十勝小麦でパンを作るということ2 はるこまベーカリー
2014.09.11 Thursday 16:29
バゲット、リュスティック、パン・ド・セーグル。
ハード系のパンに出迎えられ、気持ちを持ち上げられる場所は、地方都市においてはますます貴重で、灯火のような存在になる。
帯広において、はるこまベーカリーはそういう一軒である。
そこに作り手の魂が籠っているならばなおさらだ。
オーナーシェフ、栗原民也さん。
十勝パンを創る会の前会長として、十勝産小麦を地元で使うムーブメントの先導役になってきた。
埼玉県出身の栗原さんを十勝愛に駆り立てるものとはなんなのだろう。
十勝へ導びかれたいくつかのきっかけがある。
「高校卒業して、自転車で日本一周しまして。
1年8ヶ月、旅をする中で、知床でユースホステルを経営する陶芸家に出会った。
『これから生きていくためには手に職があったほうがいい』と言われた。
日本一周終わったあと調理師学校に通ったんですが、パンの授業がいちばんおもしろくて、パン屋になりました。
その日本一周のとき、自転車漕ぎながら『北海道ってけっこう小麦作ってるよなあ』って思ってたんですよね。
その後、トロワグロに勤めたんですけど、シェフが室蘭の出身。
すごく厳しい人で、『ここ勤め上げたら、帯広のますやパン紹介してあげるぞ』って言ってくれてた。
当時、坪単位の売り上げが1番だったのがますや。
トロアグロは店の売り上げが1位」
日本一周しながら出会ったたくさんのものの中で、心にずっと残っていたのは、北海道の人や風景だった。
「トロアグロを辞めて、すぐ北海道にこようとも思ったが、ニュージーランドにワーキングホリデーに行きました。
パンも見たかったし、農業も身につけたい。
羊飼いをやって、シェアリング(羊毛を刈る仕事)の技術を身につけられないかなって。
人口500人の村で農家さんに4ヶ月ホームステイしてました。
『日本人はじめて見た』って言われるような村で(笑)。
なにより、日本とパンがぜんぜんちがうことに驚きましたね。
町まで5日おきに、こんなでっかいカンパーニュを買い出しに行くんです。
羊の農家なんで、年老いてよぼよぼの臭い羊を食べるんですけど、それをごまかすために煮込み料理なんかにする。
そういうどぎついソースにはカンパーニュが合う。
バゲットじゃなくて、カンパーニュみたいな重たいパンが絶対に合う。
日本のパン屋がまだ作ってないパンがここにあるって思いました。
そのときインプットされたのは、パンって私が思ってたよりも、もっと素朴なものだっていうこと。
菓子パンやデニッシュをやってきたけど、日本人が作るそんなこぎれいなものって、ここではちがうものなんだ」
赤道の向こう側で自分の知っていたものとまったく異なる食文化に出会った衝撃。
そのイメージは、パン職人としての足取りを決定づけるものとなる。
北海道での修行先は、サホロのホテル「クラブメッド」などパンと食事が共にある場所を選んだ。
釧路ではイタリアンレストランに併設された小さなパン屋のシェフにもなった。
やがて栗原さんは帯広にあこがれを抱くようになった。
「釧路では人間関係がぎくしゃくし、住みづらくなってきて、帯広に通うようになりました。
釧路は漁業や炭坑で栄えた、狩猟民族の町なので、みんな気性が荒い。
帯広にくると、麦の畑があった。
『またのびてるなー』『2週間でこんなに伸びるんだ』『穂がつきはじめた』『もうすぐ収穫だ』とか、くるたびに思うようになった。
釧路から車を走らせると、一面の湿原が、作物のとれる環境へと風景が移り変わっていく。
帯広は釧路より四季がきちんとしてるんですよ。
