パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
パンを届ける 第2回 陸前高田篇
(陸前高田市立第一中学校)

私たちの誤解。
避難所に食料は不足している。

私はこのように信じていた。
小中学校の体育館など公共施設があてれらている避難所は、国や県、市町村が十分な支援を行っているのだと。
実際はそうではない。
避難所の物資は、その大部分が、市民ひとりひとりの援助や義援金によってまかなわれている。
しかも、ゴールデンウィーク以降、すでに十分な物資が避難所にはあるとニュースなどでアナウンスされたことによって援助が減り、食料や生活必需品が不足しがちだという。
以上のような実情を、岩手県三陸地方の支援を行っている遠野市の医師、打越岳さんのホームページで目にしたのだった。


第2回もたくさんの名店にご協力いただいた。

パンを必要としている人たちがいる。
打越さんの紹介により岩手県陸前高田市にパンを届けることにした。
第1回は新宿方面のパン屋さんにご協力いただいたが、今回は主に東京の東側、下町方面のパン屋さんにパンをご提供いただいた。

あんですMATOBA
粉花
グリムハウス
ジュリアンベーカリー
テコナ ベーグルワークス
ヌエット・アン・アン
パン焼き小屋 ツオップ
パン焼き人
ブーランジェリー イアナック!
ブーランジェリー ボヌール
ブーランジェリー ラ・テール
ペリカン
ボワブローニュ
レ・サンク・サンス
(五十音順)

ブーランジェリー ボヌール、レ・サンク・サンスを運営する株式会社リトルハピネスの箕輪喜彦さん、菅みゆきさん、そして両店のフランス人シェフであるデリアン・エマニュエルさんには、現地までパンを運んでいただき、いっしょにお配りした。
愛パン家の渡邉政子さん、山口デザイン事務所の大野あかりさんには、自家製のジャムを作っていただいた。
また、お名前はださないが、多くの方々のご支援とご声援によって、この企画は支えられている。
みなさんにお礼を申し上げたい。

(陸前高田市の中心部)

破壊し尽くされた街。
津波の猛威は実際に見てみるまでわからなかった。

車にパンを満載し、陸前高田を訪れたのは5月28日土曜日のことだった。
津波の被害は想像以上のものだった。
海はまだ遠かった。
ナビによれば、海岸線まではまだ数キロの距離があるはずだった。
にもかかわらず街が壊滅している。
瓦礫が道の両側に散乱し、荒れ地となっている。
建物を破壊するほどの波が、こんな山間にまで押し寄せるものかと、威力に戦慄した。
前回訪れた福島県南相馬市や宮城県亘理町では街の多くの部分は温存されていた。
陸前高田はそうではない。
平野部は全滅、市役所や駅など街の中心すら完全に失われている。
パンを焼くあたたかい香りはいまだこの街に流れていないようだった。

(右デリアン・エマニュエルさん、右箕輪義彦さん)

山の上に残った小中学校や公民館に被災した人びとは逃れている。
そのひとつ450人の方が避難している陸前高田市立第一中学校を訪れ、昼食時にパンをお配りした。
用意をしていると、たくさんの方が興味津々に覗いていく。
中学生ぐらいの女の子が、階段の上からコンクリートの手すり越しに顔をだして、
「私、パン大好き」
と笑顔でいった。

長テーブルを借り、さまざまなパンを置いて、3つまで自由にお選びいただいた。
自身も被害に遭われ、この避難所で物資係を行っている村上和三さんはいった。
「朝から、パンだ、パンだって、配るほうの僕が早く食べたいって思ってました。
グッドタイミングでした。
明日、日曜日は、食事を作る係の人を休ませるために、自分でごはんを作る日になっていて、みんなカップラーメンなどを食べなくちゃならないので」
お役に立ててよかった、と思うとともに、せっかくの日曜日にカップラーメンを食べなくてはならない、避難所の現実を思い知らされたのである。

「ありがとうございました。
久しぶりに手作りのパンをいただいて、本当においしかった」
配り終えたあと、私たちのところにきて頭を下げるおばあさんがいた。
目に涙を溜めていた。
よほどのご苦労をされているのではと、震災からの経緯をうかがった。

