パン作りと経営は、コインの裏と表である。 ヴィロンの成功は、シェフ牛尾則明の技術力に、ル・スティル社長・西川隆博のブランディング力が合わさって、はじめて成し遂げられた。
地方のパンメーカーの3代目として生まれた西川は、なぜヴィロンという夢を見て、それを追いかけたのか。
「大学の頃、親父が首の骨を折って、僕はそのまま会社に入ることになりました。
当時、バブルがはじけて、会社の売り上げも年々下がっていた。
なんとか立て直さないと。
価格競争にさらされていましたが、それでは大手に太刀打ちできない。
品質で勝負したい。
ニシカワ食品は、職人の世界がしっかりある会社。
創業者が職人じゃなかった分、逆にいい職人が集まってくれていました。
設備もいちばんいいものを導入して、いいパンを作る企業文化があった。
価格ではなく、品質で勝負しよう。
職人の技術を活用したい。
そのためには、商品の特徴を出す舞台を作らないと」
商品の特徴を出す舞台とは「ブランド」のことだ。
高い品質のパンも、消費者に理解されてはじめて価値に変わる。
ブランドというイメージは、言葉を費やさなくても、一瞬にしてそれを可能にする。
「高品質のパンを高く売る業態をはじめるには、地元の加古川では物価が安すぎる。
そこで、神戸の北野で『サンミッシェル』という店をやって成功を収めました。
エシレバターやフランス小麦を使って、ヴィエノワズリーやバゲットを作ろう。
デニッシュを焼くなら、上にのせるグレープフルーツも手でむいて自前で作ろう。
そうやってクオリティの高いパンを作った。
とんがった店をやらないといけないんだと思いました。
専門店化したほうが、これからは評価されやすい。
じゃ、なんだろう?
パン好きの方は、だいたいフランスにあこがれがあるし、いいバゲットが焼けたら一人前といわれるように、業界的にもわかりやすいのではないか。
フランスをやろう。
あんぱんとか、カレーパンとかはやめよう。
ブーランジュリー・パティスリーをやろうと決めた。
いちばんわかりやすいのはバゲットです。
でも、バゲットは売れないパンの代表。
これ売るためには、ちゃんとした店舗業態を構築しないと」
フランスそのままのバゲットを売り物にブランドを立ち上げられないか。
芽生えたアイデアを実現させるための第1歩は、現地に本物のフランスパンを見にいくことだった。
「レトロドールのことはそれまでも聞いていました。
神戸の『イスズベーカリー』さんら、兵庫県パン組合の青年部でフランスに行き、グルニエ・ア・パンや、その他何軒か見せてもらったのが、2000年のことです。
でも、パリのバゲットは総じて、あまり美味しくなく、レトロドールも硬くてがりがり、中はねちょねちょでした。
その中ではグルニエ・ア・パンはいいほうでしたが、特徴がない。
こんなもんなのかと思って帰った。
でも、だんだん思いが固まってきて、2001年の11月、15区のコンバンションにアパルトマンを借りて、1ヶ月バゲットを食べ歩いた。
『いちばんおいしかったのなに?』というと、アパルトマンの近くにあったグルニエ・ア・パンだった。
レトロドールを使ったバゲットを売っていて、朝一のはおいしいけど、夜買うとまあまあ、という感じでした。
あとは、フルートガナがおいしい。
おいしいバゲットは、レトロドールかフルートガナだと思いました。
フルートガナはすでに神戸屋さんと提携していたので、うちがやるならレトロドールのVIRONだなと」
グルニエ・ア・パンで朝一番で出されるバゲットは、一夜かけて生地を冷蔵発酵させるために小麦の甘さが存分に引き出されている。
その話は牛尾のインタビューにもあった通りだ。
西川は自分の目指すパンのモデルを発見したのだった。
しかし、西川は単にそれを盗んで日本でコピーするという簡単な道は選ばなかった。
巨費を支払っても、製粉会社であるVIRONとの提携を目論んだ。
