市毛理シェフがICHIをオープンするまでの歩みは、「経歴」ではなく、「遍歴」という言葉がぴったりくる。
市毛さんほどに、多くの店、多くのジャンル、多くの国々を彷徨い歩いた職人を、あまり知らない。
自分のパンを探す。
キャリアのスタートでいきなりそれに出会ってしまう職人もいれば、長い旅のあとでそれに気づく職人もいる。
やや長くなるが、彼の遍歴の跡を追うことにする。
出発点はパンテコだった。
フィリップ・ビゴが伝えたパン・トラディショナルをもっとも深いレベルで継承する松岡徹シェフの元でキャリアを開始したことは、パンの基礎を学ぶ上でうってつけだったにちがいない。
「パン職人になる前は、料理にしようか、パンにしようか迷っていた。
そんな感覚でした。
だから、パンテコに勤めたあとで料理をやりたくなって、卸先のレストランに転職しました。
それからは、料理人的な感覚でパン作りを見られるようになったかもしれません。
配合表を信じるのではなく、味加減、味付け、そういう感性でパンを作るようになりました。
料理人はレシピに頼るのではなく、味加減の感覚が優れている。
塩加減の大切さ。
塩ひとつでおいしくなる。
パンも、調理しているような感覚。
発酵じゃなく、素材と素材の組み合わせとか、副材料とか、練り込む素材の組み合わせとか、頭でイメージして作っています。
そういう感覚は、その頃に身につけたかもしれないですね」
だが、市毛シェフは料理をつづけなかった。
「挫折したんですね。
パンに戻りました。
自分自身が未熟だったせいもありましたが、やはりパンでいこうと。
料理の世界はお客さんのペースでオーダーが入って、それに合わせて、段取りを組んで、記憶して、やっていかなければいけない。
パンはパン生地のペースに合わせていく。
それが100%であって、他のことに左右されることはない。
自分はやっぱりパンだな。
焼き上げるときのわくわく感、何回やっても楽しいですね。
今日はうまく焼けるかなと。
焼くのがいちばん好きです。
オーブンのガラス越しからダイナミックにふくらんで、クープが割れて、焼き上がっていく。
見ていて楽しい」
自らを「理論ではなく、感覚的な人間」と呼ぶ。
その通り、市毛シェフはゆっくりと話す。
核心を一気に突くのではなく、なにかのまわりを巡るように。
トーク・イズ・チープ。
おそらくは、言葉よりも、自分が感じるもの、自分の手が作り出すものだけを信じている。
パンと自分自身が一対一で対峙する時間だけに本当の生きる手応えを感じるような、根っからの職人なのだろう。
スキーがやりたい、という一心で、日本でもっとも標高の高いパン屋として知られる、横手山頂ヒュッテに勤める。
その後、海外に行きたいという思いをこらえきれず、カナダのケベック州へ。
ケベック州はフランス語圏であり、フランス文化の色濃いところだ。
現地のすしレストランで勤めながらオーナーシェフからワインや料理を吸収する一方、モントリオールにある「すごくいいパン屋」だというフロマンティエで研修もした。
遍歴はそれで終わらない。
「カナダで知り合ったベルギー人の知り合いのところに居候して、ブリュッセルのパン屋さんをいろいろ見たりしました。
当時はベルギーにしかなかった、パン・コチジュアンも、いいパン屋さんだなと、よく行ってました。
カナダで手に入れた1冊の本を持ってまして。
フランス中のパン屋さんが載っている本。
そこで薦められているパン屋さんを巡っていこうと、ユーレイルパス(ヨーロッパの国鉄が乗り放題のパス)を買って、あちこち都市から都市へとまわりました。
わざと夜行列車に乗って、その中で寝たりしていました」
フランス各地を経巡り、とうとう理想のパン屋に出会う。
「リヨンの下のサヴォワ地方、山の中にエコールという集落があって、ブーランジュリー サヴォワイヤールというパン屋さんがある。
自家製酵母を使って、薪窯で焼く、そういう店。
そこに出会ったとき、パン作りの原点のような作り方で、すごくカルチャーショックを受けました。
すごく気に入って、『ここだ』と思って。
直感なんですよね。
長期間居候をさせてもらいました。
自家製酵母を種継ぎして作る。
バゲットは置いてなくて、カンパーニュ系。
