パンになにができるのだろう。
出発前に東京で考えたこと。
求められているのか、必要なことなのか、わからなかった。
ひょっとしたら善意の押し売りなのかもしれない。
でも、なにかをせずにいられなかった。
パンになにができるのか。
あるいは、なにができないのか。
いってみなければそれはわからないし、もしなにかできる可能性があるのなら、考えているよりもいってみるべきだ。
問題は距離である。
3月11日、私たちのいる東京と、被災地である東北は同じ地殻の波によって揺さぶられた。
ただ、そこには距離の遠近があっただけで、震源地のより近くにいた人たちは人生の土台が崩れ落ちるほどの被害を受け、遠かった私たちにとって影響はより軽微だった。
私たちは地震の前とほぼ変わらぬ生活をつづけられる一方、東北には家をなくし、家族をなくし、不自由な避難所での生活を余儀なくされている人たちがいる。
もし自分がおいしいパンを手にしているとき、目の前にお腹をすかせている人が倒れているとしたら、そのパンをきっと差し出すだろう。
でも私たちは、被災した方々と遠く離れているがゆえに、パンを差し出すことができない。
あの地殻の波が、東北を揺さぶり、つづいて東京を揺すった、数分の時間差、あるいは東北と東京の運命を分けた震度の差。
その距離がそのまま、物資や、私たちの気持ちが、東北に届くのを阻んでいる。
障害が単に距離なのだとしたら、それはきっと縮めることができる。
厚かましいことを知りながら、取材で訪れたことのある店に連絡し、「被災者の方に車で届けたいのでパンを焼いてください」とお願いした。
輸送の関係上、新宿近辺のパン屋さんに限られたが、連絡したほぼすべてのパン屋さんに趣旨はご賛同いただいた。
ただ、すでに支援活動を行っているなどのやむを得ぬ理由でご辞退されたパン屋さんもいた。
以下、今回パンをご提供いただいたパン屋さんを記す。(五十音順)
ウッドペッカー
かいじゅう屋
カタネベーカリー
小麦と酵母 濱田屋
シニフィアン・シニフィエ
TOLO PAN TOKYO
ブーランジュリ シマ
ブーランジェリー・ボヌール
ボンジュール・ボン
ラ クロシェット
ラ・バゲット
ルヴァン
ル・プチメック東京
ブーランジェリー ルボワ
レサンクサンス
また、はちみつ専門店ラベイユに、はちみつをご提供いただき、
パン研究家・渡邉政子さんにはジャムを手作りしていただいた。
無理なお願いをしているにもかかわらず、多くのパン屋さんに「ありがとうございます」といっていただいた。
そのときにわかったのは、誰しもが東北の方のためになにかをしたいと考えていて、それができずにいるということだ。
募金箱に義援金を入れるのはもちろんすばらしい。
でも、私たちがもっとしたいのは、自分の職業によって被災者の方に貢献することではないか。
私たちは、誰かをよろこばせるために、自分の職業を選びとっている。
それがかなったときの幸福感は金銭的に得をすることよりももっと強い感情だと思う。
パンを満載したライトバンは
放射能におびやかされる南相馬市へ向かった。
4月23日土曜日の夕刻、このブログの執筆者であるかしわで氏と私は、上記のパン屋さんを車でまわって、東北に届けるパンを集めた。
ありがたいことに、ライトバンに入りきれないかと思うほどの量になった。
それはそのままパン屋さんたちの気持ちの熱さを表すものだ。
このパンは必ず、被災者の方おひとりおひとりに手渡ししなければならない、という思いを新たにしたのだった。
現地へ同行することを志願していただいた、かいじゅう屋店主の橋本宣之さんとともに約300キロを駆け抜けて福島県へおもむき、翌朝からパンの配布を行った。
事前に新党日本に連絡し、パンを配るために、新党日本代表である衆院議員の田中康夫さんの後ろからくっついていくことを快諾いただいていた。
「行革パン屋」の異名をとる前都議会議員、ウッドペッカーの後藤雄一さんご夫妻は、田中康夫さんとの盟友関係もあって、自家用車を運転して駆けつけてくれた。
後藤さんはいった。
「30年パン屋やって、俺はやっとわかったよ。
パンの味は作ってる奴の人生そのものだって」
最初にパンを届けたのは南相馬市役所。
南相馬市といえば、福島原発のすぐ近くに位置し、立ち入り禁止区域である20キロ圏内を市域に含む。