「日本のバゲットは、いわばリーンなコッペパン。
フランスパン専用粉といっても、原料はアメリカ・カナダの小麦です。
フランスのような、穴がぼこぼこ空いたバゲットを作ろうとしても、たんぱく量の多い、質の違う粉では目が詰まりやすい。
皮の食感、気泡がぼこぼこした中身、小麦の味がするちゃんとしたバゲットができれば、日本の消費者に絶対わかってもらえるという確信がありました」
レトロドール以外の選択肢はなかったのか。
たとえばパリには、ポワラーヌという、昔ながらの作り方を守る名店もある。
だが、本場フランスのパンと日本のフランスパンの最大のちがいが、小麦にあることに着目していた西川にとって、自家製酵母という選択肢はありえなかった。
「少量の酵母を長時間発酵させるやり方が、小麦の香りを味わうのにいちばんの方法だと思います。
自家製酵母のように、風味をマスキングしてしまうことがないからです。
また、ディレクト(ストレート法)だと甘みが薄い」
フィリップ・ビゴらによって日本に持ち込まれ、それまで日本でもっとも一般的だったフランスパンは、ストレート法で作られるものだ。
一方、自家製酵母を使うと、乳酸菌等の癖が出やすく、風味は強いが小麦の味わいが消されてしまう。
ニュートラルな風味に近い市販の酵母(イースト)を少量のみ使い、長時間の発酵によって味わいを増す。
それが、フランス小麦を味わうもっとも理想的な方法だと、西川は考えた。
当時(2001年のはじめ頃)、レトロドールはじょじょに日本でも知られる存在になりつつあった。
西川はVIRONとの契約を急いだ。
「人の目につく前に交渉にいかないとまずい、と。
僕ほど思いのある人はいないのだから。
そのためには、顔を見て握手しとかないとやばい。
なんとか時間を作ってパリに行きました。
シャンゼリゼのホテルで、VIRONの社長アレクサンドル・ヴィロン(当時専務)と握手して、説得した」
西川は切り出した。
「VIRONのレトロドールはとてもおいしい。
神戸でレトロドールを中心に据えたパン屋をやりたいと考えている。
そのためにVIRON社と独占契約したい。
日本ではレトロドールの名前でいろんなパンが乱立すると、レトロドールと言うブランドがすぐにダメになってしまう。
クオリティを維持して、安定的に供給しないと、イメージがぶれてしまいます。
そこまで日本の消費者はブランドに対して厳しい。
クオリティコントロールするためには、我々だけが使える状況にしてほしい。
クオリティの高い店を作るので、我々とやろう」
西川は情熱を伝えたが、相手から返ってきたのは、ビジネスライクな返答だった。
「フランスの人口は6500万人、日本の人口はその倍だろう。
それだけの市場規模があるのに、1社とだけ契約はできない」
「『日本にはごはんも、麺もある。
バゲットはパンの消費量のうち、1、2%しか売れてない』と僕は言いました。
ところが、アレクサンドルは、
『商社ならこれだけたくさんの量を買ってくれる』
とかそんな話ばかりするので、僕は泣きそうになった(笑)」
日をおかず、またフランスまで説得にいった。
「『要はいくらで買ってくれるんだ』という話になった。
2年で2000万円分、関税や運賃を乗っけると6000万円。
NOと言っちゃうと話が進まないので、小麦の代金は払うけど、ものは送ってくれるなということにして、店舗を開くための空き物件を探した」
リスクを承知で、契約を成立させた。
当初計画した神戸では空き物件が見つからず、渋谷・東急本店前という一等地に80坪の店舗を見つけた。
小麦粉の代金2年分、賃貸の権利金まで含め、4億という巨資が投じられた。
「2002年6月18日に開店という日取りも決まったのですが、3日前までバゲットができなかった。
それまでも、加古川の本社にスタッフを集めて、ミーティングをやっていた。
2階建ての店舗のうち、1階をブーランジュリー、パティスリーにしようというのは決まりました。
