの、舌に馴染む味わい。
頂点のよく焼けたところのみはすばらしく香ばしい。
げんこつパンや、ファンデュのような、昔からある、単純で、それゆえにやさしく、飽きのこないパンたちのことを思いだした。

「突然の産物でした。
1番人気です。
中にホイロやオーブンのついた車で移動し、横浜界隈で焼きたてフランスパンを販売しようと試みて、まずは自分たちのブルーブルーヨコハマの店横で販売しました。
予想以上に顧客様に来ていただけるようになり、その場所から動けず、移動式ながら、不動のまま現在に至ってます(笑)。
スタートする前に1回練習したほうがいいってことで、試しに作ってみたら、これができてきて、『こういうのいいよね』という事で完成したフランスパンです。
パンにも好みがありますよね。
バゲットは皮がぱりぱりしてなくちゃという人もいるし、こういうもちもちしたのがおいしいという人もいる。
ごはんの固さ同様に、パンもこだわって当然だと思います」

経験がなければ、先入観をもちえない。
知識がなければ、直感を大事にするほかはない。
伝統や基本を大事にするパン業界にあって、その外側にいる人たちが、かえって原点的なパンを発見したことは、興味深い。(池田浩明

東急東横線 中目黒駅
03-3715-0284
12:00〜22:00
無休

#141

パンラボ単行本増刷完了しました。


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#141
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ファミーユ(代官山)
139軒目(東京の200軒を巡る冒険)

代官山のようにフランスパンの似合う町は、そうはない。
ファミーユが肩肘張ったブーランジュリーでないのは、だからこそなのだろう。
朝食にリュスティック、昼ご飯にカスクルート。
代官山にあるこの店で、フランスパンは特別な食べ物ではなく、毎日口にする日用品の顔をしている。
フランスパンの隣りが、お菓子やラスクやコンフィチュールで所狭しなのも、フランスのパン屋をほうふつとさせる。
日本に本当のフランスパンの文化が根づいたとき、ブーランジュリーは、ラ・ファミーユのような普段使いの店になるはずだ。

ムッシュ・ビゴが伝えた「パン・トラディショネル」を引き継ぎ、西荻窪で一時代を築いたムッシュソレイユ。
そこで出会った小川高明さんと紗都子さんの2人はいっしょにフランスに渡り、ディジョン、そしてパリと、レストランやブーランジェリー(グルニエ・ア・パンのような名店を含む)を渡り歩いた。

「ぜんぜんお金がなかったので、余ったパンをもらってきて、アパートで2人で分け合って食べてました。
『今日はバタールが2本も手に入ったぞ!』とか(笑)」

どれだけ日本のパンの技術が上がったとしても超えられないなにかが、フランスには空気のように当たり前にあった。
「正直、パンは、日本のほうが丁寧で、レベルが高いのかな。
だけど、フランスにおけるパンというのは、毎日食べるものであったり、ワインとチーズとパンという食文化の中のひとつであったり。
そういう日常のものを、毎日職人さんがこつこつ作ってる。
その中で働けたのが誇り。
パンとはどういうものなのかが感じられた。
日本だとどうしても、パンは値段も高いですし、かしこまった感じがある。
フランスではお米感覚」

フランスから帰国しても、2人は旅をつづけた。
2度目の旅を体験したがゆえに、あこがれのフランスと、母国日本をともに相対化する視線を身につけた。

「韓国の工場にパンを教えに行ったんですが、逆に教わってきました。
20年前の日本のパンを焼いていた。
僕の知らないパンをがんがん作っていて。
日本ではいまはおしゃれなパンが多いですけど、韓国ではあんぱん、菓子パンが売れる。
その工場では和菓子も作っていて、あんぱんのあんこもそこで作っている。
あるいは、そぼろパンというのがあって、メロンパンの原型だと思いました。
シュトロイゼルのようなそぼろを生地にくっつけて焼く。
韓国って国は、自分の国の料理が強い。
なかなか外国料理を受け入れない。
フランスもそうです。
日本だけすごく特殊だなと。
イタリアンもフランス料理もおいしい。
なんでも吸収できるけど、日本料理は逆におとなしい。
いいところでもあって、悪いところでもあるのかもしれない」

ムッシュ・ビゴが伝えた「パン・トラディショネル」を受け継いで、西荻窪で一時代を築いたムッシュソレイユ(現在は荻窪)、アンジェリーナ、パン・ド・コナという古参の名店を渡り歩いた。

「ムッシュソレイユではフランス系。
フランスでもフランスパンに洗脳されましたけど、パン・ド・コナではドイツパンを勉強させていただいて。
いろんなパンを作れないといけないのかな。
料理人がまかないでいろんな料理を練習するみたいに。
日本のパンもできなくちゃいけない」

旅で得た豊富な引き出しの中から、代官山という土地にもっともあったレシピをチョイスする。

「基本はビゴさん系のパン。
いろんなパン屋さんで修行をしたので、このパンはここの、これはここのと、いろんなものを混ぜて、やってます。
たとえば、リュスティックはパン・ド・コナのスペシャリテ。
まったくいじらせていただいてない」

