パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
トラスパレンテ(中目黒)
138軒目(東京の200軒を巡る冒険)

店名からも、内外観からも、ソティスフィケイトされたハイセンスな店、というのがトラスパレンテのイメージだった。
それを象徴するのが、真四角のブリオッシュにカスタードを入れたキューブ。
マスコミに何度も取り上げられた看板商品だったにもかかわらず、いまこのパンは店に並んでいない。

「3月11日の地震の次の日、お客さんが殺到しました。
次から次にお客さんがくるので、食パン、バゲットをひたすら作って、くたくたになりました。
なのに、キューブだけは売れ残った。
そういう場面って、作る側にとってはいちばん見たくないもの。
キューブは、欲して買うものではなかったのだと。
子供に食べさせられたり、必要なときに食べられるもの、それがパン。
おもしろいから買う、おもしろみだけの商品じゃなく。
スタッフと話して『キューブやめていいですか?』っていったときは、『なんでやめるんですか?』って声も上がったけど」

3月11日を境に、私たちの意識のなにかが変わった。
私たちは本当はなにを欲しているのか、本当のよろこびとは一体どういうものなのか。
キューブの例はそのことを端的に示していると思う。
森直史シェフの、パンへと向きあう態度も変わった。

「モダンさを狙って、キューブ型のパンを作っていました。
でもだんだん、僕の作るものがわかってきた。
やわらかくて、値段が抑えめで、具材がいっぱい、仕上げをほどこしてかわいらしい、そういうことを重視するようになりました。
作りたいものを作るより、求められるものを作りたい。
はじめてのおつかいで4歳ぐらいの子が買いにくるような」

かっこいいけれど敷居の高い店、ではなく、かっこよくて普段着で毎日これる店。
それがトラスパレンテであり、中目黒的な日常なのだ。

「食パンは毎朝食べるものです。
毎日買いにくる常連さんには、何枚切り、手提げ袋に入れる入れないを、顔を見ただけでぱっと出せるように心がけています。
お店屋さんですから、そういうのを大事にしたい」

プリマベーラ(270円)
試食用に置かれていた一辺を口にしただけで、類い稀な香ばしさの虜になった。
山のところには火の香り、中身の白い部分には、発酵と麦の甘さが完全に溶け合った香りがあって、嗅ぎつづけていると、果てしない気分に陥る。
舌触りはふさふさして、噛みしめると静かにもちっとする。
味わいは極めてニュートラル。
砂糖の甘さからも、ミルクからも、小麦からも、すべての味わいから中立の位置にあって、だから毎日食べられる理想の食事パンとなりうる。
日本人の生理感覚に合うすっきりとした味わいは国産小麦ならではのものだ。

「国産の粉を使いたいんですよね。
一部は外麦も使っていますが。
特に食パンには北海道産のいちばんいい粉を使っている。
食パンはいちばん安い値段にしようと、この辺の店を見てまわりました」

パンやお菓子といえば、フランスを目指す職人が多い中で、森さんはイタリアで勤めた異色の経歴を持つ。

「もともとパティシエとして、イタリア人シェフの元で修行していたので、レシピもイタリア語だったし、イタリアに行くことの違和感はありませんでした。
町場のケーキ屋さんで、フランスの技術も学びました。
僕の世代はみなさんフランスで修行する。
でも、日本はすでに現地と変わらない水準にある。
だから、向こうの有名店に学びに行くんじゃなく、日本で身につけた技術で通用するかどうか試してみようと思っていきました。
イタリアの大衆的なトラットリア(=ビストロ)で、ショーケースに僕が作ったケーキを並べて販売した。
けっこう売れて、シェフという立場を与えてくれました」

「そこには、50人ぐらいのスタッフが働いていました。
イタリア人、フランス人、ブラジル人、韓国人と国籍もさまざま。
みんな違和感なく認めてくれて。
国に関係なく、よしとするものはいっしょ、センスはいっしょなんだと思いました。
例えば、お茶、ホワイトチョコ、ジェノワーズムースを使ったオペラというケーキ。
層の順番によって調和が変わるし、やわらかさや軽さを考えて作ると、そのよさはみんなに伝わる。
ただ、味覚にちがいを感じる。
淡さが理解されない。
イタリア人にはわかってもらえたんですが。
ダシの味がわかるかわからないか。
たとえば、アクアパッツァだったら、アサリやエビのダシの中に、下味をつけた他の魚介を入れる。
そういう繊細な味わいを見分ける感覚は、イタリア人と、日本人に共通したものなんですね」

