パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
ル クールピュー(荻窪)
86軒目(東京の200軒を巡る冒険)


パンプキンスープ、ひまわりの種とライ麦のパン、アプリットとライ麦のパン、かぼちゃのパン(週替わり野菜のパン)、オリーブのフォカッチャ、レーズンパン、ミルクロール。
ミンチポークのオーブン焼きに半熟ボイルドエッグ、付け合わせはスパゲッティ・ブールとキャロット・ヴィシー。
デザートのガトーフレーズと紅茶(あるいはコーヒー)。

このランチが819円。
いい加減なものはひとつもない。
この値段で可能な最高最大限の努力が払われている。
なぜ、ル・クールピューはこんなにも惜しみないのか。
あまりの値ごろ感ゆえに長い行列すら気にならず、私は何度も足を運びながら、頭の中では上記の疑問をいつも繰り返していた。

鈴木芳男シェフはいう。
「こういったお店だからこのぐらいでいい、とかいうことではなく、高いレベルを目指しています。
食材にはコストがあるから、その中でできるだけ再現しようと。
それなりの素材だったら、組み合わせや、味付け、火の通し方で表現できます。
いまは、手をかけない、刺身のような、素材を活かす料理が主流になっていますが(ヌーヴェルキュイジーヌ)、流通がよくなかった時代の手をかけたお料理を取り入れています。
たとえばチキンソテー、いいものだったら塩こしょうと火の通し方でそれなりのおいしさになると思いますが、そうでなければソテーするだけではおいしく感じられません。
シーフードのムースを作って、中に詰めて焼いたりしています。
本来のフランス料理はそういうものなのです」

ランチで供されたパンにも同じことがいえた。
噛みしめて味わったり、スプレッドを塗ったりと、食べ手が作業するよりも、舌の上に置きさえすればすぐに味わいが溶けて、広がっていくような、愛情深さがある。
ふわっとほどけるようにちぎれ、ばらける。
ほんのりと甘く、やわらかく、ふにっとして、しかしナチュラル。
ひまわりの種やライ麦、かぼちゃ、オリーブなどはふわっと香り、やさしい。
それぞれのパンにそれぞれの個性と楽しみ。
華やかさはパティスリーの看板を掲げるこの店らしさでもある。

「日本のパン屋さんは特にフランス的なパンを作ろうとして、ハード系をそろえようとしますが、私たちのお客さんに、いつも洋食とパンを食べているという方はあまりいないと考えています。
ですから、ハード系はあまり作りません。
自分の作りたいものではない、お客さんの望むものを作りたいと思っています」

壁に飾られる、さまざまな名店のメニュー。
ジョエル・ロブションやタイユヴァンをはじめとする、フランスの三ツ星獲得店などのもの。
誰しもが足を運ぶことのできるこの店の壁に、なぜかくも高級な店のメニューが貼られるのか。
フランスと日本で、シェフ・パティシエとしてもさまざまな経験を積んだ鈴木さんの経歴を表すものだと考えていたが、その深意はさらに別なところにあった。

「ものづくりというのは、味わう技術だと思います。
自分がどんな味を作ろうかわからなければ作れないからです。
たとえばクロワッサンを作るなら、いままで体験した中でのあのクロワッサン、がなければ作れません。
材料の見極めは当然として、食べる技術、食べることが好きじゃないとダメなんだと思います。
引き出しを持つこと、噛み砕いて自分の中に取り入れて、それを表現する。
組み合わせて、再現する。
だから、作るときは楽ですよね。
食べるのもたいへんなんですけど」

「作るのは楽だが、食べるのはたいへん」。
決してその反対ではなく。
このようにいうパンの作り手に私ははじめて出会った。
鈴木シェフは席を立ち、アルバムを持ってきてくれた。
そこにはフランスへ旅行したときに食べたありとあらゆるものの写真が収められているのだった。
一流フレンチのコースすべてから、ホテルの朝食、機内食に至るまで。

「真剣に食べていれば、記憶の中にインプットしておけば、自分の中で味わって再現できるようにしておけば、作るときいつでも取り出すことができます。
味がわからなければ作れないと思うんですよ。
パン屋だからパンを食べなければいけない。
それは当たり前として、自分の分野ではないものを食べないと広がりません。
食事を食べなければ、パンは作れないと思います。
パン屋さんのパンを作ってる人からしたら、えーっと思うかもしれませんが、大切なことです。
パンは食べて普通、もっと自分の味覚を知っていないと、細くなる。
お料理にどんなパンが合うかもわからなくなってしまいます」

自分の持っているものしか、与えることはできない。
取り入れれば取り入れるほど、多くのものを与えられる。
取り入れたものは、すべて与える。
+と−からなる単純な、それゆえ真剣に向き合うことは決して楽ではない数学を、鈴木シェフは生活を通じて実践している。
ル・クールピューが819円で提供する料理は、三ツ星店でいつか食べたものの、巡り巡ったアウトプットなのである。

合鴨スモーク(300円)。
舌の上でぷるぷるとふるえる合鴨の身が、スモークの香りと上品な脂をとろけさせる。
同時に、ピクルスの甘酸っぱさと、パンの中に混ぜ込まれたドライマンゴーの甘さが一体となって作り出す味わいは、偶然ではなく、これでなければならないという確実さを思わせる。
この感覚を受け止めるのは、全粒粉の味わいがしっかりとしたロールパン。
素朴感があるのにとても食べやすい。

パン ア ラ クレーム ヴァニーユ(189円)。
ブリオッシュ生地の軽やかさが秀逸。
ふわふわでさくさく、なのにしっとり。
軽く引きちぎっただけですぐさま破け、瞬間的に舌の上で溶けて輝かしい甘さを放つ。
生地はカスタードクリームと分けがたく一体となり、惜しみなくリッチに、充実した卵と牛乳の風味を口いっぱいに満たし、幸福を感じさせる。
口溶けていく最後のひとかけらまで輝きは失われない。

帰り際、戸口で、ひとまわり以上年かさの鈴木シェフが、私に深々とお辞儀をするのだった。
そこには、シェフが店で供するものと同じクールピュー(純粋な心)があった。(池田浩明)






JR中央線・東京メトロ丸ノ内線 荻窪駅
03-5335-5351
7:30〜21:00(日祝8:00〜20:00)
モーニング 7:30〜10:00
ランチ 11:00〜14:30   
アフタヌーン 14:30〜18:00
ディナー 18:00〜20:30

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