パンの研究所「パンラボ」。
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パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
【代々木八幡】365日、開店! スギクボムーブメント第4弾
デュヌラルテのシェフという肩書きに「元」がついたのが約1年半前。
その看板は、杉窪章匡にとって、むしろ窮屈なものだったにちがいない。
才気煥発、一気呵成。
ここ3ヶ月のうちに、名古屋「テーラテール」、福岡「ブルージャム」、川崎(向ヶ丘遊園)「セテュヌ・ボンニデー」と、まったく別コンセプトの店を次々とオープンさせた。
そして「スギクボムーブメント」最後を飾るのは、自らがオーナーシェフを務める、代々木八幡「365日」。

【スギクボムーブメント統一コンセプト】…添加物は一切使わず、国産小麦のみ使用(一部自家製粉)。ドライフルーツもオーガニックかそれに準ずるものを使う。

彼が掲げた「365日」という店名には、日々の食事を愛おしみ、それに役立つものを提供していきたいという思いが込められる。

「食って、血となり、肉となり体を作るもの。
もっと楽しんでいいし、もっと大切にしていい。
最初の1歩を踏み出せる提案をしたい」

添加物や残留農薬の影響を受けない、いい材料を使う。
素材の特徴や性質について知り、理論的なパン作りをする。
「料理」としてのクオリティを持った、パンと具材との組み合わせ。

それらを極めようとすれば、職人には休む暇がなくなる。
パンの試作を重ね、うまい店を惜しみなく食べ歩き、旅に出れば地元の食材を探す。
365日24時間、職人でありたいという思いが、この店名には込められているという。

杉窪シェフはこの店を、「食全般にわたるセレクトショップ」と標榜する。
置かれるのはパンのみではない。
同じく杉窪プロデュースの一軒・福岡「ブルージャム」のコンフィチュール。
青果卸として名高い築地御厨(つきじみくりや)から仕入れる自然農法による野菜や果物。
紅茶やペーストなどの食材。
北海道産、共働学舎のチーズや「想いやり牛乳」。
作家ものの器や仏ラギオール社の食卓用ナイフなど生活雑貨。

イートインスペースでは料理も食べられる(現在準備中)。
夜な夜な一流店を食べ歩くグルマン杉窪シェフが選び抜いたレシピで作る「フォワグラのテリーヌ」。
無添加のハム・ベーコンを安価に提供するため、ブロックで仕入れた肉をさばいて自家製し、それをパンにも使用する。

「食をカテゴリーわけしたくない。
パンだけじゃなく、お菓子も料理も出したい。
和食も食べたいし、洋食も食べたいじゃないですか。
朝にごはん定食やりたい。
自家製の精米機を用意しました。
パン屋でごはん出すってすごいでしょ?
そしたら、パンを食べたくないときも、店にきてもらえるじゃないですか。
自然栽培のお米と大分の有精卵。
めちゃめちゃうまいですよ。
食べると元気になる」

365日3食、口に入るものを1食たりともおろそかにしない。
もし本当に「おいしい」ということにこだわりつづけているならば、パンという狭いフィールドだけに追究を限定することはありえない。
その思いが、自分の考えるあらゆるおいしいものを提供するというスタイルを要請したのだ。

「365日」には、ネクストレベルの衝撃がある。
バゲット、カンパーニュ、クロワッサン、ブリオッシュ…。
それらすべてに新しい解釈が与えられている。

かって杉窪さんはこう言ったことがある。
「パンを食べたとき、つんとする独特の香りがありますよね。
イースト臭が残ってる粉の香りが鼻に抜けるときの。
パンが好きな人はそれがきっと好きだと思うんですけど、僕、苦手なんです」

イーストが不完全にしか発酵しなかったとき残る匂いを、「悪い」ものだとしっかり認識すること。
それを完全に取り去ったとしたらどんなパンができるのか。
パン・ペルデュ、それを継ぐデュヌラルテが発火点となったパンの革命を、杉窪シェフは引き継ぎ、先に進めようとしている。

「365日×ブリオッシュ」(160円)は人を虜にする。
あたたかく湿り、少しだけぷにゅっとしたかと思うと、しゅうっと溶けて、ミルキーな香りを芬々とまき散らす。
見事な口溶けのあとには雲散霧消したミルクの官能の記憶しか残さない。
私はこのブリオッシュを歩きながら食べたのだが、その後口をなにかと合わせずにはいられず、近くにあった自動販売機でココアを買って飲み込んだ。
缶ココアさえ、あるいは、うちに帰ってからつけた、どこにでも売っているようなありふれたジャムさえも、このブリオッシュは極上のものに変えた。