それから、客単価を上げるためにはどうしようと考えるうち、2階は、朝から晩まで食事をしていただけるブラッスリーと決めました。
スタッフで話し合って、問題があれば、それならどうしようと決めていった。
その中でコンセプトが見えてきました。
フランスにあるものしかやらない。
菓子はクラシックなものだけ。
フランス人が日常食べているような、しっかりした料理。
その中心にはバゲットがある。
みんなで決めて、実際の商品に落とし込んでいきました」
ブレインストーミングによって、コンセプトに沿った、商品と店舗のイメージをしっかりと固めた。
そのことにヴィロンの成功の鍵はあったのではないか。
このとき決まったことは、9年たったいまもまったくぶれていないのだから。
牛尾の話を聞いていただけではわからなかったことがある。
なぜ西川は、自分の頭の中にあった事業の内容をまったく告げずに、牛尾をフランスへ送り出したのか。
「実は、最初の視察でフランスに連れてった職人は、牛尾ではない社員でした。
本当は牛尾を使いたかった。
牛尾は、ビゴさんに修行に出したり、フランスパンの世界を習得させた、うちの切り札。
でも、最初はVIRONの事業に関わらせない方針だった。
それは、彼の今後も考えてのこと。
その当時、牛尾のセンスや商品開発力を買って、本社工場に戻して技術を発揮させたり、Pascoさんとのビジネスを担当させていました。
その仕事も軌道に乗ってきたところだったので、そのまま続けさせねばと。
もちろん、この事業(ヴィロン)を真剣にやるなら牛尾の力を借りざるをえない。
最初は神戸でやる計画だったので、本社の仕事をやりながら手伝ってもらえるかなとも思っていました。
ところが、東京でやることになり、地元の関西とちがって、助け舟はない。
そうやって考えていく中で、うちのベストでいくしかないとなった。
牛尾しかいない。
ちょうど、牛尾は地元に家も建てたところだった。
巻き込んで悪いなという気持ちもありましたが。
でも、4億投資して、絶対に失敗はできない」
つまり、西川にとっては、牛尾がはじめから意中の人物であったにもかかわらず、それを本人に隠さなければならない事情があったのだ。
そうと知らない牛尾は、社長が無言でフランスへ送り出したことを、自分の舌で最高のバゲットを見極めろというメッセージとして受け取っていた。
2人の思いはちがっていたが、期せずして最終的な結論は完全に一致した。
フランス産小麦、低温長時間発酵のバゲットがいちばんだということ。
そして、ヴィロンのシェフ・ブーランジェは牛尾則明以外の人物ではあり得ないということ。
「東京に行ってくれないか。
手伝ってくれ」
西川は4億を投じたプロジェクトの帰趨を、牛尾の腕に賭けた。
赤字を出しつづけた最初の数ヶ月。それでも、
「いまに絶対わかってもらえる」
と、西川は、牛尾とスタッフを励ましつづけた、その真意はどこにあったのか。
「未来のことがわかるわけではないから、大丈夫だと言いつづけていたのは、カラ元気。
なんの根拠もない。
でも、売り上げもじょじょに上がってきてたし、きてもらったお客さんの間では評判になっていたので、うっすら手応えはあった。
うちには本体のニシカワ食品もあるから、1億赤字でも資金繰りはできる。
それより、『もっともっとクオリティ上げろ、余計なこと考えるな』と、言ってました。
60年つづいてる会社の、次の柱になる事業。
きちんと考え抜いたことをやりきろうと。
余計なこと考えず、お客さまに、伝えたいことだけをシンプルに伝えよう」
マーケティングや宣伝といった技術論以前に、商売の原点とは、まず品質のいいものをしっかりと作って、人びとによろこんでもらうことではないだろうか。
クオリティさえあれば、おのずと商品は売れていくはずだ。
その原点を揺るがず持ちつづけることこそ、西川が「ブランド」と呼ぶものだ。
「僕にはパンは作れない。