リュスティック(280円 1/2)
薄い皮の軽やかな香ばしさと、むちむちした中身にある生(き)の小麦味が、拮抗して手を結んでいる。
ぷるぷるが溶けて、噛むたびにしなやかな皮はじゅりじゅりと音を立てる。
強さのない、快い甘さがすぐ手の届くところにきているのだが、それが像を結ぶのはじれったいほどゆっくりである。
ひと口、ふた口と食べつづけるごとに、余韻が口の中に貯まって、黄色い甘さがはっきりとしてくる。
そうなると、今度はプリンみたいに感じられるほど、甘さは輝いている。

2人の長い旅の記憶は、どのようにフィードバックされているのか。

「いろんなものを食べてきて、結局は納豆とごはんに戻った。
それが最高においしいじゃん、と。
お客さんにいわれたんですが、ある有名なパン屋さんのことを『あそこのパンはおいしい。でも毎日食べるもんじゃない』
パンもそういう日常のものであるべきなのかな、と。
毎日食べられる軽い感じのものも作ってるし、低温長時間発酵の重たいものも作る。
両方を求めるお客様がいる」

カスクルート ハム・チーズ(320円)
自家製のからしバターが、強さはないのに舌に滲みわたって、パンと具材をつなぐ接着剤になっている。
グリュイエルチーズには際立った香りがあり、ハムのブラックペッパーも尖って、具材ひとつひとつは個性が強い。
レトロバゲットとして売られているものは低温長時間発酵の生地だが、カスクルート用には、ビゴ流の基本に忠実なあっさりした生地と作り分けている。
だから、主張のある具材を受け入れるし、焼きが浅くてやわらかめ、形もひらべったくて、齧りついて歯の裏が痛くない。

ブティックやファッション系、デザイン系の事務所が多い代官山という場所柄だけに、フランスパンを食べ慣れた人が多い。
2人がフランスで感じてきたものに近い、フランスパンが日常のものとして受け入れられる風土がこの町にはある。

「やりがいがありますね。
ストレートにおいしいものはおいしいって反応がきますから。
運転手つきできてくれる方もいる。
わかってくれる。
こういう場所だけに、星がつくようなレストランにも卸させていただいたり」

あえて、手を広げず、すべてのパンを小川シェフひとりで作る。
クオリティに責任を持つためだ。

「いちから焼くまでぜんぶ自分。
いいも悪いもぜんぶ自分なんで。
大量生産だと『誰のせいだ?』ってなりますけど、いいも悪いもぜんぶわかってますから。
今日は寒くて発酵が足りなかったなとか。
いいものあげるためには、これが本来の姿。
毎日の質を大切にしないといけない。
新しいお客さんももちろん歓迎ですが、毎日きてくれるお客さんももっと楽しい。
リュスティックを毎日食べて、なくなるたびに買いにきてくれるおじいさん。
ありがたい。
ラスク屋っていわれたり、お菓子屋だかパン屋だかわからないっていわれたり。
でも、それが狙いです。
いろんなアイテムを選べる、わくわくするようなお店にしたい」

旅はまだ終わらない。
無類のパン好きである紗都子さんと連れ添って、休みの日には遠く長野まで、ワイナリー、牧場、パン屋、そば屋など、おいしいものを求めて移動する。
パンも作るけれど、技術的な問題にとらわれず、客の立場に近いパン好きの目線でアドバイスを送る紗都子さんの存在が、ラ・ファミーユのアイテムを充実させている。

「パン好きなんで、俺にはない発想がある。
だめなのはだめっていう。
ものすごくうるさい。
俺はどうしてもパン職人の頭で考えるので枠にはまってしまう」

レトロ 小豆(280円)
甘みあふれるフランスパンに大納言小豆。
というと、志賀勝栄シェフの手がけたペルティエを思いだすけれど、破壊力においてオリジナルを超えた。
中を割って驚いた、圧倒的な小豆量。
その濃厚さは、沖縄の「ぜんざい」を思いださせる。
甘く煮た大納言を低温長時間発酵ハードパンの薄皮で包んだ、新発想の薄皮あんぱんといおうか。
にもかかわらず、ここにはハーモニーがある。
甘さの強い低温長時間発酵の生地にはむしろこのバランスでちょうどよかった。
小豆の味わいの隙間をパンのやさしさが癒す。
腹にずっっしりと溜まるおやつパン。

「具材をケチらないようにしています。
ひとつのパンで満足できるように。
ようやくそのさじ加減がわかってきました」

言葉を選びながらゆっくり小川さんが話していると、ときどき紗都子さんが顔を出して、早口で口をはさむ。
「またそんな重い話ばっかりして!
もっと楽しい話、楽しい話!」
「は、はい」

夫婦で営むパン屋に欠けてはならない、抜群のコンビネーションがこの店にはある。


ファミーユ代官山
東急東横線 代官山駅
03-3461-3644
11:00〜20:00(10:00-19:00[土日祝])
火曜休み

#139

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#139
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トラスパレンテ(中目黒)
138軒目(東京の200軒を巡る冒険)

店名からも、内外観からも、ソティスフィケイトされたハイセンスな店、というのがトラスパレンテのイメージだった。
それを象徴するのが、真四角のブリオッシュにカスタードを入れたキューブ。
マスコミに何度も取り上げられた看板商品だったにもかかわらず、いまこのパンは店に並んでいない。

「3月11日の地震の次の日、お客さんが殺到しました。
次から次にお客さんがくるので、食パン、バゲットをひたすら作って、くたくたになりました。
なのに、キューブだけは売れ残った。
そういう場面って、作る側にとってはいちばん見たくないもの。
キューブは、欲して買うものではなかったのだと。
子供に食べさせられたり、必要なときに食べられるもの、それがパン。
おもしろいから買う、おもしろみだけの商品じゃなく。
スタッフと話して『キューブやめていいですか?』っていったときは、『なんでやめるんですか?』って声も上がったけど」

