一瞬のイメージに心を掴まれ、それが人生を決めてしまうことがある。
1999年、伊勢原にブノワトンという新店がオープンしたとき、当時高校生だった本杉正和は平塚からバイクに乗って駆けつけた。
「店に入った瞬間、麦の香りがすごい。
『すごいパン屋だな』と。
買って食べたパンも、知ってるパンとまったく味ちがっていました。
粉の風味がそのまま活きている。
当時の他のお店のパンが白かったのに比べて、ブノワトンのは粒々が入っていたり、ふすまが入っていたり。
コクというか、味に深みがあった。
毎週、通ってました。
ブノワトンはすでに自分のところで粉を挽いていました。
厨房の奥で挽いたものをそのまま使っていた。
焼き上がったパンの香りはすごかった」
パンからも、挽きたての小麦からも、石臼からも漂っていただろう、濃厚な空気。
それは自家製粉を行うパン屋の空間だけを満たすものだ。
印象は深く刻まれ、本杉はそのインスピレーションを人生かけて追い求めていく決断をした。
「ブノワトンで働きたい。
でも、店主が厳しかった。
店に行くと、奥から怒鳴り声が聞こてくる(笑)。
パンも、食べているだけで、むずかしいことをやってるんだなと分かった」
本杉は確かな自信を身につけるためにやや遠回りする。
専門学校、都内のホテル、「小麦の勉強をするために」カナダでも修行を積んで、ブノワトンに入る。
そこで、オーナーシェフ高橋幸夫から、パン作りのみならず、製粉についても薫陶を受けた。
高橋幸夫は、2009年の8月、この世を去っている。
閉店したブノワトンと製粉工場ミルパワージャパンは本杉が引き継ぎ、同じ店舗でムール ア・ラ ムールをはじめた。
高橋と同じように、パン屋のオーナーシェフ、製粉工場の責任者という二足のわらじを履いた。
師の死去について、本杉はいう。
「がんばりすぎた。
僕らは、高橋が切り開いたあとの、流れができたところからやればよかったので、まだいい。
パン屋さんだけだったら楽だっただろうなとは思います」
北海道の農家から直接取り寄せた小麦を自家製粉していた高橋は、年々下火になる国産小麦の将来を憂い、「湘南小麦プロジェクト」を立ち上げた。
地元、神奈川の農家をまわって小麦を作付けするよう依頼、自ら設立した製粉工場ミルパワージャパンで石臼挽きし、国産小麦を普及させようという壮大な計画である。
なぜ高橋は、「がんばりすぎ」て自らの命さえ縮めてしまうほど、国産小麦に肩入れすることになったのか。
彼もまた、一瞬のイメージに心を奪われ、そのとき得たインスピレーションを追いかけていくことに、文字通り一生を捧げた人だった。
「高橋もはじめは国産小麦に興味なかったそうです。
普通のパン屋さんと同じように、粉は大手(製粉会社)さんから取るもの、という感覚でした。
たまたま休みをいただいて、気晴らしに北海道旭川に行った。
そのとき飛行機から見た小麦畑の景色に感動した。
飛行機を降りて、その麦畑に直行した。
日本でも小麦が作れるんだ、と。
13年前にブノワトンをオープンしてるんで、15年以上前の段階で小麦畑を見て、感動、衝撃受けて。
日本人なんだから日本の小麦で作ったらいいんじゃないか」
農家から直接仕入れた麦を自分で挽いて、パンを作りたい。
実現は困難を極める。
「大手さんは大量一括仕入れできるんですが、個人で農家とやり取りするのはむずかしい。
10トン、20トンという量の小麦を買って、北海道からトレーラーで運んだ。
何度も何度も足を運んで交渉。
いきなり農家行って、『売ってください』というのは、むずかしい。
『今年だけだとだめだよ』といわれる。
農家さんというのは、作物を作る前に買い手を確保しないといけない。
『作れる』と思ってたのに、突然『いらないよ』といわれると、畑が余っちゃう。
だから、10月の半ば収穫したと同時に、『来年も作付けしていただきたい』という交渉をします」
第一の壁となったのは、都市に住む者にとって馴染みの薄い、大地に根を下ろして生きる人たちならではの文化や商慣習だった。
何度も現地に行って信頼を醸成し、やっと買い入れたあとには、輸送や保管場所の手配、製粉設備を整え、それから毎日毎日粉を挽く手間。
職人として毎日パン屋を営業しながら、これだけのハードルが襲い掛かってきた。
それでも、高橋は前に進んだ。
「僕たちが引き継いだのは、店、工場だけでない。
高橋の思いを継ぎたかった。