この小麦がパンに使えるんじゃないかって思っていたんですけど、当時栽培されていたホクシンはタンパク値が低く、私にも腕がないもんだから、作ってもまずかったんですよ」
15年前、帯広ではるこまベーカリーを開業する。
現在、小麦粉の90%を十勝産でまかなえるようになったが、当時の流通・製粉・品種では、まだ商品としてパンを作る段階にはなかった。
そこに至るまでには、きっかけとなる出来事が押し寄せ、少しずつ潮が満ちていったのだ。
「当時は、十勝産小麦って、名乗れるほどの量はまだ売られてなかったんですよ。
『十勝ブランド』の認証機構が立ち上げられ、十勝産限定の粉を江別製粉が挽いてくれることになった。
そのあと、前田農産の前田茂雄君が、麦種別(キタノカオリ、春よ恋など)に小麦粉を作るようになったのが7、8年前。
キタノカオリの一本挽きは江別製粉でありましたが、農家限定の一本挽きなんてほとんどなかったです。
前田君がきて『栗原さん、ぜひ使ってみて』。
前田君の粉は、志賀さん(シニフィアン・シニフィエ)、栄徳剛さん(ブラフベーカリー)も使いはじめました」
小麦の味わいは品種ごとにちがう。
さまざまな品種を一本挽きした小麦粉が発売され、それぞれのちがいをパン職人が感じながらパンを作れるようになったのは、この頃を境にしてのこと。
小麦粉といえば、製粉会社がブレンドし、銘柄をつけたものしかほぼ流通していなかったからだ。
品種固有の味が意識されるようになると、小麦は工業製品ではなく、農家が作りだす自然の原料という側面がはじめてクローズアップされることになる。
国産小麦の時代がついに到来したのだ。
(「Only One」。店内に貼られた志賀勝栄シェフのサイン)
「その頃、帯広市の産業連携室の2人のお役人がベーカリーキャンプ(現在の小麦キャンプ)やりたいって、頭を下げにきた。
本当にそんなことできるのかなって思ってたけど、シニフィアン・シニフィエの志賀勝栄さんが、当時ラ・テールにいた栄徳さんといっしょに講師を引き受けてくれた。
それを聞いてびっくりして、『日本を代表するシェフが帯広にくるんですか?』って、すぐ2階から志賀さんの本を持ってきて『こんなすごい人がくる!』って言いました。
最初は集客30名からはじまって、そのあと150名になり、去年、5年目の節目で300人集められるようになりました。
いちばんうれしいのは講師の先生が十勝のファンになってくれること。
明石克彦さん(ベッカライ・ブロートハイム)のパンの作り方は、十勝にぜんぜん存在しなかったエッセンスですし。
行政、農家さん、パン屋さん、製粉会社さんみんなが協力しあう。
なにより、畑を体感したり、講習会を聴いたりと、一生懸命取り組んでるお客さんに感動する」
十勝の小麦について、知り合いの農家について、栗原さんが語り出すと止まらない。
小麦粉のことはどんなパン職人でさえ知悉しているけれど、植物としての小麦について、こんなに情熱をもって語るパン屋を私は知らない。
「開業した頃、100%日清製粉でした。
だけど、ブノワトンの高橋幸夫君(国産小麦によるパン作りをはじめた先駆者)や志賀さんに会ううちに変わってった。
前田君、土蔵(とくら)さん、中川さん、織笠さんといった小麦農家さんに会って変わってった。
実は前田君のキタノカオリと土蔵さんのキタノカオリはちがう。
土地もちがうし、雨がよく降ったとか、風が強いとかいうことでも変わってくる。
じゃあ、農家さんがどういうことをやるといい小麦になるのか。
(自ら卸先を探して小麦を販売している人は)農協に卸してる人とはモチベーションがちがう。
それぞれの人が誰に使ってもらうためのものかを考えて小麦に向かい合ってるので、農家さんごとの方向性が出る。
前田さんの小麦は力強い。
