パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
チクテベーカリー(南大沢)
198軒目(東京の200軒を巡る冒険)

パンを一口食べて、目頭が熱くなることがある。
チクテベーカリーのパンがそうだった。
なぜなのだろう。
あの店を見たからだろうか。
多摩ニュータウンにある団地の1階部分。
塩ビの波板が大胆に使用された半透明のファサードが、そば屋や煙草屋と並んでいた。
古めかしい商店街の中におしゃれな店。
それは一見、ハレーションを起こしそうなのに、見事に周囲と溶け込み、愛されている。
おじいちゃん、おばあちゃん、子供連れ……地元の人たちがチクテベーカリーのパンを楽しみにしてお昼を待っていることを、その顔ぶれは語っていた。
たっぷり並んだパンの表情、それを入れる籠、木製ばんじゅう、ガラス瓶のかわいさはときめかずにいられない。
販売スタッフは笑みを絶やさず楽しげに動く。
パンを置く棚の向こうに厨房があり、忙しくパンを丸める手だけが見えていた。
覗き込むと、店主である北村千里さんの手だった。
一心不乱に、懸命に。
期待して待っていてくれる団地の人たちにおいしいパンを食べさせたい。
その使命感が痛切に伝わってきて、声をかけることはできなかった。

パンの味は作り手の気持ちまで伝える。
発酵種を自家培養し、市販のパン酵母は使用しないというある種の限界の中で、リュスティックも、食パンも、麦の味わいを最大限に引き出しながら、どれだけ食べやすくできるかを精一杯考えて作られていることがひしひしと感じられるのだ。

旧店舗は京王線の終点からさらにかなり歩いたところにあって、なかなか行けないことが、余計にあこがれの気持ちを掻き立てていた。
それほどの名店を南大沢に移転することはかなりの決断だったにちがいない。
北村さんはパンの力で、高齢化が進む団地に再び活力を吹き込もうとしている。

「近くにあったスーパーが撤退しちゃって、みなさん買物に困られていた。
団地は築30年になるので、最初に入居された方はもうご年配になっています。
ここ(チクテベーカリーのある場所)はメロンパンやサンドイッチ出してたパン屋さんだったみたいで、食べ物を買うのも大変になっていた。
にぎわいを取り戻すお手伝いになったら」

半透明のファサード、みんなとおしゃべりできる大テーブル。
新店舗が新しく備えたものは、パン屋を町に溶け込ませるための工夫である。

「商店街だから、お店はできるだけ開かれた感じにしたくって。
イートインスペースも、飲み物を買わないと座れないとかじゃなくて、空いてたら誰でも座っていい。
店の中が外から見えるけど、ガラス張りで丸見えは嫌だから、ビニールハウスみたいな素材にしたんです。
工場みたいって言われたんですけど、あったかくなると、開けっ放しでいい感じです。
あまり閉ざす感じにしたくなかった。
誰でも入れる普通のパン屋にあこがれていたので。
最初にここにきたとき、店の中に日の入ってくる感じがすごくよかったんですよね」

(秋山花さん[ホームページやリーフレットのイラストで、チクテファンにはおなじみの絵]とフィンランド人のハンナさんによる絵)

丘陵地帯を切り開いて作ったニュータウン。
木々が豊富で、アップダウンした地形に歩道橋がかけられ、広々とした広場を通り抜けて、車を心配せずのんびりと歩いてこれる。

「最初にきたとき、駅からくる道もいいなと思いました。
駅まで歩く道でパンを齧ったりできるかなって。
途中にあるベンチでサンドイッチも食べれますし。
席がないと困っちゃうとか心配しなくてもいい空間にしたかったので、それはよかったですね。
お子さんときても、大勢できても、ひとりできても居心地がいい、ゆるい空間を目指してます。
味覚ってあいまいな部分もあるんで、感情も込みでおいしい記憶になる。
見た目でぐっときたり、接客であったり、ここまでくる行程なんかも込みで味になると思っています。
せめてここに入って出ていただくまでに、味に追加できる部分のお店づくりをしたい」

「味に追加できる部分」=内外装、接客、ショップカードやリーフレットのデザイン、包装…。
それらに決して手を抜くことはない。
店を飾るハイセンスな器も、パンの造形感覚も、乙女心をくすぐらずにいない。
それらがアートになっているのは、北村さんがかってアーティストを志していたことと関係があるだろう。

「大学では陶芸を専攻してたんですが、向いてなかった。
アルバイトして、映画を見に行ってという、やる気のない日々を過ごしてしまって。
舞台美術のアルバイトをしてたんですが、たまたまディスプレイに大きいパンが飾られていた。
それを見て、『お、パンいいね』。
そんな感じでパン屋になったんですよ。
パンだったら、家族がパン好きなんで、よろこんでくれるな。
はじめたらはまってしまって。
最初はチェーンのパン屋さんで働きました。
パンの焼ける匂いがいいと思ってたんですけど、ある日くさいなと思った。
そこの作り方がよくなかったと思うんですけど、違和感を覚えて。
それから自家製酵母(自家培養発酵種)に出会って、私もこのパンをやろうと。
原宿のパン屋で1年、鎌倉のパン屋で3年、カフェのバイトと掛け持ちで、なんとか生活してました」