3月11日を境に、私たちの意識のなにかが変わった。
私たちは本当はなにを欲しているのか、本当のよろこびとは一体どういうものなのか。
キューブの例はそのことを端的に示していると思う。
森直史シェフの、パンへと向きあう態度も変わった。

「モダンさを狙って、キューブ型のパンを作っていました。
でもだんだん、僕の作るものがわかってきた。
やわらかくて、値段が抑えめで、具材がいっぱい、仕上げをほどこしてかわいらしい、そういうことを重視するようになりました。
作りたいものを作るより、求められるものを作りたい。
はじめてのおつかいで4歳ぐらいの子が買いにくるような」

かっこいいけれど敷居の高い店、ではなく、かっこよくて普段着で毎日これる店。
それがトラスパレンテであり、中目黒的な日常なのだ。

「食パンは毎朝食べるものです。
毎日買いにくる常連さんには、何枚切り、手提げ袋に入れる入れないを、顔を見ただけでぱっと出せるように心がけています。
お店屋さんですから、そういうのを大事にしたい」

プリマベーラ(270円)
試食用に置かれていた一辺を口にしただけで、類い稀な香ばしさの虜になった。
山のところには火の香り、中身の白い部分には、発酵と麦の甘さが完全に溶け合った香りがあって、嗅ぎつづけていると、果てしない気分に陥る。
舌触りはふさふさして、噛みしめると静かにもちっとする。
味わいは極めてニュートラル。
砂糖の甘さからも、ミルクからも、小麦からも、すべての味わいから中立の位置にあって、だから毎日食べられる理想の食事パンとなりうる。
日本人の生理感覚に合うすっきりとした味わいは国産小麦ならではのものだ。

「国産の粉を使いたいんですよね。
一部は外麦も使っていますが。
特に食パンには北海道産のいちばんいい粉を使っている。
食パンはいちばん安い値段にしようと、この辺の店を見てまわりました」

パンやお菓子といえば、フランスを目指す職人が多い中で、森さんはイタリアで勤めた異色の経歴を持つ。

「もともとパティシエとして、イタリア人シェフの元で修行していたので、レシピもイタリア語だったし、イタリアに行くことの違和感はありませんでした。
町場のケーキ屋さんで、フランスの技術も学びました。
僕の世代はみなさんフランスで修行する。
でも、日本はすでに現地と変わらない水準にある。
だから、向こうの有名店に学びに行くんじゃなく、日本で身につけた技術で通用するかどうか試してみようと思っていきました。
イタリアの大衆的なトラットリア(=ビストロ)で、ショーケースに僕が作ったケーキを並べて販売した。
けっこう売れて、シェフという立場を与えてくれました」

「そこには、50人ぐらいのスタッフが働いていました。
イタリア人、フランス人、ブラジル人、韓国人と国籍もさまざま。
みんな違和感なく認めてくれて。
国に関係なく、よしとするものはいっしょ、センスはいっしょなんだと思いました。
例えば、お茶、ホワイトチョコ、ジェノワーズムースを使ったオペラというケーキ。
層の順番によって調和が変わるし、やわらかさや軽さを考えて作ると、そのよさはみんなに伝わる。
ただ、味覚にちがいを感じる。
淡さが理解されない。
イタリア人にはわかってもらえたんですが。
ダシの味がわかるかわからないか。
たとえば、アクアパッツァだったら、アサリやエビのダシの中に、下味をつけた他の魚介を入れる。
そういう繊細な味わいを見分ける感覚は、イタリア人と、日本人に共通したものなんですね」

森シェフのイタリアへの旅。
それは、自分の技術やセンスが世界に通じるかどうかの腕試しであり、日本人として培った味覚のアイデンティティに気づく、ある種の自分探しだったのかもしれない。
そしていま、日本の小麦を使ってパンを作る。
外麦にあるような強さではなく、繊細な感覚をそこから引き出そうとしている。

「微々たるものではあっても、原料のちがいはあるとは思ってます。
小麦の作り手も、北海道の方は本当に一生懸命。
ロッドにばらつきがあるのも改善する努力をしているし、たくさんブランドもできてきて、熱を感じますよね。
特にフランスで修行した方は、この粉じゃないとできないとかあると思うんですが、僕はそういうのはいいかな。
日本のいい素材を認めて、そこに技術をのっけて、アレンジして、作る。
自分で作ってみて、ツヤだったり、風味だったり、微々たるちがいかもしれないですけど、よろこびはありますよね。
毎日やってるものにしかわからない。
お客さんに伝わってるかどうかわからないが、作ってる自分のモチベーションにはなりますね」

ナチュラーレ 赤えんどう(140円)
トラスパレンテが白パンを作るとこうなる。
ぽよんと弾み、素直に口溶け、味わいは白め。
普通の白パンより甘さがくっきりし、小麦のコクが出ている。
そこに甘い豆。
小麦からどんどん溶けてくる白っぽい甘さと、豆の甘さの響きあい。
濱田屋の豆パンの向こうを張る、ほっこりパン界に投じられた一石。

