パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
マールツァイト(茗荷谷)

132軒目(東京の200軒を巡る冒険)


自家製酵母はさまざまな食品から作られる。
小麦やライ麦といった粉、レーズンなどの果実、ビール酵母や酒種。
目には見えないけれど、それらの食品の表面に酵母菌が付着していて、人間が手をかけ、あたためることによって、活動を活発化させて、パンをふくらませる。
つまり、命が息づいている。
私たちは命を食べ、自分の命をつなぐ存在である。

牛乳からも酵母が生まれ、パンができる。
まろやかな甘さに富んだ、やさしい味わいのパンが。
それはとりもなおさず、母牛は子牛を育むために生み出す牛乳に、たくさんの滋養と体に有用な微生物を含んでいることの証明になる。

だから、10年前、白井幸子さんがマールツァイトを開いたのは、使命感からだったという。
「ミルク酵母のパンを知っていただきたいと思ってこのお店をはじめました。
牛乳のことを知ってもらいたい。
東毛酪農のみんなの牛乳がないと、うちのパンはできないわけですから」

どの牛乳からもおいしいパンができるというわけではない。
スーパーに並ぶほとんどの牛乳は100度以上の高温で瞬間的に殺菌される。
放置して腐敗せず、酵母菌を増殖させられるのは、パスチャライズ製法(62〜65℃、30分)によって作られた牛乳だけだ。
酵母菌の働きを解明したことでも知られるフランスの生物学者パスツールが突き止めたこの温度と時間は、大腸菌など人体に悪影響を及ぼす菌のみを死滅させ、人体に有用なタンパク質を熱変成させないために、必要充分なものだ。

カゼインやホエーといったタンパク質は生乳の状態で飲むと、胃の中で固まるのでゆっくりと消化されていく。
ところが高温で処理されたものは熱によって組成が変化していて、消化されないまま腸へと流れるので、人体にとって負担となる。
また母乳の中に入っていて、免疫力を上げることによって赤ちゃんを病気から守るラクトフェリンという物質も熱で本来の形が失われる。

また、パスチャライズド牛乳は、高温殺菌する牛乳以上に、衛生的な生乳で作られる必要がある。
だから、酪農家が1頭1頭に手をかけ、衛生的に、健康的に乳牛を育てる。

なにより、みんなの牛乳はおいしい。
牛乳を飲むときに必ず感じるあの牛乳臭さがまったくない。
それは高温殺菌によって焦げてしまったための匂いだった。
この牛乳を飲むとき、私が思いだすのは、高山を流れる水を手ですくって飲んだときの記憶である。
牛乳本来の味わいとはさわやかである。
たんぱく質や脂肪分が破壊されていないゆえに、舌で余計な味がしないのだと思う。
舌は体を健康に保つための精巧なセンサーのはずだ。

「ミルク酵母を最初に手にしたとき、『これは酵母じゃない』といわれました。
こんなにおいしいのにどうしてだめなんだろう」

ミルク酵母のパンがパスチャライズド牛乳からしかできないということ。
酵母菌や乳酸菌といった見えない生物たちのコロニーが高温殺菌によって失われなかったからだということは想像に難くない。
命の息づく牛乳から、マールツァイトのパンは作られる。

コンプレ(315円)
石臼挽き全粒粉使用。
マールツァイトのパンを食べた人は思わず「まーるい味」と表現してしまう。
ヨーロピアンながっしりした皮の高らかな香ばしさ。
中身の味わいは複雑でしっかり実が入っているのに、やわらかで、おだやかで、しっとりしている。
急ぎすぎない、まろやかな甘さは、ミルクを彷佛とさせる。
舌と対立してこない、母性的な味わい。
中身の食感はむちっとしたのもつかのましゅわしゅわと溶ける。
カンパーニュらしく、食べる部分によって、クープの香ばしさ、酵母の野趣、ふすまのブラウンな味わい、国産小麦の白い草のような味わいと、さまざまな断面を見せる。

まぎれもない、国産小麦のみずみずしいおいしさがある。
小麦の銘柄の選択さえ、ミルク酵母のことを考えて行ったという。
「国産小麦もいろいろ試したの。
うどんを作るのに最高においしいといわれるものでも、決しておいしいパンにはならない。
ミルク酵母でいちばんおいしくなるのをチョイスしました。
作って食べてみて、この味好きじゃない、とか、深みがないなとか。
味はいいけど、香りが酵母に合ってないなとか、ふくらまないとか。
ヨーロッパの軽い小麦がいいかなと思うと、味わいがない。
いくらいい小麦があっても、不作で今年はありませんということもあるので、何種類か合わせないと。
1種類がなくなっても、それに似通ったものを使いますが、お客さまは小麦がちがうとわかっちゃう。
岩手のゆきちから、南部小麦、長野の白根、北海道の幸せのめぐみを使っています」