もうひとつ、パン・ペルデュの生み出した伝説のクロワッサンが「クロアソン」。
あるいは、デュヌラルテ初期の傑作「コーヌ」。
その一口によって人生を変えられ、パン職人を目指した人がいるのを私は知っている。
師の作りだしたそのパンを杉窪さんはなんとしても超えようとしていた。
かってデュヌラルテ時代に自分が作っていたクロワッサンでさえ納得していなかったのだ。

「デュヌラルテのときは変わった形だったので、『これクロワッサンじゃないよね』という感想になった。
(他の店と)同じタイプのクロワッサン作ったら、(自分の作るクロワッサンとの)ちがいが明確になるかなと。
東京のクロワッサンを作る。
たとえば、デュヌラルテのコーヌ
あれはよくできたパンです。
考え抜かれている。
超えるものを作りたい。
クロワッサンって通常縦巻きですよね。
縦巻きか横巻きかでバターが溶けたときの流れ方が変わるので食感も変わる。
コーヌは斜め巻きで、いいとこ取り」

この話を聞いたのは、オープンに先立つレセプションのときだった。
そのとき出ていたクロワッサンも、列席者を驚かせるほどのおいしさだった。
「こんなんじゃない。
これを僕のレベルだと思われたくない。
コーヌを超えるものを、あと2週間で見つけられるかどうか」

1週間後に会ったとき、こうなっていた。
「形はできたんですけど、8割の確率でしか成功しない。
オーブンに入れる前と後で別の形になるんです。
スタッフも驚いてますよ」

「365日×クロワッサン」。
手のひらにおさまるぐらい小ぶりで、まるで貝殻のようなたたずまいをしている。
無二の食感。
皮はちゃりちゃりと音を立て、微細な破片に割れていく。
バター感はあっさりしてているのだとはじめは思った。
ゆっくりと急がず、やさしく滲みだす。
と思っていると、想像を超えて広がり、みるみるうちに爆発し、まるで絞りたての牛乳を飲み干しているかのような鮮烈さに襲われる。
バターを含んだやわらかな中身に、乾いた皮の小さな破片が無数に舞い降り、そのひとつひとつからバター感が発散しているのを感じるほどに。

杉窪さんはかってパティシエであり、また無類のあんこ好きである。
あんこは自前で炊くにしくはなく、パン屋の自家製あんは往々にして、素朴で素材の味があり、それが魅力となっている。
365日の「フランスあんぱん」のあんこは素朴さの形跡がほぼない。
素材の味はしっかりとありながら、和菓子屋のあんこのようにきちんと洗練されてもいるのだ。

「あんぱんはやっぱり、あんこ。
こしあんもうちで炊いてます。
白あんも手亡豆から。
デロンギのスロークッカー(火を使わず余熱で調理する)。
これで炊くとすごくおいしくできる」

白あんにはいやらしさも、過度な甘さもなく。
パンといっしょに溶ければ溶けるほど、さらに甘さの輝きを増す。
角食と同じという生地にはミルク感と白さがあり、こしあんの場合特に顕著に、あんこの甘さをくっきりと引き立てるのだ。

カレーぱん(240円)
塊で買ったブランド肉を自ら挽いたというキーマカレー。
辛さのためではなく、肉のおいしさを引き出すためにえも言われぬスパイス感はある。
肉にはうまみも香りも豊かで、コクがじわじわと胸に滲みる。
やがてワインの芳香がたなびき、それが奥深さとなる。
カレーフィリングといっしょに、さつまいものペーストが入れられている。
スパイシーにがつんといくところを、さつまいもの甘さでまろやかにする。
エロティシズムの自作自演。

あんぱんとカレーパンの秘密を見せてくれた。
上質なものを自前で作り、しかもできるだけ安価に提供するために。
ビニール素材でできたたくさんのくぼみからなるシート。
そこにあんこやカレーフィリングを詰めて冷凍保存する。
あんこはスロークッカーがひと晩かけて炊いてくれる。
シートに詰めれば自動的に量が決まる。
一度に大量に仕込むので手間がかからない。
そのために冷蔵庫は一般のパン屋に比べ大きい。