高橋は『湘南小麦プロジェクト』を平成19年に立ち上げました。
コンセプトは地元のものを使うこと。
小麦の生産は年々減ってきています。
日本のパン屋さんは、外麦(外国産小麦)を使うので、国産は減ってっちゃった。
そこへ、国から小麦農家から支払われる奨励金制度がなくなった」
さまざまな補助金や流通制度によって保護されている米に比べて、小麦の生産は圧倒的な不利を強いられている。
「米30キロ入りが1万円ちょっと。
麦は1000円、1500円。
いい品種であっても、高くても、2000円、2500円。
同じ面積当たりの収穫量は米も麦も変わらない。
それだけ利益にならない。
日本の小麦っておいしいのに、作る人いなくなってしまう」
低迷する販売価格に加え、国からの補助まで削減されては、農家が小麦を作付けする、経済的、合理的な理由はないに等しい。
国内産小麦が消滅するかもしれない、という危惧を、高橋は抱いた。
「農家さんに麦を作っていただこう。
儲けにならないのに作っていただいても商売にならない。
6倍、7倍の値段で、ぜんぶ買いますよ、と。
このままでは日本の麦が使えなくなってしまう。
そのためには、まずは農家に潤っていただく。
『いい麦を作っていただいたら、必ず使いますから』と。
そのかいあって、湘南小麦を使う店は、2軒だけだったのが、10軒以上になりました。
みなさん、もっともっとほしいっていってくださってる。
でも、製粉が追いつきません」
地元神奈川産小麦を石臼挽きした湘南小麦は、フレッシュなうちに各店舗へ送られる。
その真価とはどういうものなのか。
「ちょっと他にないですね。
味と香りすごい。
フランス産の小麦と比べたとしても、国内産というのは香りの部分で絶対的なものがある。
噛みしめるごとに深みが出てくるというのが、みなさんの評価。
カナダ産とかは、すぐくる甘みは湘南小麦よりあると思います。
湘南小麦の場合、噛んでくるほどおいしくなる。
食べながら口の中に香りが広がる。
他の粉と比べ物にならない。
作り手に左右されちゃう部分はありますが、香りで楽しむ部分は、どなたでもおいしくなる」
石臼バゲット(320円)
湘南小麦の味わいがいちばんよくわかるパンと、これを薦められた。
香ばしさの密度があまりに濃い。
焼きこんだ皮の香ばしさのように思えて、口の中でいつまでも香りつづけて、やがてあたたかさのほうへ移ろっていく。
軽く、さくさくして、皮と中身は一体として感じられる。
最初に香った香ばしさが甘ったるさのほうへ流れず、さらさらとした甘さへと至る。
甘さはいつまでも衰えず、まだまだ湧き出しつづけている途中で、飲み込まざるをえないほど。
どこまでも、どこまでも、おだやかでやさしい。
味わいが濃い。
濃いにもかかわらず、エグみ、いやみにならず、すがすがしい。
その爽快感、ナチュラルさこそが、湘南小麦の真価なのだと思った。
ムール ア・ラ ムールから車で10分ほど走ったところにある、ミルパワージャパンの製粉工場。
気温が35℃に達する暑い一日だったが、工場の中は初冬ぐらいの寒さに保たれ、半袖では体が冷え切った。
「低温低湿度の倉庫内で、石臼挽きしています。
石だから、熱が加わらないので、その分、風味が失われません。
製粉会社のロール式の機械は、2つのロールで粒をはさみこんで、ばんばんすりつぶしていきます。
鉄製だから熱を持って、風味が飛んでしまいます。
湘南小麦は風味が活きたまま。
特に焼いたとき、活きる。
熱を加えていないんで、ぜんぶ活きてくる。
技術がある職人さんじゃないと、この粉のよさを完全には引き出しきれないかもしれません」
小麦粉には、エイジングと呼ばれる、熟成の時間がある。
挽いた直後の小麦粉は製品にばらつきがあり、うまく膨らんだパンを作ることがむずかしい。
一方で、小麦は粉になった瞬間からじょじょに風味を失ってもいく。
パンを製品として仕上げるのに適切なほど熟成が進み、かつ風味も失われない最適の期間とはどの程度なのか。
本杉の答えは明快だった。
「挽いたすぐの小麦粉は水分量が均一じゃないんで、吸水量が変わったり、(最適な)こねる時間が変わったりします。
1週間がもっとも風味も失われず、ばらつきもありません。
1週間から1ヶ月がベスト。
2ヶ月、3ヶ月経っても、もちろん外麦に比べたら香りはいいが、挽いてすぐがいちばん香りがいい。
そばだと、粉が新鮮なうちに、切って食べますよね。
