パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
ブーランジュリー メルク(岡町)
7軒目(関西の200軒を巡る冒険)

カルヴェルの弟子が国産小麦に傾倒
「パンの神様」レイモン・カルヴェル(日本にフランスパンの神髄を伝えた、元フランス国立製粉学校教授)の弟子。
そう自ら任ずる古山雄嗣さんの姿を、国産小麦の大生産地・十勝で見かけたときは意外に思った。
カルヴェルといえば、彼の監修の下に作られたのが、フランスパン専用粉・日清製粉リスドオル。
この粉を使うことが、フランスパンの正統だと信じ、国産小麦を使用することを躊躇するパン職人が少なくないのだ。
にもかかわらず、古山さんはいま国産小麦に傾倒している。
私が問うと、答えは明瞭だった。

「ひとつの粉しか使うたらあかんなんて、カルヴェルさん絶対言えへんわ。
あの人は材料に固執したことなんてない」

(アグリシステム主催の小麦ヌーヴォーツアーにて土蔵信さん[左]の農場で。中央の帽子をかぶった人物がブーランジュリー メルク古山雄嗣シェフ)

60を越えたベテランがスタイルを変え、さらに進化しようとしている。
古山さんは近年、十勝産小麦の使用へと大きく舵を切った。

「内麦にすごく興味がある。
北海道の農家さん、パン屋のことを考えてくれとる。
日本のパン屋の味方や。
こういう内麦って年によって(製パン性が)ええことも悪いこともある。
悪いことあってええんよ。
お客さんに、今年の粉こうやからこういうパンできましたでええんや。
それがほんまの手作りや。
品質の安定とか考えんでええ。
そういう粉をなんとかするのがパン職人。
できんかったらパン屋やる資格なし。
小麦粉は農産物やろ。
それを大手製粉会社が(あまりに便利な小麦粉を作って)工業製品のようにしてもうた。
うまいパン作りたいから、とにかく(風味の)ええ粉もってこいいうことや」


「パンの物性は高分子工学といっしょや」
パンを科学する。
早口の関西弁でまくしたてる。
常識にケンカを売り、パン業界の旧弊に噛みつく。
極めて理論的に。
最初はまるで怒っているように思えるけれど、話に耳を傾けていると、それが真実を愛するというたったひとつの情熱からやってくることに気づく。
それは元研究者という経歴と大いに関係がある。

「大学では化学を専攻しとった。
高分子工学いうてな、接着剤をやっとったんや。
大阪府立技術研究所を出て、会社に就職した。
ところが52で親父が亡くなって。
えらいこっちゃ、会社辞めなしゃあない」

突然、家業のパン屋を継がなくてはならなくなったのだ。
生地に触ることすらはじめてだったにもかかわらず。

「パンのことなんて、なんもわからへんわ。
とにかく専門書を読んで、発酵ってどういうことか調べた。
パンの物性も高分子工学といっしょやとわかった。
接着剤を練っとったんが、パンを練るようになっただけ。
粘弾性理論いうのを研究しとってな。
粘性と弾性。
平たくいうたらな、ピストンとバネいうことや。
ピストンは粘っこくて、引っ張ったら戻るまで時間がかかる(粘性)。
バネはすぐ戻るやろ。
弾性や。
パン生地は両方を兼ね備えてる。
こうやったらできんねんなということはわかったけど、理屈だけではでけへん。
失敗しながらやっとったら、理屈と経験がうまいこと合うてきた」

発酵とボリューム・食感の関係。
どう練れば、どうふくらむのか。
神秘的に見えている発酵の世界に、科学の照明は明快な見取り図を与えたのだ。


「腕のいい職人は生地に空気を抱き込まん」
一方で、古山さんは伝統を重んじてもいる。
そこに、過去のパン職人たちの叡智と思考が積み重なっているからだ。
彼は、ドイツの長い伝統を引き継ぐ老舗に教えを乞う。

「フロイン堂(神戸にある手ごねと薪窯の店。昭和7年創業)に1年通った。
毎週木曜日に親父さんと話してて。
勉強になったわ。
パンに対しての考え方は、あそこのパンがベースになってる」

