パン ド ナノッシュ(茅ヶ崎)
2013.02.04 Monday 17:44
172軒目(東京の200軒を巡る冒険)
とびきり暑い日だった。
茅ヶ崎駅を降りて、猛暑の中をナノッシュのある路地まで歩き着くと、風が吹いていた。
海からの潮風が熱気を払って、その一角だけはなぜかひどく涼しいのだ。
白い壁面。
ファサードにも、中の壁にも、敷き詰められたタイルの白。
それは砂浜の白であり、砕け散る波頭の白をも思い起こさせる。
自分が新しい店を作るなら、白いタイルで。
ナノッシュの店舗を作るとき、関谷勝美さんの頭にあったのはそのことだったという。
たしかに、マリンブルーにもっとも合う色は白にちがいない。
関谷さんは海に取り憑かれた人でもある。
「若い頃は、ふらふらしてました。
居酒屋やったり、スナックやったり、横浜福富町のカジノでディーラーやったり。
波乗りがしたくて、仕方なくて。
夜、働いてたら、昼間は波乗りできるじゃないですか。
実家がパン屋で、継ぐために専門学校行きました。
だけど、波乗りがしたかったもんで、こっち(湘南)のパン屋さんに入りました」
茅ヶ崎にナノッシュを開店したのは、いつでも波乗りができるようにだったという。
日に焼けたルックス、サーフィンの話。
まるで遊び人のようだけど、パンにかける思いは半端でなく、そのギャップがおかしい。
「開店したときは、すげえ大変だった。
必死でした。
使われるより、自分の店を持ちたかった。
いま茅ヶ崎の南口もパン屋が増えたが、当時はあんまりなくて。
『絶対いけるよ』と思ってやった。
自分が今までやってきたことを出せば、ぜんぜんいけるなと」
関谷さんは、独立前、櫛澤電機というオーブンメーカーに所属し、新規出店するパン屋のオープンにヘルプとして派遣され、数十軒の盛衰を見た。
それがパン屋・パン職人としての礎となっているという。
「開店のときは、チラシまいて、イベントやって、いろいろサービスやって、お客さんがばーっとくるもんなんです。
そのとき慣れてないから変なものを提供しちゃって、それでがっかりされて落ちてっちゃうパン屋さんが多くて。
売れるからって、問屋さんから提供されたものをそのまま売ったりとか。
それやりたくなかったし、それが売れてもうれしくない。
手伝いを入れて無理矢理たくさん売ったりとかやらないで、気心が知れた人に入ってもらって、少ない人数でいいものを作りたくて。
きれいで、自分の売りたいものだけを売ろう。
売り切れごめんで。
1日100円でも200円でもちょっとずつ売り上げを増やしてったほうがいいな。
それもよかったんだと思う。
少人数でやってて、お客さんの買いたい数にどうしても間に合わないから、パンが少なくなってしまうこともあります。
その代わり、いつも焼きたて。
焼けるのを待っててくれるお客さんがいたり。
オーブンから出したすぐのを天板からそのまま買ってってくれたり。
パンはやっぱり焼きたてがうまいですし」
寿司屋やバーのような長いカウンターにパンが並べられている。
従業員が中から手を差し伸べて、焼きたてのパンを置いていく。
次々と焼き上がってくるパンを、客と会話しながらでもスムーズに陳列することができるし、客からは厨房もよく見える。
一見しておしゃれなスタイルも、長年の経験で汲み取った、客への配慮から発想されている。
食パン(210円)
甘さと塩気のバランスがすばらしい。
甘いと思わせ、塩がきいているとも思わせる。
塩気をやや強めにして軽いインパクトを与えている。
歯切れよく、舌触りなめらか、歯ごたえはしなやか。
にゅっと溶けてミルクの風味が広がり、耳、とくに底面は強く焼かれて、さわやかに苦い。
オーソドックスな角食をきちんと作れば、オンリーワンに高められる。
「食パンが売れないと、パン屋は(経営が)むずかしい。
食パンが売れるから、小物も売れてくる。
メープルが流行ったからメープルの新商品を出すとか、小手先を変えても、追いかけてるばかりだと、結局はうまくいかないと思います。
『食パン』という名前で出しているのは、自分がいちばんおいしいと思っているもの。
いろんなバリエーションをそろえてるパン屋さんあるけど、うちは1本だけ。
『上食パン』も必要ないし、逆に下の食パンも作る必要ない。
これがいちばん。
毎日食べるものなんで、お客さんに負担がないように、ぎりぎりの値段(210円)でやってます。
だからって、材料の質を落としたりとか、そういうつもりもないし」
ミルキーメロン(180円)
メロンパンの新たな展開。
カットしたメロンパン2分の1と2分の1でクリームをサンド。
クリームチーズと練乳クリームのミックスは、さわやかさとなつかしさのハーフアンドハーフ。
これが混ざりそうで混ざり合わないところに、思わぬ奥深さがあった。
練乳の甘さとクリチの甘さ、練乳の酸味とクリチの酸味。
ちょっと似ていてちょっとちがうもの同士のじれったさ。