食事パン、菓子パン、本格的なお菓子とともに、惣菜パンのラインナップが充実していることも目を引く。
ブーランジェ、パティシエに加えて、料理人も経験していることが、オールラウンドな品揃えを可能にしている。

グラーノ(180円)
豆の青々しさ、チーズのカリカリとコク、ベーコンの塩と肉汁を、薄くて引きの強い生地ががっしり受け止める。
小麦と塩だけのリーンな生地だけに、素材の力強い味わいを活かす舞台になる。
生地の薄い部分はぱりぱりぎみ、厚い部分はしっかりと具材の味を吸い込んで、噛むとぱふっとそれらを吐き出す。
いくらでも噛みしめられるようなこの食感が、塩味とあいまって、ビールやワインを召還する。

「素材、食材の知識を得たというのは、よかったですね。
意外と野菜たっぷりのパン屋さんってない。
たくさん入っていたり、食べごたえだったりをよしとしています。
スタッフがたくさん入れるので、大丈夫かなって、自分で心配になる(笑)。
いろんなパンがあるというのは、見た目のよさにもつながるし、表現の魅力のひとつ。
少ないアイテムなら、6個や8個という単位でも作ります。
売り切れたらこまめに追加して。
手間はかかりますが、それが結局はおいしいんですよね」

昼過ぎにはすべての商品を作りきってしまう店が多い中、トラスパレンテでは夕刻を過ぎても途切れることなく、焼きたてのパンが出てくる。

「企業努力だと思います。
1000個売れる店があるのに、30個が売れないというのは、それは努力が足りないということ。
小麦が値上がりしたからって20円ずつ上げたりとか、僕はまったくやる気がしない。
Zopfさんのような店が、僕は理想だと思います」

狭い空間に目も眩むばかりに多種多様なパンがあふれるほど並ぶ、Zopfの名を森シェフは自分の目指すところとして挙げた。


オープンキッチンであるトラスパレンテには、イタリアンレストランの雰囲気がある。
入口から入ってレジの向こう側、正面にオーブン。
いま作り出されたパンが、熱を放つオーブンから産み落とされる場面、森シェフはじめスタッフの機敏で情熱的な動きこそ、この店の最大の見物だ。
まるでなにかの競技者のように、あり得ない速さで両手を動かして分割と成形を行う。
その一方で、3段あるオーブンを、踏み台を使って上り下りしながら巧みに焼き加減を調節して、たくさんのパンを焼きだすのだった。

「こういう雰囲気を出したかった。
作ってる側がお店の様子を見れる。
お客さんも、僕の作ってるところをちゃんと見れる。
学芸大学の店は、ここで2番手、3番手だった子がやってくれています。
支店を出されているシェフの方は、商品チェックだけになることも多いと思いますが、僕がここでちゃんと自分で作っていることが大事だと思う」

トラスパレンテは自分ひとりの店ではなく、チームだということを、森シェフは強調する。

「最初の1年間、寝る時間もなくなって、寝ないことがなんともなくなった。
商品も安定しないし、何をどう作っていいか、方向も定まってない。
試しつつ、葛藤を繰り返しながら。
2番手、3番手、販売のスタッフとはオープン当初からいっしょにやっています。
こういうの作りたいからこうしてくれ、というのはあんまりない。
みんながよしとするものを作りたい。
お店って働いてる人のもの。
商品とか細部に至るまで。
お客さまにとっていいと思うことしていきたいだけだから、これいいなと思ったら、自分の考えたのじゃなくてもします。
混ぜ方ひとつまで自分のやり方を教え込む方もいるかもしれませんが、僕はそうじゃなく、チームで勝てればいい」

ひとりよがりのパンより、誰もが欲するパン。
ひとりの観点ではなく、複数の観点からブラッシュアップされたパン。
そして、パンとは、たった1個であっても、各ポジションをまかされたスタッフの手から手へと渡って完成するものでもある。

「ぜんぶの商品を自信もった状態で出す。
これいまいち、というものは出したくない。
でもそれが、けっこう大変なこと。
自分で最初から最後まで作るのではなく、ポジションに分かれて大勢で作るものなので、中には精神的に調子が悪いスタッフもいる。
スタッフのケアも必要です。
自分は、人によろこばれるものを作っているという気持ちが大事。
これは絶対いい、と。
それがぜんぶになるように作るようにしています」

ただのルーティンではなく、単なるお金をもらうための商品でもない。
これは人によろこばれるものだ、という意識をもって作られたパンは、きっと別の輝きを放つはずだ。



トラスパレンテ (TRASPARENTE)
東急東横線 中目黒駅
03-3719-1040
9:00〜20:00
火曜休み

#138


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#138
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ブラフベーカリー
134軒目(東京の200軒を巡る冒険)

横浜元町はパンのふるさとである。
幕末に開国されたとき、外人居留地ができたこの一帯には、いち早く英米人向けのパン屋が開店した。
日本で最初に食パンを焼いたのは、いま元町にあるウチキベーカリーである。
おなじみのベーカリーチェーン、ポンパドールの発祥もこの町だ。
元町商店街から坂を上がっていく。
それはこの町が、アメリカ文化が日本の岸辺を洗う波打ち際にあったことを表すかのようだ。
ペンキのはげかけた、英語の看板を掲げたクリーニング店。
横板張りの木造の壁を白いペンキで塗って洋館風に仕上げた花屋。
異人館が立ち並ぶ丘へ上がりきるその手前に、横浜の青い海の色のようなコバルトブルーのパン屋がある。