パヌトン(キャンバス地を中に張った成形用のかご)で発酵させて、上下2段の巨大な石窯で焼き上げていく。
クラシック、原点的な製法でありながら、大量に仕込んで、ロンドンの自然食品店に卸していた。
1日に1トンとか作っちゃう。
大きいパンだと1個が2キロ。
ダイナミックな感じとかが自分には合ってたんですね。
吸水率が高くて、もちもち。
そこで受けた影響はいまでも活かされてるかもしれないですね。
大自然に囲まれながら、パン作りをしてました」
スペルト小麦を使った田舎パン(399円 1/4)
このパンを食べたとき、手で扱えないほどたくさん水分を入れた大型のパンを石窯で焼き上げるという、フランスの原点的なパン屋の映像がとっさに浮かんだ。
あたたかく、かつ清々しい、酵母の香りが濃厚にある皮。
半透明の中身は光っている。
見事な組織がすばらしいクッションでふわりと舌に着地する。
すばらしく水を含んだ生地がぬめりながら舌に貼り付き、ちゅるちゅると溶けていくと、色でいえば淡い褐色に感じられる小麦の味わいが滲みだしてくる。
酸味の軽さがそこにあいまって快い。
小麦の素の味わいを大事にしながら、酵母の香りや、表面につけられた粉の香りなどで、それを彩っている。
「目指しているのは、水分量の多いパンですね。
パンに限らず、現代の食べ物は、お肉を焼いても、魚でも、そういう料理がおいしいと思われるようになっていますよね。
パンも同じ。
中はみずみずしく、外はぱりっと。
ステーキでも、焼き魚でもまったくいっしょだと思います」
フランスという、遍歴の目的地。
それが本当に終着地点なのか、見定めるための旅がまだ残っていた。
「ヨーロッパの、他の国のパンも見たいと、フランスから出ました。
フランスには憧れてましたが、フランス一直線じゃなくて、大げさにいうと、パンの原点を探ってみようと。
イタリア、ギリシャと行ったんですけど。
思ったのは、フランスって、パンの国だな。
パン屋の数、食べる量、フランスが断トツだと思いました。
と同時に、ギリシアに行けば、オリエンタルな、平たいパンになる。
フランスのパンはおいしいな、極めたい、と思いました。
昔はイタリアでもギリシアでもおいしかったのかもしれませんが、工業化が進んで、だんだんこだわり捨てちゃったんじゃないかな。
こだわりがあるのはフランス。
そのあと、オランダ、ドイツ、ポーランドも行ってみました。
そのたびにフランスがいいなと思いましたし。
最終的には日本に帰るとき、シベリア鉄道で横断して、ロシアのパンを食べながら帰ってきました」
帰国後に、最初に勤めたのは、紀ノ国屋だった。
フランスはもとより、アメリカ、ドイツ、イギリス・アイルランド、中東。
各国の主食であるパンをできるだけ現地に近い形で多種多様に再現するスタイルは、食事パンを作りたいという市毛さんの方向性と合っていたという。
「紀ノ国屋に勤めながら、夜はレストランのキッチンでアルバイトをしたりして、ワインの勉強をしました。
結局は、パンの道を進みながらも、レストランという現場が好きなんでしょうね。
ワインエキスパートの資格を取ろうと、受験勉強みたいにワインを飲み比べていたら、非常にむずかしい試験なのに、まぐれで3ヶ月で受かっちゃった。
テイスティングをするときは味を観察しますよね。
ワインの勉強を通してわかったのは、味というのは時間を通して変わっていくものだということ。
すぐ感じる味、口に入れたあと時間が経ってから感じる味。
相当、味わい方を勉強したかもしれないですね。
パンだけじゃなく、どんな商品でもそうかもしれないですけど、余韻、味の変化とか。
それを脳みそで考えて、計画的に作り上げるんじゃなく、まず作ってみて、なにか感じたら修正するというタイプですね。
ここが弱いな、こうしたいな、自分の気持ちに従って考えていく」
2001年、パリきっての名店という評判のあったメゾンカイザーが東京に進出。
市毛シェフはその門を叩いた。
「東京にメゾンカイザーがオープンすることになり、求人募集をしていた。
メゾンカイザーはパリで行ったことがあり、気に入ったパン屋さんだったので、応募することにしました。
そこで見た製法にショックを受けました。