ただ、江別製粉で挽いてるから、粒度が低いし、白い。
土蔵さんのスム・レラ(志賀勝栄さんが監修したアグリシステムの粉)も、やっぱり力強い。
手ごねで作ると、前田君のきたほなみと、土蔵さんのきたほなみのちがいもわかった。
小麦粉が水和した段階でうわっと香りが立つ。
感動しましたね。
塩が入ると生地が締まるのわかりますし。
ダンディゾンの木村さんに『たまに手ごねやったほうがいいですよ、楽しいですよ』って言われた。
『手が考える時間になります』って表現してました。
触感的にパンを作ると、原点に戻る。
そこがわかってれば、引き出しから技術を引っ張り出すんじゃなく、水と麦と酵母で原点的なパンが作れる」
パンの原点。
それは素材から出発することに他ならない。
素材の作り手である農家の思いを知って、それを出発点にパンを作る。
あるいは手ごねによって、小麦という素材に直接触れ合い、そこからのインスピレーションによってパンを作る。
技術やマーケティングといった頭で考えるやり方ではなく、五感を大事にした「手で考える」やり方によって。
十勝での革新的な取り組みを特徴づけるもの。
それは、小麦農家と連携することであり、十勝のパン屋同士が地域のために協力しあうことだ。
商圏を同じくするライバルという関係性を超えて、十勝のパンのレベルアップという共通の目標を目指して切磋琢磨しあう。
「『十勝パンを創る会』を立ち上げました。
ベーカリーキャンプの講習会を下支えできるように自分たちが勉強しようというのが最初の目的。
志賀シェフに講習会を開いてもらう。
麦種ごとにそれぞれ特徴が出せるパンを作ろう。
いつまでもあんぱんを作っていても、いまのレベルから抜け出せないんじゃないか。
十勝小麦を使ったパンのレシピをメンバーがお互い持ち寄って、誰もがクオリティを保って作れるよう基準をきちんと定めた『十勝パン』を5年後に2つ、3つ出せればいいなと思ってはじまりました。
最初に生まれたのがキタノカオリのチャバタ。
キタノカオリの特性を出すなら水を100%入れよう(通常は対粉比60〜70%)というのがコンセプト。
その次に長芋のバゲットができあがりました。
加水上げるとか、地場産の野菜を使うとか、毎年いろんなテーマで行っています」
ますやパンの天方慎治さん、くるみのランプの小川雅之さんらと結成した十勝パンを創る会。
次にフォーカスした目標は、低アミロ小麦でパンを作ることだった。
低アミロ小麦とは。
収穫期に雨を浴びた小麦は穂が発芽してしまう。
すると、酵素活性が高くなって、小麦の中のデンプンが分解して糖に変わる。
粘性がなくなってパンが作りづらくなるため、パン用の小麦粉としては商品価値がなくなる。
特にキタノカオリやはるゆたかのような雨に弱い品種は低アミロになりやすい。
収穫期に雨が降れば、農家の1年の努力は水泡に帰す。
もし低アミロ小麦でパンを作ることができれば、農家の無念を晴らすことができる。
小麦を作る人の苦労を間近で知る十勝のパン屋ならではの着想。
そうして生まれたのが低アミロ小麦の食パン「完熟小麦パン」である。
水分の多いパンに特有の口溶けよさ、引きのなさ。
舌と鼻腔に濃厚に差し込んでくる強い甘さ。
甘く、やわらかいという、食パンの売れ線にのったこの食パンは多くの人の心をとらえるはずだ。
「普通にディレクト法(標準的な製法)でやったら低アミロ小麦でできないです。
6年前にキタノカオリが穂発芽して全滅したときがあったんですが、生地がべたついてぜんぜんパンになりませんでした。
グルテンの膜が溶ける。
でも、冷蔵なら低アミロ小麦でもできるんじゃないだろうか。
熟成は進むけど、発酵は進まない5℃の温度帯がいい。
15〜30℃の温度帯にいる時間をできる限り短くする。