日曜日の市役所は騒然としていた。
役所にありがちな事務的で淡々とした雰囲気とはちがい、地震の被害を受けた人たちがたくさん訪れて窮状を訴え、生活を再建するための手続きを行っているのだった。
秘書官の阿部さんはこう語った。
「被災者の方のための対応で精一杯で、通常の業務はまったくできません。
地震と津波の被害に原発事故が追い打ちをかけました。
とにかく原発の問題が収まってからが、本当のスタートだと思います。
屋内待機から避難準備区域に変わり、外出はできるようになりましたが、まだ元の仕事に就けない人がいます。
物資はじょじょに入ってきているが、まだ大手のスーパーが開いてないので、近隣の町へ買いにいかなくてはなりません。
小さいお子さんがいる人はツテを頼って、できるだけ遠くに避難させています。
福島からきたというと、避難先の小学校で『放射能』といわれ、いじめに遭う。
子供たちにつらい思いをさせています」
市役所のみなさんにパンを提供するとよろこんでいただいた。
「炊き出しが行われていたのですが、それが最近はなくなってしまったので、よかったです」と。
(左から田中康夫新党日本代表、ひとり飛ばして桜井勝延南相馬市長、後藤雄一ウッドペッカー店主、橋本宣之かいじゅう屋店主)
南相馬市長・桜井勝延さんは、
「市民の顔に元気がない。
まだ普通の顔色じゃないですよ」と。
見えない放射能の不安はどの瞬間にも頭からぬぐい去ることはできないだろう。
見通しもつかない中、通常の生活や仕事に戻るのはまだむずかしい。
ロードサイドのチェーン大型店はシャッターを閉めたままだった。
店が開かなければ、店に勤めている人の仕事が奪われたままなのだから、お金がまわっていかない。
買う側にとっても物資がないから元気になれないし、希望が持てない。
そうした中で、一軒のパン屋さんが営業しているのを発見し、うれしい気持ちになった。
被災地にも、焼きたてのパンの香りが、ようやくたなびきはじめているのだと。
人びとに物資を配って希望を与えつづけるホテルがあった。
福島第一原発から20キロと100メートルの位置に、ビジネスホテル六角はある。
このホテルは放射能の被害によって自宅での待機を余儀なくされた方のために、援助物資を配布するなどの支援を行っている。
ビジネスホテル六角のご主人はいう。
「ホテルは開店休業状態。
原発の問題に見通しもつかないのに、ホテルを営業しているといっても、お客さんがくるはずがないですよ。
じっとしていても仕方がないので、ここでなんとかみんなを助けていこうと。
もうそこまで津波がきた。
家がある人が半分、避難所にいる人が半分。
お店も銀行も開いていない、物資がない。
お年寄りに、隣町まで買いにいけといっても、車がないのだから無理。
このホテルまでだったらなんとか歩いてこれるから、ここで支援物資を配っている。
さっきの人なんかも、息子は東京の大学、お母さんと中学生の子供は仙台。
お父さんは九州で仕事いって、おじいさんとおばあさんと2人残ってる。
どこの家でも家族はみんなばらばら。
小学校、中学校がやってないんだから、子供はどこかに避難せざるをえない。
悲惨なもんだよ、死んだような暮らしをしている。
物資を配るとみんなよろこんでくれる。
この町には活気がある場所がどこにもないから、せめてここをそういう場所にしていこうと」
ここで近隣の方のためにパンをお配りした。
多くの方が列をなし、笑顔でパンを受け取る姿に、一瞬でも生活の不安を忘れていただけたのではないかと思った。
このパンが、おそらく多くの食べ物があふれているわけではないであろう、被災者の方の食卓に並べられ、家族の幸福な語らいに役立ってくれたら。
そう願わずにいられない。
私たちはその後、避難所となっている3カ所の小学校などをまわり、パンを手渡した。
テレビで中継された避難所に物資が集中して届く一方、小さい避難所に物資はまだまだ少ない。
南相馬市でうかがったのはそうした避難所ばかりだった。
私たちの手元には、15カ所ものお店の、さまざまなパンがあった。
やわらかく甘いパン、ハードなパンにドライフルーツが入ったものなど。
私は、プレーンなパンやハード系のパンには、はちみつやジャムをおつけしたかったのだが、時間の関係などで必ずしもそうならない場合があった。
