パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
005. ルヴァンの甲田幹夫さん
こうだみきお
1949年、長野県生まれ。
フランス人よりヨーロッパの伝統的なパン作りを学び、
1984年に、国産小麦自然発酵種パン店「ルヴァン」を開業。


約束の時間を過ぎても、ルヴァンのオーナー甲田幹夫は現れなかった。
2011年3月11日午後5時、地震から2時間余りが過ぎた頃。
ルヴァンに併設されたカフェ、ル・シァレのテーブルからは井の頭通りが見えている。
電車は運行を止め、渋滞で車は動かなかった。
都心から自宅へ徒歩で帰る人たちの列。
夕闇が降りようとする時刻、幹線道路を、こんなにも多くの歩行者がやむことなくつづいているのは奇妙な光景だった。
沈黙と無表情。
疲労のせいなのか、いやそれ以上に、突然降りかかった、誰にも見通せない運命の行き先への不安が、人びとの足取りを重いものにしているように見えた。


甲田はちがっていた。
まだ10代に見える女の子といっしょに、笑いながら現れたのだった。
「さっきそこで友だちになってね」
通りすがりの人と瞬時に仲よくなれる人柄。
「地震たいへんだね」
ル・シァレのテーブルに座っている人たちに話かけては笑顔を誘う。
甲田のいくところ、人と人の垣根が取り払われ、会話がはじまり、共感が通いあう。

私が甲田にはじめて会ったのは、信州上田店を取材で訪れたときだ。
ちょうど従業員全員で食べる遅めの朝食の時間で、甲田は私を同じテーブルに招き入れ、パンをごちそうしてくれたのだった。
印象深い食事だった。
若いスタッフたちの作りだす楽しい空気にやがて巻き込まれていき、パン屋と客という立場を超え、仲間になれたような気がした。


まかないをみんなで食べるのが
お客さんとしてはいちばんうれしい


「まかないをみんなでいっしょに食べるというのが、お客さんとしてはいちばんうれしいんじゃないかと思う。
同じ釜の飯というかな、共同体験というか、みんなのよろこびも増すしね。
常日頃の顔ももちろんいいけど、よそから入ってきたちがう人と、共有できるっていうかな。
スタッフも含めて楽しいというか」

私たちは自分と他者を区別し、自分でないものに警戒心を抱く。
それは本当に必要で、合理的な行為なのか。
甲田に会うたびわからなくなってくる。
IeIe(イエイエ)を訪れたときもそうだった。
杉並区にある自宅を甲田はカフェとして開放している。
普通なら、セキュリティやプライバシーの不安から、思いとどまるだろう。
甲田にそうした考えはない。
自宅だから、部屋にはさまざまな日常のものが置かれ、甲田の気配が伝わってくる。
気詰まりなどではなく、むしろよろこび。
友人のように自分を迎え、心を開いてくれたことに、感動したのだと思う。


商売はしてるんだけど、家庭の延長。
自分たちが食べるために作っているものを、買ってもらう。


「商売はしてるんだけど、家庭の延長というかね。
自分たちが食べるために作っているものを、分けてるというか、買ってもらうというか。
このル・シァレのコンセプトは、カウンターがないということ。
普通はカウンターがあって、足下を見えなくするとか、ものを隠すとかするわけよ。
ここはまったく隠すものがなく、家に招く感覚で。
IeIeと似てるかな。
あわよくば、お客さんが向こうに入って、お皿洗ってもらってもいいかなとは思ってますけど(笑)」
__誰が店員で、誰がお客、じゃなくて。
「そうそう、そんな感覚。
もちろんお客さんとスタッフという立場はあるけど、そんな『感覚』というかね。
うれしいのは、お互いに知らない人同士が話をすること。
それをすごくしてほしいから、ひとつのテーブルにして、席をいっしょに座ってもらうというか」


自分と他者を分けないということ。
それが若い頃からポリシーとしてあり、そのために甲田はパン屋という仕事を選び取ったのではないか。
30を過ぎても定職に就かなかった甲田がルヴァンの事業に参画することになった、その経緯を聞きながら、私はそう思った。
甲田はこういう言い方をした。
パン屋とは、はじめて出会う「矛盾のない仕事」だったと。