これだ、と。
画期的といいますか」
エリック・カイザーの行ったイノベーションで有名なのは、自家製酵母を自動的に培養する機械「フェルメント・ルヴァン」の開発である。
実際にカイザーの厨房に入った市毛さんが目を見張ったのは、もっと別の部分だった。
「2次発酵(生地を成形したあとに行う発酵の工程)を低温で行う。
発酵を止めてしまっているようなものなので、大量に作っておいて、焼くとき1個からでも取り出してこまめに作ることができる。
できたてを提供しやすい。
普通は40個生地を作ったら、同じ時にオーブンに入れなくてはならないのに、この製法だと、1個1個時間をずらして焼くことができる。
1次発酵を低温でとる方法はもともとありましたけど、2次発酵を低温でとる方法は、僕はメゾンカイザーに入ってはじめて知りました。
もちろん、作業性だけではなく、パン自体のクオリティも目覚ましい。
「あとは、味、食感。
おいしくて、すばらしいと思いました。
ルヴァンリキッドによって独特な風味が出ますし、長時間発酵によってより熟成された味わいになる。
リキッド状なので、扱いやすいし、取り出しやすい、種継ぎしやすい。
しかも、発酵が速い。
やわらかい生地に練り込んでもすぐ馴染む。
もちろん、温度が大事で、酵母を何度で発酵させるかで、風味とか、酸味、マイルドになるかどうかとか、差は出てくるんですが。
しかし、なんといっても、吸水率が高い生地というのは、できあがりはおいしいんですけど、職人にとっては、べたべたして扱いにくい。
発酵するほど、生地はやわらかくなりますし。
低温長時間だと発酵したときに冷たくて、生地が硬くなってる。
水分がいっぱいだが、硬さがあるので、扱いやすくて、作りやすい。
だからこそ、水をいっぱい加えられるし、(前日仕込んで冷蔵室でオーバーナイトさせることにより)短時間でできる。
イーストと併用してルヴァンリキッドを使う方法、2次発酵を低温で行う方法、メゾンカイザーで知ったこの製法でいこう(独立しよう)と思いました」
バゲット(199円)
この値段なら躊躇せず手にできるし、まるでフランス人がそうするように、メゾンイチの階段を上がりながら、齧りつくことだってできるだろう。
フランスでのバゲットは1ユーロに満たない。
その日常的なあり方に値段でも接近している。
メゾンカイザーをポピュラーなものへと押し上げたあの甘さ。
このバゲットにはそれがないゆえに、かえって小麦の味わいの本質へ深く分け入っていける。
褐色が目を引くぷるんとした中身。
水分の多さゆえにもちもちっとジャンプする。
はじめはややおとなしげだった、茶色い味わいは豊かに広がってきて、旨味の液体が滴り落ちるようだ。
大声ではなく、実直に、酵母の香りと入り混じった小麦の野の味わいを伝える。
メゾンイチがバゲットに使用するのは北海道産の小麦粉だ。
「メゾンカイザーが使用する小麦粉メゾンカイザートラディショナルは、うちで使っている粉とはちがいます。
シンプルなハード系に関しては、ストレートに粉のちがいが出ていると思います。
メゾンカイザーとは、バターもちがうし、塩の量もちがいます。
うちではバゲットの粉には石臼挽き粉をブレンドしています。
ほぼ全粒粉に近いようなもので、すごく細かく挽いているので、茶色っぽくなります。
メインで使っている北海道産のオペラ(ホクシン)はリーズナブルな粉です。
はるゆたかの値段は跳ね上がっていますからね。
みんなは評価しないような、昔からある小麦ですけど、使ってみたらいけるなと思った。
常に材料に関しては、商品の価格を抑えるために、リーズナブルで、いいものがないかなと探しています。
僕自身、出身が函館ということもあって、北海道には何回も行ってますし、国産を使うなら北海道産だと思っていました。
比較してみると、国内の他の産地よりも、北海道産のほうが、バターに合う気がするし、ワインにも合う。
ヨーロッパの小麦に近いんじゃないかな。
と同時に、和食にも合うかなという感じがしますね」
プチトマトとオイルサーディンのキッシュ(399円)
素材と素材のスリリングな出会い。
うつくしい色合い、味わいの驚くべきマリアージュ。
