パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
ラ・バゲット(東新宿)
52軒目

ラ・バゲットのパンを食べて私はフランスを知った。
異質な文化の感触を。
もう十数年前になるだろうか。
新宿・花園神社近くのフランス料理店で、料理の傍らのカゴに盛られたバゲットの香ばしさは、それまで私が食べたことのあるバゲットとはなにかがちがっていた。
こんなにおいしいパンを日常的に食べている国がある。
当時、ラ・バゲットのパンを口にすることは、実際に行ってみることなど思いもよらなかったその国への、飢餓にも似たあこがれを満たす、数少ない方法だった。

日本人の異文化の吸収力はものすごい。
それは文明開化や高度経済成長といった歴史が証明するが、フランスパンについても同様である。
いまや、日本のフランスパンは、フランスのフランスパンよりもおいしくなった。
それゆえに、逆説的ではあるが、ラ・バゲットはいまなお、もっともフランスに近接したパンを焼く一軒だといえる。
にもかかわらず、この店はパン好きにさえ、あまり知られることがない。
なぜか。
ラ・バゲットのパンを採用するフレンチなどのレストランは数百軒に及び、その中には名店とメディアで賞されるレストランも、少なからず含まれている。
プロユースの卸し専門店。
それがこの店の行き方だからだ。

シャッターはいつでも半分閉まっている。
もちろん誰でもパンを買うことができるが、建物内部はすべて工場になっていて中には入れない。
入口で窓越しにパンを指差し、お金を払い、パンを受け取る。
いかにも不親切に思える、事務的なこのシステムが、逆に、パンへの期待感を嫌が応にも高めてくれる。

「渉外担当 鈴野恭司」
シェフであり、オーナーである人物が、名刺に刷り込んだ肩書きである。
なぜ、ラ・バゲットは卸の専門店として成功を収めるに至ったのか。
彼の考えは、およそどのパン屋とも似つかない、営業的な視点に立ったものだった。

「一言でいうと、便利だった。
それまでの納め業者さんになかったぐらいに。
当日注文、当日配送。
レストランさんにとってとても都合のいいシステム。
価格も、味も、扱いやすいパン。
この便利な注文システムにあって、使えるパン。
都合のいいように努力しているだけ。
ばたばたですよ。
でも、どんな案件にもうまく対応しています。
そのあとじゃないかな、パンの味というのは」

味よりももっと大事なものがある。
パン職人がなぜこのような営業的な考えを持つに至ったのか。
いわゆる「パン屋」を断念することから、ラ・バゲットの歴史がはじまっているからではないか、と鈴野さんの話を聞いて思った。

「パンって設備にすごくコストがかかる。
ル・ノートルなどで12、3年修行しましたが、自分のパン屋を開けるかどうかわからなかった。
それで、フランスに旅に出たんですよ。
パン職人はもうやめるつもりで。
1年近く旅に出てた。
帰ってきて、なにしようかなと考えたとき、どうしても粉ものを考えてしまうんですよ。
そば屋とか。
でも、やっぱりパンしかないのかな、と。
29か30の頃です。
先輩から、閉店した店を二束三文で譲り受けた。
13坪。
まるで駐車場みたいな殺風景なところで。
以前、店があった場所は、飲食店に勤めにいく人が多く住んでいて、店で使うためにうちのパンを買ってから出勤する流れがあった。
飲食店というのは、横のつながりがあるから、それが口コミで広がっていった」

「ご存知だと思うんですが、町場のパン屋で、フランスパンは売れない。
うちも、10本、20本しか作っていなかった。
だから、飲食店でほしいといわれても、できるまで待ってもらうことになり、「じゃ、配達しますよ」と」
窯でパンを焼いているあいだに自分で店まで配達した。
当時、1995年頃はビストロブームで、1200円ぐらいで、前菜・デザートもついたプレフィックススタイルが人気になった。
1年目は2、3軒で使ってもらっていたのが、2年目には30軒、3年目には100軒にもなった」

「それまで、フランスパンの配達というのは、だいたいワゴン車とか四輪で行っていたんですが、うちはその横を三輪バイクで走っていった。
ピザ屋の配達のバイクありますよね。
あの箱に合計130本入る。
130本ということは、1軒10本として、13軒に配達できる。
早く配達できるから、当日注文で、その日のディナーにあたたかいパンを提供できる。
その日の天候や客足を見てから注文できるから、ロスがなくなる。
レストランさんにとって都合がよくなるんですよね。
都合がよくなれば、いやでも広まっていきますよ」

パンを売るのに大事なのは、味ではなく、顧客にとっての都合のよさ。
パン自体のことがまるででてこないビジネスの話を聞きながら、私はいぶかしくなった。
自分の舌が、である。
ラ・バゲットのパンが本物のフランスパンだと感じたのは、単なる思いこみだったのか。
鈴野さんは「渉外担当」であり、シェフではないのか。
彼は1年間の旅にでるとき、本当にパン職人であることをやめてしまったのか。
そうではない。
彼はやっぱりフランスへ旅にでた人だった。