「強い地震があったので、主人と2人、道路に出ました。
私は足が遅いもので、『自分はあとからいくから、先にいっていい』といいながら、主人は近所の人を助けにいった。
おじいさんが寝てたもんですから。
『車にのせて逃げなきゃダメだ』って、手を貸してしまった。
私だけ先に走った。
そこに大きい津波がきました。
1歩2歩、避難場所(公園のような市で事前に定められた場所)にいきかけたんですが、山に逃げたので寸前のところで助かったんですけどね。
私の前を走っていた人も、後ろの人も波に飲まれて。
私は山を伝って逃げて、暗くなったので、避難所に降りていきました」


「花もなくて、なにもしてあげられませんでした。
『ごめんね』っていいながら送ってあげました。」

「主人は亡くなりました。
私も走りながら、必ずくると思って待ってたんですけど、やっぱりダメでしたね。
助けようと思った、となりのご家族といっしょに、逝ってしまいました。
78で、元気だったんです。
面倒見のいい人だったんで、隣の人の声が聞こえたら足を止めてしまったんだと。
火葬はしましたけど納骨はまだしてないんです。
遺体が見つかるまではなにをやったか(必死だったので)わかりません。
嫁がせた娘の車に乗せてもらって探して歩きました。
避難所から送迎バスで死体安置所に行き、3月21日に見つけました。
寒かったもんで、早く火葬してあげたいなと思いまして、岩手県内の火葬場ぜんぶ電話したんですよ。
1ヶ月先まで空いてるところがなくて。
近くのところでキャンセルがでまして、『明日あります』っていうのでね、ばたばたとやりました。
なんにもしてやれなかった。
お花買って、飾ってあげたいと思ったけれど、花もなくて。
小菊だけやっと買って、『ごめんね』ってあやまりながら、送ってあげました」

(佐藤ミエ子さん。カメラを向けると「いただきものの若い人用のエプロンを着ているもので」と恥ずかしそうに笑った」)

佐藤ミエ子さんとおっしゃる、そのおばあさんはここで号泣してしまい、言葉を詰まらせた。
とても長い独り語りの引用になってしまったが、東北を襲った危機の真相を知ってもらいたく、さらにつづける。

「火葬して避難所に戻ると、玄関に花がありました。
假屋崎省吾さんという華道家の方が、菊が不足していると聞いて、避難所に届けてくださったんですよ。
2、3本いただいたんですけど、お骨を置いてるところは遠くていけないので、ペットボトルで作った花瓶に活けて、体育館に飾らせてもらいました。
いっぱいお花入れてあげたいと思ったのに、主人にはなんにもしてあげられなくて、申し訳なくて。
なにも品物がありませんでした。
紙コップひとつ買うのにも、30分、車で探してまわらなくてはならなくて」


「なにかやると体が震えてしまって。
最近まで字が書けなかったんですよ。」

「なにかやると体が震えてしまって。
字が書けなかったんですよ。
最近、やっと落ち着いてきたんですけど。
津波見たときは、腰が抜けました。
カーテンのように(垂直にそそり立って)きた。
うねるんじゃなくて、そのまま。
その上に家が浮いて流れてくる。
1、2歩進んだら転んじゃって、四つん這いで歩きました。
そのことが頭にあって、思いだすたびに震えて。
なにかしようと思うと、ダメなんですね」

(道ばたにたたずむ男性。雨の中、自宅跡に残されたものを探しているようだった)

「津波ってなんにも残らない。
うちのある場所にいっても土台石しか残っていない。
写真1枚残っていない。
地震だったらその場で残るんですけど、いまいっても瓦礫の山だけあって、なんにもないです。
こんなに大きい津波がくるとは誰も思わなくて。
訓練はしてたんですけど、想像してたのは50センチとかの津波で。
まさか堤防をこえてくる津波があると思わないから。
若い人に津波は怖いってことを伝えたいんです。
地震になったら早く逃げなくてはならないと」

(堤防は決して低くはない。大人の背丈の2倍以上はあると思われる。津波はそれを優に越えた)