「横浜は大好きな場所です。
地元は石川町のほうで、トンネルの向こうに自分の通ってた小学校があります。
店をやるなら、この坂でやりたいなと思っていました。
だから、この物件が空くのを待って独立しました。
おじいちゃんの代からのパン屋で、3代目です。
2代目だったらちがう職業を選んだかもしれないけど、3代目だとパン屋以外考えられない。
子供の頃から親父のパンを食べてきましたから」

ブーランジェリー ラ・テールのシェフとして名を上げた栄徳剛さんが独立し、業界関係者の注目を浴びながら開店した新店は、いままでにない新しいコンセプトを掲げた。

「ニューヨーク、アメリカのスタイルです。
実際、アメリカは他民族国家で、もともとアメリカにあったパンというのはありませんよね。
アメリカのパンというのは、移住してきた人が作る、フレンチスタイル、イギリス、イタリアのパンで、もしかしたら日本のパンも出してる人がいるのかもしれない。
だから、自分というフィルターを通して、自由な考えで店を作っています。
アメリカというイメージ…それはパンの大きさだったり、商品構成だったり。
いちばんわかりやすくいうと、ディーン&デルーカのセレクトですね。
日本ではなく、ニューヨークのデルーカ。
たとえば、ベーグル屋は専門店になっていて、ベーグルしか売っていませんが、そういういろんな専門店の商品を集めてきたような店というか。
ニューヨークのパン屋っていうと、真っ先にエミーズが浮かんでくるんですが、エミーズのようなスパイスをきかせたパンも取り入れてますし。
エミーズだけになっちゃうとつまらない」

ブラフベーカリーは楽しい。
はるばる横浜まで出かけても決して損をしない。
ここには私の食べたかったパンがあった。
棚に並んだシナモンロールのアメリカンな大きさに目を見張る。
チョコレートのパンにはハーシェイズを使用。
ホットドッグは、アメリカのスタジアムで食べるような甘くないパンに、極上のソーセージをはさむ。
挽いたままのピーナッツバターとジャムをはさんだ食パンのサンドイッチ。
ハリウッド映画で見るような、キャロットケーキにバナナケーキ。
そんじょそこらではないおいしいマラサダに、カレーを入れたり。

シナモンロール(290円)。
チーズを使ったアイシングのすばらしさ。
フルーティで、甘さがふわっとしていて、滲み入るようで。
パンのおいしさ。
素朴だが、ねちっとして、ふわふわでもあって、重くはなく、でも味わいは深く、そして中心には純粋な小麦味の白さもあって。
ゆっくりと溶けていく中身と、それを取り巻くシナモンシュガーとの相性のよさに浸りきろうとしていると、またチーズに魅き込まれる。
そこには酸味もあり、練乳のような華やかさもある。
その甘さによって、またパンのほうを食べたくなって。
ずっとそれを繰り返さないといけなくなる、味覚の永久機関。

はじめて食べるようなアメリカンなシナモンロールに、なぜかあるなつかしさ。
それは素材選びの段階から狙って作り出されたものだ。
「クリームチーズをいろいろ試してみて、フィラデルフィアが作りたいイメージに合っていました。
キリ(フランス産のクリームチーズ)じゃなかった。
アメリカのシナモンロール、シナボンなんかのイメージですね」

流行を敏感に取り入れるパン屋。
それはブラフベーカリーのほんの一面にすぎない。
スタイルに加え、技術、哲学、そして、それらのバックボーンをなす、シェフ自身の人生が、パンの味から感じ取られるのだ。

たとえば、ホワイトブレッド(250円)という名の角食。
「特注の型を使っています。
普通の型は縦長が多いんですが、これはちょうど四角。
アメリカの食パンって四角いんです。
この型の特徴で、皮が薄くぱりっとできます。
角食というのはスタンダードなものなので、うちの親父もそうだったんですけど、内麦じゃなく、カメリアやヨットのような、昔からある定番の外麦を使っています」

食パンの理想通り、バターの香りがほのかに漂ってくる。
焼き色が濃く、いかにも味がありそうで、でも皮が薄いために一部がぺらっとはがれている。
皮に比べて、中身のかさがない、くしゅくしゅな感じ。
それも、上出来の食パンに共通するものだ。
中身は実にやわらかく、口の動きとともに、意のままに動く。
口に入れたあとの数瞬は、ただ心地よい透明な味わいだと思ったら、そこから怒濤のような、ミルキーな甘さの逆襲に遭った。
スムースな口溶け、甘さのふわっとした感じ。
無敵の幸福感。

真四角の外見はアメリカ。
素材を活かしきる技術。
それだけではなく、食べる人の記憶の部分にまで、この食パンは訴えかける。

「フランス人のところで3年間修行して、なんでもパンを作れる気でいたとき、久しぶりに帰ってきて食べた、親父の作った食パンがおいしかったことを、いちばん覚えてますね。
なつかしさだったり、食べ慣れた味は、大事にしています」

食パンに父親と同じ小麦粉を使用する。
それは、スタイルや技術のような目に見えるものだけではなく、「おいしさ」が、人の心や時間という見えないものに左右されることを知っているからだ。
食パンの生まれた町で、パン屋の3代目に生まれた栄徳シェフが作るもっとも新しい食パンには、幕末以来の伝統が流れ込んでいるはずだ。