フロイン堂は手ごねを伝統とする。
船と呼ばれる公園のボートのような巨大な桶に大量の粉と水を入れ、両手でこねる。
こねあがった生地は最後に頭の高さまで抱え上げられ、船の底に叩きつけられる。
それはなぜなのか。

「パン職人は、生地を叩いたらよくふくらむいうけど、それはちがう。
あれは空気を抜くためのもの。
あの空気が発酵を阻害すんねん。
腕のいい職人は、空気を抱き込まんように仕事する。
丸めるより畳んで、空洞ができんようにする。
窯に入って生地があたたまり、空気が膨張すると、気泡を破りよるやろ。
フロイン堂でやっとわかったんや。
空気が入ると窯伸びが悪い。
ぼこって穴が空くねん。
だから、丸め方が大事」

メルクトースト
ぷりぷりして、すーっと溶けていく。
純白のうつくしい香り。
ミルクが滲みだし、後味に麦が香りだす。
中身を噛むと、きゅっきゅと鳴り、ぷるんぷるんとはずんで、そしてしゅわーっと甘さが口中に弾ける。

「でけへんやろ、こんな軽いの」
と言いながら、古山さんはクロワッサンを持ちだす。
「きれいやろ、この内相。
でんぷんの性質が強くなるから、クロワッサンで長時間発酵はよくないねん。
酵素活性によって粘りが強くなって、コシがついてしまうから。
冷蔵発酵してるんやけど、捏ねあげ温度を下げて、生地をやわらかく作る。
そうすると、軽くて口溶けいいクロワッサンになる。
クロワッサンはちょんまげ持てるぐらい軽くなかったらあかん。
コーヒーに漬けて食べるような食事パンやからね」

ちょんまげとは、クロワッサンの中央の背の高い部分のこと。
たしかにメルクのは自重がおそろしく軽いので、そこを持っても崩れない。
リーンという言葉が、クロワッサンの表現に使われることはあまりないが、あえてそう言いたい。
皮はさくさく、中身はふわふわ。
癖や余計な香りがなく、あっさりとして、みずみずしい。
一気に溶けて、口の中から存在が消え去る。
そしてバター感だけがふんわり漂っている。
たしかに、あまりの軽やかさゆえ、ごはんにお茶をかけるように、コーヒーに浸してみたくなるのだ。

なぜ国産小麦はもちもちするのか
古山さんは科学的思考をもって国産小麦に取り組む。
たとえば、国産小麦ならではのもちもち感。
それがなぜ生じるのか、科学的に説明できる人は多くない。

「国産小麦は低アミロースいうて、でんぷんの中に比較的アミロースが少なくてアミロペクチンが多い。
アミロペクチンが多いともちもちするといわれるけど、理屈はむずかしいねん。
アミロース:アミロペクチンの比率。
外麦でも内麦でもだいたい2対8。
内麦がアミロペクチン多いといっても約4%(品種にもよる)だけやねん。
なにがちがうかというと、アミロースは直線で、アミロペクチンは枝分かれした形。
アミロペクチンはからみが多くなって、粘っこい。
高速で練ったら、よけい繊維がからむやろ。
生地が痛みやすい。
だから国産小麦はデリケート。
ベンチタイムを充分にとらんと、生地が破れるねん。
水をたくさん入れなあかんし。
やわらかい生地を仕込んで、低速でゆっくり練って、ゆっくり発酵させる。
わしの場合、はじめはイーストも入れない(パート・オートリーズ法)。
ゆっくり待って作らんとでけへんねん。
だから、街のパン屋(リテールベーカリー)向きの小麦やねん。
大手は高速で練るから絶対無理よ。
国産小麦は理屈をわかってせなあかん。
職人の勘だけでは手強いで」

国産小麦ならではの風味、そして繊細であるゆえパンが作りづらいということに、むしろリテールベーカリーの生き残りの可能性を見る。
技の勝負なら絶対負けへん。
古山さんの鋭い言葉からは職人魂がびりびり伝わってくる。

カルヴェルに導かれ秘境のパン屋へ
フランスパンを世界中に伝道したレイモン・カルヴェル。
1954年以来約30回の来日を果たし、2005年に逝去したこの人物は、私にとって歴史上の偉人だが、古山さんの心のうちには、目の前にいるかのような濃厚さで記憶がしまわれている。