佐藤さんが悩まされてきた体の震えは、おそらくPTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれるものだ。
津波は防波堤を越えてきた。
防波堤の高さとは、人間の思い描けるリアリティのサイズを示しているのではないだろうか。
日常のリアリティを超えるほどの非人間的なできごとは、地にたしかに足をつけている感覚を失わせて、思いだすたびに体が震えるほど、人を傷つける。
巨大な津波をテレビで何度も見て、私は知っているつもりになっていたが、逃げてきた人の主観によって語られる恐怖の質は、まったく異なるものだった。

「みんなに支えていただいています。
体ひとつで逃げてきたものですから、着るものも、食べものも、みなさんに助けていただいて。
いまは週に1度しかお骨があるところにいけませんが、せめて仮設住宅に入れれば、うちの人もつれてこれるから、いっしょにいられますから」

佐藤さんはいまもご主人と「いっしょにいる」。
わずかな救いだった。
たったひとりの人と何十年も連れ添って、愛して、死んだあとも懸命に弔おうとし、語りかけ、その気持ちが心の支えになる。
ご主人と2人で暮らせる静かな空間と、心の平安が、佐藤さんに早く訪れることを祈りたい。


「4階建ての高さで津波が街を消去していくのを
映画でも見るみたいに眺めていました。」

佐藤さんの体験は、ここ陸前高田では特別なものではない。
第一中学校の体育館にいる450人のすべてが、同じ恐怖と喪失を体験しているのだろう。
前述した村上和三さんは振り返る。

「地震から津波まで3、40分ぐらいありました。
自分も大事なものを家に取りに帰ろうと思えばできたのかもしれません。
でも、そうしませんでした。
山のほうに逃げて、上から街を眺めたら、中心にいくほうの道路が混んでたんですね。
山へ向かうほうではなく。
みんな津波がくることは知っていたけど、家にペットとか家族とかいるから助けにいってたんだと思います。
あの渋滞に巻き込まれたら身動きとれなくなってしまう。
そこに津波がきました。
津波が4階建ての高さで街を消去していった。
その映像だけ、前後の脈絡とかなにもなく、まるで映画を見るみたいに眺めていました」

佐藤さんのご主人もそうだが、津波で亡くなられた方の多くは、誰かを助けようとする、愛によって命を落としたのだった。
津波のことを知らなかったわけではない。
津波がくることがわかっていたから、逃げられない人や動物を見捨てることができなかった。
もし運よく自分だけが生き残ったとしても、亡くなった家族への愛によって、なぜ助けられなかったのかと悔恨し、苦しむことになるだろう。
未曾有の危機において、愛を失うことがなかった人たち__不幸にして命を落とされた方も、たまたま生き残って愛する人のために涙を流す人も、私の英雄である。
人生においていちばん大事なものを見失わなかったのだから。
いま苦境に置かれているその人たちの愛をこれ以上裏切ってはならない。
せめてものできることとして、パンを届けたい。


山ふところにある小さな避難所で、
たくさんの笑顔に出会った。

私たちは陸前高田市内の知りうる限りすべての避難所にパンをお配りした。
サンビレッジ(スポーツドーム)、米崎小学校、自然休養村、和方公民館、正徳寺、松山公民館、モビリア、矢の浦公民館、広田小学校。
それらは三陸の山ふところに点在していた。
うねる山道を進み、田畑や林を通り抜けたところに、木造の公民館が現れる。
そこに数十人の人たちが寄り集まって暮らしている。
避難所といえば、体育館を想像しがちだが、マスコミにあまり登場しないこれらの小さな避難所に物資が十分に届いているのか心配になった。
至るところで人びとの笑顔に出会った。
特に女性たちは明るく、おどけていた。
「パン、パン、パン! パンがきたよー」
「やったー」
それは私たちを安堵させ、かえって励まされるのだった。

(サンビレッジにて)

米崎小学校でも長テーブルの上にパンを置いて自由にお選びいただいた。
すべての人がパンを取り、そろそろ撤収しようとしていたところに、さっきパンをもらったはずの男性がやってきた。
「クロワッサンをもう1個ください。
とてもおいしかったもので」
そのクロワッサンを焼いたのは、いま目の前にいるデリアン・エマニュエルさんその人だった。
「クロワッサンのレシピ、日本にきて最初に焼いたときから、ちょっとずつ変えて、もっとおいしく、もっとおいしくなるようにしてきました」
パンを作った人に、パンを食べた人が直接おいしいと伝える、偶然訪れた幸福だった。

