午後4時、かいじゅう屋の開店を待つ人びとの列に並んで気づく、他では嗅いだことのないような生々しい香り。
それを嗅いではじめて思ったことだけれど、普通のパン屋で嗅ぐパンの香りとは、陳列棚にすでに収まりきったおいしそうなパンが放つ香りではないかと。
かいじゅう屋の店先に漂っていたのは、現場の香りである。
いま小麦と炎が衝突をしている。
丹誠こめて練り上げられた生地がオーブンの中で火炙りにあって、その受難を経て、なにかが生み出されようとしている。
家に帰って買ってきたイギリス食パンをじっくりと見てみると、受難の刻印があった。
それをうつくしいと思った。
他のパン屋でなら、下手をしたら、失敗作と断じられかねない、そのぎりぎりのものをかいじゅう屋は拾い上げようとしている。
数ヶ月前、かいじゅう屋の橋本さんに
「新しいイーストのやり方のパンができた」と聞いた。
「できた」とはなかなかいわない方であるから、本当にすごいものができたんだろうと思った。
「ぱりっとした皮の」という言葉も聞いたけれど、それがなにを意味しているかはわからなかった。
実際に食べて感じたのは、その言葉が普通に指し示している意味よりも、もっともっと大きなものをイメージして、橋本さんが開発に取り組んできたということである。
おいしいパン屋はたくさんあるけれど、この感性は、かいじゅう屋が唯一無二なのだ。
生で食べるこの食パンはそばがきのようである。
しっとり、ねっちりとした食感もそうだし、なによりも小麦の風味が目覚ましい。
小麦への信頼、ということを思った。
人が味を整えるより、すべてを素材にゆだねきっているのではないか。
小麦の中にある可能性がすべて出し切られたとき、おのずとおいしいパンはできるはずだと、橋本さんは謙虚にそう考えているのではないだろうか。
トーストしたとき、私は「ぱりっとした皮の」という言葉の本当の意味に出会った。
それは単に皮=クラストと意味しない。
食パンを切る、そして焼く。
表面はすべて皮になる。
食パンとは食べ手が無限に皮を作りだすことのできる食べ物であったことをはじめて知った。
飛び抜けておいしいものは、その食べ物が生まれてきた原点の意味を、このようにしばしば照らし出すものなのだ。
気泡の大きい荒々しい生地は、表面がなめらかなものよりフラクタル的に多くの表面積を持ち、そのためにより多く皮のよろこびを与えてくれる。
より香ばしく、よりかりかりとしている。
けれど、「ぱりっとした皮の」という言葉の中には、皮のことだけではなく。中身のイメージも含まれていたのだ。
皮と中身は対立しない。
皮がぱりっとしているから中身がよりおいしい。
ぱりっとした表面が中身を守って、あるいはそのコントラストによって、中身のしっとり感、むっちり感、やわらかさ、なめらかな舌触りが際立つ。
あのそばがき感は、焼いたあとも見事に保存されていた。
「おいしい皮」か「おいしい中身」か、という二者択一ではなく、「おいしい皮」が「おいしい中身」を作りだすのだという真実。
そういえば、いままで私が食べて感動してきた食パンはすべてそうなっていたなと、これもかいじゅう屋のイギリス食パンを食べてはじめて気づけた。(ぷ)
(いつもありがとうございます)
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