「この設備見たらみんなお菓子屋さんだと思うでしょうね。
お菓子屋なのになんでドゥーコン(温度調節機能のついた発酵機)があるんですか? ぐらいの設備。
デュヌラルテのときも、優秀な職人が集まっていると言われたけど、素人同然の子や、よそで通用しなかったからうちへきたという子もいた。
それで高いクオリティを保つには、ああいうもの(シート)が必要なんです。
感覚が鈍い子がやっても量が安定する。
あんの味つけは、そういうところで決める。
冷凍しているので、さつまいもピューレみたいなとろっとした、成形しにくいものも入れられる。
あと、型を多用すれば、成形下手でもきれいな形になる」

ぐるっと取り囲むカウンター。
入口から向かって左にパンが並べられ、右側がイートインスペース。
パンを食べることもできるし、前述したような料理やワインを楽しむことができる。
これは代々木八幡的な365日に対応している。
駅を出て、昔ながらのパン屋、そしてスーパーがあって、意外にも生活者の匂いを感じる町である。
もうひとつの顔は、アヒルストアのような、いまはやりのバルやワインバーの激戦区だということ。
このカウンターが、朝・昼は軽食を取るカフェ、夜はワインバーとなる(残念ながら、現在は19時までの営業)。

「うちにはワインのソムリエとチーズソムリエがいる。
最強のサービス陣。
この2人の味覚がこの店の中心。
バーテンダーでもなんでもできる2人です」

レセプションのとき、次から次にパンが焼き出され、それに合うチーズとともに供された。
特に、ライ麦40%のカンパーニュとフルムダンベールの組み合わせに瞠目した。
青カビの癖のある香りの中にライ麦につながるなにかがある。
それがパンと響きあって、経験のないほどのマリアージュに襲われたのだ。

「ライ麦40%のカンパーニュにはレーズン液種とイーストを使っています。
全粒粉のカンパーニュはレーズン種だけ、ライ麦70%のカンパーニュには、セーグル(ライ麦)種とレーズン液種。
セーグルのパンにはセーグル種が合う。
風味に合わせて種の種類を変えてやりながら調整しています。
ライ麦は北海道産、全粒粉は岐阜県産のタマイズミを自家製粉しています」

いま、バゲットはモルト(大麦の麦芽)を入れる製法が一般的である。
杉窪シェフは、小麦粉、酵母、水、塩のみでバゲットは作られるべきだと考える。
「モルトを入れなくても風味は出せる。
レイモン・カルヴェル(「パンの神様」といわれる元フランス国立製パン学校教授)はなぜモルトを入れる配合を日本に伝えたのか。
あの時代は麦の質が悪かった。
いまは麦の味がじゅうぶんに出せる時代になったのに、なぜ使うんだろう」

バゲット
皮の香りにコクを感じたのははじめてだった。
焼け焦げた香りではない、麦自体のコクである。
その一事をもってしても、このバゲットの香りがどれだけ濃厚かわかる。
中身の香りを嗅いで、さらに驚く。
穀物的な香りが激しいほど湧き上がってきたからだ。
薄めの皮は軽く、ぱりぱりして、弾け、オイリーに溶ける。
皮の甘さは明るく、どこか気品がある。
その背後でここでも穀物的な香りは作用している。
中身を食べると、時間に添ってさまざまな風味がほどけていった。
穀物感であり、ミネラル感であり、当たりのやわらかい塩気であり。
そしてしっかりと味があったのに、どこまでもさわやかな余韻に至るまで。
変化はつづき、ストーリーが展開される。
このバゲットは、食べ手のバゲット観さえ、変更を迫る。
どれだけ甘いか、ではなく、どれだけ香りがあるか、どれだけ小麦を感じるかによってバゲットは評価されるべきではないかと。

「江別製粉のE65(TYPE ERの添加物抜きバージョン)、はるきらり(前田農産)、江別製粉のTYPE100(春よ恋、きたほなみ)。
この配合には、色でいえば黄色とグレーの香りがある。
はるきらりは黄色い。
ブレンドして香りのバランスをとっています。
香りには黄色、グレー、白、茶色がある。
4種類の香りを5段階で評価して、試作しています。
口に入れたときが黄色の3、後味は白の2。
じゃあもっとこっちの粉を入れてみようか、とか」