パンの場合、挽きたてだと、吸水、ミキシング時間が変わり、発酵でだれてくる。
1週間おいたものがもっともベストだと思います。
うちが取引していだたいているお店には、1ヶ月に使い切れる量を目安に注文していただいています。
それだと、常に新鮮なものを使うことができます」
一般的に、製粉会社の粉は挽いたあと数ヶ月はエイジングの期間を置いたあと、出荷される。
挽きたての小麦粉がいい、という話はあまり聞かない。
確かに、本当の挽きたてでは、パンがうまく膨らまないのは事実である。
だが、時間が経つと風味が失われるのは、実はそば粉も小麦粉も同じことだ。
十分なエイジングがなされ、かつ風味も失われていない、1週間〜1ヶ月の小麦を使えるということ。
ここに、自家製粉をすることの意味、あるいは「湘南小麦」という方法論の、端的なメリットがある。
安全性も、湘南小麦の長所だ。
「外麦だとポストハーヴェスト(輸送のときに散布される大量の防虫剤)の問題があります。
特に、ふすま(直接農薬を浴びる麦の皮)を使うようなパンだと、それが気になる方も増えてきて。
湘南小麦の場合は、基本的には無農薬なのですが、除草剤だけ1度散布するというお約束を農家の方と契約時に交わしています。
完全に無農薬より、除草剤だけは撒いていただいたほうが、むしろ麦のためにいい。
というのは、日本の小麦といっても、広大な敷地で栽培されます。
この敷地を人の手だけで除草するのは農家にとってたいへんな負担になります。
雑草を生えたままにしておくと栄養を取られちゃう。
そうすると、グルテン(タンパク質)の足りない栄養価の低いものになったり、粒が小さくなったり、歩留まりが低くなったり、いい麦ができません。
オーガニックは謳えないが、低々々農薬。
ないに等しいですよ。
お客様には、ちゃんと説明すればわかってくださる。
ブノワトンのときから、お客様との会話を大事にしてましたんで。
すべてを正直にいいます。
いいもの使ってたらそれもいいますし。
完全オーガニックではないが、添加物や、体に害のあるもの使わないように。
信用は得られてると思いますんで」
いま体に取り入れようとしている食べ物を安全だと保証してくれるものとは、いったいなにか。
オーガニック認証は有力な手段であるが、一方で、認証機関の定めた条件を満たすための少なからぬコストを、消費者が支払わなくてはならない。
そして、認証だけが安全を保障する唯一の方法ではない。
本質は「信頼」だと思う。
小麦は、生産者→製粉会社→パン屋→消費者という順番で、手から手へ受け渡されていく。
湘南小麦においては、どの取引も、すべて顔の見える関係において行われる。
プロとして、人間として、取引の相手を信頼しあっている。
製粉会社=本杉は、ひとりひとりの生産者を知っている。
パン屋は、ブノワトンを受け継いだ本杉の職人としての技術を信用している。
私たち消費者も味においても安全性においても信頼をおけるようなパン屋を選んで足を運べばいい。
すべての取引が、金銭のみならず、信頼まで受け渡されているなら、認証と同じように機能するはずだ。
コミュニケーションや良心という人間的なものによってそれがなされるという意味では、認証以上の幸福を生むのではないだろうか。
湘南小麦と呼ばれるのは、どういう品種なのか。
「今年は、農林61号、南部小麦、ニシノカオリ。
それを2:1:1の割合でブレンドします。
地域としては、平塚、伊勢原、秦野。
契約農家でとれた小麦を、低温低湿度で保管し、石臼挽きしたものを、湘南小麦として卸させていただいてます。
価格は1袋20キロで8320円です。
メインは農林61号です。
このあたりは昔から小麦の産地として有名でした。
農林61号は、パン用ではなく、うどん用として生産されていました。
相州小麦と呼ばれていた品種が、農林61号。
味わいは淡白ですが、いちばんボリュームはでます。
という意味では、外麦に近いかもしれません。
他の国産小麦に比べると風味は薄いのですが、とはいっても、外麦よりは圧倒的にいい。
あっさりしてる味で、主張してこないので、具材と合わせるパンに向いていると思います。
ニシノカオリはパン用に開発された品種です。
ボリュームも出るし、香りも農林61号よりいい、
ずば抜けてるところがあるというより、平均的にいい。
南部小麦はくせ者。
香りと味は、ダントツいい。
濃すぎてえぐみが残る感じ。
