133軒目(東京の200軒を巡る冒険)
1月のある日、最低気温0℃。
朝8時、JR中野駅北口に、神岡修シェフは立っていた。
彼の前にはリヤカー、そこに積まれたバゲットのサンドイッチ。
「サンドイッチ、いかがですかー」
忙しく行き交う人びとに向かって、甲高い声を張り上げる。
通勤客が次々と立ち止まり、サンドイッチを買い求める。
神岡さんはいつも笑顔。
関西弁とあいまって、昔ながらの芸人さんのような雰囲気。
「お久しぶりです」
そう声をかけられた常連客からも思わず笑みがこぼれる。
慌ただしい朝の、たった数秒のコミュニケーション。
オフィスに着いたら、パンも具材も手作りのサンドイッチを齧って、あたたかいコーヒーで流しこんで一息つく。
ちいさな幸福感とともにはじまる1日は、おざなりの朝食を食べた日とどれだけ気分がちがうことだろう。
なぜ彼は真冬の駅頭に立つのか?
「友だちのカフェの厨房を借りて夜中にパンを作って売ってたんですけど、お客さまはなかなかいらっしゃらず(笑)、なんかふわーっと、リヤカーを引いて中野駅で売りはじめたんですよね(笑)。
最初はあやしげやったみたいですけど(笑)、2回目、3回目と買ううちに、リピーターになってくれる人がいたり」
以前は中野のカフェに居候する形でパン屋を営業していたが、いまは中目黒の路地裏に自分の店を開いた。
それでも火曜日と金曜日はいまでも中野駅でパンを売る。
深夜0時に店に出てパンを作り、長時間発酵のバゲットをサンドイッチに仕上げるのに、開店時間の朝7時ぎりぎりまでかかる。
それから自分で運転して中野まで出かけ、コインパーキングに車を停めると、トランクから取り出した折りたたみ式のリヤカーを引いて、駅前までやってくる。
ネット販売で買ったリヤカーは1万9800円。
「安いでしょ?」といってまた笑う。
開店資金がなくても、誰でもできる。
でも、シャポー・ド・パイユ以外に、こんな商売をする人がいるとは聞かない。
「くじけそうになりましたけど、いつも来てくれる常連の人がいるので、それでつづけられました」
実際、私も神岡さんの横で真冬の寒さに震えながら立っていたが、楽な仕事ではない。
誰も振り向かなくても売り声を上げつづける。
向こうから歩いてくる人がリヤカーのサンドイッチに目をやったのを見て、「いらっしゃいませー」と声をかけるが、そのまま素通りする。
「あー、行ってもうたか…」
そう呟いて、神岡さんはまたひとりで笑った。
シャポー・ド・パイユのメニューは、ほぼカスクルート(バゲットのサンドイッチ)のみ。
手作りのパン屋としてはめずらしい。
「フランスパンのサンドイッチを向こうで食べたのがきっかけですね。
もともとおいしいなと思ってたんですが、日本にまだないじゃないですか。
いけんじゃないかなー、作ったら売れるんじゃないかって(笑)」
パリへ行ったのはお菓子の修行をするためだった。
「もともとはお菓子をやっていて、ケーキ屋で修行してました。
それなのにパン屋になりました。
パンはいろんな種類を作れるわけではないですが、フランスパンがおもしろくて、生地を触ってるのが楽しいんですよね.