パンのイメージに合わせて、自在に粉を変え、ブレンドを操る。
バックヤードに置かれた小麦粉の袋が実に多種多様な銘柄であることに驚いた。

「使ってるのが、けっこうふくらまない重い粉が多くて。
準強力粉のリスドオル(フランスパン用の定番)+薄力の全粒粉の細かいのを入れたり。
重くて味がある。
軽いの求めてる人は『ちがうんじゃない?』って思うかもしれませんが(笑)。
フランスパン用の粉のような灰分(ミネラル値)の高いもの、小麦のおいしいところを使ってます。
それと、僕の中でいま薄力の全粒粉っていうのが流行ってて。
全粒粉だけでも、薄力、強力、国産、グラハムっていう使い分けをしています。
ラ・テールでやってなかったらこれだけの粉は使えなかったかな」

レジの後ろには、「お店をやるとき飾ろうと思って買っておいた」草間弥生のかぼちゃの版画。
ブラフベーカリーのコバルトブルーは、イブ・クラインのキャンバスにある、インクから直接絞り出したままの、生々しい衝撃的な青をイメージしている。
それを具現化したのは、大阪のデザイン集団、グラフ。
トング、トレー、プライスカードも特注品。
極めつけは、売り場と厨房の仕切り壁に設けられた窓。
動く絵をイメージしているという。

「いつもちがった絵がある。
働く人間が絵なのかなって。
あそこでお客さんと会話もできますし」

たしかに私も絵のようにその窓を見ていたのだが、突然栄徳シェフが飛び出してきて、窓越しに焼き上がったばかりのパンを並べはじめたのには驚いた。
それから、突然訪れた知人と窓をはさんで話をはじめた。
北海道から、小麦の生産者である前田さんが、家族を伴って訪ねてきたのだ。
前田さんのよろこびは、そばにいた私にも伝わってくるようだった。
自分の作った小麦が、輝くばかりにかっこいいパンになって売り場に並んでいる。

「こっちから生産者をトレースできる(作り手が誰かわかる)ということは、生産者からもされてしまう。
そういう人がきて、パンを食べてよろこんでくれないと、おもしろくない。
申し訳ない。
ラ・テールのように、トレース100%で作ることって、他のお店ではないこと。
前田さんとのつながりがあるなら、前田さんの小麦を使ってなおかつ、おいしいものを作らないといけない」

前田さんのキタノカオリを使った食パンは「ブラフの看板商品」となって、この日も早々と売り切れていた。
小麦とパンのもっとも幸福な関係をそこに見た。
小麦はパンにしてみないと、誰もそのすばらしさを体験することができない。
それを司るのはパン職人のみに許される特権である。
外麦、特にアメリカ・カナダ産に比べて、日本の小麦はたんぱく量が低い。
えてして、ふわふわさを欠いた、食べにくいパンになる。
作り方によっては味わいの豊かさが野暮ったさともなる、日本の麦を人気商品に仕立てているのは、栄徳シェフの腕があってこそだ。

「国産粉は素材の特徴からアイデアが出てくることが多い。
キタノカオリはもっちりして、乳製品との相性がすごくよかった。
キタノカオリを使って食パンを作ってみたんですが、皮がどうしてもさくっとしない。
そこをずっと、いいのできないかと考えて生クリームを入れてみました。
さくみ(さっくり感)が出ない粉だけど、ほろっとした、さくみのようなものが出た。
反対にハルユタカの場合は、砂糖も油脂も入れない。
シンプルに食べてもらおう。
キタノカオリってなにかを混ぜると、よさが半減する。
他の小麦を混ぜることも考えなかった」

「大地のパン」というコンセプトを掲げていたラ・テールでは、国内産の小麦、とりわけ農家から直接小麦を取り寄せるという「顔の見える関係」にもこだわった。
麦を作る人の思いを知ること、それはパンの作り手の態度も変える。
ただ、おいしいだけでは足りない。
パンの中に小麦の個性が活きていなければ、その小麦で作る意味がないと。

「甲斐小麦(山梨県でパン用の小麦を無農薬で作るプロジェクト)を見にいったことがきっかけでした。
農家さん、すごく大変なんだな。
こんな思いして、作ってるんだ。
それを活かさないといけない。
内麦のレベルも上がってきました。
たくさん種類もでてきたし、味もいいものが多い。
外麦の代わりに使うんじゃなくて。
ハルユタカもキタノカオリもすごく個性がある。
日本が誇る、世界に羽ばたける粉。
外麦と同じもの作っても、価格勝負で負けてしまう」

ハルユタカやキタノカオリという銘柄を冠したパンが多くの人びとから評価を受けるということ。
それは、とりもなおさず、日本の小麦の評価を上げることだ。
いま日本の農業、とりわけ米や麦など穀物の生産は危機に瀕しているといっていい。
高齢化による耕作放棄、減反など政策の貧困が呼ぶ自給率の低下、そこに放射能の問題も加わった。
栄徳シェフら、才能あるパン職人の手で日本の小麦を世界的ブランドに押し上げられれば、困難な状況が一変するかもしれない。

かつて、内麦でパンはできないといわれていた。
その固定観念を打ち破って、国産小麦を使ったパン作りの先駆者となった、ブノワトンの故高橋幸夫シェフ。
農家をまわり、頭を下げて買ってきた小麦をトラックで輸送して自家製粉し、ついには自前の製粉工場まで建てた。
無理がたたってか、病で夭逝した高橋シェフと、死の直前、会う機会があったという。

