パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
003. シニフィアン・シニフィエの志賀勝栄さん
志賀勝栄は、静けさと、物腰のやわらかさと、知性を漂わせた人物だった。
もしパン職人であると知らなかったら、哲学者か、悟りを得た高僧だと思ったかもしれない。
けれど、その印象はあながちまちがいでないともいえる。
シニフィアン・シニフィエのパンは、その独特の深さによって、ときとして哲学であり、あるいは禅であるように感じられるからだ。

「医食同源」
パンを作るにおいてもっとも大事なことは? という質問に、志賀はこう答えた。

「年齢が50を過ぎた頃から、命をつなぐための健康、というテーマを意識するようになりました。
パンを通じて私に何ができるのか、と」

人間もまた1個の生命体であるならば、舌はサバイバルのためのセンサーでなければならない。
ところが、舌は簡単に騙される。
生き残るのに必要なものだけを感じ分けねばならないのに、舌の欲するままに食べたいものを食べると、成人病を招きよせる。
健康であるためには、まずいものを食べなくてはならないというのが、私たちの常識である。
舌がおいしいと思うものを食べては、健康になれないのか。
医と食は本当に同源なのか。

「おいしいと健康をできるだけイコールにしていきたいと思います。
その2つがちがうことはないにしても、そういうものは安くは作れない、ということはあるかもしれません。
しかし、おいしさを追求することと、医食同源は離れてはいないと思います」

医と食が同じものとしてクロスする地点がいったいどこにあるのか、その信頼すべき答えをこの人なら持っているはずだ、と志賀勝栄に相対した私は感じていた。

「12、3年前ですが、いっしょに働いている30代の方がガンになりました。
入退院を繰り返したのち、5年後に亡くなりました。
その人の食事の摂り方が悪かったわけではありませんが、そういう不幸なことを目の当たりにすると、普段の仕事で私ができることを考えざるをえません」

志賀がパンと健康について考えていたとき、大地修造という乳酸菌の研究者に出会った。
「パンは果たして発酵食品か?」
大地から発せられた一言に志賀は激しく揺さぶられたという。

「日本の発酵食品といえば、みそ、しょうゆ、つけもの、納豆などが当たりますが、パンはそれらと同じなのでしょうか。
パンはたしかに酵母菌を発酵させて作りますが、発酵ということの意味が、それらと同じなのでしょうか」

発酵食品は、おいしく、また健康のためにもなる。
それは医食同源というにふさわしい食べ物だ。
パンもまた発酵させて作る食べ物なのに、必ずしも健康に役立っているといえないのはなぜなのか。
「発酵」の意味を、パン作りにおいてその言葉がなにげなく使われるときの文脈からもう一歩掘り下げてみれば、パンを医食同源の食べ物として人びとに提供するための方法が見えてくる。

「医食同源と深く関係しているのが、乳酸菌です。
本当の『発酵』の意味とは、そのプロセスに乳酸菌が介在しているということです。
乳酸菌の働きによって、アミノ酸や酵素などの栄養素が豊富になる。
人間の体は、それを作る材料であるタンパク質がないとい支えられない。
発酵食品には、みそ、しょうゆ、納豆、干物、漬け物…といったものがあります。
日本人は伝統的に、これらの発酵食品を食べてきました。
江戸の町には百万人の人びとが暮らしていましたが、みんなが健康に暮らせるだけの食物があったということです」

江戸の町人の標準的な食事は、ごはんとみそ汁に、納豆だけという質素なものであった。
にもかかわらず、平均寿命こそ医学が未発達だったせいで今よりはずっと短かったろうが、成人病で多くの人が苦しむという現代のような事態は起こっていなかった。

「食べ物として摂り入れられたタンパク質は、消化の働きによってアミノ酸に分解され、それが体内で再構築され、細胞ができる。
乳酸菌を十分に摂らないと、必須アミノ酸や酵素などが不足し、人体のシステムが崩れる。
それがガンなどの成人病に影響しているのです」

乳酸菌は糖類を分解して、自ら生き残っていくためのエネルギーを作り、その過程で、ヨーグルトや天然酵母パンのすっぱさの元である乳酸を作り出す。
乳酸菌が作り出すエネルギーとは、人間の細胞を作る材料でもある、たくさんの種類のアミノ酸や、核酸(細胞の中のDNA・RNAの材料)などである。
乳酸菌を食べることはこれらの栄養素を体内に摂り入れることだ。
生きるために必要なアミノ酸は20種類あり、このうち8種類の必須アミノ酸の、ひとつでも不足すれば、残りの7つをいくらたくさん摂っていても、細胞が生成されることはない。
乳酸菌はこの8種類をバランスよく摂るのに役立つ。
ガンとは、つまるところ細胞のミスコピーなのだから、アミノ酸や核酸の不足が関係していることは多いに考えられる。
また、乳酸菌が免疫力を強化することも、実験により報告されている。