パン屋は人によろこばれる。
多少お金も入るし、自分の体にもいいし、みんなが健康になる。
パンだったらやってけるかな、と思った。


「いろんな偶然の出会いが重なって、パン作りを手伝うようになったとき、ブッシュさんていうフランス人が、一生懸命やってたのね。
外国からわざわざ日本にきて、パンを一生懸命作ってるから、なにかがあるかなという感じでね。
直感というか。
自分も30すぎて、なんか将来やらなきゃいけないなというのがあって、そろそろ決まった仕事、決まったことをやっていきたいかなって思ったときに、このパンだったらやってけるかなと思ったのね。
それまでは清涼飲料水とか売ってたんだけど、お金にはなるんだけど、あんまり体によくなさそうだなって自分が思ってたりね。
学校の先生もやってたんだけど、『自分が先生に向いてるのか』とか、『俺みたいのが生徒に教えてもいいのか』とか、なんか考えちゃうわけよ。
『これを自分が一生やってけるんだろうか』とか、そういう矛盾をね。
ところが、このパン屋をはじめると、人によろこばれると。
多少、自分にもお金が入ってくる。
自分の体にもいいし、これをみんなが食べてもらって、みんなが健康になっていけばいいな、というかね。
そんな意味の矛盾がないという感じだったのね。
だから、飛び抜けてわーっといいというんでもなかったけど、なんかつづけてけば自分はある意味楽しくやってけるかなと。
だいたい労働というのは、時間を割って、お金と替えて生きてけってことでしょ。
それが労働だっていうのが当たり前の考えなんだけど、そういうのは自分としては嫌だな。
やってることに楽しみっていうか、そういうのがないと、つづけていけないし。
単純に時間をお金に換えるだけというのは、なんかちがうかなとは思ってたね」

甲田のいう、仕事にまつわる「矛盾」とは、自分と他者が一致しない矛盾ということではないだろうか。
お金は自分と他者を分ける。
お金によって、他者を従わせることができる。
お金が人から人へ手渡された途端に、自分の心と他者の心を一致させる努力を払わなくてもよくなる。
矛盾は矛盾のまま放置され、ひとつの矛盾がさらに大きな矛盾となって、世界中へ広がっていき、自分のところにまた矛盾が巡ってくる。
資本主義社会の仕組みに取り込まれることを忌避していた甲田に、はじめて自分と他者のあいだに矛盾のない生き方を示したのが、パン屋の仕事であった。
甲田は天然酵母のパン屋をどういう仕事だととらえているのか。


パンは売ってんだけど、人を売ってんだよ、結局。


「パンは売ってんだけど、人を売ってんだよ、結局。
それがパン屋だと思う。
パン屋として、人が如実に出るっていうか。
そこがパン屋の魅力っていうのかな。
大変なとこでもあるし。
だから、極端にいうと、人格で商売してるというか、人格を売ってるというか。
もちろん味は大切だけど、もっと大切にしてるのは、精神とか、人とのつながりとかっていうこと。
最終的にはモノではなく人なんだよね。
人とのつながりが重要だし、楽しい。
ものをいくら極めても、限界がある。
でも、人とのつながりって、無限に広がっていくというかね。
たとえば、コーヒー一杯を飲みに、あるお店にいくとするね。
コーヒーもさることながら、働いている人がおもしろいとか、その人とのつながりがあるとか、そのほうがおいしさが倍増するわけね。
究極のコーヒーを飲みにいってうわーおいしいなと思うときもあるんだけど、そこにさらに人が介在すると、よりおいしいわけね。
最終的には、多少そのコーヒーがまずくても、人がよければいいわけよ。
だから、お店にしてもなんにしても、人が大事。
ものよりも人のほうが上。
お金のやりとりはあるけれど、そうじゃないやりとりっていうの?
そこが、お客も、スタッフも楽しい」

パンとお金の交換はきっかけにすぎない。
本当に大事なのは人と人との交換、つまりコミュニケーション。
人間性を売ってくれる店で、対価として客が与えるのは、きっと自分の人間性だろうから。


味よりももっと大切にしているものがあると甲田がいうとき、おいしさをないがしろにしているのではない。
舌で感じるだけの味より、もっとおいしいものがあるといっているのではないか。
自分と他者の垣根が壊れ、客と店員との区別さえわからなくなってくるような楽しい空間を五感で味わうこと。
甲田は、著書や雑誌の連載で、山の頂きで食べるパンほどおいしいものはないとしばしば書く。
そのときのおいしさとは、グルメ本が教えてくれるおいしさではない。
「究極の」美食を食べている人が、その瞬間、実は不幸だということはありうる。
舌の上だけでなく、全身で感じるおいしさ、つまり幸福感こそが本当のおいしさだと甲田はいいたいのではないか。