石神第一小学校で出会った村上さんは60すぎぐらいに見える女性だった。
はちみつとジャムを手にしたまま、パンは食べずにいた。
「このパンにジャムをつけて食べるの?」
村上さんの手にはチョコレート入りの甘いパンしかなかった。
私は急いで車に戻ってハード系のプレーンなパンを取ってきた。
甘いパンに甘いスプレッドはつけたくないというこだわりがうれしかったからだ。
この方はパンが好きな人にちがいないと。
プチバゲットを手渡すと村上さんはうれしそうに、
「これ、噛めば噛むほど味がじわーとでてくるんだよなー」
と東北の訛りで何度もいいながら、食べてくれた。
硬いパンがずっと食べたかったのだと。
「私、パンがきたから、これ捨てちゃったんだよ」
とビニール袋の中に、配られた弁当の白いご飯を捨てているのを示した。
彼女の振る舞いをもったいないと非難することはできない。
体育館に敷かれたふとんの上、わずか畳数枚分の場所で、一日中すごす生活を1ヶ月以上つづけ、希望のない生活に倦み飽きているのだ。
私は長距離フェリーの2等船室に乗ったときのことを思いだした。
船上にはおいしい食べ物もないし、娯楽もないし、やることもない。
なにもしていないのに体がだるくなり、早く目的の港に着くことを待ちわびながら、ただ寝転がっているしかできなくなる。
わずか1日だけの航海でさえ。
到着する港があるのならまだましだ。
被災者の方の生活がこれからどうなるのか、政府から行き先を告げられることはない。
村上さんはパンを食べながら、語りつづけた。
「もうこの避難所が9カ所目なの。
たった3日で出ていけといわれたこともある。
次の避難所が用意されるわけではなく、自分で探さなきゃなんない。
いろいろ歩きまわった。
福島まで行ったこともある。
いまやっと家の近くに戻ってくることができたんだ。
でも1ヶ月はここにいていいらしいんだけど、その先はわかんない。
仮設住宅ができるというけど、全員は入れないらしいので、どうしてったらいいのか」
「津波で、家は瓦礫の下にある。
預金通帳も年金の書類もぜんぶ。
その手続きもしなくちゃなんねえ。
自衛隊の人が瓦礫を片づけてくれてるけど、私らにはそれを眺めているぐらいしかできない。
どこかへ行こうと思っても、最近まで外に出られなかったし、車がないとこのへんじゃ移動はできない」
「だいぶ忘れられるようになったけど、ふと我に返ると、いまでも地震のときのことを思いだす」
人は大事なことでさえ簡単に忘れていくのに、恐怖のような忘れたいことに限って、揺り返すように何度でも思いだすのはなぜなのだろうか。
地震は彼女にとって過去のことではない。
村上さんは傍らにいた旦那さんを指し、
「この人は車に乗っているとき濁流に飲まれた。
九死に一生を得たけど、『あのとき死んでおけばよかった』とよくいってる」
生きるより、死ぬほうがいい。
なんという救いのなさ。
この避難所にお腹を満たすほどの食べ物はあるけれど、希望はない。
村上さんは悲しげな表情も見せず、淡々と語りつづける。
そのことがなお嘆きの深さを感じさせるのだった。
家をなくし、家財道具のすべてをなくし、友人や家族をなくし、生きる目的も、意味もなくしている。
命は助かった。
けれども私たちは体だけで生きているのではない。
人生を形作る大きな部分を失って、それでも生きつづけることの困難を思う。
早くそれを取り戻す希望、道筋が村上さんに与えられたらと思う。
語りつづける村上さんの話をさえぎり、私はもう行かなければならないことを告げ、立ち上がった。
なんという私の不人情だろう。
「お仲間といっしょにいかねばなんねえんだね」
と村上さんはやさしくいってくれる。
「これ、避難所で配られるパン。
私、硬いパンのほうがいいから」
私はパンを配りにいって、かえって被災者の方にパンをもらうのだった。
避難所の一角に、さっき道ばたで見かけたパン屋さんの名前が入ったバンジュウがあったので、おそらくはそこのパンだろう。
車の中でかいじゅう屋の橋本さんとともに食べた。
チョコレートがあんこのように入って、生地にもココアが練り込まれたパンだった。
おいしかった。
やわらかく、すっきりした味わいで、なにより人の手で作った味がした。
まず生きていくための食べ物が地元のお店で買われ、そうしてお金がまわりはじめ、やがて復興へ向かっていくのだろう。
