パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
ヌエット アン アン(東向島)
78軒目(東京の200軒を巡る冒険)

本当にこんなところにパン屋があるのか。
不安になりそうなほど店もない住宅街の細い路地をたどっていくと、猫の看板に出会う。
雨に濡れた黄色いバラが咲き誇っていた。
なぜ下町では道と敷地とのあるかないかの小さなスペースに、ときには歩道にまではみだして植物を植えるのか。

武藤博俊店主にそれを尋ねると、
「下町では家の中に植える場所ないですから(笑)。
なにもしないのによく咲くバラでね。
その代わり、バラは1年に2回咲くところが、1回しか咲かないですけど(笑)。
家の中で育ててるより、道で育てたほうがよく咲くみたいで。
ここ通る人みんなに『きれいだ』っていわれるせいですかね。
花って声かけられたほうがよく咲くっていうじゃないですか」

下町のバラは声をかけられてよく咲く。
顔見知り程度の関係性であっても、挨拶を交わし、世間話をする。
食パンを買いにきたおばあさんに、
「あたし、いいましたっけ?
この前、自転車で転んで指けがしてひどいめに遭ったって(笑)」
自分のことを「あたし」といいながら、お客のひとりひとりと下町言葉で話をする様子は落語家のようだった。

「スーパーじゃなく個人店にいく人って、コミュニケーションを必要としているということじゃないですか。
下町のパン屋のよさって世間話ができるところだって、子供の頃から思ってました。
しゃべるのは、あたしも好きなほうだし。
機械的に買って帰るだけなら、かわいい女の子の店にいったほうがいい(笑)。
世間話して時間つぶしにくる人も多いですよ。
中には30分以上しゃべって帰ってく人もいる(笑)。
しゃべるのが嫌いな人はわかるので、あえてお話しはしません。
いろんな方がいらっしゃいます」

窓際に置かれたパンの向こう側に下町の景色が見えている。
木造モルタルの古い建物とパンは不思議なほどよく似合っていた。
鎧戸をがっちり閉めた仕舞た屋を指差して、武藤さんは
「みんな店、閉まっちゃってるけど、ここは商店街なんですよ。
なんていう名前の通りか、近所のおばあさんで教えてくれた人がいてね。
『モトスリ通り』っていうんだって。
ここに店をだした人はみんな元をすってでていくから(笑)」
誰もが店を潰してでていくなど景気のいい話ではないが、下町言葉で聞くとギャグになる。

ヌエット アン アンを開店するまでの10数年間、武藤さんの実家だというこの店舗も閉ざしたままになっていた。
元は、昔よく見かけたヤマザキなどのパンを委託販売するパン屋兼お菓子屋だったと。
だから、この一軒ただの住宅街に見えるこの場所にパン屋があることはむしろ自然なのだと、次々やってきては食パンや米粉のパンを「いつもの」という感じで買っていく、お年寄りを見ながら納得した。

武藤さんは紀伊国屋、モンタボーなど、ベーシックでクラシックなパンをきちんと提供している店で長く勤めた。
そこでつちかった技術は下町のニーズによく合っている。
どのパンもやわらかく、甘めのミルク味の滲みだしがあって、高齢の方や子供にも食べやすい。

食パン(240円)。
なめらかな舌触り、ぷるんぷるんのやわらかさ、歯切れるときのぷりっとする感じ、口溶けのとろとろ感。
人が食パンに望むものの多くをこれ1枚で満たしてくれる。
はじめはおとなしくすっきりした味わいが、溶けるとともに、意外な甘さを発揮してくる。
ミルクと小麦味が渾然一体となった、練乳にもやや近いような味わいは、甘めの食パンが好きな人におすすめ。

「おごった気持ちでやってたら、すべての工程がすこしずついい加減になり、最後につじつまがあわなくなってしまう。
計量でもすりきりできっちりやるのかそうでないのかで分量が合わなくなって、ふくらみ具合がちがくなってくる。
つじつまをあわせようとすると、分割するときにごまかしたり、他のことが犠牲になる。
おごった気持ちだったら、その結果を否定してしまうし、信用もなくなる。
胸を張ってだせる商品じゃなくなる。
レストランで、シェフがテーブルをまわって『いかがでしたか』って聞いてまわりますけど、それだけの仕事をしたという自信があるからできる。
店は小さくても、誇りがないといけないと思います」

奥さんとパートさんの3人だけ。
表通りで店を開き毎日たくさんのお客を相手にする方法を選ばず、身の丈にあった小さな店でマイペースにパンを焼く。
それはいい加減にパンを焼くことではなく、むしろパン1個1個、客1人1人に向き合う姿勢を意味している。
この界隈の人でなければ、大きな店、有名な店で事足りるかもしれないが、路地裏にまで秘境を訪ねることが、パン屋巡りの楽しさだと思う。

アーモンドチョコ(160円)。
「こってりしたものが食べたい気分のときに」とすすめてもらったパン。
カスタードとチョコレート、それからキャラメリゼしたアーモンドが、ひりひりとした甘さを奏でる。
すべて甘さは控えめであるべしという現代の風潮に真っ向から対峙。
その甘さはなつかしくもあり、あるいはヨーロッパの菓子を現地で食べているときのようでもある。
デニッシュ生地もまたクラシカルで、さくさくの部分は底面ぐらいで、むしろ全身が中身といったとろとろのやわらかさが、チョコとカスタードの食感とシンクロし、あるいはフィリングの過剰な甘さをやさしく包み込む。

レーザンクーヘン(140円)。
薄さもあって歯通りがとても快い。
目の詰まった生地は口に入れた途端にしゅっと溶ける
ふわふわさ、洋酒の香り、クルミのつぶつぶ感、甘さの軽やかさと、レーズンの酸味がそれを変化させていくさま。
おつかいものの箱詰めの焼き菓子(1切れごとにビニールに包まれているタイプ)のようなクラシックな味わい。
でも甘さにしつこさがなくナチュラルなのは、デパートに売っているそれらとは趣きを異にし、あっというまにぺろり食べられる。

焼きそばパンが雑誌にのるほどの名物とのことだったが、訪れたとき惣菜パンが売り切れていたのは残念。
楽しみをあとに残したと考えよう。(池田浩明)

#078
ヌエット アン アン
東武線 東向島駅
03-3612-1590
8:11〜18:30
日祝休み

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#078
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