パリのジャン・ミエで仕事をしていたとき、近くにあったジュリアンという店に帰りに寄って、いつもパンを買ってました。
仕事帰りに自転車に乗りながらバゲットを食べてました。
ジュリアンのバゲットに近づけたいと、常に思ってます。
ぼんやりした記憶をたどって。
試行錯誤しながら」
ジュリアンという店の名を聞いて、すぐにはぴんとこなかったが、家に帰ってシャポー・ド・パイユのバゲットの味わいをぼんやり思いだしていると、急に記憶がはっきりと像を結んだ。
パリの市庁舎から、ルーブルのほうへ延びるサントノレ通りの途中にあるジュリアンの本店で私もバゲットを食べたことがあった。
バゲットコンクールで1位になったこともある味は掛け値なしにおいしいが、パリのバゲットとしては個性派に属するだろう。
皮よりも、中身を印象深く感じさせる。
むっちり感があって、後から小麦の味わいがこみあげるような。
たしかにシャポー・ド・パイユのバゲットはジュリアンに似ている。
もっと素朴に、もっと丁寧にして、もっと日本人の魂を込めたような。
「ホシノ天然酵母、長時間発酵で、作っています。
イーストだけでやってたときはあまり味があるように思えなくて、そしたらホシノを教えてもらって、これはいいなと。
(天然酵母としては)発酵も安定しているし」
パリでパンを習ったわけではない。
むろん、ジュリアンでホシノ天然酵母を使っているわけでもない。
記憶だけを頼りに、試行錯誤で近づいていく。
だから、真似ではなく、世界でひとつのオリジナルになるのだ。
自家製ハムとエメンタルチーズ(350円)。
やさしさのあるしなやかな皮、皮が主張しないせいで、中身にある小麦の味わいがじわっと濃厚にふくらんでくる。
手作りのハムは、市販のハムのようなきつさがない。
香りがあって、おだやかながら濃密な肉味が、脂が溶けるとともに滲みだす。
手作りのマヨネーズの白いまろやかさは、中身の白い味わいとマリアージュを生む。
それはエメンタールチーズとともにハムの味をくるんで、ますますまったりと、喉の奥のほうまで響いていく。
「表参道のル・プレヴェールっていう店でパティシエをしてたんですが、そこのルセットでマヨネーズは作っています」
ル・プレヴェールはフランスに本店がある、フランス人経営のレストラン。
ハムの作り方もそこでフランス人から習った。
パティシエとしての経験、レストランでの経験、味の記憶。
1本のバゲットサンドにも、いままで得た技術や思い出が総動員される。
きんかんの自家製マーマレードとクリームチーズのタルティーヌ(350円)。
八百屋で見つけたきんかんを煮て作った即興のサンド。
クリームチーズが、この店のバゲットの特徴であるむっちりした中身から滲みだす小麦の味わいに同調する。
そこへ、きんかんの尖りのない酸味がやさしいインパクトを加えるが、やがてすべては溶け合って、安らいだひとつの甘さとなる。
そのあと、再び戻ってくる酵母の香りが、このバゲットに込めた心を表すようだ。
発酵バターのクロワッサン(190円)。
「手作りなので、グルテン出ないんですよ。
パイローラー(生地を伸ばす機械)でやると、グルテンでぱりぱりになりますが、手で伸ばすとやわらかい感じになります」
人柄そのままのやさしいクロワッサン。
商店街の昔ながらの店で売られるおやつパンのようだ。
1枚1枚の皮を感じるというより、1個の素朴な甘いパンという印象。
そして、ひたひたと舌の上にやわらかなバターの味わいが溶けてくる。
リヤカーを引いてサンドイッチを売るという思い切った行動。
それには前科がある。
「なんかふわーっとして(笑)。
北海道から鹿児島まで歩いたり。
しんどかった(笑)。
そのときにお菓子屋になりたいなと思いました。
お腹がすいてお菓子が食べたいなって。
原点?
そんなふうに言うたらかっこいいですか?
はい、原点です(笑)」
シャポー・ド・パイユとは、フランス語で麦わら帽子の意味。
日本縦断したとき麦わら帽子をかぶっていたことにちなんでいる。
パンやお菓子は空腹を満たし、人を幸福にする。
その単純な信念がパン職人としての日々を支えているのだろう。
「今度、リヤカーにサンドイッチ積んで売りながら、シルクロード横断しようと思ってるんです(笑)」
と冗談をいうが、またふわーっとして実行してしまうかもしれない。
砂漠の真ん中で灼熱に苦しみながら、神岡シェフが笑顔を浮かべる姿を想像した。
「パンが好き…」
神岡さんは、躊躇しながらそう言ったあと、もう1度はっきりと言い切った。
「パンが好きです。
パン作るのってすごい手間じゃないですか。
長時間発酵でやってますし。
体力的にはしんどいけど、お客さんにおいしいといってもらえたら。
簡単なほうには行きにくい。
もしかしたら簡単なほうで同じ味になる方法もあるのかもしれませんが。
パンって生き物なんで、手間かけた分おいしくできるのかなと思ってます」
名のあるパティスリーで修行をし、名のあるレストランでパティシエも務めた。
それでも人生の選択として、独立して自分の店を持ったことに、満足している。
「しんどいこともいっぱいありますけど、比べてみたらちょっとだけよかったかな。
自由。
作りたいもん作れますしね」
(池田浩明)