パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
森茉莉の食べたパン
彼女は毎朝9時過ぎに邪宗門にやってくる。
すでに60を過ぎていた彼女は、学生がまるで部室のように集うこの喫茶店で異彩を放っている。
いつも同じ席に座る。
窓際のその席の横にはレンガの柱があり、入口からは死角になっていて居心地がいい。
そこに彼女以外の客が座ることは決してない。

彼女は、近所の帝都パンという店で買った食パンを決まって持ってくる。
スライスした食パンを袋から取りだし、「私のバターちょうだい」と主人に声をかける。
邪宗門の冷蔵庫には彼女が買ってきた小岩井バターがいつも置いてある。
それは、彼女の父、森鴎外も毎朝食べていたものだ。
彼女は焼かない食パンに小岩井バターを塗る。

「お紅茶」
と声をかけ、パンといっしょに必ずミルクティを飲む。
彼女がやってくるようになるまで、邪宗門では日東紅茶を使い、スプーン2杯でカップ3杯の紅茶を淹れていた。
はじめてやってきた彼女は紅茶を一口すすって、こう言葉を発した。
「これ、紅茶?」
彼女は紅茶の淹れ方をこと細かく指導した。
「どうやって淹れてる? それはだめよ。日本のお茶だって淹れ方あるでしょ?」
以来、邪宗門の紅茶は、彼女の好きな、リプトンかトワイニングのプリンスオブウェールズになった。
ミルクティのミルクは、牛乳ではなく、生クリームとエヴァミルクを半分ずつ入れたものと決まった。

彼女はグラスに氷だけ入れたものも持ってこさせる。
スプーンで紅茶を1、2杯すくって、そこへ入れる。
冷ややかな液体が舌の上に落ちる。
ごくわずか紅茶を口に含むゆえなのか、砂糖も入れないのに不思議と甘く感じられる。
彼女はそれに飲み飽きると、砂糖を入れ、ミルクを入れ、とさまざまな飲み方を楽しみ、紅茶1杯で1日中この店で過ごす。

彼女は食パンの耳だけをきれいに剥く。
中身だけ食べて、それを残す。
主人が皿を下げようとすると、
「食べる、食べる」という。
皮は残したように見えて、あとからおもむろに紅茶にひたしたりして口にする。
ときどきは自分で食べないで、耳を持って外へ出ていく。
近所の犬にそれを与えるためにそうするときは、原稿の手が止まり、気分を変えなくてはならないときである。

彼女は閉店前までずっと原稿を書いたり、本を読んだりして過ごす。
ときにカバンを置いたまま、席を立つ。
「ちょっとマスター、出かけてきます」
「いってらっしゃいませ」と主人は答える。
彼女はアラビカやスコットといった洋食屋に行って昼食を食べたり、買い物に出かけたりする。
室生犀星や萩原葉子といった文学者がときどき会いにくる。
彼女は訪問客をこの店に呼び、自分の部屋に上げることがない。
彼女が「アパルトマン」と呼ぶ部屋は邪宗門の近く、下北沢にある木造アパートである。
部屋はガラクタだらけで足の踏み場もないほどだったが、誰かがその場所を動かそうとしただけで怒るほど、彼女にとって宝物ばかりだ。
彼女はそこにひとりで住んでいた。

彼女が他の客と話をすることはない。
いつもひとりでいる。
彼女はある男性を盗み見る。
真弓典正という文学者で、邪宗門の常連である。
彼女が真弓と話をすることはただの1度もない。
彼女は毎日邪宗門にくるのに、毎日主人に手紙を送る。
そこには自分の生活や自分が考えていることが詳細に書かれている。
彼女は真弓典正と話をすることができない。
主人の口から自分のことを伝えてほしいと思い、手紙を出す。

木造アパートは取り壊され、80歳の彼女は経堂に転居する。
彼女は邪宗門を訪れなくなる。
やがて彼女はアパートの部屋でひとり死去する。

彼女が邪宗門に通っていたのは1967年から1983年までの16年間だったが、邪宗門の主人、作道明さんは、彼女の希望をすべてかなえ、彼女が窓際の席を独り占めするままにしておいた。
あるとき、彼女の姪にあたる人がやってきて、作道さんにこういったことがある。
「ずーっとやってきていたのは、よっぽど居心地がよかったんでしょう。
少しでもいやなことがあったら、決してその店には行こうとしない人でしたから」

いまも彼女が座っていた窓際の席はそのまま残されて、常連客も座ることはなく、ときどきやってくるファンのために空けてある。
まるで、彼女の面影がいまもそこに座っているかのように。

邪宗門 世田谷店
03-3410-7858
世田谷区代田1−31−1
9:00〜(夜は早く閉店することあり)
木曜休み

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