(陸前高田市)
多くのパン屋さんのご協力により、
パンは今回もおひとりおひとりの手に届けられた。
喉が乾き、倒れている人に、両手ですくった泉の水を届けるようなものなのかもしれない。
パンを届けることができるのは、10万人ともいわれる避難者のうち1000人、たった1パーセントの人たち。
しかも、1日3食のうちたった1食にすぎないのだ。
指の間から水はこぼれ落ち、乾いた人の唇に届くときにはもうほとんど残っていないかもしれない。
それでも、この活動をつづける意味があると、手前勝手に思っている。
少しでも、苦境にある方の力になりたい。
それは誰もが思う当然の気持ちだが、もうひとつ私には見届けたいことがある。
パンになにができて、なにができないのか。
いまなお危機にある東北で、それが明らかなるのではないかという思いに急き立てられて。
本来、匿名で行われるべき活動だが、被災された方への失礼を承知で、この場で発表させていただいている。
第3回は、以下のパン屋さんとパンに関連した団体の方々にご提供いただいた。
アンゼリカ
ウッドペッカー
櫛澤電機製作所(パン機械製造)
加藤企画(パンの指導)
グロワール
ケポベーグルズ
サクラベーカリー
三和産業(パン材料)
社会福祉法人「開く会」/共働舎
TAMAYA
ダンディゾン
内籐製あん(あんこ製造)
パネテリアピグロ
パンステージ・プロローグ
ブーランジェリー ボヌール
ブーランジェリー ラ・テール
ポチコロベーグル
ポム ド テール
本牧館
mixture
ムッシュソレイユ/ブーランジェリーカフェ・バンブー
リリエンベルグ(お菓子)
ル クール ピュー
ローゼンボア
(五十音順)
(陸前高田市立第一中学校でカレーパンを揚げるNGBC加盟のパン屋さん、お菓子屋さんたち。左からリリエンベルグ丸山晃一さん、パンの先生である加藤企画加藤晃さん、ローゼンボア高崎健人さん、社会福祉法人「開く会」鈴木正明さん、ブーランジェリー ボヌール箕輪喜彦さん) 私が取材でお世話になった杉並、世田谷のパン屋さんに加えて、特定非営利活動法人NGBC(障害のある方のパン事業を支援する団体)に加盟する神奈川方面のパン屋さん・お菓子屋さんに多くご協力いただき、現地まで車で駆けつけてもいただいた。
画期的だったのは、あたたかいパンを避難者の方々に食べていただきたいという情熱から、ガスボンベとフライヤー(揚げ物を屋外で作る機械)が持ち込まれたこと。
揚げたてのカレーパンが苦境にある人たちの心まであたためてくれたら、と私たちは期待して東北へと向かった。
(右からひとりとばしてリリエンベルグ横溝春雄さん、櫛澤電機製作所 澤畠光弘さん。陸前高田市立第一中学校にて)
(陸前高田市立第一中学校野球部の部員たち。カレーパンを手渡すと一列に並んで「ありがとうございましたー!」)
突然ドアをノックした私たちを
仮設住宅の人たちは笑顔で迎え入れた。
日を追うごとに復興は進んでいる。
街は依然として荒れ果ててはいたが、瓦礫は1ヶ月まえより確実に少なくなっていたのだ。
避難所の人数も前回訪れたときより減少していた。
避難者の人たちの多くが、完成した仮設住宅へ移り住んでいるからだ。
(モビリア仮設住宅にて)
モビリア(オートキャンプ場)でも避難所は解散し、敷地の中にプレハブの仮設住宅が作られていた。
報道によれば、避難所の人たちが仮設住宅への入居を拒否する事態が各地で起きているという。
仮設住宅に入ればもう自立したとみなされ、援助が受けられないからだ。
避難者という立場から自宅を持つ身の上になったからといって一件落着と片付けられるのだろうか。
私たちは仮設住宅を1件1件訪ね、パンを配り歩いた。
「迷惑がられるのではないか」
やってみるまでの心配は、杞憂に終わった。
笑顔で受け取ってくれる人たちが大半だったのである。
「受援力」という言葉があるそうだ。
援助を受け入れる力のことである。
東北の人たちはすばらしい受援力を発揮して、援助者たちを懐深く受け入れてくれている。