「ブノワトンの高橋さんと、シニフィアン・シニフィエの志賀勝栄さん、それから僕が志賀さんの助手について、3人で講習会をやったことがありました。
そのときはもう、高橋さん、手術していた。
『おにぎり1個で十分だよね』なんて、元気がなくて。
『あとはよろしく頼む』って。
『なに言ってんだよ、おまえがやらなきゃダメなんだよ』って志賀さんは言ったけど。
バトンを渡されたからには、がんばらなきゃいけない。
遺志は継いでいかなきゃいけないし、高橋さんの目指したものを大きくしていかなきゃいけない」

一流デザイナーを起用したスタイリッシュな店舗作り、あるいは昼休みの時間を作ることでスタッフのやる気を高め、ただパンを売るだけでなくコンシェルジュとなってほしいという運営方針。
栄徳シェフは、自分がパン業界を牽引していくのだという、自負と使命感を感じているようだった。
彼が、最後に向かおうとしている場所はどこなのか。

「いまはそれはできないけど、最終的に表現したいことはあります。
日本人としての自分を表現したい。
日本の美というのはシンプル。
シンプルな中で表現しようと思う。
そのためにはもっと素材を勉強しないといけない。
ブラフベーカリーをずっと続けていく気はありません。
次へのステップというか、最終的なことのためのプロセスになるのかな。
日本というのは、イメージでいえば伊勢神宮だったり。
きらびやかではないんですよ。
素材自体の中によさがあるんじゃないかな。
副材料を使わない。
そのためには天然酵母も知らなきゃ。
いろいろテストはしてます。
将来の自分のために」


045-651-4490
みなとみらい線 元町・中華街駅
8:00〜13:30
15:00〜18:30
火曜水曜休み



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#134
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シャポードパイユ(中目黒・中野)
133軒目(東京の200軒を巡る冒険)

1月のある日、最低気温0℃。
朝8時、JR中野駅北口に、神岡修シェフは立っていた。
彼の前にはリヤカー、そこに積まれたバゲットのサンドイッチ。
「サンドイッチ、いかがですかー」
忙しく行き交う人びとに向かって、甲高い声を張り上げる。
通勤客が次々と立ち止まり、サンドイッチを買い求める。
神岡さんはいつも笑顔。
関西弁とあいまって、昔ながらの芸人さんのような雰囲気。

「お久しぶりです」
そう声をかけられた常連客からも思わず笑みがこぼれる。
慌ただしい朝の、たった数秒のコミュニケーション。
オフィスに着いたら、パンも具材も手作りのサンドイッチを齧って、あたたかいコーヒーで流しこんで一息つく。
ちいさな幸福感とともにはじまる1日は、おざなりの朝食を食べた日とどれだけ気分がちがうことだろう。

なぜ彼は真冬の駅頭に立つのか?
「友だちのカフェの厨房を借りて夜中にパンを作って売ってたんですけど、お客さまはなかなかいらっしゃらず(笑)、なんかふわーっと、リヤカーを引いて中野駅で売りはじめたんですよね(笑)。
最初はあやしげやったみたいですけど(笑)、2回目、3回目と買ううちに、リピーターになってくれる人がいたり」

以前は中野のカフェに居候する形でパン屋を営業していたが、いまは中目黒の路地裏に自分の店を開いた。
それでも火曜日と金曜日はいまでも中野駅でパンを売る。
深夜0時に店に出てパンを作り、長時間発酵のバゲットをサンドイッチに仕上げるのに、開店時間の朝7時ぎりぎりまでかかる。
それから自分で運転して中野まで出かけ、コインパーキングに車を停めると、トランクから取り出した折りたたみ式のリヤカーを引いて、駅前までやってくる。
ネット販売で買ったリヤカーは1万9800円。
「安いでしょ?」といってまた笑う。
開店資金がなくても、誰でもできる。
でも、シャポー・ド・パイユ以外に、こんな商売をする人がいるとは聞かない。

「くじけそうになりましたけど、いつも来てくれる常連の人がいるので、それでつづけられました」

実際、私も神岡さんの横で真冬の寒さに震えながら立っていたが、楽な仕事ではない。
誰も振り向かなくても売り声を上げつづける。
向こうから歩いてくる人がリヤカーのサンドイッチに目をやったのを見て、「いらっしゃいませー」と声をかけるが、そのまま素通りする。
「あー、行ってもうたか…」
そう呟いて、神岡さんはまたひとりで笑った。

シャポー・ド・パイユのメニューは、ほぼカスクルート(バゲットのサンドイッチ)のみ。
手作りのパン屋としてはめずらしい。
「フランスパンのサンドイッチを向こうで食べたのがきっかけですね。
もともとおいしいなと思ってたんですが、日本にまだないじゃないですか。
いけんじゃないかなー、作ったら売れるんじゃないかって(笑)」

パリへ行ったのはお菓子の修行をするためだった。
「もともとはお菓子をやっていて、ケーキ屋で修行してました。
それなのにパン屋になりました。
パンはいろんな種類を作れるわけではないですが、フランスパンがおもしろくて、生地を触ってるのが楽しいんですよね.
パリのジャン・ミエで仕事をしていたとき、近くにあったジュリアンという店に帰りに寄って、いつもパンを買ってました。
仕事帰りに自転車に乗りながらバゲットを食べてました。
ジュリアンのバゲットに近づけたいと、常に思ってます。
ぼんやりした記憶をたどって。
試行錯誤しながら」