「例えば、スーパーで売られているパンの発酵には乳酸菌は介在していません。
ふくらんでいるけど、発酵食品ではないのです」

工業的に生産される酵母(イースト)は、酵母の増殖にもっとも適した温度やpHの培地で培養されたものである。
そのようにして純粋な形で大量に取り出された酵母菌を小麦粉と混ぜることでパンが膨らむ。
酸味のある乳酸菌は邪魔者として排除されている。

つまり、酵母によってパンが膨らむという「原因と結果」のみに着目して、自然界の中から酵母だけを取り出し、パンを作ることに役立てているのだ。
けれども、私たちの生きるこの自然とは、そのような目に見えるものだけからできているのだろうか。
実は、発酵という現象の中に、私たちの目には見えていないけれど大事な要素があって、目に見えるものだけが科学の力で取り出される一方、見えないものが捨て去られてはいないだろうか。
その捨て去ったものに、現代人が手痛いしっぺ返しを食っているとしたら。

「発酵食品としてのパンはいかにして作ればいいのでしょうか?
ひとつは、自家製酵母でパンを作る方法。
もうひとつは、イーストを少量にして、長い時間をかけて酵母をしっかり作るやり方があります。
自家製酵母のパンも、少量のイーストによる長時間発酵も同じことです。
発酵は、酵母菌だけではなく、乳酸菌の働きがあって起こるからです。
乳酸菌の働きによってパン生地のpHが下がり、酵母菌が育つ環境が整う。
スーパーで売られているパンとはちがって、パンそのものの中で菌が分裂し、発酵が起きる。
酵母菌と乳酸菌が協力して、自分たちの住みやすいコロニーを作っているのです」

志賀勝栄といえば、低温長時間発酵のパイオニアである。
(感動的な発見の経緯は、シニフィアン・シニフィエのHP(バゲット・プラタヌの項)に志賀自身の言葉によって記されている。)
その画期的な方法は、おいしさと合理性ゆえに、多くのパン職人に追随され、いまでは当たり前のこととなった。
いま発見者の志賀は、12時間以上にもわたる長い発酵の時間とは、酵母菌と乳酸菌が最大限に増殖した「コロニー」を作るための時間だと考えている。
低温長時間発酵のパンは、乳酸菌をも多く含んだ、「医食同源」のパンだったのである。
けれど、それは健康に役立つからポピュラーになったわけではない。
それまでのパンにない、目覚ましいおいしさによって、多くの消費者に支持された。
つまり、私たちの舌は健康な食べ物を知っていたのだ。
誰に教えられることもなく、頭で考えるよりも先に。

自家製酵母のパンも、低温長時間発酵のパンも、志賀だけが作るわけではない。
にもかかわらず、シニフィアン・シニフィエのパンが唯一無二の輝きを放っているのはなぜなのか。
「酵母菌と乳酸菌のコロニー」と捉えるような、孤高ともいえる認識とイメージをもちながら、パンが作られるからではないか。
例えば、志賀の素材へのこだわりは微生物レベルに及んでいる。

「乳酸菌は6000種類あるといわれています。
ヨーグルトの乳酸菌としてLG21が知られていますが、胃の酸度によってほとんどの乳酸菌は死滅してしまうのに、LG21は生き残って腸まで届く。
そのように、6000種類の乳酸菌はそれぞれ特徴を持っていて、パンのおいしさともそれはつながっています。
この店では、ボッカー社の乳酸菌を使用しています。
あるいは、ドイツパン(ライ麦のパン)を作るときのサワー種が乳酸菌であるように、自分で育ててもいいでしょう」

もちろん、自家製酵母を使用するパン屋はみんな「酸味の少ないパンを」とか「もっと複雑な味わいを」と考えながら、酵母を育てている。
しかし、理想のパンを模索するときの手がかりとして、「酵母菌と乳酸菌のコロニー」というイメージを思い浮かべるならば、素材選びから異なる、独特のパンができあがるのではないか。

志賀の姿勢は、冒頭に記した「パンを通じて私に何ができるのか」という言葉に端的に表れている。
志賀は、今日顧客に手渡すためのパンを焼きながら、「明日のパン」までをも視野に入れているのではないか。
それは、ひょっとしたら志賀自身がオーブンから取り出すのではないかもしれないが、人類が生き延びていくためにぜひ必要なパンなのである。

志賀は「医食同源」について語り終えたあと、こういって立ち去っていった。

「私はもう年なので、疲れたので帰ります。
夜からずっと仕事をしていました」

この高名なパン職人が、いまだに夜を徹して厨房に立ちつづけていることに、大きな感銘を覚えた。


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