「ふかふか、もちもちして、すごくおいしかったパン屋さんが
津波に飲まれてしまいました」
ななこさんもそうしたひとりで、仮設住宅の扉をたたくとすばらしい笑顔を覗かせた。
「パン大好き。
365日パンでもいいぐらい。
陸前高田のパン屋さんは津波でなくなってしまいました。
となりの大船渡に柳屋というパン屋さんがあって、ふかふかして、もちもちして、すごくおいしかったんですけど、津波に飲まれてしまいました。
大船渡にいけば大型店の一角ならパン屋さんがあるんですけど」
ななこさんは目を輝かせておいしかったパンの記憶を語るけれど、いまやそのパン屋はないし、陸前高田ではいまだ焼きたてのパンを買うことができない。
住宅の敷地内には大手のスーパーが仮設で営業していて、袋入りのパンも売っている。
それでもななこさんは、届けたパンをとてもよろこんだ。
「職場が流されて、解雇になっちゃって」
彼女も両親も仕事をなくしている。
幸い彼女だけは新しいアルバイトを見つけることができたが、倹約を強いられることに変わりはない。
1食を支援物資でまかなえることはありがたいという。
両親、祖父母との5人暮らしだが、家にいるのはななこさんひとりだった。
「おじいちゃんとおばあちゃんは、ずっと住んでいたところにもどりたいって、壊れずに残った長屋みたいな倉庫に昼間は戻っちゃうから。
私は仮設住宅が当たってうれしいのですが…」
一家が逃げのびていた倉庫は、浸水し、至るところ痛んでいるが、それでも祖父母にとって仮設住宅よりはいいのだと。
住み慣れた家がないことの混乱、喪失感は想像以上に大きい。
「訴えたいことがあるんです。
地震で家が損壊した人はローンが免除か半減される制度ができるといいますが、なかなか法律が決まらない。
(二重ローン問題に関して、政府は、個人が自己破産しなくても金融機関が債権放棄をしやすくする「私的整理ガイドライン」を策定する予定。)
ローンがないほうが暮らしやすいので両親はそれを利用して、家を取り壊したいと思っている。
おじいちゃんとおばあちゃんは前に住んでいた家を直してもらいたいと思っていて、無償で家を直してもらえる制度を利用したいと思っているんですけど。
家を壊すのか、直すのか、どっちがいいのかわからない。
法律が決まらないかぎり、どうにもならないから。
家のことが心配で仕事を探せない。
瓦礫の中で家を片付けているだけで、なにもできなくて」
「政治が早く決めてくれないとなにもできない」
被災地の悩みはすべてここに行き着く。
政争に明け暮れてばかりで政治はなにも決めてくれない。
…東北で話を聞いていると、悩みはそこに行き着いてしまう。
被災地でパン屋の復興が遅れている理由を岩手県パン工業組合に尋ねたところ、同じ答えだった。
この組合には、給食のパンを供給するパン事業者が加盟している。
「給食のパンを製造するには大型の設備が必要なんですが、都市計画ができないので、すぐに建てられない。
復旧したい意欲は持っているんだけれど。
早く決めてくれないと…」
釜石、宮古、大船渡といった津波の被害があった沿岸部には、パン工業組合のバックアップによって、設備の損壊を逃れた内陸部の工場から給食用のパンをピストン輸送している。
被災地へパンを届ける努力は、私たちの知らないところでいまなおつづけられる。
(パンが配られるのを待つ人びと。米崎小学校仮設住宅にて)
笑顔で手渡すからもらった人も笑顔になる。
相乗効果でパンはさらにおいしく、幸福なものになった。
次の支援場所である米崎小学校に遅れて到着すると、待ちかねた人たちが外にでて私たちを待っていた。
体育館にいる避難者、校庭に建てられた仮設住宅の入居者たちに、パン屋の来訪が知らされていて、それを楽しみにしていてくれたのだ。
この時刻、朝から空を覆っていた雲が裂け、光が差していた。
人びとのあいだには会話があり、笑顔があり、元気にあふれている。
子供たちは遊具のあいだを走りまわり、それが活気を生んで、大人も楽しくなっている。
(パンが配られはじめると行列ができた)
「これを待ってた!