「講習会で、いちばん前に座って質問した。
顔を覚えてもらおうと思って。
自分が作ったバゲットの写真を送ったら、ちゃんと返事が戻ってくる。
講習会のアシスタントをやらせてくれたり。
フランスのパン屋も紹介してくれて、15、6軒を3ヶ月でまわった。
パリでも3回会ったね。
電話したら、アパルトマンにきてくれる。
『あそこ行け』『ここどうやった?』。
カルヴェルさんが教えてくれる店、とんでもないとこばっかりやで。
地図にないんやから」

「300年つづいてる、フランスでいちばん古いパン屋のひとつ。
カルヴェルさんの友だちの店やな。
そこのパン、フランスでいちばんうまいやろ。
サン=ナゼル・レゼールという200人の村。(リヨンから東へ行ったアルプスの山岳地帯に位置する)。
アノールさん、当時65のおじいさんがやってた。
石窯でこんな大きな2キロのカンパーニュを焼いてる。
行商人が、買いにきよる。
20個ぐらい袋に入れて、(近傍の)各村に売りにいく。
後継者おれへん。
『わしの代で終わりや』言うとった。
アノールさんといっしょに、ムッシュ・デュマという、(もうひとつの)300年つづいてるパン屋にも行った。
パン・ド・ボケールというパンがあって。
生地を伸ばして、水を塗って、畳む。
水塗ってるから、ファンデュみたいに割れる。
そんなパン歴史の本にしかのってない」

この世には知られていないパンがまだまだ眠っている。
水を塗ることで、生地をくっつかないようにするというのだ。
歴史の彼方へ過ぎ去ろうとする見知らぬパンたちの礎の上に、レイモン・カルヴェルの近代的な製法はあり、さらに現代のパンがある。
そのことに敬意を払ってパンを作ることと、そうでないことには、目に見えないけれどはっきりとした差があるはずだと思う。

パン・ド・ロデヴ
くしゅくしゅっとした感じの中身が、しゅわっと溶けてなくなる。
気泡膜が薄いせいにちがいない。
発酵の香りは梅干しにも似て、すがすがしい。
皮は薄くてぱりぱりで、くるみのような香ばしさがあり、噛むたびに旨味があふれる。

古山さんはフランス修行に、4人の子供と妻を連れていった。
費用、時間…かかったものは多かったはずだが、それでも同行させたのは、なぜだったのか。

「5歳、3歳、2歳、1歳の子供と嫁はん、連れてった。
なんでかいうたら、価値観の共有。
価値観がちがうと生きづらい。
特に嫁はんとは同じ仕事を365日やるわけやろ。
同じ価値観もたなあかんねん。
ひとりでフランスに行ったら、そこで自分が見たもん、聞いたもんと、嫁はんとのあいだにギャップができる。
あのときどうやったこうやった言うても、わからんやろ。
バゲットはパリではこう食べるとか、お客さんに伝えるのが大事。
それが、フランスのパンのこと(販売する妻が)知らんかったら、話にならん。
パン職人にもよう言うねん。
『おまえの作ったパン、奥さんがPRしてくれんと、売れへんやろ』」

かって古山さんに「フランスの食文化は三位一体」と教えられたことがある。
ワイン、チーズ、そしてパン。
古山さんはワインやチーズにも造詣が深く、惜しくも閉店したメルクカフェではそれらとパンとのマリアージュを楽しむこともできた。
パンは単体ではなく、食文化の一角と古山さんが考えるようになったのは、フランスでの経験が大きい。

「なんでフランスには山羊のチーズ(シェーブル)と羊のチーズがあるのか。
山岳地帯で羊は登られへんから、山羊を飼う。
南フランスの平地ではロックフォールとか羊のチーズが食べられてる。
チーズがその土地の原乳から作られるように、地元で生産できる素材から食べ物は作られる。
それが土地土地の文化になるんや。
地元でとれたもので地産地消する。
ワインも、よその地方のなんか飲まへん。
日本でも田舎料理あるのといっしょ。
そういうこと知らずして、パンなんかできへんわ」