プチトマトを噛み潰すと、口の中でたっぷりの果汁が弾け飛び、鮮烈な酸味を卵味のほの甘い生地へと押し広げてていく。
のみならず、オイルサーディンの身にも、レモンのひと絞りのように降り掛り、しかしレモンとはちがってさっぱりしすぎない、旨味をも加えていくような、ふくらみある味わいへといわしを昇華させる。
そして、すべてをくるむ台が、小麦の味わいが濃厚であたたかい。
一口ごとにこの体験が味わえるよう計算し尽くされている。
「実際には、パンは試行錯誤しながらできあがっていく。
オイルサーディンもスモークのかかっているいま使っているタイプのほうが断然おいしい。
同じオイルサーディンでもいろいろな種類があります。
プチトマトもどの大きさのものを使うのか。
キッシュは妻が作っているんですけど、かなり考えてますね。
見た目がきれいにこしたことはないかなと。
素材の味がきちんと感じられるように、気を使っていますね。
あんまり種類を入れすぎない。
あれもこれも入れてしまうと、存在感が薄くなってしまう。
うちはシンプルすぎるぐらい、ストレートにやってます」
メゾンイチにくると思わずキッシュとタルトを手に取りそうになってしまう。
単なるアイテム数をそろえるための1商品というなにげなさではなく、並々ならぬ本気度を感じてしまうからだろう。
「メゾンカイザーのパリのお店に行ったとき、キッシュとタルトにいちばん感動したんですよ。
実は、それくらい、メゾンカイザーのキッシュとタルトは、それまで訪れたパン屋さんに比べて、ワンランク上で。
その思いは、メゾンカイザーで働いていても、ずっとおいしかったので、変わることがなく。
キッシュとタルトに関してはカイザーの影響を受けています。
ケーキ屋さんのは繊細すぎるところがあって、ちょっと薄すぎる。
カイザーのは厚みがありますね。
材料や配合はすごくシンプルなものなんですけど。
食感が味わえる作り。
繊細で、空気がふわっていしているのより、硬めのといいますか、しっかりとしたボディのある味を目指しているんですね」
パンがあり、お菓子があり、コンフィチュールがあり、冷蔵ケースの中には色とりどりのパテやテリーヌが並ぶ。
この風景は、ルノートルやフォション、ジェラール・ミュロといった、パリの名店の数々を思い起こさせる。
しかも、その場でワインが飲めて、イートインスペースもあるとなれば、もはやパリですらあまりできない体験とさえいえる。
「毎年のようにフランスには出かけていきます。
昔はパン屋さんばっかりまわってましたけど、だんだん、ジェラール・ミュロ、ストレー、ダヴォリといったお惣菜屋さんによく行くようになりました。
ミュロさんのお店にあこがれは持っています。
お客さんが、どうしようと迷っちゃうような品揃えにしたいなと。
最近はお惣菜を出す店がだんだん増えていくような動きがあるんですけど、パン屋さんじゃないお店も含めて、テイクアウトでこれだけ並んでいる店はなかなかない。
ワインはフランス産に絞っています。
ボルドー、ブルゴーニュは高め、それ以外の地域でも、安くてコストパフォーマンスが高いものを選んで出しています」
西馬込にそれまであった、ブーランジェリー・イチとパティスリー・トレトゥール・イチを統合して、一等地である代官山に移転した。
だが、特別なものではなく、あくまで日常に焦点を合わせるというコンセプトはぶれることがない。
「僕自身が目指しているのは、何回食べても食べ飽きないような、そういう商品を作りたいと思っています。
お店がある限り、何年も何年も、しょっちゅうきていただけるような店にしたいと思っています。
西馬込をオープンしたときから、フランスのパン屋さんの雰囲気を出したいと思っていました。
東京のおしゃれなパン屋さんって、毎日買いにいくというより、高級で特別な感じがする。
ちょこっと並べてあるよりは、たくさんの数が出ていてほしい。
オブジェのようにただ並んでいるのではなく。
フランスはすごく安いので、バゲットの値段は100円台にしたいな。
そういう思いは、代官山にきても同じ」
メゾンイチ(MAISON ICHI DAIKANYAMA)
東急東横線 代官山駅
03-6416-4464
8:00〜22:00
月曜火曜休み