やる気でるなー!」
リリエンベルグのパティシエ、丸山晃一さんが叫んだ。
盛り上がりが盛り上がりを生む相乗効果。
そこにパンとお菓子が介在した。
よろこんでくれる人がいるから、パンを作る側、届ける側も笑顔がでる。
笑顔で配るから受け取る側もおいしく感じられ、ますます笑顔になる。
笑顔と笑顔のあいだにはコミュニケーションが生まれ、心のつながりができる。
パンが人を励ましている実感があった。
「たかが1個のパン」を「されどパン」に変える手がかりを得たような気がした。
このシチュエーションを作りだし、幸福を呼びこみたい。
活気にあふれた空間で、パンのポテンシャルは最大限に引き出されるはずだ。
そのために届ける側がまずできることは、笑い、元気をだすことだ。
(佐藤一男さん)
「一人一役で助け合い、ないないづくしでもなんとかなった。
お祭りをいっしょにやるつながりが、いい結果を生みました」
どうして米崎小学校の人たちはこんなに元気なのか。
自治会長である佐藤一男さんに話をうかがった。
「この避難所には米崎町の人たち200人が避難していました。
以前から顔見知りではあったのですが、つながりが思いっきり広がった。
もともとお祭りのときみんなでいっしょに集まっていたので、横のつながりがあった。
そういうのがいま生きた感じです。
あれがたりない、これがたりないという状況でも、『あの人に頼めばなんとかなる』というのがわかっていたので、ないないづくしのなかでもなんとかなった。
たとえば、まかない場も、サッカーゴールとテント、流木を組み合わせて作った。
かなりの設備ができました(笑)。
避難所の中で『手伝ってもらえませんか?』と訊いたら、手を挙げてくれる人がいたんで。
一人一役みたいな感じでここまできました。
古くからの、お祭りとかのつながりがいい結果を生みつづけてきた」
(食パンを手にして笑顔の人たち)
大災害に直面してひとりひとりが孤立しているのではない。
つながりあい、笑顔を交わしあう中で助け合い、元気を出し合っている。
それが、米崎小学校が明るい理由だと佐藤さんはいう。
これはとても大事な教訓だと思う。
震災以降、「がんばろう日本」のような標語をよく見かけるようになった。
それではきっと言葉が足りない。
もっといいのは、「いっしょにがんばろう」「連帯してがんばろう」ということだ。
私たちが届けたパンでは毎日毎日の空腹を満たすにはもちろん足りないが、笑顔で手渡せば、首都圏の人たちも東北の人たちのことを思っているという連帯のあいさつになる。
それがつながりを作り出し、孤立するよりももっと大きな力を生むかもしれない。
瓦礫の中から見つかった獅子舞、虎舞。
にぎやかな祭り囃子が復興を告げるのか。
佐藤さんの名刺には「漁民」と書かれていた。
米崎町はりんご栽培と養殖漁業の町で、佐藤さんは牡蠣を生産している。
「地震が3月の仕込みの時期を直撃しました。
防波堤も、作業場も、牡蠣を養殖するイカダも壊れ、船も流されました。
瓦礫の中からイカダを拾って、松島(宮城県)から持ってきた種をつけて、なんとか例年の2割仕込みましたが、3割とれないと採算が合わないので、今年は赤字。
でも、来年は5割、その翌年は…と階段上がるつもりでやってます。
積み重ねるのが大事なので。
でも、安全ライン(海からどれぐらい離れたところに建築物を建てていいかの指針)が見えてこないので、作業場が建てられない。
衛生上、青空の下で牡蠣の殻を剥くわけにはいきませんし」
ここでもまた政治の動きの鈍さが復興への足かせになっている。
しかし、それを嘆いているより、佐藤さんは自分にできることをして、一段一段復興への階段を上がっている。
(カレーパンの実演に人垣ができる)
佐藤さんの表情が明るくなったのは、例年10月に行われる祭りの話題になったときだ。
「声かければみんなやるとは思いますが、『みんなたいへんなんでしょ』(だからやめといたほうがいいのでは)という雰囲気もあって。
私は、多少端折ったとしてもやるべきだと思うのですが。
このお祭りは、浜の大きな広場で集落ごとの踊りを披露するのが大きな流れになっていて。
道中おどりとか、獅子舞とか。
そういえばこの前、瓦礫の撤去が進んだら、獅子舞、虎舞のセットがぜんぶ見つかって。
(お祭りをやったほうがいいということなんじゃないかと尋ねると)そうなんですよ!