ただ、膨らまないので、技術が必要にはなりますが」
どの品種をどの割合でミックスするかには、順列組み合わせでいけば、無数の可能性がある。
その中から、パン職人はどのようにしてもっともベターな配合を見つけだすのか。
「麦はいいとこ取りしてくれます。
たとえば、一発(品種単体)だとボリュームが出ないものがあったとする。
ボリュームが出るのと出ないのを合わせれば、出るほうを取ってくれる。
香りが出るのと出ないのとでは、香りの出るほうを取ってくれる。
合わせれば、香りは出て、ボリュームは出て、両方とも上がります」
私も勘違いをしていたのだが、たとえば「国内産小麦30%」と店頭で表示されていたら、「国内産小麦100%より劣るのだろう」と考える。
そうではなく、パン職人は、自分の作りたいパンにもっとも適していると考えた配合でパンを作る。
「北海道産小麦30%」あるいは「国内産小麦100%」とは、自分の作りたいパンのイメージに近づけるために、職人が出したそれぞれの解答であって、「国内産小麦100%」がいつも必ず優れているというわけではない。
「湘南小麦100%で焼くという考えはありません。
いちばん多くて90%。
少なくて15%。
100%だと生地が伸びてこない。
火通りがよくない。
焼けてはいるけれど、ねちょねちょする感じ。
外麦とブレンドすると、しっかり焼きこめる」
小麦とは、何%以上ブレンドされたときに、その性質を発揮してくるのか。
「ものにもよりますが、5%だけでも、強いものなら風味がくる」
湘南小麦には、湘南小麦Aと湘南小麦Bがある。
「Aは小麦の粒の芯に近い部分のみを使います。
色は白くて、味は淡白、食感はもっちりしています。
これが湘南小麦として普通に出荷されているものです。
もうひとつ、小麦からふすまと、湘南小麦Aを取り除いたあとに残った、外皮に近い黒い粉を湘南小麦Bと呼んでいます。
濃い味わいがありますが、タンパク質はAより少なく、使いにくい粉です。
生産できる量が少ないので限られたお店でのみ使用しています」
挽き方による粉の性質のちがいまで巧みに操り、思い通りのパンを作ることに役立てる。
これも製粉段階に職人自らが携わっていることの大きなメリットである。
麦の粒は、石臼で製粉される前に、以下の機械を経る。
ブレンダー(3種類の小麦をブレンド)
↓
石抜機(夾雑物を取り除く機械)
↓
研磨機(小麦の表面を薄皮1枚はぎ取る。砂や埃、虫の卵などを取り除く)
↓
精麦機(精米機と同じ機能を持つ。もう薄皮1枚取り除き、麦の粒を磨いてつやを出す。これによって石臼にかけたとき歩留まりがよくなる)
↓
エコーセレクター(ふぞろいな麦の粒を選別する機械)
もし、この工場ですべての麦を製粉してしまうのなら、最後の段階であるエコーセレクターは必要ない。
麦がふぞろいであろうと、製粉してしまえば、見かけも性質にもまったく影響はないからだ。
では、なぜこの機械があるのか。
「高橋はこれからの展開まで考えていました。
各お店に、石臼を1台1台もってもらって、自分で粗さも調節して、麦を挽けるようになろうよ、と」
小さな石臼を買い、職人自ら麦を挽くことにより、フレッシュな粉を使った風味の強いパンを作ることができる。
あるいは、作りたいパンのイメージを製粉にまで反映させることができるだろうし、あるいは逆に製粉の過程に関わることで小麦を深く理解し、そこで得たインスピレーションをパンに反映させることもできるだろう。
パン屋1軒1軒が自家製粉するようになったとき、ミルパワージャパンからは、粉ではなく、粒のそろった小麦がパン屋に届けられる。
その将来構想のために、あえて現在は必要のないエコーセレクターを設置したのだという。
これはさらに究極の理想像へ向けての前段階に過ぎない。
「各店舗で農家と契約し、地産地消を行っていただく。
自分でブレンドして、好きな粗さで挽いて、粉にオリジナリティを持っていただく。
高橋は『10年、20年のスパンで』とよくいっていました」
石臼を備えたパン屋はやがて近隣の農家と協力し、地元でとれた小麦からパンを作り、地産地消を行う段階へと進むだろう。
安全・安心、スローで、エコロジカル。
近代以前のヨーロッパで当たり前だったような、本物のパン文化を日本に根づかせることを、高橋は視野に入れていたのである。
それは小麦の自給率向上につながることはもちろん、小麦を通して地域の絆を深め、地方経済をも活性化させる試みとなるだろう。