香りを色彩で表現する方法は、ワインやウイスキーやビールをテイスティング、あるいは調合する現場で使われている。
とらえどころのない香りというものを、システマティックに扱うための、効果的な方法である。

「バゲットを作るためにはひとつの粉では不完全。
この粉は10分の7にして、この粉は10分の2、もうひとつは10分の1にして、というふうにバランスを取る。
たとえば絵を描くときに、ただ色をつけていく人はいないと思うんですよね。
ファッションもそうですけど、色のバランスを見ながら、こっちの色はアクセントに使おうとか考える。
同じ系統の色を合わせたり、逆に相反する色にしてみたり。
料理の世界では『相性』っていいますよね。
だけど、その勉強をしてるパン職人がまだまだ少ない」

先進的な試み。
自分がその先頭を切ることで、パン業界全体を引っ張ろうとしている。
「日本のパン屋さんがそのへんを勉強したら、パンも次のステージにいける。
いまは冷蔵庫にあるものをただ入れてるだけ。
ひじきあるからひじき入れようとか、野沢菜あるから野沢菜入れようとか、おやきみたいな感覚で作ってる。
主婦レベルと変わらないんですよね。
プロというのは、寿司職人のようなこと。
ネタに合わせてシャリの大きさを変えたり、形を変えたり、握り方を変えて、作品にしていく。
どういうふうに口に入るのか、余韻をどうするかまで考える。
それがプロの仕事。
早く次のステージに日本のパンをいかせたい」

そして、人が聞いたら笑うような、壮大すぎる目標を、杉窪さんは真顔で語るのだ。
「食べ物は血となり肉となり、精神にも作用していきますから。
精神が平安になれば世界平和に貢献していきますよね。
添加物やポストハーヴェスト(輸入する作物に収穫後散布される農薬)も悪影響を及ぼしている。
それがなくなれば世界平和につながっていくはずなんです」

究極の目標への小さな一歩。
だが、この店から新しい「ムーブメント」は確実に広がっていくだろう。
「365日」の出現はこんなにも衝撃的なのだから。(池田浩明)

365日
小田急線 代々木八幡駅/東京メトロ千代田線 代々木公園駅
東京都渋谷区富ヶ谷1-6-12
tel 03-6804-7357
9:00〜17:00(水曜休み)


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セテュヌ ボンニデー、開店。【スギクボムーブメント第3弾】
元「デュヌラルテ」シェフの杉窪章匡(すぎくぼ・あきまさ)さんが日本全国をまたにかけ次々とベーカリーをプロデュースする「スギクボムーブメント」。

【スギクボムーブメント統一コンセプト】…添加物は一切使わず、国産小麦のみ使用(一部自家製粉)。ドライフルーツもオーガニックかそれに準ずるものを使う。

名古屋「テーラテール」(http://panlabo.jugem.jp/?day=20130920)、福岡「ブルージャム」。
そして、「セテュヌ ボンニデー」(C'est une bonne idée)が、12月11日(水)、川崎市の向ケ丘遊園にオープンした。

杉窪さんはパリに滞在し、ジョエル・ロブションの三ツ星レストラン「ジャマン」で修行を積んだ経歴を持つ。
彼はまたひとつ引き出しを開け、セテュヌ ボンニデーに、思い出深いフランスをコンセプトとして与えた。

「ル・プチメックが男性形だとするなら、ここは女性形です。
パンの形も女性的。
感覚的にいうなら、プチメックはエッジが立っているけど、ここは丸くて角がない。
自分の中に、男性的な部分もあれば、女性的な部分もある。
その振り幅が大きいほど、表現はすばらしいものになる。
若い頃それに気づいたので、僕はそういう生き方をしてきました」

杉窪さん自らがパリに飛び、女性的なかわいさをもつ備品を買い付けた。
テーマカラーは赤。
パンを置く器の赤。
サンタクロースの人形の赤。
パンを置く皿にタルト型を使用するなど、ガーリーに演出している。

杉窪さんの考える、フランス的なるもの。
たとえばクロワッサン。
「(スギクボムーブメントの)4店舗の中でいちばんミルキーに作ってあります。
日本はさくさくかどうかに重きを置く。
フランスは、クロワッサンといえば、バター、小麦粉のおいしさ」