森シェフのイタリアへの旅。
それは、自分の技術やセンスが世界に通じるかどうかの腕試しであり、日本人として培った味覚のアイデンティティに気づく、ある種の自分探しだったのかもしれない。
そしていま、日本の小麦を使ってパンを作る。
外麦にあるような強さではなく、繊細な感覚をそこから引き出そうとしている。

「微々たるものではあっても、原料のちがいはあるとは思ってます。
小麦の作り手も、北海道の方は本当に一生懸命。
ロッドにばらつきがあるのも改善する努力をしているし、たくさんブランドもできてきて、熱を感じますよね。
特にフランスで修行した方は、この粉じゃないとできないとかあると思うんですが、僕はそういうのはいいかな。
日本のいい素材を認めて、そこに技術をのっけて、アレンジして、作る。
自分で作ってみて、ツヤだったり、風味だったり、微々たるちがいかもしれないですけど、よろこびはありますよね。
毎日やってるものにしかわからない。
お客さんに伝わってるかどうかわからないが、作ってる自分のモチベーションにはなりますね」

ナチュラーレ 赤えんどう(140円)
トラスパレンテが白パンを作るとこうなる。
ぽよんと弾み、素直に口溶け、味わいは白め。
普通の白パンより甘さがくっきりし、小麦のコクが出ている。
そこに甘い豆。
小麦からどんどん溶けてくる白っぽい甘さと、豆の甘さの響きあい。
濱田屋の豆パンの向こうを張る、ほっこりパン界に投じられた一石。

食事パン、菓子パン、本格的なお菓子とともに、惣菜パンのラインナップが充実していることも目を引く。
ブーランジェ、パティシエに加えて、料理人も経験していることが、オールラウンドな品揃えを可能にしている。

グラーノ(180円)
豆の青々しさ、チーズのカリカリとコク、ベーコンの塩と肉汁を、薄くて引きの強い生地ががっしり受け止める。
小麦と塩だけのリーンな生地だけに、素材の力強い味わいを活かす舞台になる。
生地の薄い部分はぱりぱりぎみ、厚い部分はしっかりと具材の味を吸い込んで、噛むとぱふっとそれらを吐き出す。
いくらでも噛みしめられるようなこの食感が、塩味とあいまって、ビールやワインを召還する。

「素材、食材の知識を得たというのは、よかったですね。
意外と野菜たっぷりのパン屋さんってない。
たくさん入っていたり、食べごたえだったりをよしとしています。
スタッフがたくさん入れるので、大丈夫かなって、自分で心配になる(笑)。
いろんなパンがあるというのは、見た目のよさにもつながるし、表現の魅力のひとつ。
少ないアイテムなら、6個や8個という単位でも作ります。
売り切れたらこまめに追加して。
手間はかかりますが、それが結局はおいしいんですよね」

昼過ぎにはすべての商品を作りきってしまう店が多い中、トラスパレンテでは夕刻を過ぎても途切れることなく、焼きたてのパンが出てくる。

「企業努力だと思います。
1000個売れる店があるのに、30個が売れないというのは、それは努力が足りないということ。
小麦が値上がりしたからって20円ずつ上げたりとか、僕はまったくやる気がしない。
Zopfさんのような店が、僕は理想だと思います」

狭い空間に目も眩むばかりに多種多様なパンがあふれるほど並ぶ、Zopfの名を森シェフは自分の目指すところとして挙げた。


オープンキッチンであるトラスパレンテには、イタリアンレストランの雰囲気がある。
入口から入ってレジの向こう側、正面にオーブン。
いま作り出されたパンが、熱を放つオーブンから産み落とされる場面、森シェフはじめスタッフの機敏で情熱的な動きこそ、この店の最大の見物だ。
まるでなにかの競技者のように、あり得ない速さで両手を動かして分割と成形を行う。
その一方で、3段あるオーブンを、踏み台を使って上り下りしながら巧みに焼き加減を調節して、たくさんのパンを焼きだすのだった。

「こういう雰囲気を出したかった。
作ってる側がお店の様子を見れる。
お客さんも、僕の作ってるところをちゃんと見れる。
学芸大学の店は、ここで2番手、3番手だった子がやってくれています。
支店を出されているシェフの方は、商品チェックだけになることも多いと思いますが、僕がここでちゃんと自分で作っていることが大事だと思う」