6連の重々しい石の円盤が薄闇の中で静かに待機していた。
直径80センチの巨大な石臼は「k80」と呼ばれる。
「直径80センチはすごく巨大です。
石臼は30、40センチでも大きいほうですから。
石臼を作った人によると、アジアに9台あるうちの6台が集まっているといっていました。
ここでは回転数が1分間に9〜12回転。
すろうと思えばもっと速くすれますが、ゆっくりすって粉の風味を損なわないようにする。
自分のところで使うだけなら、6台も必要ありません。
せっかくおいしいものだから、みんなで使っていただいて、知ってもらいたいと、高橋は考えたのだと思います」
巨大な石臼を6台備える情熱。
高橋幸夫は国産小麦の魅力を知り尽くしていたから、それに取り憑かれていたから、この設備投資が必要だと思った。
国産小麦の風味を余すところなく引き出すためには、石臼はゆっくり回転させなくてはならない。
ゆっくり回転させると、多くの生産量は期待できない。
だが、ひと粒でも多くの麦を、ひとりでも多くの人に食べてもらいたいと思っていた。
そのためには6台の石臼が必要だと考えた。
高橋は経済的な利益より理想を追っていたはずだ。
命を賭してさえも。
石臼を前に、私はそのように考えた。
大手製粉会社のフランスパン用粉は、外麦をフランスパンに適したたんぱく量、灰分量にブレンドしたものだ。
それは比較的安価であり、かつ伝統的なフランスパンを作るための王道だというのが、パン業界において主流の考え方ではないだろうか。
では、国産小麦で作るパンは本当のフランスパンではないのか。
「日本の小麦はパンに向かない、という定説はありました。
そうじゃないと思います。
使い方、挽き方を知れば、おいしい。
外麦のほうがおいしいという人がいますが、それは比べているところがちがうんじゃないでしょうか。
うちの店には、フランスパンっぽいフランスパンはありません。
日本のパンだなって思います。
フランスのパンを目指すのであれば、日本の小麦で目指しても、おいしくないかもしれません。
まったく別のものなんで、どっちがいいとか思いつかない。
どっちもいいと思います。
どっちを選ぶかはお客さんの好みであって。
国産小麦の風味がよくないといわれる方は、求めるものがちがっているのだと思います」
ル・ブーランジェ ドミニク・サブロンは、伝統的なフランスパンを提供しているが、日本の店舗では、国内産の小麦粉である日本製粉のクラシックを使用している。
ドミニク・サブロンは私にこういった。
「パンはワインと同じである」
ワインの味わいはまずなによりも、カべルネ・ソーヴィニヨンであり、ピノ・ノワールであり、といったぶどうの品種によって語られ、ボルドーやブルゴーニュといった産地で語られ、作り手の個性が語られるのはそのあとだ。
パンにおいてもっとも大事なのは小麦であるとドミニク・サブロンは繰り返した。
「パンは小麦でできている」と。
私はときおり彼の言葉を思いだし、そして考える。
なぜいま、パンはワインではないのかと。
パンはワインのように、もっと小麦の名において語られていい。
小麦を育てた農家を、品種を、ある地域の大地や太陽や水を、パンの作者とみなしてもいい。
そのときパンの文化はもっと豊かなものになるはずだ。
のみならず、私たちの考え方や社会のあり方まで、もっと望ましい方向へ変えることになるかもしれない。
高橋幸夫が目指したもの、本杉正和が高橋から引き継いだ思いとは、そのことだったのではないだろうか。
「たとえばレトロドール(VIRON社の最高級フランス産小麦粉)には、フランスパンっぽい甘みがあって、すごく好きです。
湘南小麦には麦の香りがあります。
潮風を感じるような、田舎に帰ったような。
レトロドールも湘南小麦もどちらもおいしい。
僕は湘南小麦がいちばん好きです」
湘南小麦を使用する店
ムール ア・ラ ムール
足柄麦神 麦師
濱田家(各店)
ブーランジェリー ジャン・フランソワ(渋谷マークシティ店)
ヴィクトワール(横浜ベイクォータ店)
ブーランジェリー マナベ(横浜市保土ヶ谷区)
バゲットラビット(名古屋)→ブノワトン出身
ブーランジェリー ラ・テール
ファクトリー(東京・九段下)
アートブレッドファクトリー北澤
ポワンタージュ(東京・麻布十番)
(応援ありがとうございます)
JUGEMテーマ:美味しいパン