当時の北村さんには目標があった。
かってカフェブームの中心となっていたほどの人気だった、いまはなき下北沢のチクテカフェ。
それは友人と2人で立ち上げようとしていたものだった。

「下北沢のチクテカフェを経営してたのが高校時代の友人の牧内さん。
28になったら2人でなにかをやろうって決めてたんですよね。
お互いにそれぞれなにか修行しようと。
なにをやるのか決まってなくて、最初はアトリエで絵を描くとか、わけのわからないことを言ってました。
同じ場所でやりたかったんですが、パン屋はお金がかかる。
それで、経営も別にしました。
カフェについてるパン屋だったら量も焼かなくていいし、そこそこでいいだろうなんて、めちゃくちゃ甘く考えてました。
牧内さんに、バビントンティールーム(新宿伊勢丹に進出していたローマの名店)で食べたイングリッシュマフィンを焼いてほしいと言われて。
レシピを探して作ったんですが、それが『クウネル』の創刊号で取り上げられてお客さんがすごく増えました」

チクテカフェで食べたイングリッシュマフィンに私はひどく感激し、いっぺんにファンになってしまった。
見た目の分厚さ、威風堂々としたたたずまい。
表面はかりかりとして、中身はふにゃっとしている。
そしてイングリッシュマフィンらしからぬ味わいの充実ぶり。
これを買って帰ることは一種のお祭りだった。
バターをたっぷり塗って、メープルシロップをかけて。
かりかりに焼こうとか、いや今回はあっさり焼いてやわらかさを楽しもうとか、想像を巡らせる時間も楽しい。
しかし、私は知らなかった。
北村さんは、イングリッシュマフィンを作りつづけながら、葛藤を抱いていたことを。

「雑誌が出て最初の1年はすごいことになりました。
作っても作っても足りない。
マフィン、マフィンで他のパンは食べてもらえなくて。
パン屋なんだから、私はもっとパンをがんばらないと。
自分の食べてもらいたい自家製酵母のパンで勝負しないと。
カフェに頼らないで自立できるパン屋さんになろうとそのとき思いました。
イングリッシュマフィンは作れる量が限られています。
1回に15個しか鋼板の上にのらないんです。
それをひっくり返しながら1時間弱焼く。
オーブンで焼くのとちがうので、中が半生になる。
桜餅を焼くときのような、ガスコンロに鋼板がのっかった簡易なもので、ガスの火を調節しながら。
一次発酵とらずにいきなり分割成形して、1時間半発酵、そのあとも発酵させながら長い時間かけて焼いていく。
結果的に3時間ぐらい発酵をとったことになります。
作るのはたいへんです。
冬だと火を強くしないと持ち上がらない。
レバーでガスの出方を微調整して、火加減を調節する。
換気扇の風で火が流れちゃうんで、場所を入れ変える必要もありますし。
生焼けが怖いです。
でも、焼きすぎるとかさかさになる。
持った感じの重さで確かめます。
水分が飛んでれば軽くなるんで。
最初の頃は焼けたのをぜんぶ量ってグラムで確認してました。
3時間で15個。
それを1日5、6回」

3時間かかってわずか15個とは(付きっきりでないとはいえ)。
いまは休止しているネット販売でいつも売り切れていたことに納得するとともに、お客さんの期待に応えたいと、非効率でも作りつづける北村さんに頭も下がった。
それにしてもおもしろいのは、発酵という概念の希薄なアングロサクソンらしいパンだということ。
日本人の感覚を交えてアレンジせず、手間のかかる製法をひたすら守り抜いたからこそ、あのおいしさがあったのだ。
誰かのレシピを忠実に作りつづけて、北村さん自身のものになった。
パンとはそういうものだと思う。

とはいえ、チクテベーカリーの持ち味はカンパーニュなど、発酵種を使ったハード系にある。
北村さんが、作るのも、食べるのも大好きなパンだ。

「あんまり甘いパンは食べないんですよね。
カンパーニュに無塩バターをつけて食べます。
カルピスの発酵バターとかお店で使ってるものを。
あとはチーズ切ったのをのせたり」

チクテベーカリーのカンパーニュを覆う最強の皮。
焦げと香ばしさのオンザエッヂを攻める。
そこには独自の地平が広がっている。
ざくざくと割れる快感。
渋みの中から甘さがわきだしてくる。
そんなはずはないと思っても、それはやはり不思議な酸味のある蜂蜜といった体なのだ。
いやらしさのないもちもち感。
この口溶けよさも、しっかりと焼き込むことから生まれてくるにちがいない。