(避難所にあてられた正徳寺。縁側に避難者のお年寄りが座っていた)

(和方公民館。小さな公民館も避難所になっている)

「私たちだけでパンをもらうのはもったいなくて。
他の避難所にももっていってあげてください。」

被災者の中の若い人、体が動く人がボランティアとなって物資を集める係や、給食係を勤めている。
もっとパンを、とすすめると、
「私たちだけがパンをもらうのはもったいなくて。
他の避難所にも持っていってください」
と遠慮する人もいた。
避難所から避難所への道は山の中だけにわかりづらい。
ボランティアの人が私たちを次の公民館へと車で先導してくれる。
そのようにしてパンはリレーされていった。
岬の先にある広田小学校へ人数分のパンを届けたときには、すでに日暮れ時だった。
お口に合ったのかどうかは心もとないけれど、いまもっとも必要としている人たちのところに、パンは届けられたはずだ。
パンを受け取るとき、パンを食べたときの笑顔が、私たちにとってのなによりの報酬だった。
避難者おひとりの幸福は、パンを届けた私たちの幸福になったのである。
パンを仲立ちとすることによって。
そしておそらくは、食べられたパン自身にとっても幸福なできごとであったにちがいない。



支援物資をお送りください。
いま避難者の方のお役に立つことができます。
下記のホームページに必要としているものの一覧があります。
遠野市の歯科医・打越岳さんが避難所や自宅避難者の方に届けてくれます。



(池田浩明)

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子供の笑顔が、
世界の平和を守ると信じています。

だんだん世の中が、
「支援、支援。」と
言葉だけ独り歩きし始めた気がします。

「忘れない事」
これがこれからのワタシたちが
一番しなきゃいけない事だと思います。

自分にできることを、
少しずついつまでも。
from. ヒランヤ | 2011/06/06 06:27 |
ヒランヤ様
おっしゃる通りだと思います。
人間は忘れやすくできているし、状況はどんどん変わっていきますからね。
僕自身がそのことを問われていると思っています。
from. 池田浩明 | 2011/06/06 09:57 |
こんにちは。ラ・テールの大橋と申します。
遅くなってしまいましたが、
弊社のブログで、今回のパンのお届けの様子を
載せようかと思っています。
こちらのブログの写真を
お借りしても大丈夫でしょうか。
from. ラ・テール | 2011/06/14 15:05 |
>ラ・テール 大橋さま
こんにちは。
ブログでご紹介していただけるとのこと、
ありがとうございます。
よろしくお願いいたします。
from. 研究員D | 2011/06/14 16:33 |
ラ・テールの大橋です。
さっそくの返信、ありがとうございます。
写真使わせて頂きます。
from. ラ・テール | 2011/06/14 16:54 |
ラ・テール大橋様

ご紹介いただきありがとうございます。
ラ・テールさんは岩手産のユキチカラを作い、農家まで直接足を運んで、小麦を作る人の思いを受け止めながらパンを作っていらっしゃるとお聞きしております。
それで、この企画にもぜひご参加いただければと常々思っておりましたが、偶然のつながりから、ご提供いただけることになりました。
お名前を失念してしまいましたが、フランス人の方が600人分ものフランスパンを徹夜で焼いていただいたとのこと。
本当にありがとうございました。
from. 池田浩明 | 2011/06/16 16:56 |
家はかろうじて津波の被害を逃れましたが、会社から避難した場所が水没していて3日目まで家に帰れませんでした。
ひざまで浸かる冷たい水に靴のままはいり瓦礫をかき分けて家に帰ると、ケーキがありました。近所のケーキ屋さんが津波当日に作ったお菓子などを無料でくれたそうです。美味しかったのは飲まず食わずだったからだけじゃないはず!!
これからもパンと一緒に幸せを運んでください(○´д`人´д`●)ネ♪
from. ほのか | 2011/06/17 22:09 |
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