シニフィアン・シニフィエ
2010.12.29 Wednesday 18:11
日本橋の高島屋に出店しているシニフィアン・シニフィエ。
シニフィアン・シニフィエとは、言語学用語である。
意味するものがシニフィアンで、意味されるものがシニフィエ。
例えば、「りんご」という言葉がシニフィアンであれば、赤くて丸い果実そのものがシニフィエ
ということになる。
なぜ志賀勝栄シェフはこのような難解な言葉を店名にしたのか?
正確な理由を調べる気力もないまま、私は勝手に考える。
パン職人にとってのシニフィエとは、おいしいパンを作りたい、自分ならこんなパンを作るんだ、という職人魂に他ならないだろう。
そうであるなら、その気持ちの表現形態=シニフィアンは、つまりパンである。
一方、私たち、食べる側にとっての、シニフィアン・シニフィエとはなんであるか。
私たちはパンというシニフィエを食べ、さまざまに表現する。
「あのパンおいしかったよ」とか「さくさく」とか「ぱさぱさ」とかという言葉が、あるいは言葉にならないまでも、頭の中に残った記憶も、シニフィアンといって差し支えないだろう。
そうだとするなら、作り手、食べ手、パンという三者の関係の中で、シニフィアンであり、シニフィエであるものは、唯一パンだけだ。
シニフィアン・シニフィエ=パン。
今年一年、パンに関するシニフィアン(言葉)をこのブログに書きつづけてきた。
私のシニフィアンが、私の食べたパン(というシニフィエ)、あるいは作り手の気持ち(というシニフィエ)とイコールであれと願いながら、それを目指すことだけは最低の倫理として心しながら書いてきたが、今年シニフィアン=シニフィエだった幸福な瞬間はどれほどあったろうか。
パンは言葉になることから逃れ去りつづけるだろうが、私はそこに向けて書く。
今年、私の食べたパンの中でもっとも華麗に私のシニフィアンから逃れ去ったものとして、シニフィアン・シニフィエのパンを挙げたい。
高島屋限定、チョコレートとクルミのチャパタ。
まず、袋を開けた瞬間の、イーストらしからぬ、強い、素朴な香りに打たれた。
口をつけると、まったく新しいチャパタだった。
このシェフは、「やわらかい」とか「重い」とか「濃い」とかという既存のシニフィアンでパンを想像してはいない。
まちがいなく、「しっとり」ではある。
その類い稀なしっとり感のために、他のあらゆる新しいことが、見事に口に馴染む。
新しいシニフィアンとして私が思った言葉は、「ぞくぞく」だったり、「建築物」だったりという、およそパンに似つかわしくない言葉だ。
また、材料が良質であることもまちがいなくて、クルミの香ばしさや、ミルクチョコレートの甘さの染み入る感じも、すばらしい。
シニフィアン・シニフィエについて私がいつも感じるのは、舌に馴染むヒューマンなもの(シニフィアン)を、それとは反対ベクトルのように見える、先鋭的な感覚(シニフィエ)から生み出しているということである。
そのようなシニフィアンとシニフィエの関係はパンの世界の中におよそ見当たらず、アートやモードに近いと思う。(ぷ)
(いつもありがとうございます)
シニフィアン・シニフィエとは、言語学用語である。
意味するものがシニフィアンで、意味されるものがシニフィエ。
例えば、「りんご」という言葉がシニフィアンであれば、赤くて丸い果実そのものがシニフィエ
ということになる。
なぜ志賀勝栄シェフはこのような難解な言葉を店名にしたのか?
正確な理由を調べる気力もないまま、私は勝手に考える。
パン職人にとってのシニフィエとは、おいしいパンを作りたい、自分ならこんなパンを作るんだ、という職人魂に他ならないだろう。
そうであるなら、その気持ちの表現形態=シニフィアンは、つまりパンである。
一方、私たち、食べる側にとっての、シニフィアン・シニフィエとはなんであるか。
私たちはパンというシニフィエを食べ、さまざまに表現する。
「あのパンおいしかったよ」とか「さくさく」とか「ぱさぱさ」とかという言葉が、あるいは言葉にならないまでも、頭の中に残った記憶も、シニフィアンといって差し支えないだろう。
そうだとするなら、作り手、食べ手、パンという三者の関係の中で、シニフィアンであり、シニフィエであるものは、唯一パンだけだ。
シニフィアン・シニフィエ=パン。
今年一年、パンに関するシニフィアン(言葉)をこのブログに書きつづけてきた。
私のシニフィアンが、私の食べたパン(というシニフィエ)、あるいは作り手の気持ち(というシニフィエ)とイコールであれと願いながら、それを目指すことだけは最低の倫理として心しながら書いてきたが、今年シニフィアン=シニフィエだった幸福な瞬間はどれほどあったろうか。
パンは言葉になることから逃れ去りつづけるだろうが、私はそこに向けて書く。
今年、私の食べたパンの中でもっとも華麗に私のシニフィアンから逃れ去ったものとして、シニフィアン・シニフィエのパンを挙げたい。
高島屋限定、チョコレートとクルミのチャパタ。
まず、袋を開けた瞬間の、イーストらしからぬ、強い、素朴な香りに打たれた。
口をつけると、まったく新しいチャパタだった。
このシェフは、「やわらかい」とか「重い」とか「濃い」とかという既存のシニフィアンでパンを想像してはいない。
まちがいなく、「しっとり」ではある。
その類い稀なしっとり感のために、他のあらゆる新しいことが、見事に口に馴染む。
新しいシニフィアンとして私が思った言葉は、「ぞくぞく」だったり、「建築物」だったりという、およそパンに似つかわしくない言葉だ。
また、材料が良質であることもまちがいなくて、クルミの香ばしさや、ミルクチョコレートの甘さの染み入る感じも、すばらしい。
シニフィアン・シニフィエについて私がいつも感じるのは、舌に馴染むヒューマンなもの(シニフィアン)を、それとは反対ベクトルのように見える、先鋭的な感覚(シニフィエ)から生み出しているということである。
そのようなシニフィアンとシニフィエの関係はパンの世界の中におよそ見当たらず、アートやモードに近いと思う。(ぷ)
(いつもありがとうございます)