名古屋テーラテールで見せつけられた、バターが光り輝くクロワッサン。
ュヌ ボンニデーではどんな驚きが仕組まれているのか。 
そう思いながら、クロワッサン生地のパン・オ・レザンを食べた。
ばりばりとポテトチップスが割れるような響き。
皮が乾いているのに、中身はあふれるほどのバターで湿っている。 
そして、黄金色の輝き。
それが予感させた通り、バター感は鮮烈で豊か。
濃厚に、甘美に、あたたかく広がり、レーズンの酸味のつめたさとうつくしいコントラストを描く。
一瞬フランスを想起させ、次の瞬間にはそれを超え出るほどの快楽に酔いしれることになる。

秘密はどこにあるのか。
杉窪さんに店舗の2階部分を案内してもらった。
「ここはパイルーム。
室温は常に18℃に設定してあります」

パイルームとは、クロワッサンのような折り込み生地を作るための部屋。
低温に管理されることで、バターを溶かさずに生地を作ることができる。

「パイルームの最大のメリットは、パイシーター(生地を伸ばして折り込むための機械)を冷やせること。
常温のままだと、パイシーターを通した瞬間、バターが溶ける。
溶けると生地がぎゅっとなって(層が密着して)しまう。
そうすると、バターの香りが出ない。
窯の中ではじめて溶けたら、いちばん香りが出る。
折り込み生地でいちばん大事なのは、デトランプ(生地の部分)とバターの厚さをキープすることです。
みんな三つ折りが何回なのかばかり気にするけど、ポイントは、バターを潰さないようにしながら目的の薄さまで持っていくこと。
きちんと作るには、最初のスタートはむしろ厚いほうがいい。
これを見てください。
ヨーロッパのパイシーターなので40mmの厚さまで通せる(日本製は30mmが一般的)。
最後までバターの層を残すことでバターの風味が残る。
きれいに折れてると、窯の中でバターが溶けたときの流れ方も変わる。
クロワッサンは横巻きだし、パンオレザンは縦巻き。
縦巻きにして、あえてバターを流したり。
巻き方で特徴が出るのは、生地が潰れていないからできること。
きちんとした仕事をすると、作るものの幅が広がる」

ふたたび、パン・オ・レザンの話に戻る。
巻いた生地に遠心力が働くように外へ外へと広がりだすような形をしている。
バターによって生地の一枚一枚がきれいに分離しているからこうなる。
ばりばりとした食感も同様で、バターが完全に生地とからむことで、油で揚げたような感じになっているのだ。

同じ縦巻きクロワッサン生地のアイテムとしては、自然栽培のゆず入りのものもある。
ゆずのすっとする香りが、バターの甘さにせつない刺激を与える。
一口食べて、これは本当にエロティックだなー、と思わず呟くと、杉窪さんは答える。
「本当においしいものはどんどんエロくなるんです」。

ュヌ ボンニデーのスペシャリテはキッシュ。
そのレシピもパリを感じさせるものだ。

「ブリゼ(キッシュ生地)はジェラール・ミュロと同じ配合。
20年前に『とっておきのレシピ』がフィガロにのってたのを見逃さなかった(笑)。
片栗粉が入っている。
フランスでは片栗粉とコーンスターチをうまく使い分ける。
しっかり火を通すものはコーンスターチ。
クラフティ(プリンのような生地)とか中途半端に火を通すものは片栗粉。
コーンスターチはパティシエールに入れるぐらいしかほとんど使いません」

台になるタルト部分はかきっとしてさくさくなのに、中身はおいしい卵焼きのようにとろとろ。
そして具材は惜しみなく。
私の食べたものには鮭がぎっしり詰まって、ホウレンソウが合わせられていた。

「向こうのキッシュは具がいっぱい入っている。
日本のはアパレイユ(生地)のほうが多い。
お好み焼でも、キャベツいっぱいのほうがおいしいでしょ」

ちなみに、ジェラール・ミュロといえば、1軒の店でパンもお菓子もトレトゥール(惣菜)も売る老舗。
クロワッサンが名高く、ジャンルをまたにかけてクオリティが高い。
それは、小さい店ながら、セュヌ ボンニデーの目指すところ。

朝はクロワッサンとコーヒー、昼はキッシュやリエットといった惣菜とワインを、併設の小さなカウンターで楽しむという、まるでパリのような体験ができるのも、セュヌ ボンニデーの魅力のひとつ。

