KAISO(下北沢)
2011.08.09 Tuesday 03:25
90軒目(東京の200軒を巡る冒険)

世田谷らしからぬこの街には、カレーパンが似合うのだと思っていた。
そこに直球のフランスパン。
逆が反転して正となり、新しさになっている。

冷蔵ケースにはビールが冷えている。
「レコードプレーヤーで、友だちが買ってきたレコードをみんなで聞いたり。
パン屋なんですけど、人がいろいろ集まってきて、そういうのがすごくやりたくて」

「楽に見せてる分、パンは集中してやりたい。
楽なだけで、本気の部分がなにもない店というのが、嫌いなので」

自分のイメージする味わいを追いつめていく求道者の姿勢が垣間見えた。

いろんな種類とかたくさんの量を作ってないので、限られた中でしっかり作りたい。
丁寧に。
いろんなことに分散させないで、ここにあるものぐらいを一生懸命作っていきたい」


あたたかでしっくりくる酵母の香りがある。
飛び跳ねたり、鼻につんとくるのではない、じわりとした匂いが。
バゲットとしては中身が詰まっている。
がゆえに、小麦の生(き)の味わいが、バゲットなのに濃厚にある。
いっぽう、皮からは焼きすぎない香ばしさ、甘さがやってきて、中身の味わいと合流し、渦を巻きながら、混ざりあっていく。

バゲットもリュスティックも、薄皮一枚の中に、いかに水分、香り、食感を残すかが重要だと思うんで。
皮を焼きすぎても、中身の味がわからなくなりますし。
プレーンなパンはそれが重要」

パンを食べることは、作り手の実現するイメージに、食べ手がチューニングを合わせていくコミュニケーションである。
もし、そのイメージがぎりぎりの努力の中で実現した純度の高いものであれば、コミュニケーションが成立したときのよろこびは、代え難いほど大きい。


乾いた皮としっとりした中身のコントラストの鮮やかさ。
こんがりすぎない皮には香ばしさのニュアンスと、素焼きの陶器の肌触りがある。
塩気が実に気持ちよく、小麦の味へ導いてくれる。
その生々しい白さを感じながらさらに噛み込んでいくと、明るい甘さが混じりはじめて、両者の混淆状態が愛おしい。
ただのもちもちではなく、気泡1個1個がぷりぷりっとはじけるようないきいきとした食感。
小麦のフレッシュな味わいを閉じ込め、しかも皮で邪魔をしない。
リュスティックの本質が完全に実現されている。

いろいろな副材料を入れて個性をだすのなら当たり前じゃないですか。
ハード系でおいしいというのが腕のみせどころだと思うんで」

それだけに、微妙な感触のちがい、風味の出方や、皮と中身のバランスが、大きく味わいを分ける。
発酵が少し進みすぎても、焼き上がりがちょっとちがっても、水分の含ませ方がやや異なっても別のものになる。
息づかいや小さな所作が表現となりうるほどの、繊細でミニマムな芸術。
作り手の突き詰められた境地は、なぜか食べ手にも伝わる。
その不思議さを、kaisoのパンを食べて再確認した。

塩も水も感覚ですけどね。
気候に合わせるというより、ベストを目指すということなんじゃないかと思いますけど。
感覚の世界。
ひとりでやってるからそれでいいと思うんですよね」

インカのめざめ使用。
小麦の味わいの白さの、あの足りない感じに、じゃがいもの甘さが加って、味覚の正円ができあがっている。
あるいは、リュスティックのもちもち感をじゃがいもの弾力が補強して、日本人にとってもっとも心地いい、餅とほぼ同じ食感が実現している。
なめらかさの中のつぶつぶ感、歯にくっつく感じ、やわらかな甘さが口を満たす感じも餅に似ていて、そのひとつひとつに幸福を感じる。
[現在はインカのめざめのパンは休止中。それに代わるものとして、じゃがいもの入っていない、丸パン(80円)がある]

そうではなく、ハードパンの理想型にもっと近づくために、ナチュラルな添加物としてじゃがいもを混ぜ込んだのではないかと。
「自分がおいしいと思うものをイメージすると、じゃがいもを練り込む必要がありました。
イメージに合わせるために使う必要があるだけで」

パンを食べるということの意味さえ、KAISOのハードパンは開示する。
(池田浩明)
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