シーソーが揺れるように、前者と後者に交互に傾きながら、メロンパンとさまざまな合いかたをしてくる。
たとえば、酸味に意識が向いたときには、メロンではなくレモンパンか? と思う。
とろりチーズとベーコンのアルチザン(220円)
塩麹に漬け込んだベーコンは、塩気ともコクとも甘さともつかない力強い味わい。
それがたっぷりのチーズの分厚いコクと、とろり渾然一体になる。
パンには「アルチザンバゲット」生地を使用。
わずか1分しかミキシングしないというこの生地は、ぷりっぷりで、ソフトで、しかも口溶けがよくて、塩気によって香ばしさが押し出されてくる。
具材の秀逸さとパンが相まって、食欲が加速する。
スタイリッシュな店舗を見て、フランスパンばかり並ぶ店を期待すると、肩すかしを食うかもしれない。
ナノッシュに並ぶものの多くは惣菜パンにおやつパン。
確実にお腹と欲求を満たしてくれそうなパンばかりだ。
「余計な技やんなくていいから、基本に忠実に、温度見て、丁寧に作る。
バターロール、チョココロネ、食パン。
コンビニでもどこでも売ってるような、いちばんオーソドックスなものこそ、きれいでおいしいものを作りたいし、食べてもらいたい。
どのスタッフが作っても同じものを出せるように。
丁寧できれいに。
それけっこう、スタッフにうるさくいいますね。
昨日と、形や色や大きさが同じになるように。
当然のことだけど、毎日やってると、なーなーになってくる。
昨日と今日で形がちがうってありえない。
コンビニなんか、工場で作るものだから、形がいつも同じって当然じゃないですか。
手作りだとどうしてもブレがある。
だけど、お客さんからしたら考えられない。
同じ値段を払っているのに、なんで昨日と今日がちがうのか」
製法や原材料やキャリア。
パン屋の特徴とはほとんどがそうしたことで占められるだろう。
関谷さんの口からはその種の話題が出なかった。
ただ「丁寧に、きれいに」ということだけ。
パン職人の姿勢は、工程や材料以上に、パンの味を司る。
「丁寧に扱ったものとそうでないものは、できもまったくちがいます。
たとえ配合が同じであっても。
うちの店に、よそのパン屋さんが『見せてくれ』ときたりすることがあります。
聞かれれば、配合もぜんぶ渡します。
それは作り手がちがうと、同じものできないとわかってるから。
お客さんが気づくかどうかわからないけど、なあなあになっていると毎日毎日ちょっとずつちがいが積み重なって、ある日『あれっ』となる」
スタッフには徹底的に基礎をやってもらっています」
「よそからたったひとり入っても、それが慣れた人であったとしても、パンはまったくちがうものになる。
パンは作れるけど、パンに対する思いとか伝わってなくてわからない。
追っかけ仕事とか、ただ作るんじゃなくて、1個1個気持ち込めてもらいたい。
1日1500、2000作っているとその中の1個になっちゃうけど、お客さんにとっては1個のうちの1個。
それがナノッシュの味だと思われちゃう。
天板に12個並べてただ焼いてもムラになる。
焼き色が同じにしてないのを当然のように出すと、スタッフにめちゃめちゃ怒る。
気持ちが入ってない。
忙しくなると、どうしてもそうなっちゃう。
それは許さない」
「パンに対する思い」。
それを共有しない職人がたったひとり厨房に入っても、パンは別ものになる。
パンは気持ちで作るものだ。
「お客さんに対する思い。
そういうのを表現することが、実はいちばんむずかしい。
パン屋のほうは1日中『いらっしゃいませ』と1000回行っても、たまたまあるお客さんのとき言わなければ、『あそこは元気がない』となる。
1回1回の動作を気持ち込めてびしっとやりたい」
「パンに対する思い」が、「お客さんに対する思い」とイコールになる地点。
それがナノッシュの場所である。
パンへの思いが先走って客への配慮が忘れ去られたり、売り上げが優先されてパンのクオリティが忘れ去られることはない。
(カウンターの上に描かれた湘南の海岸線にはサーフポイントも記される)
関谷さんの話を聞きながら、波とひとり格闘するサーファーを思い浮かべた。
次々と襲いくる波に乗ったかと思うと、バランスを崩し、海中に没する。
それでも立ち上がり、またやってくる波に、何度でも何度でも挑む。
「パンって同じものがどうしてもできません。
ぜんぶまったく顔がちがいます。
色がつかなかったり、形もちがったり。発酵時間も遅かったり、早かったり。
だからむずかしくて、はまっちゃって。
波乗りもいっしょで、同じ波はひとつもない。
同じ波がないから、練習がむずかしくて、なかなかうまくできない。
克服できないからやってやろうと思う。
パンと波乗り以外、こんなに真剣にやったことってないですからね」
パンとはまるで海のようだ。(池田浩明)
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