寄付だけではなく、被災地のお店や生産者の方を支援することがこれからは必要なのではないか。
私たちにできるのは政治に絶望することだけなのだろうか。
田中康夫さんと話をする機会に恵まれた。
小学校の薄暗い階段を、松葉杖をつきながら足をひきずりひきずり上っていく。
地震のとき、人工股関節を埋め込む手術のために、田中さんは病院のベッドの上にいたのだという。
絶対安静だったが、矢も盾もたまらず、病院を抜け出し、被災地の支援へと向かったのだと。
私は尋ねた。
被災地の窮状をいっしょに見たいま、聞くことはひとつしかないように思われた。
「総理大臣にいえないんですか?」
「どんどんいってるよ。
だけど、伝わらない、反映されない国だから」
避難をしている方に声をかけてまわるときやテレビで見るときとはちがう、小さな声だった。
疲労と無念が少し滲んでいるように思った。
小さいとはいえ、政権の一角である与党の党首さえ、世の中を思うように変えられない。
私たちは政治に絶望すべきなのだろうか。
実は私は出発前、ある大手スクラッチベーカリーのチェーン企業の幹部に、人を通じてパンの提供を打診していた。
大量のパンを労せずして得ることができると思ったからだ。
しかし、その幹部はとても丁寧に、たいへん申し訳ないと何度もいって、協力できない旨を告げたのだという。
理由は大まかにいえば、次の一言に集約される。
「なにかあったら困る」
組織や政府が動くのを待っていることはできないと悟った。
被災地の方を救いたいという気持ちを持たない個人はいない。
でもその集合である組織は動かない。
状況を変えるには、個人と個人がつながっていくしかない。
それは単に理想論ではなく、実際にも、こうして個人営業のパン屋さんにお願いしてまわれば、たくさんのパンを集めることはできたのだった。
困難なとき、笑顔は希望を与えてくれる。
次に行った老人ケア施設も避難所にあてられていた。
年齢層が高いせいか、誰もがふとんに寝転がったままだった。
ここが今回行ったなかでもっとも悲しみが濃いように思われて、私はシャッターすら押せなかった。
横になっているおばあさんの傍らに女子高生ぐらいの年齢に見える女の子がいた。
パンを手渡すと、まるで花が開いたような、大きな、明るい笑いを見せた。
すばらしい笑顔だった。
彼女はこの困難な状況にあってさえ、たくさんの笑いを人びとに振りまき、数少ない希望になっている。
それは誰もができるはずの、お金も、政治の力もいらない、無償の奉仕だった。
別の建物にパンを配り終えたあと、私が戻ってくると、窓辺にさっきの女の子が立ち、ガラス越しに笑顔で何度も私に頭を下げるのだった。
「ありがとうございました。おいしかったです」
そう繰り返す彼女を見て、作り手の気持ちはきっと伝わっていると思った。
彼女に手渡したのは、どこにもないような新しい商品を高い技術で作り上げる、若いシェフの手になるパンだった。
東京でしか食べることのできないパンは、彼女にどのような印象を与えただろう。
パンは単にお腹を満たすものではなく、アートでもある。
モノクロームで塗り込められがちになる気持ちに新鮮な風を吹き込み、気分を持ち上げてくれる。
パンが彼女を励まし、笑いつづける気持ちを切らさずにいるためのエネルギーになってくれたら。
見えなくなりがちな希望が実はいまここにあることを、すばらしいセンスで作られたパンはいつも教えてくれるように思うからだ。
津波の現場のあまりの醜さに
いいあらわせない衝撃を受けた。
南相馬市を出たあと、私たちは北進し、仙台の南に位置する亘理町へ向かった。
その途中で、津波の濁流に町が覆われてしまった、無惨な傷跡を見た。
テレビで何度も見た光景だった。
にもかかわらず、その場に立つと新しい感情がこみ上げてきた。
こんなに醜い光景をかつて見たことがあっただろうか。
人は無意識のうちにも、自らの周囲をうつくしいもので満たそうとするものだが、そうした美意識と、泥や瓦礫は真っ向から対立するものだった。
ぐにゃりと曲った車は濁流の激しさを現し、トイレや風呂場の床のタイルだけ残した住宅の廃墟は、いつもの生活が一瞬にして破壊されたことを示していた。
この黒い泥の下に不幸にして被害に遭われた方の魂が、あるいは遺体さえ眠っているかもしれない。