職人は、いいパンを作ってお客さまによろこんでもらいたいと思う。
彼らが、誇り持って楽しく働いてくれる環境を作るのが僕の仕事。
そのためにはブランドが必要です。
僕は、味覚だけは自信があります。
立ち上げるときに味は決めますし、ぶれたときには出しちゃダメだという。
お客さんの期待を裏切っちゃいけない。
ブランドとは信頼です。
我々が求められているのはクオリティ。
それだけを考えてればいい」
ヴィロン、エシレ・メゾン デュ ブール、みんなのぱんや…。
幾多のブランドを世に問い、成功に導いてきた西川が、本当に目指しているのはなにか。
西川の父・西川隆雄は、全日本パン協同組合連合会(全パン連)の会長を務める。
障害を持つ父を補佐する立場にある西川の目線は、ただニシカワ食品1社の利益だけではなく、全国のパン屋の経営者、そこで働くすべての人たちへと向いている。
「『日本一高いパン屋を作る』というのが、ヴィロンを立ち上げるときの僕の目標でした。
パンの値段を高くできれば、いまとても劣悪な環境に置かれているパン職人の給料・待遇も、一部上場企業とまではいかないが、もっとまともにできる。
パン職人を、がんばったら報われる仕事にしたい。
業界の方には、『あんな高い家賃払ってパン売ってバカか』と言われました。
パンってこんな世界だという思い込みを崩したかった。
いまパンの値段が安すぎるので、給料もそこそこに休みも取らず朝から晩まで働いて、自分の身を削って仕事をしないとお客さんに買ってもらえない。
価格の競争になったら、街のパン屋は大手メーカーに負けて、食べていけなくなる」
牛尾則明のインタビューでも語られたように、職人のストーリーに長時間労働はつきものである。
それは果たして必ずしも美談といえるのだろうか。
牛尾のような陽の当たるスターシェフの陰に、金銭的に報われない何人のパン職人がいることだろう。
寝る間を惜しんで、いいパンを、安く作るために、働きつづける。
その献身が報われればいいが、働きすぎがたたって病気になっても、なんの保証もない。
多くのパン屋が置かれる劣悪な経営環境に、人びとの目は向いていない。
「諸悪の根源は価格。
いまパン1個の値段の平均は100円でしかない。
これをもっと高くしないとパン屋は幸せになれない。
パン業界はすごく厳しい。
特に地方でパン屋が成立しない。
人を雇って、労働時間を守って、社会保険かけて、というまっとうな待遇を保証するのがとてもむずかしい。
クオリティの高いパンを作れば報われるような、夢のある仕事にしたい。
一生懸命パンを作って、お客さまにその努力を知ってもらって、パン屋が報われるように。
そのためには、価格設定がポイントになる。
僕はその問題に踏み込むつもりで、ヴィロンを作った」
消費者は1円でも安いパンを求める。
当然のことだ。
だが、商品=価格のバランスが崩れたなら、不当な競争が起こって、国全体で価格が下がっていく。
これが、日本経済の置かれたデフレの正体である。
貨幣を通してすべては連関している。
誰かの仕事に対し、正当な対価を支払わなければ、まわりまわって消費者自身の首を絞めることになる。
西川はこの深刻な問題に、ブランドの力で切り込もうとしている。
「うちは幸い、利益が出ている。
当然社会保険も加入しているし、従業員に休みも取りなさいと言っている。
それでやっていけないということはない。
パン業界の給料をなんとか上げたい。
そのために、日本一高いパン屋のマーケットはあるよと見せたかった。
お客さんの信頼を得て、メディアに露出するようになれば、スポットライトが当たる。
ブランドの中身や精神が構築できれば、一人歩きできます。
一生懸命にパンを作って、ブランドも構築できれば、すごいことになるよ。
それを伝えて、全国のパン屋を、ひいてはお客さまを幸せにしたいというのが、僕のやりたいことです」
(応援ありがとうございます)