姉妹店であるビストロカプリシューから運ばれるリエットやパテ・ド・カンパーニュ。
それらを使った極上のサンドイッチも用意される。

リエットサンド。
ハード系の生地にカレンズを混ぜ込んで細く焼き、そこに切り込みを入れてリエットを塗り、クルミをたっぷりとはさむ。
リエットの肉味、熟成香がたなびき、やがてクルミの香ばしさ、カレンズのゆっくりとした甘さが寄り添っていき、曰く言いがたい完全なマリアージュとして立ち現れる。
リエットの癖の強さが逆回転して、食べやめられないほどの快楽へ引きずり込まれる。

さらには、パンに転向する前は腕利きのパティシエとして鳴らした経歴を活かし、入魂のプティフールセック(クッキーのような小さな焼菓子)も店頭に並べられる。

ガレット・ブルトンヌの衝撃。
表面はかりかり、ぽろぽろと崩れたかと思うと、じゅわっと滲みだす、バターの豊かな味わい。
鼻へ、口中へとあふれだしてとどまるところを知らず。
そして、本当にうつくしいバターの甘さが喉へと流れこみ、しばらくのあいだじんじんとして、たまらない心地よさとして留まっている。

「お菓子屋の売り上げを取れって、スタッフには発破をかけている。
パン屋でこのクオリティやられたら、お菓子屋はたまったもんじゃないでしょ?(笑)」

丸い食事パン。
その不思議な食感は驚くべきものだった。
ちぎろうとすると、チューインガムか餅のようにびよーんと伸びる。
皮は薄く、香ばしく、一方で中身はむにゅむにゅとした食感。
並外れた水分量と相まって、歯にくっつくのも楽しい。
よけいな香りは一切なく、ゆえに小麦の繊細な風味のささやきが邪魔されることは決してない。

「吸水が100%(通常のパンは60〜70%)。
そんなに水が多かったら、普通は成形できないでしょ。
(どうして成形できるのか?)ミキシングの仕方ですね。
たくさんまわして引きを出している。
引きがあるから力が強くなっているはずなのに、こんなに歯切れがいいのは吸水が多いから。
素材と向き合って、理論を勉強すれば、イメージしたものはなんでも作れます」

秘密は水分量だけではない。
このパンの薄い皮、独特の食感はコンベクションオーブン(ファンがついていて対流を作りだすことで均一にすばやく焼ける)ならではのもの。
パンにはデッキオーブンと思われているが、杉窪さんはコンベクションの利点を強調する。

「コンベクションオーブン用の配合にすれば、まったく問題ありません。
逆にいま出まわっているレシピが、デッキオーブン用の配合、デッキ用の発酵の取り方というだけで。
水分の多いパンはむしろコンベクションのほうが向いている。
デッキだと生地が硬くなる。
コンベクションのほうが伸びる。
だから皮が伸びて、薄くできる。
デッキの優位性は遠赤外線にあります。
だから、この店ではハード系はデッキで焼きます」

ュヌ ボンニデーは、コンベクションとデッキ両方を備える。
ブリオッシュや食パンなどやわらかいパンはコンベクションで。
ハード系のようながっちりとした硬い皮が求められるものはデッキオーブンで焼かれる。

たとえば、カンパーニュ。
ここを強調してきたか、と思った。
麦の粒の外側の、穀物的な、癖のある香り。
一歩まちがえれば野暮ったくなりがちなこの香りを、その他の余計な匂いをなくし、食感も口溶けも食べやすいものにすることで、好ましい野趣として取りだしている。
遅れて持ち上がってくる甘さやコクと次々と結びあうことで、それが奥深くなっていく。
中身の湿り、ぷりんとした噛みごたえ。
ちゅるちゅるとよく溶けて、ひたひたとうまみを含んだ液体を舌のあたりにしたたらせるとき、焼きもちを食べているかのように錯覚する。

(杉窪章匡さん[左]と有形泰輔シェフ)

この店にシェフとして送り込まれた有形泰輔さんは、カンパーニュの粉をこのように選択したという。
「基本になるのは北海道産のキタノカオリ。
そこにKJ15(熊本県産ミナミノカオリ石臼挽き)と北海道産のライ麦全粒粉をブレンドしました。
KJ15はおいしい粉。
粉屋さんには種で使うように言われてましたが、特徴である穀物臭をうまく活かしたかった」