トラスパレンテは自分ひとりの店ではなく、チームだということを、森シェフは強調する。

「最初の1年間、寝る時間もなくなって、寝ないことがなんともなくなった。
商品も安定しないし、何をどう作っていいか、方向も定まってない。
試しつつ、葛藤を繰り返しながら。
2番手、3番手、販売のスタッフとはオープン当初からいっしょにやっています。
こういうの作りたいからこうしてくれ、というのはあんまりない。
みんながよしとするものを作りたい。
お店って働いてる人のもの。
商品とか細部に至るまで。
お客さまにとっていいと思うことしていきたいだけだから、これいいなと思ったら、自分の考えたのじゃなくてもします。
混ぜ方ひとつまで自分のやり方を教え込む方もいるかもしれませんが、僕はそうじゃなく、チームで勝てればいい」

ひとりよがりのパンより、誰もが欲するパン。
ひとりの観点ではなく、複数の観点からブラッシュアップされたパン。
そして、パンとは、たった1個であっても、各ポジションをまかされたスタッフの手から手へと渡って完成するものでもある。

「ぜんぶの商品を自信もった状態で出す。
これいまいち、というものは出したくない。
でもそれが、けっこう大変なこと。
自分で最初から最後まで作るのではなく、ポジションに分かれて大勢で作るものなので、中には精神的に調子が悪いスタッフもいる。
スタッフのケアも必要です。
自分は、人によろこばれるものを作っているという気持ちが大事。
これは絶対いい、と。
それがぜんぶになるように作るようにしています」

ただのルーティンではなく、単なるお金をもらうための商品でもない。
これは人によろこばれるものだ、という意識をもって作られたパンは、きっと別の輝きを放つはずだ。



トラスパレンテ (TRASPARENTE)
東急東横線 中目黒駅
03-3719-1040
9:00〜20:00
火曜休み

#138


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#138
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かしわで


ムッシュ(主宰)は志のあるパン屋を探すのが上手いと思うけど、
きっと日本には志の高いパン屋が多いんだろうなぁ〜とも感じる。


昨日が3.11だったからか、ちょっとセンチメンタルなボキがいますよ。
from. かしわで | 2012/03/12 15:10 |
かしわで様
パン屋というのは志がなければできない職業なのです!
という答えはどうでしょうか?
from. 池田浩明 | 2012/03/13 03:22 |
こんばんは。はじめまして。某美大の三年のもきゅと申します。
毎日ブログを拝見させていただいております 単行本も購入し、楽しませてもらっています。
就職活動で先日私も中目黒におり、パン屋巡りをしておりました。
夕方ごろ、ここトラスパレンテにも伺い、その次に伺ったパン屋で池田さんらしき男性が取材をしているのを目撃してしまいました。
本人かどうか確信がもてず声はかけられませんでしたが、今回の記事で「ああ池田さんだったのだなあ」と確信がもてました。
この感動を友人に伝えたのですが、共感してもらえなかったのでコメントいたしました。
これからも毎日読むのでよろしくおねがいします。
from. もきゅ | 2012/03/14 02:31 |
かしわで

取材中のムッシュに出会えるなんて、超プレミアムでしょう。
自分も会ったことないし。


友人からシンパシーを得られなかったとのこと。


そういうときは
「今にわかる」、
です。

今にわかるから…

from. かしわで | 2012/03/14 10:51 |
>もきゅさん
某美大に通う若い方にまで浸透しつつあるのか…と
嬉しくなりました。
本まで買っていただいて、ありがとうございます。

池田さんを目撃すると「はわわわあああっ!!」てなりますよね。
かしわでさん同様取材に出くわしたことは無いですが、
「今にわかる…」とご学友の方々に触れ回っていいと思います。
合言葉は「今にわかる…」です。

ひきつづき覗きにきてくださいネ(゜∀゜)
from. 研究員D | 2012/03/14 18:02 |
もきゅ様
就職活動たいへんですね。
お互いにがんばりましょう。
あと、私を見かけたら、お気軽に声をかけていただいてOKです。
from. 池田浩明 | 2012/03/16 01:37 |
こんにちは‼本当に池田さんの記事を読んでると普段聞けないシェフの想いを聞けて凄く嬉しいし、お店に足を運びたくなります。
学芸大学店は何度か行った事ありますが、やっぱり中目黒の本店も行って、是非とも森シェフのパンが食べたくなりました。
私も是非とも取材中の池田さんにお会いしてみたいです。
from. いせもえ | 2014/07/29 16:45 |
管理者の承認待ちコメントです。
from. - | 2016/08/10 17:53 |
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