「当日の朝に仕込んでるカンパーニュは全粒粉が多いタイプです。
全粒粉に国産小麦、塩、水。
元はレーズン種から起こしたものを18年継いでます。
これは焦げなのか、いい焼き色なのか。
悩みどころ、日々試行錯誤ですね。
焦げに近い苦みと甘みがパンの味をよくしますから」

毎日、状態が変化する発酵種を、北村さんは1個の人格のように考え、「佐藤さん」と呼んでいる。

「鎌倉にいた頃に名前がつきました。
一人暮らしだったんでいっしょにがんばっていこうかなと。
恥ずかしくて、みんなのいる前では佐藤さんとか言わないです。
心で呼びかけてますけど。
子供の頃、金魚に名前をつけてたようなノリで。
母性みたいなのとちがうんです。
共同体というか、『いっしょにやるぜ』という感じ。
いっしょに歩んで、いっしょに成長していく、人生のパートナー。
性格はしっかりものだと思いますよ。
人間よりよっぽどいいと思います。
屈折してなくて、わかりやすい。
はじめた当初よりは、病にかかる前の危険信号が多少はわかるようになってきた。
前よりも、一気に崩れることもなくなりました。
調子が悪くなっても復活する。
よそのお店から久しぶりに戻ってきたスタッフは、種がしっかりした印象を受けるみたいです。
ずっと継いでると、味は安定してきたと思います」

種はもっとも大事であり、根幹をなし、すべての鍵を握る。
18年継いだというその年数は、人生を懸けてパンを作る証。
「母性みたいなのとちがう、人生のパートナー」と表現するのは、この発酵種でパンを作ることから一歩も退かないと、若き日に決意したからではないだろうか。

その北村さんが、新店舗になって、いままで作っていなかったパンを作りはじめた。
「副材料を使いはじめました。
牛乳、バター、食パンを作るためのきび砂糖。
できるだけ開かれたお店にするために、こちら側からお客さんを限らないで、できるだけウェルカムにしたい。
食パンにはあまり興味がなかったんですけど、お客さんがパン1個を買いにいくのもたいへんという話を聞いてはじめました。
食パンも発酵種で作っています。
軽いのが好きじゃないので、重めに作っている」

油分や糖分など副材料を入れれば、やわらかい、食べやすいパンになる。
あらゆる人に開かれた店。
北村さんは、新たなミッションを受け入れたのだ。
人は成長する。
かってアーティストを志していた北村さんにとって、パンは自分を表現するものだったのかもしれない。
懸命に作ることは変わらないけれど、時が経つにつれ、その意味あいは変化する。
生きるために、パンはなくてはならないものだ。
誰かのことを真剣に思って作るならば、それは人を救うことさえある。

「もっと前はその辺考えてなかったです。
やってけばやってくうちにわかってきました。
自分が食べたいものであったほうがいいですけど、誰のために作ってるかというとお客様。
こんな方に食べてもらえるって想像するようにしています。
自己満足のパンは必要ない。
いろいろこだわってることもあるんですけど、最終的にはお客さんによろこんでもらえてるかでしかないので。
なに考えて生きてきたんだろう。
いま考えてみれば、呆れます」

じゃがいも、たまねぎ、ベーコンのPIZZA
オイル、とろんと溶けたたまねぎ、じゃがいもによるフィリング、そして味わい深い生地も、すべてが滲みわたるようだ。
しっかりと焼かれた端っこがかりかり音を立てる。
ナツメグのスパイス感。
飲み込むとき、喉がたまねぎでひどく甘い。
ベーコンのコク、チーズの香ばしさと相まって、食べ終わるまで止まらない。
冷めたピッツァも、仕事のしようでここまで秀逸になる。

はちみつパン
はちみつはごくほんのり。
甘さに加え、むしろ香りとして立ち現れる。
それが発酵種の香りとじんわり照応しあう。
ほのかな甘さとほのかな酸味が出会って、エロティックなマリアージュとなっているのだ。
ぼよよんとした生地を引きちぎりながら、香りの愉楽の中にどっぷりと浸り込む。

マロン
マロンペーストのなんとすばらしい香り。
洋酒の香りと相まりながら栗がすばらしい広がりを見せる。
時を止めてしまうほど。
黒糖の生地とのゴールデンコンビ。
マロンの味が終焉したあと、それと気づかぬほどの自然さで引き継いでいく。
反発抜群のみずみずしい生地にマロンがまとわりついて溶けていく感じは忘れられないものになった。

チクテベーカリーのパンは心を打つ。
硬いパンはなるべく食べやすく。
やわらかいパンも体にいい材料を使い、心の奥深くまで響くようにと。
パンに込めた思いはきっと届く。(池田浩明)

チクテベーカリー 南大沢店
京王相模原線 南大沢駅
042-675-3585
11:30-18:30
月曜火曜休み

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