おいしさは、食べるときの環境とか、人とのかかわりで増幅する。
それをぜんぶ含めておいしさだと思う。


「その場所で、こういう空を見ながらとか、こういう人と食べながらとか、シチュエーションがおいしいというかね。
食べることのおいしさが、環境だとか、人とのかかわりによって増幅するというかな。
それがおいしさというか、よろこびというか。
ぜんぶ含めておいしさだと思う。
よく個展とか、パーティに、うちのパンをだすんだけど、本当にシンプルな食べ物があって、そこにみんなが集まって。
このパーティおめでたいね、おいしいな、そういうのがおいしさだと思うんですよ。
さっきもいった『共同体験』。
共感して、みんなといっしょに食べるということがおいしいというかな。
みんなは、パーティにいろんな食べ物があることが『おいしい』って解しちゃうんだけど、そうじゃないというかな」

立食パーティの冷めた料理を食べ、おいしくないと思うのはよく体験することだ。
考えてみれば、その料理に足りなかったのは、あたたかさでも、品数でも、豪華な食材でもなく、食べている私の「共感」だったのかもしれない。
なにしろ私はしばしば、義務としてパーティに顔を出し、誰と打ち解けるでもなく、疎外感を覚えて帰宅する。
私は甲田にこう尋ねずにいられなかった。
どうしたらあなたのように一瞬にして人と友達になれるのですか、と。


プラスのイマジネーション、ハッピーなイマジネーションを
使っていかないと、苦しくなる。


「イマジネーションというのか…ちょっとどういうふうに話していいかわかんないんだけれども…。
『共同意識』みたいなのは、プラスのほうに解釈することもできるけど、パーティにいったとき孤独になっちゃうというのは、それをマイナスのほうに考えちゃってるというのかな。
たとえば、展覧会のパーティなら、飾られてる作品なんかつなげて、知らない人と話せばいいんだけど、疎外感みたいな感じを受けちゃうというのは、なんだろうな…単純にいっちゃうと、プラス思考ではない、マイナス思考というかね。
人って、離れあってると、マイナスのことを話すんだよね。
『あいつは、どうもこうだ』とか、『あいつは俺のことを悪く思ってるだろう』とか。
そういうふうに考える必要は本当はないんだよね。
そういうふうに考えてはいけないというか。
どんどんマイナス思考っていうか、自分の内側に入っていっちゃうってことに、人間はなりがちなんだよね。
店だってそうだよ。
2つの店(富ヶ谷店と信州上田店)をやってて、お互いにいい方向に考えてればいいんだけど、なんか悪い方向、悪い方向へって想像しちゃうのね。
それはイマジネーションなんだよ、やっぱり。
現実には決してそんなふうに相手のことを思ってないのに、悪いほうへ考えちゃうというか、イマジネーションを変なほうに使っちゃってるというのかな。
さっき店にきてた友だちも、ひとりでマイナスのことをいろいろ考えて、地震をとても不安がっているわけ。
やっぱりプラスのイマジネーション、いいイマジネーション、ハッピーなほうのイマジネーションを使ってかないと、苦しくなるというのかな」


自分が人と打ち解けるのが上手だとしたら、人と打ち解けるイマジネーションを頭の中に持っているという、ただそれだけのことにすぎない、と甲田は伝えたかったのかもしれない。
私たちはマイナスのイマジネーションをまるで現実のように取り違え、ひとり苦しみ、そのために、よりコミュニケーションの場から自ら遠ざかってしまう。
逆にいえば、プラスのイマジネーションは、きっと表情や仕草や雰囲気といった、はっきりと意識でとらえられないレベルで無言のうちに他者に伝わっていくはずだ。

人はしばしば孤独感に苦しむが、まわりに人がいないためにそうなるのではなく、むしろまわりにたくさんの人がいて、なのに誰とも意志を通いあわせられないときにそうなる。
私たちはパン屋でパンを買って食べる。
家族といっしょに、気のおけない友人といっしょに、あるいはひとりで。
パンを食べることはよろこびや安心感を与えてくれる。
もし、ひとりでパンを食べることを、本当は気に病んでいるとしたら。
誰かとパンを食べるのは本当はむずかしいことではないのかもしれないし、パンをいっしょに食べることが自分と他者の垣根を溶かすはずだ。
イマジネーション次第で。
甲田は、ルヴァンやル・シァレによって、パンによって人と人がつながりあう可能性、イマジネーションを人びとに与えようとしている。