チョコパン(168円)
ハートから飛び出すチョコチップ。
全粒粉使用だが、白くて軽めの生地。
そこへチョコレートのほろ苦さが、まろやかで、淡いパンの味わいをじょじょに浸していく。
じわじわと小麦の甘さとチョコの甘さが浸透し合って、グラデーションがゆっくりとひと色になって、溶けた甘い液体は舌の上にひんやりと広がる。

バターフィセル
「ミルク酵母のパンはバターやチーズにとても合います」
それはこのパンを食べてもとてもよくわかる。
重厚なのに、軽やか。
厚みのある皮はかりかり、中身には味わいが詰まっている。
なのに、まろやかなので、強くない。
すぐに、生地の中のバターが舌で溶けはじめる。
すばらしい口溶けのせいなのか、なんなのか、まるでバターそのものを舌の上に置いたように錯覚するほど、その感覚はビビッド。
バターがたっぷりなのに、決してぎとぎとしたパンではない。
それとは反対に、ナチュラルで、マイルド、みんなの牛乳で作るバターは、とてもさわやかである。

マールツァイトのパン作りで譲れないところとは。
酸味のまったくない、きちんと温度管理された種と、もうひとつ意外な秘密があった。
「技術はもちろん大事です。
その中でも成形するところかな。
締め方。
慣れてないと、やわらかくなってしまう。
カンパーニュのような、大きいパンの場合、特に味がちがう気がする。
これだけは人にまかせられない」

自家製酵母のパンを作ることは、酵母といっしょに生きていくことだ。
白井さんの女性らしい感受性にとって、2つは分けることのできないものだ。
「あと、大事なのは、みんなが仲良くやってるということだね。
ぎすぎすしているときは、おいしいパンになってない。
酵母を扱うときは、はじめる前に挨拶してる。
『今日は○○です。よろしくおねがいします』
私がいわなくても、みんなそうするようになりました。
元気だと酵母が活性化していい香りがしてくる。
酵母の香りは毎日匂いを嗅いで確認しているんだけど、気がかりなことがあったりすると、パンが硬くなったりする。
原因は気温とかじゃない気がする。
私がいい気分じゃないとおいしいパンができない。
だから、みんなには、『私に気分よくさせてね』って言ってます(笑)」

自家製酵母を扱ったことのない人が聞くと、まるで迷信のように聞こえるかもしれない。
だが、植物に水をやるとき毎日話しかけると、きれいに花を咲かせることが、科学的に証明されているという。
そして、イーストを作るとき窒素を与えるように、酵母とは植物に似た生き物なのである。
なにより、この話が真実らしく思えるのは、私がマールツァイトのパンを何度も食べているからでもあるだろう。
マールツァイトのパンのまーるい味わいは、やさしさの中で育まれた酵母の味わいのように思えるのだ。

2年前に白井さんから聞いた言葉が、新しい実感を伴っていまさらのように思いだされてきた。
「ミルク酵母でパンを作る前にも、パン教室で教えたりしていましたが、その頃のパンというのは、食パンにしてもそうですけど、型に入れて、副素材や、添加物を入れて、高く膨らませよう、膨らませようとする。
ところが、自家製酵母のハード系のパンは丸めたら、そのままオーブンに入れて、1個1個ちがう形にできたのを、そのまま食べる。
そのままで個性なんだということがわかりました。
それからは、子育てもそのまんまでいいって思えるようになりましたね」

自然に作った生地をそのまま焼いた、やさしい味のパンを食べたあとでは、その言葉はますます私を安心させてくれるのだった。

(池田浩明)

東京メトロ丸の内線 茗荷谷駅
03-5976-9886

11:00〜19:00
日祝休み


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#132
200(東京メトロ丸ノ内線) comments(2) trackbacks(0)
Comment








初めて行ったことのあるお店がっ!

わざわざ地図で探して行ったのに、
念願のパンを前に
頭に血が上っちゃって、
どんなパンを買ったのか
全く覚えてません…。

アップルパイが
めっちゃおいしかったのだけは
しっかり覚えてます。
from. ヒランヤ | 2012/01/09 22:19 |
ヒランヤ様
やっと行ったことのある店がでてきてよかった!
132軒目か…。
from. 池田浩明 | 2012/01/10 11:00 |
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