「バゲットはおもしろいから作った。
作っていると楽しい。
あんぱん、メロンパンはおもしろくなかった。
食事パンが作りたい。
副素材を使ってないパンは、みそやしょうゆと同じ発酵食品。
パンと対峙して、ゆっくりと作っていける。
買いやすい価格にするために、手に入るもので無理なく作る。
あまり高い素材は使わず。
とてもおいしくて、並ばないと買えない、というパンじゃない。
だけど、ものすごく味の努力はしていますよ。
なるべく小麦粉の風味をだすように。
ものすごく研究しています。
科学の範囲に入りこむぐらい」

「10年前はもっと軽かった。
味は3回変えてます。
だんだん重たくなってる。
時代の流れに合わせて。
ポールさんとか、メゾンカイザーさん、ヴィロンさん、ドミニク・サブロンさん…フランスのパン屋さんが入ってきて、重たい『噛み締めパン』が認知されてきた。
菓子パン、調理パン主流の時代は、軽くて風味がよくて、さくさくだったらよかった。
フランスは意識しています。
何回も行って、本場の味を踏まえながら」

「パンの好みはいろいろあります。
でも、フランスパンにいちばん求められるものって、いちばんは食感、次に味、風味。
味を強くだしちゃうと、食感が崩れる。
食感を強くすると、味が軽くなる。
食感をまず大事にしたい。
その中で風味もなるべくだしたい」
味をとるか、食感をとるか。
二律背反のバランスに苦心し、あわよくばそれを超えて、両者を並び立たせる方法はないかと模索する。

店名に「バゲット」と掲げたこの店が、理想とするバゲットとはなにか。
「十分に小麦の風味を出し切っていて、それで食感もいいものを作るのがいい。
肉も腐る寸前がうまいといいますけど、パンも同じ。
タンパク質を破壊寸前まで分解したパン。
小麦粉のタンパク質を分解して、味をどれだけ引き出すか。
ポテトチップを食べていくと、最後に袋の底に細かい破片が残りますよね。
あのしゃりしゃり加減。
タンパク質というパンの骨組みがどろどろに切れて、破壊されちゃってるんですけど、それを焼いてもう一度固まった状態。
だから、噛むと口の中でしゃりしゃりになる。
味わいも引き出されて、食感もしゃりしゃり。
冷蔵して長時間発酵したパンをいまは2回焼いてますが、電力などの関係ですべてはできない。
ぜんぶやりたいが、まだ早い」

バゲット(263円)。
香り立つ皮が勝手に崩落する。
その感覚をリピートするためだけにさえ、1本をまるごと食べきってしまいそうになる。
強く香るとか、ほのかに香るとか、量の問題以前に、質として目覚ましい。
甘く香るのではなく、高貴に香り、味わいは出てくるのではなく、食べ手が引きずり込まれる。
主張のある風味が皮に集中する一方で、中身の味わいは純白である。
自分の味を持つより、料理に場所を空けるかのようだ。

角食(263円)。
甘い香り、独特の発酵の香りが、一瞬漂ったかと思った。
しかし、食事パンに個性は必要ないとばかり、それは夢のように消え、リーンな口溶けの世界が現れる。
わずかにわずかに溶けていきながら、小麦味は変化を遂げる。
きちんと発酵したパンのもつ実にいい味わいが、溶けるとともに、より小麦の生(き)の味わいを露出させていく。

店で顧客ひとりひとりにバゲットを手渡すのではなく、レストランで供されるという形で、もっともっと多くの人に食べてもらうという戦略。
店名など誰一人知らなくていい。
自分の手がけたフランスパンをひとりでも多くの人に食べてもらえればそれでいい。
一度はパン職人であることを断念し、名刺に「渉外担当」としか書かない人物の、バゲットにかける、形を変えた情熱。


ラ・バゲット
東京メトロ副都心線 東新宿駅/東京メトロ副都心線・丸ノ内線・都営新宿線 新宿三丁目駅
10:00〜18:30
日曜休

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かしわで


レストランの味がご家庭で気軽に


と言われても今はそんなにそそられないキャッチだけど、
このバゲットはご家庭に持ち帰りたいなぁ。

おそらく料理にあう味だろうから、ご家庭で食べても同じようにはいかないんだろうけど、
それでも持ち帰ってみたい。

自分のご家庭の料理にもしマッチしてしまったら、どうしよう!
どうしましょう。配達してもらう? もらっちゃう?
けしからんことを考えてみたりして。
from. かしわで | 2011/05/08 11:59 |
かしわで様

何本からかわかりませんが、まとまった数であればご家庭でも配達してもらえそうなぐらいのフットワークの軽さです。
配達してもらうのも夢のようですが、工場の横っちょみたいなところで買う玄人感に築地的どきどきがあります。
from. ぷ | 2011/05/10 04:21 |
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