都心からやや離れた町の商店街に突如現れたモダンな店舗は、早くも付近の人たちの注目を浴びている。
店名「セテュヌ ボンニデー」(C'est une bonne idée)とはフランスの日常会話でよく使われる表現で、「それはいいアイデアだね」の意。
フランスの伝統に、新しいアイデアを加えてイノベーションを起こそうとするこの店の名にとてもふさわしい。
スギクボムーブメントはまだつづく。(池田浩明)

セテュヌ ボンニデー
神奈川県川崎市多摩区登戸1889 今野ビル1F
044-931-9610
www.cetune-bonneidee.com(製作中)
火曜定休

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テーラ・テール本日開店!【スギクボムーブメント第1弾】
杉窪章匡(すぎくぼあきまさ)がついに動きだした。
デュヌラルテでコンセプチュアルなパンを展開し、理論と独創性を高く評価される杉窪シェフ。
デュヌラルテを辞め、プロデューサーとなり、今年中に全国に4店舗を出店する予定。
その第1弾、名古屋のテーラ・テールが20日にオープンする。

スギクボムーブメントの統一コンセプトはこうだ。
「契約農家の無農薬野菜を使い、無添加の素材でパンを作る。
国産小麦、一部には自家製粉の粉も使って、ドライフルーツはオーガニック、もしくはそれに準じるもの。
最低条件は、安全であるもの、ポストハーヴェストの心配がない国産のもの。
できるだけ地元の野菜や卵を使う。
生産者と直接つながっていく」

そして、各店舗には、それぞれ地域色を背負った独自コンセプトも用意される。
「名古屋の人はこってりした味のものが好き。
バターの甘さを強調したような、北の方のフランス(ノルマンディ、ブルターニュ)のスタイルを取り入れます。
だいぶ畑をまわったので、野菜を使ったパンが多いですね。
デュヌラルテのときより総菜パンが格段に増えている。
食感も軽めにしてるので、かなり食べやすいと思います」

その成果のひとつが、ノワール・エ・ノワール。
ゴボウとナスのピューレを、ビターチョコを混ぜこんだクロワッサン生地で包んでいる。
「ノワール」とは黒のこと。
食べ物の風味を色にたとえるのは、杉窪シェフ独特の表現。
「同系色による素材の合わせ方もあるし、同じ旬のものを合わせ方法もある。
秋ナスはおいしいし、ゴボウも今頃から冬にかけておいしいもの。
黒と黒という色同士でもあるし、もうひとつ黒い色バルサミコが、野菜をつなぐ役割をしている。
それを引き締めるためにカイエンペッパー(辛味の強いトウガラシ)を使っています」

あまり名前を聞かない製粉会社の粉袋が並んでいた。
なぜ杉窪シェフは小さな会社の製品にこだわるのか。
「小さいながらも、がんばっている生産者、製粉会社を応援したい。
ポストハーヴェストの心配がないものを作っている人への恩返しです」

3種類の食パンが目を引く。
まず、「石臼全粒粉」は岐阜県各務原市のサンミールが挽いた地粉を使っている。
名古屋周辺で小麦粉を探していた杉窪さんが、ある日「すごい製粉会社を見つけた」と興奮ぎみに語っていたのを思い出す。
「タマイズミという品種は、色でいうと白茶色の味。
もちろん、品種のちがいもあるが、製粉の仕方がすばらしい。
小麦の粒度が粗いんですよ。
どの製粉会社を探してもこんなに粒度が粗いのは少ない」

この食パンは衝撃的だった。
ハードな皮。
にもかかわらず、食パンとして極めて薄いゆえに、食べづらくはなく成立している。
バゲットさながらに、気泡がふつふつとヒョウ柄のように現れでて、それゆえに強烈で奥深いうまみがオイリーに滲む。
中身にある野の香り。
単に野生的なのではなく、極めてセグメントされている。
それはじょじょに、コーンのような明るい甘さへと変貌しつつ、ときどき噛む全粒粉の粒によって、再び野の香ばしさへと引き戻され、絡み合うのだ。
食感でいえば、実に軽くさわさわと舌に当たり、ちりちりとちぢれて、しゅっと溶けていく。