そう想像しながら歩きまわることが精一杯で、こみあげてくる自分の気持ちにさえどのような形を、あるいは場所を与えるべきかまったくわからなかった。
まして鎮魂の方法など。
同行した人たちが立ちつくしたり、ひとりでそれぞれに物思いにふけっていたから、誰もが同じ衝撃に圧倒されていたのだろう。
15軒の名店のさまざまなパンを 290人の被災者の方に選んで食べていただいた。
亘理小学校では町職員の斎藤さんらスタッフのご協力により、夕餉の席にパンを配ることができた。
数台つないで置かれた長テーブルの上に、冒頭で記したすべてのパン屋さんのパンがそれぞれ並べられる。
避難をされている方ひとりひとりが自分の好きなパンをそこから選んで食べることができる。
こんなにも錚々たる名店のパンが一堂に会し、290人もの人たちによって共有されたことがいままであったろうか。
パン好きたる私はそんなことを思ってひそかにほくそ笑み、いっぽうでそれが自己満足にすぎないのではないか、被災者の方にとってのよろこびになるかどうかはわからないと不安にも思った。
けれどビニールの封を解くたびに立ち上がってくるパンの香ばしい匂いが、きっとよろこんでもらえるはずだと私を励ますのだった。
「これ、ぜんぶ手作りのパン?」
「早く食べたいな」
かいじゅう屋の橋本さんが、持ち込んだ大型のハードパンをブレッドナイフでスライスしていると、多くの人が足を止め、「うわーっ」と歓声を漏らす人もいた。
パンのセッティングを指揮したのは赤ら顔のおじさんだった。
私には10分の1ほどしか理解できない訛りの強い言葉で、「それはビニールに包んで」とか「1人1個にしなきゃケンカになる」とか指示を与える。
新党日本職員である岡田さんらがそれにてきぱきと従う。
そこで政党の名前は少しも告げられなかったから完全なボランティアである。
私たちははじめて出会った同士だったが、心をひとつに作業を行った。
そんなに無心でなにかをしたのは私にとって最近ではちょっと記憶にない。
それは誰のための労働だったのか。
あまりに無心だったので、そこに並んだ数百個のパンに自分が突き動かされているように思われた。
幸福に食べられたいと願うパン自身の欲望によって。
パンとは人間がパン酵母の生存を利用して作り上げるものだが、いまや私たちは反対にパン酵母によってここまでパンを運ばせられて、せっせとパンを配らせられる。
もはや誰が誰のためにパンを焼き、パンを配り、パンを食べているのかわからなかった。
東北の人はあまりハード系のパンを食べ慣れていないだろうし、食べにくいと思うだろう。
そんな危惧を私は抱いていた。
だが、ハード系のパンは見慣れていないがために、被災者の方々の興味を引くのだった。
食べ慣れたパンだけでなく、食べ慣れない新奇なパンも、沈滞した状況下では、人を励ます。
もちろん、甘くやわらかいパンも手軽に食べられてよろこばれたし、はちみつやジャムも飛ぶようになくなった。
290人が順番にパンを受け取り終わったとき、そこにいない人のためにとっておく分を除いて、きれいさっぱりとなくなっていたのだった。
本当に1日で配り終えられるのだろうかとさえ思われた、ライトバンに山積みしたすべてのパンが。
パンは余りもしなかったし、食べられない人も誰もいなかった。
奇跡のように。
被災者の方のために、パンはなにかできたのだろうか。
ひとりひとりに聞いてまわるわけもいかないし、聞いても気を使って「おいしかったです」としかおっしゃっていただけないだろう。
もちろん食べ物には好きずきがあり、すべての人がよろこぶことなどあり得ない。
避難所を去るとき、私はたくさんの人に頭を下げられた。
わざわざ呼び止めてお礼をいう人もいた。
考えて応答したわけではなかったが、「どういたしまして」という言葉をいう気にはなれなかった。
「ありがとうございました」
パンを作ってくれたパン屋さんや、名前は挙げられなかったがご協力いただいたたくさんの人に成り代わって、そう答えた。
(池田浩明)
(twitterをはじめました。あなたの感想を教えてください)
(最後までお読みいただきありがとうございました)
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