古山さんが国産小麦に真剣に取り組もうとしているのは、地産地消が当たり前であるフランスの食文化を知ったことが背景にある。
考えてみれば、日本のパン作りは、はるばる北米から小麦粉を運んでくることが当然視されていた。
ワインであれ、チーズであれ、あるいは他の食材であれ同じこと。
世界中からもっともおいしいもの、もっとも安いものを買い漁って自分のものにする。
そのことになんの違和感も覚えない麻痺が、私たちの食が乱れた根底にあるのではないか。
失われた大事なもの。
それを取り返そうとする老兵に古山さんが見えた。

小麦粉に限らずあずき、ハム、卵…とメルクではおいしい素材を使い、手間を惜しまずあらゆるものを自家製造する。
「小豆なんか最高級。
和菓子でもなかなか使えへん十勝の大納言。
我々あんこ屋やないから、あんこ炊く技術ない。
技術ないの素材でカバーせなしゃあない。
せやから『最高の小豆もってこい』言うてる。
銅鍋であずきをゆっくり炊く。
卵でもそう。
無添加の抗生物質入ってないものを京都から仕入れてる。
卵に入っている抗生物質はアトピーの原因といわれてるんやで」

あんぱん
甘さは飛び跳ねず、最初から最後までつーとおだやかに推移していく。
いつまでも衰えない長い余韻。
上品な甘さと上質な小豆によるものにちがいない。
それはあっさりとした生地とすごくなじむ。
さわさわと歯切れ、しゅわしゅわと溶ける。
あんこと生地のシンクロする口溶け、心地よさを倍増させる。

十勝でオーガニックの小麦を挽く製粉工場(アグリシステム)を見学した直後、このふすま(小麦の外皮)で低GIの病院用パン(パン・オ・ソン)を作りたいと熱っぽく語っていた。
職人技と「理屈」でもっとよい社会にできないかという視点を、古山さんはいつも持ちつづけている。

「粉アレルギーも深刻や。
それまで大手のパン入れとった近所の保育園に、うちのパンを卸しはじめた。
いままでパンを食べられへんかった子供が、食べれるようになったいうて、お母さん、店の前にきて泣くんやで。
添加物はよくない。
あんなもん食べつづけたら絶対あかん。
マヨネーズもうちは自家製。
うちのは卵と酢と油だけやもん。
それでサンドイッチ作ったら、むちゃくちゃうまい」

厨房が物語る思考と努力
厨房を見せてもらう。
そこには、ベテランパン職人の、思考と努力の跡が刻まれていた。

自作のホイロ(最終発酵をとるための機械)。
ガスを引き込みお湯を沸かすようになっている。
「いつも湿度75%、温度28℃。
生地の表面を触って、しっとりした状態になる。
これがいちばんええ」

特注のオーブンは、炉床に厚めの石を使うことによって蓄熱性が高められ、石窯のような効果を発揮する。
そしてミキサーのフックは、粘弾性理論から最適だと導かれたこね方ができる形をメーカーにアドバイスした。

「これメーカー(エスケーミキサー)と共同開発したんや。
先端に生地をひっかける。
このフックは、ミキサーボウルの壁に生地がくっつきそうと思ったら逃げるから、摩擦熱かかれへん。
ひょうたん型になってるから。
回転数もローが1分間に98回転しかせえへん。
むちゃくちゃゆっくりにしとる」

そして、ミキサーの横にかけられた古い湿度計。
これは古山さんのパン作りにとって、もっとも重要な「基準」だという。

「厨房に入ったら最初に湿度計見る。
それ見て、その日の段取り決める。
温度把握せんと、どうやって仕事するねん。
カルヴェル先生、パンを作るとき、いつも小さいメモ帳に書いてた。
室温、粉温、仕込み温度もぜんぶメモしとる。
『先生やったら、そんなことせんでも勘でできるんちゃいますか?』って言うたことある。
『ばかもん!』
ものすごい大きな声で怒られて、恥かかされた。
『君はなにもわかっとらん。
計量・温度・時間は、パン作りの3要素。
それ守って、やれ』
あの人はぜんぶメモしはる。
そうせなあかんわけやからやろ。
カルヴェル先生でも100回が100回は成功せえへん。
料理、お菓子とちがって、パンは焼きあがるまでわからへん。
ミステリアスな仕事やで」

古山さんは毎朝厨房にきて湿度計を見るたび、師の教えを思いだし、胸に刻むにちがいない。(池田浩明)

阪急電鉄宝塚線 岡町駅

06-6854-3005
6:00〜18:00(日曜休み)

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