食パン「豆乳」は豆腐懐石店くすむらの豆乳を使用している。
すばらしい豆乳の甘さがパンにおいてまったく摩滅せず、活かされている。
むしろ、ふるふるとした食感、やわらかさ、麦の快楽と出会うことで、新たな翼が与えられている。
「豆乳」に限らず、これらの食パンはすごく唾液がでる。
それゆえにおかずがほしくなり、食事パンとして秀逸なのである。

(テーラ・テール佐藤一平シェフ)

食パン「牛乳とバター」。
「福岡県産小麦(太陽製粉のプラム)、北海道産小麦(ユメチカラ)を使っています。
口溶けのいいのができる組み合わせ」
いかにもゆめちから的なもちもちが、そのまますーっと溶けていく。
それにつれて、バターが濃厚に溶けだすのだが、強いだけでなくとてもうつくしく、清らか。
溶ければ溶けるほど甘さは高まって、喉で狂おしいほどになる。

クロワッサン「サリュー」。
テーラ・テールのスペシャリテ。
フランス語の「挨拶」を意味するこの名前をクロワッサンにつけたのは、スギクボが放つ名刺代わりの一撃だからだと、私は解釈した。
プライスカードに「食感とバターの香りが凄い」と自ら記す。
彼はこのクロワッサンを「日本一」と豪語しているのだ。
少し長くなるが、その理由は下記である。

「食べたら、びっくりしますよ。
バターの香りがあんまりしないクロワッサンってよくありますよね?
折り込みがうまくいってない。
バターと生地が混ざってしまっているから。
なぜうちのクロワッサンはおいしいのか。
要は、ぜんぶ理論的に進めているからです。
(一般的なものは)折り込むときに生地を薄くしすぎているから、プレスするときに、バターと生地が混ざってしまう。
そうならないように厚さをミリ単位で計算している。
それから、作業する温度は0度に近ければ近いほどいいので、パイルームをこの店には作りました。
あと、バターを包むとき、端が余りますよね?
バターののっていない、生地だけの部分ができる。
それをいかに少なくするか考えた折り方をしている。
これは講習会で話すと、みんな目から鱗だと言います。
それと水分。
水分を究極に減らして、一度冷凍し、また解凍すると水分移動が起きる。
それを利用して、いちばん少ない水分で生地をまとめているのも、層が崩れない理由です」

実際にクロワッサンを食べる。
聞いたことのない崩壊音を聞いた。
ざわざわ、あるいはしゅわしゅわ。
一瞬で、四方八方に亀裂は広がり、実に細かく木っ端みじんとなる。
中身に光の粒が見えた。
バターが光っているのだった。
もっとよく見てみると、中身に黄色と白のストライプができている。
バターと生地が完全に層になっているためにそう見えるのだった。
このクロワッサンを食べると、目の前が黄色く染まる。
バターの甘さが滴って、喉が心地よくて仕方がなくなる。

2階はカフェになっている。
ここで出す、自称「日本でいちばんおいしいパンケーキ」によって、パンケーキブームを一蹴するつもりである。
たしかに、うならされた。
食感は豆腐に似て、ぷるぷるしてちゅるんとして、なめらかで口溶けがいい。
それだけではなく、軽やかに、高らかに、麦の香りが歌っている。
添えられた、乳化剤を使わない自家製のアイスクリームがさわやかに甘く溶け、いちじく、ぶどう、ももという季節の果物がハーモニーに参加する。
とてつもない愉楽。
ここでスギクボムーブメントの真価に気づく。
麦の風味がきちんと聞こえているからこそ凡百のパンケーキを超えているのだと。
テクニックだけでも、新しい素材の組立てだけでもなく。
素材のすばらしさが合わさってこそ、一次元上の高みへと連れ去られるのだ。

スギクボムーブメントの今後の動向を記す。
福岡が10月開店予定。
川崎市向ヶ丘遊園が12月開店予定。
代々木公園(プロデュースではなく杉窪さん自らがオーナーシェフとなる店)も12月開店予定。

杉窪章匡のビッグマウスはとどまるところを知らない。
「いまの日本、いやこの世界、どうしようもない。
僕が変えていくつもりです」

(池田浩明)

terre à terre
052-930-5445
地下鉄桜通線高岳駅下車(栄の近く)
カフェ併設
9月20日(金)オープン
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