5℃以上にしないよう、成形も指を冷やして行う。
ミキシングで捏ねたおして、最初からグルテンを形成してしまう。
85%以上の高加水、48時間以上の発酵、砂糖6%以下の食事パン、というのがこのパンの規定です。
食パンにしているのは型に入れないと溶けるから。
低アミロ小麦は、完熟して(でんぷんが麦芽糖に変わって)糖度が上がっている状態。
問題なのは、僕らがこれを作っても農家の所得にならないこと。
手助けにはならないが、食べられるようになったということで、モチベーションは上げてもらえるかもしれない。
低アミロ小麦でパンを作ることの意味を、天方君がこう言ってました。
キタノカオリをやめてほしくないから、そのアピールなんだって。
低アミロでもキタノカオリなら使いますよ、と。
いま農家さんはキタノカオリからゆめちからにシフトしてる。
キタノカオリは収量がとれないし、穂発芽の可能性がありますから。
でも、私たちはこう言いたいわけです。
お願いだからキタノカオリをやめないでください」
他の品種に代えがたいキタノカオリの甘さは、日本の自然が生む宝物だと思う。
キタノカオリがどれほど切望されているか、その声を農家に届けなくてはならない。
それは十勝のパン屋の務めなのであり、だからこそ低アミロ小麦でパンを作るのだ。
国産小麦というと、キタノカオリ、はるゆたか、春よ恋といった、甘さに特徴のある品種がパン屋から(ひいては消費者から)もてはやされてきた。
消えゆくキタノカオリの保存を後押しすることも大事だ。
一方、農家の立場、国産小麦の発展を考えるならば、病気や穂発芽に強く、収量も多いはるきらりの使用を広めたいというのが、栗原さんらの考えだ。
「はるきらりは不遇なんですよ。
1CWと交配させているので、カナダっぽい。
その評判といえば、道産ぽくないの一言。
志がある人は、はるきらりでこういうパンできるんじゃない? ということは考えていると思いますが。
いま道産を使うといえば、ほとんどの人は春よ恋が中心。
もっちりして、甘みが濃いですから。
はるきらりはまるっきり逆で、あっさりとして軽い。
(新品種の開発を担った)農業試験場にとっては、はるきらりは思惑通りにできた品種だったんですが、人気が出ない。
以前、春よ恋とはるきらりの両方バゲットにして、麦畑で官能検査したことがあります。
皮の部分、内相、噛みごたえをそれぞれ点数化しました。
年齢別と性別で分けたら、好みの傾向がはっきりでた。
女性は、もっちりして甘い、春よ恋を選ぶ。
男性ははるきらり。
皮がきちんとあって噛みごたえがありますから。
栄徳さんも、『あのときの、はるきらりのバゲットを超えるのできない』って言ってます」
はるこまベーカリーでは、はるきらり:きたほなみ:キタノカオリが5:4:1でブレンドされた、アグリシステムのモンスティル(栗原さん監修による小麦粉)でバゲットを焼く。
はるきらりから由来しているのだろう。
たしかにこのバゲットは、皮がぱりっとして香ばしさに秀で、すかっとしたおいしさがある。
どの品種がいちばんおいしい、というような考え方ではない。
この品種はこういう特徴があり、この品種にはまた別の特徴がある、という考え方。
それが定着することが、パンの文化をより深く、おもしろくしていく。
それに加えて、十勝のパン屋には、小麦農家との交流という、インスピレーションの源がある。
「農家さんが、何を考え、小麦を作っているのか。
畑に遊びに行ったとき、言葉の端々に出てくる。
農作物は毎年できがちがうんですよ。
今年はこういうふうに表現しようとか、その年の小麦に合わせて考えればいい」
小麦農家との付き合いは、パン作りに向き合う姿勢の変更をも迫った。