お祭りの役員が集まって話をしたそうなんで、今年も行われることを期待してます」
瓦礫の中から無事に発見された獅子舞、虎舞が暴れまわる姿をぜひ見てみたい。
お祭りが絆を再確認させ、それをパンがお手伝いできればもっとうれしい、と私は思った。
避難所の解散パーティーのはじまりとまったく同時刻に
パンを満載した箱が届いた偶然。
夕刻、同行したパン屋さん・お菓子屋さんと別れたあと、ひとりで自然休養村避難所に向かった。
山の上にある小さな避難所。
ここに大阪のパン屋さんからパンが届くことになっていたからだ。
前回、記事を見たグロワールの一楽さんがtwitterでメッセージをくれた。
「また第3弾がありそうなら大阪のこの小さいパン屋からでも何か」
なんの面識もないパン屋さんが自ら援助を申し出てくれたのだ。
同じお気持ちをお持ちのパン屋さんはたくさんいるにちがいないが、遠隔地では私が取りにうかがうことができない。
それで宅急便で送っていただくことを思いついた。
大阪からは午前中に発送すれば翌日の夜に陸前高田に届けることができる。
1軒1軒のパン屋さんに直接お送りいただければ、もっと支援の輪を広げることができる。
そのさきがけになればと思い、グロワールにお願いすると、快諾してくれた。
「避難所の方によろこんでいただけるのはどういうパンなのだろう」
一楽さんはいろいろ悩んだ末、いかだ型の容器にさまざまなパンをのせたものを避難所の人数分送ってくれたのである。
(自然休養村避難所)
丘の上に着くと、薄暮に包まれた建物の窓から明かりとにぎわいが漏れだしていた。
広間にたくさんの人たちが集まり、宴会が行われていたのだ。
避難所の代表、菊池清子さんはいう。
「おかげさまで、全員仮設住宅に入ることが決まりまして、今日でこの避難所も解散することになりました。
私たち勝木田集落の者は、和野自治会のみなさんにお世話になっていました(自然休養村避難所は和野集落にある)。
和野のみなさんに支えていただいたことを感謝して、『いっしょにはげます会』を6時から開くことになっていたのですが、その6時ぴったりにパンが届きまして」
なんという偶然だろう。
避難所の解散を記念して行われるパーティーの開始と同時刻にパンが届くとは。
しかも、一楽さんからお送りいただいたパンの盛り合わせはパーティにぴったりなのだった。
「びっくりしました。
パンが届くのは知っていたので、みんなでパンパーティやろうといっていたのですが。
わかっててこしらえていただいたのかなと思うぐらい」
思いの力はときに驚くべき偶然をもたらす。
避難者の方が復興への一歩を踏み出す、もっとも大切な日にパンが居合わせたことがとにかくうれしかった。
「1個のおにぎりを分け合って食べることもありました。
なにかあったら自分も人の役に立ちたいと思いました」
「勝木田、和野の集落は、秋葉神社の氏子ということでお祭りはいっしょにやるけれど、あいさつするぐらい。
絆、親睦を深めることはありませんでした。
それが、支えること、支えられることによって勇気をもらって。
この会館を提供してくれることもありがたかったですし、炊き出しのボランティアがきたら焼き肉やラーメンをいっしょにごちそうになり、釜やガスの提供、野菜運んでもらったり、お水運んでくれたり、お世話になりました」
津波は残酷である。
単なる地形と標高のちがいが隣り合った人びとを天国と地獄にわける。
それでも、隣人の不幸を自分のこととして思いやる想像力とやさしさ、受け取る側の感謝の気持ちが、他人同士を深い絆で結びつけた。
「たいへんな時期には、人って見えてくるものだと思いました。
1個のおにぎりを分け合って食べることもありました。
自分の分は少々減らしても、分けてあげる思いやり。
震災まではとおりいっぺんのあいさつしかしてなかったので、その人のやさしさに気づかなかった。
同じ避難所に住んで、やさしい人だったんだなって、ぬくもりをあらためて感じて。
なにかあったら自分も人の役に立てるようになりたいと思いました。
そのためには仮設に入って、早く一歩を踏み出したい。
独立して暮らせるようになって誰かのために役立ちたいってみんなで話しました。
そういう気持ちがあるから、前向きでいられる。
いま避難所のパーティという感じではない、明るさがあるのもそのためではないかと思います」
津波の大きな被害にあった勝木田集落にあって、菊池さん自身は、津波で家を失うことはなかった。
「うちの敷地が50〜80センチだけ高いところにあって。
家が残ったんだけど、隣の人に申し訳ない。
だから、『うち』って言葉をいえないんです。
『うちに戻る』っていったら、孫が『ばば、うちっていわないで。それはいわないことになってたよね。「下に戻る」っていって』。
自分の家が流れていくのを見た方、うしろを振り返ったら家が流されてた方がこの避難所にはいます。
命、生かされてたの、ありがたいことだなと思います」
(中央・菊池清子さん、右が和野集落の方)
和野集落の人がやってきて菊池さんと言葉を交わす。
「仮設にいっても、もっかいけんかすっぺな」
「けんかもしたけど、つながりがあった。
みんな仲間。
この絆を離さないように、やってくべ」
(池田浩明)
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(最後までお読みいただきありがとうございました)
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