ジュリアンという店の名を聞いて、すぐにはぴんとこなかったが、家に帰ってシャポー・ド・パイユのバゲットの味わいをぼんやり思いだしていると、急に記憶がはっきりと像を結んだ。
パリの市庁舎から、ルーブルのほうへ延びるサントノレ通りの途中にあるジュリアンの本店で私もバゲットを食べたことがあった。
バゲットコンクールで1位になったこともある味は掛け値なしにおいしいが、パリのバゲットとしては個性派に属するだろう。
皮よりも、中身を印象深く感じさせる。
むっちり感があって、後から小麦の味わいがこみあげるような。
たしかにシャポー・ド・パイユのバゲットはジュリアンに似ている。
もっと素朴に、もっと丁寧にして、もっと日本人の魂を込めたような。

「ホシノ天然酵母、長時間発酵で、作っています。
イーストだけでやってたときはあまり味があるように思えなくて、そしたらホシノを教えてもらって、これはいいなと。
(天然酵母としては)発酵も安定しているし」

パリでパンを習ったわけではない。
むろん、ジュリアンでホシノ天然酵母を使っているわけでもない。
記憶だけを頼りに、試行錯誤で近づいていく。
だから、真似ではなく、世界でひとつのオリジナルになるのだ。

自家製ハムとエメンタルチーズ(350円)。
やさしさのあるしなやかな皮、皮が主張しないせいで、中身にある小麦の味わいがじわっと濃厚にふくらんでくる。
手作りのハムは、市販のハムのようなきつさがない。
香りがあって、おだやかながら濃密な肉味が、脂が溶けるとともに滲みだす。
手作りのマヨネーズの白いまろやかさは、中身の白い味わいとマリアージュを生む。
それはエメンタールチーズとともにハムの味をくるんで、ますますまったりと、喉の奥のほうまで響いていく。

「表参道のル・プレヴェールっていう店でパティシエをしてたんですが、そこのルセットでマヨネーズは作っています」

ル・プレヴェールはフランスに本店がある、フランス人経営のレストラン。
ハムの作り方もそこでフランス人から習った。
パティシエとしての経験、レストランでの経験、味の記憶。
1本のバゲットサンドにも、いままで得た技術や思い出が総動員される。

きんかんの自家製マーマレードとクリームチーズのタルティーヌ(350円)。
八百屋で見つけたきんかんを煮て作った即興のサンド。
クリームチーズが、この店のバゲットの特徴であるむっちりした中身から滲みだす小麦の味わいに同調する。
そこへ、きんかんの尖りのない酸味がやさしいインパクトを加えるが、やがてすべては溶け合って、安らいだひとつの甘さとなる。
そのあと、再び戻ってくる酵母の香りが、このバゲットに込めた心を表すようだ。

発酵バターのクロワッサン(190円)。
「手作りなので、グルテン出ないんですよ。
パイローラー(生地を伸ばす機械)でやると、グルテンでぱりぱりになりますが、手で伸ばすとやわらかい感じになります」
人柄そのままのやさしいクロワッサン。
商店街の昔ながらの店で売られるおやつパンのようだ。
1枚1枚の皮を感じるというより、1個の素朴な甘いパンという印象。
そして、ひたひたと舌の上にやわらかなバターの味わいが溶けてくる。

リヤカーを引いてサンドイッチを売るという思い切った行動。
それには前科がある。

「なんかふわーっとして(笑)。
北海道から鹿児島まで歩いたり。
しんどかった(笑)。
そのときにお菓子屋になりたいなと思いました。
お腹がすいてお菓子が食べたいなって。
原点?
そんなふうに言うたらかっこいいですか?
はい、原点です(笑)」

シャポー・ド・パイユとは、フランス語で麦わら帽子の意味。
日本縦断したとき麦わら帽子をかぶっていたことにちなんでいる。
パンやお菓子は空腹を満たし、人を幸福にする。
その単純な信念がパン職人としての日々を支えているのだろう。

「今度、リヤカーにサンドイッチ積んで売りながら、シルクロード横断しようと思ってるんです(笑)」
と冗談をいうが、またふわーっとして実行してしまうかもしれない。
砂漠の真ん中で灼熱に苦しみながら、神岡シェフが笑顔を浮かべる姿を想像した。

「パンが好き…」
神岡さんは、躊躇しながらそう言ったあと、もう1度はっきりと言い切った。

「パンが好きです。
パン作るのってすごい手間じゃないですか。
長時間発酵でやってますし。
体力的にはしんどいけど、お客さんにおいしいといってもらえたら。
簡単なほうには行きにくい。
もしかしたら簡単なほうで同じ味になる方法もあるのかもしれませんが。
パンって生き物なんで、手間かけた分おいしくできるのかなと思ってます」

名のあるパティスリーで修行をし、名のあるレストランでパティシエも務めた。
それでも人生の選択として、独立して自分の店を持ったことに、満足している。

「しんどいこともいっぱいありますけど、比べてみたらちょっとだけよかったかな。
自由。
作りたいもん作れますしね」

(池田浩明)

東急東横線 中目黒駅
03-6303-0014
7:00〜14:00
日曜月曜祝日休み

中野駅前での販売は
火曜金曜の7:30〜9:00過ぎまで。
(現在、中野駅工事のため休止中)

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