「変わったんだと思うんですよ。
植物のことなにも知らなくても、トマト育てただけでも変わるじゃないですか。
ニュージーランドで羊を締めたときも、食べ物のありがたさ、食べることの文化を痛切に感じた。
そこにパンがなくてはならないこともわかったし。
この前、テレビで見たんですけど、小麦という作物がなかったら、人類は絶滅してたらしい。
小麦を交配させて多粒にしたからこそ、農業をして生き残ることができた。
小麦は人類にとって原点的な食べ物。
その文化を構築したのがパン屋。
そこに誇りを持っていいし、それを知ってたらモチベーションも上がるじゃないですか」
パン屋の使命。
数千年の人類史をさかのぼり、あるいは現代の世界の食料事情を俯瞰してみるならば、北米産の小麦でなければおいしいパンは焼けない、という考えは再考する必要があるかもしれない。
「日本人は金にものをいわせて、世界中から上澄み(1CWのような製パン性の高い小麦)を集めている。
原麦の時点から、加工しやすいものばかりを。
それで日本のパンおいしいでしょって言ってる。
それはちがうでしょ。
日本のパン屋の平均的な技術はすごく高くなりました。
いい粉に対しての技術は高いんだけど、イレギュラーなものへの技術を私たちは持ってない。
どんな小麦でもおいしいパンにできる技術を持とうよ。
それが本当のパン屋じゃないんですかね。
昔は、竃(かまど)1個しかないところで、粉袋の底にたまっている小麦を掻き集めてパンを作った。
パン屋の原点はそこだと思う」
パン屋の原点。
はからずも栗原さんがそれを私に教えてくれるできごとがあった。
アグリシステム主催の『小麦ヌーヴォーツアー』。
全国からやってきたパン屋が農家を巡るイベントにおいて、土蔵信さんの畑に行ったときのこと。
栗原さんがきて、土蔵さんの石窯でパンを焼いてくれた。
土蔵さんのスム・レラT85(アグリシステム)とキタノカオリを使った、チャバタ。
ごつごつとした外皮、火傷のような荒々しい焦げ。
素朴な見た目とは裏腹に、中には水分がたっぷり籠って、小麦の香りを引き出す。
石窯特有の熱量がキタノカオリならではの甘さをマックスにまで高める。
そのパンにナイフを入れ、近隣の農家の人たちが持ち寄った野菜をはさんで手渡してくれた。
夢中で食べた。
本能に訴えかける味。
原点を見失わず、自然の恵みがパンになれば、それがいちばんおいしいのではないか。
「一人一人が船を持て」
志賀勝栄さんが勉強会で言った一言を、栗原さんは心に刻んでいる。
パン屋は、厨房という孤島にいて、ひとりパンを焼きつづける存在である。
自分の製法こそベストだと信じ、島に閉じ籠っていれば快いかもしれない。
だが、もっと進化するために、その孤島から出る勇気を表現したのが「船」という言葉だ。
「志賀さんは言ってました。
島を出て、船を漕ぎ出す勇気を持ってパンを作ろうよ。
パン屋はみんな他の島に行ってそこの種をもらってくる旅をしてる最中なんだって。
その旅にあるよろこび、悲しみ。
守ってたらダメだよ、出てかないとダメだよ。
そのとき、忘れてはいけない原点は小麦なんですよ」
かっては、それぞれの島にいた十勝のパン屋たちは、勇気を持って団結し、志賀勝栄シェフらの先端的なエッセンスを取り入れた。
はるこまベーカリーはじめ、ますやパン、くるみのランプは技術を進化させ、十勝小麦でほぼすべてのパンを作るようになり、売り上げを伸ばしている。
地産地消の先進地域十勝につづいて、今後全国各地のパン屋が船を漕ぎだすだろう。(池田浩明)
はるこまベーカリー
北海道帯広市西19条南5丁目43-11
0155-38-5311
8:30~19:00
日曜・第三月曜休み