甲田にインタビューをつづけながらも、ときどき襲ってくる余震は私たちのテーブルを揺らしていた。
「けっこうくるねえ」
甲田が隣りあった人に話しかけると安堵の笑いが起きる。
藍色の闇が降りてきた井の頭通りを歩く人びとの列はやまない。
その列から、ひとり、またひとりと、ルヴァンに飛びこんできてパンを買い求め、あるいはル・シァレのテーブルであたたかい食事や会話を得て、ひとごこちつくのだった。
多くの店が予定を早めて店を閉じる中、ルヴァンはパンがなくなるまでシャッターを閉じることがなかった。
ある人は、会社と自宅の中間地点にルヴァンがあって、ここでパンを食べることを目標に、自分を励まして歩いてきた、といった。


山小屋ではどんなに人数があふれかえっても、
みんなで詰めて詰めて、食べ物を貸して、暖をとる。
拒否したら死ぬということだから。


「ル・シァレって『山小屋』という意味なんだけどね。
山小屋は、泊まりたいという人を決して拒否しちゃいけないんだよね。
拒否したら死ぬということだから。
だから、どんなに人数があふれかえっても、とにかくみんなで詰めて詰めて山小屋に泊まって。
食べ物がなかったり装備がなかったら、みんなで貸してさ、暖をとって、一夜を過ごす。
そこからここは名前をつけたんだよね。
俺も山いったときにそういう経験があって。
その日、山を下りたところまでいく予定を立ててたんだよね。
でも、出発しようとしたときに、止められて。
距離が長いし、時間も夕方になりつつあるから、危ないからやめろっていわれて。
そのとき、泊まるつもりがなかったから、食料もなかったし、準備も用意もなかったが、みんなで分けてくれて、山小屋へ泊まったのね。
次の日、下っていったんだけど、ものすごく厳しい行程だったわけ。
そのとき強引にいってたら、遭難してたかもしれない。
山小屋っていうのは生死に関わることだから、みんなで助け合う、それは当たり前っていうかね。
山へ行くと、みんな「こんにちわー」とか挨拶してね、すぐ仲良くなる。
すれ違う人と挨拶するわけだから、相手はこれからどんな道だとか、ここいくにはこんな道だとか、情報を教えてくれるんだよね。
山に行くと助け合って、仲良くなって、やっぱり共同体験ということだよね」

__山小屋で食べる食事はおいしい?
「そうだね。
ものは本当にないんだけど。
荷物になるから、なるべくかさばらないように持っていくから、シンプルだし、贅沢なことはなにひとつできないんだよね。
それはやっぱり、おいしく『感じる』んだろうね。
いろんなものがね。
体を動かしてお腹も空いてるし、水一杯もおいしく感じるというかね。
そういうことだと思う」


地震の日、ル・シァレは本当に山小屋=避難所となった。
長い距離を歩いてきた人にとっては、ひとかけらのパンさえおいしく「感じられ」ただろう。
私たちはおいしいものを求めすぎて、おいしく「感じる」ことそれ自体が幸福だということを忘れていないだろうか。
それは、人と打ち解けるイマジネーションではなく、内側に閉じるイマジネーションを持ちすぎるようになった、時代が抱える孤独と表裏の関係のように思える。

地震のあと、スーパーの店頭からパンが消えた。
流通の問題もさることながら、食べ物がなくなるのではないかという「イマジネーション」が、人びとに競ってパンを買い占めさせたのだ。
食べ物が余る時代から、食べ物が足りなくなる時代への転換点。
奪いあうイマジネーションではなく、与えあうイマジネーションを持ちたいと思う。
ひとりで満腹するのではなく、誰かといっしょにパンを分けあうイマジネーションを。
ル・シァレのテーブルで甲田と過ごした、3月11日のことを思い返しながら、そう考えた。
(池田浩明)




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かしわで


イマジネーション。


今の自分のテーマです。


ときどきイマジネーションが魔界に入ります。


最近は特に多いなぁ。


視界をプラスの方向に開いて行かないと

と改めて思いました。
from. かしわで | 2011/04/16 09:55 |
かしわで様
僕もイマジネーション豊かな瞬間がときどきありますが、
疑わなくて大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせる根拠を
甲田さんにもらったと思いました。
from. ぷ | 2011/04/17 07:22 |
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