148軒目(東京の200軒を巡る冒険)
「圧倒的に輝いていました。
なんでこんなにおいしいんだろう。
僕にはわからなかった。
バゲット、カンパーニュ、クロワッサン…。
まったく他の店とは別物で、輝いていた」
15年前、26歳の若いパン職人は眩さに目を細め、タイユヴァン・ロブション(当時)を見た。
(決して誇張ではなく、私の目にもそのように映っていた。)
山口哲也シェフは50倍の難関をくぐり抜け、ロブションの厨房に入った。
そして、それまで自分が働いてきた店との製法のちがいに愕然とした。
「作り方自体がすごかった。
人間ではなく、生地の都合に合わせて、すべての作業が組み立てられていました。
丸め(生地を丸める基本的な作業)ひとつとってもちがっていた。
それまで勤めていた店では、多少雑にやってもどうにか形になるパン(副材料の多い生地)しか作っていなかった。
本格的なハードパンははじめてでした。
ひとつひとつ丁寧にしないと、仕上がりが変わってくる。
ロブションに入って、食パンの丸めがこんなにむずかしかったことに気づいて、びっくりした。
食パンって、ミキシングのときしっかり回して生地を作ってから、そのあとの作業をしやすくするものだと思っていました。
ここでは、ミキシングを短めにして、そのあとの各段階で、じょじょに生地を持ち上げていく。
だから、技術がないと切れちゃって、そうなると生地を長い時間休ませないと回復しない。
それで食パンの甘みが左右される」
ミキシングすれば小麦が本来持っている味わいは失われてしまう。
よくミキシングしなければパンをふくらませることはむずかしい。
矛盾する2つの命題の両方に解答を与えられるのは、卓越した技術によってでしかない。
「フランスパンも同じことで、混ぜすぎると酸化しちゃって、粉の甘みが飛んじゃう。
バゲットの生地も吸水量が多くて、まったく成形できませんでした。
締まらないというか、張りを持たせることができなくて。
他の人がやったものはきちんとしてるのに、僕のやったものはぺたんとしてしまう」
初代シェフである金林達郎氏(前帝国ホテル・ベーカリー課長)から渡されたバトンを、後にスターシェフとなるパン職人たちが引き継いできた。
それがロブションの伝統である。
「仕事を習ったのが、須藤秀男さん(ブーランジェリー スドウ)、竹内哲也さん(アンシャンテ)。
竹内さんは厳しい方だった。
生地を見て仕事をしなさいと教わった。
生地のことを考える方なので、折り込み(デニッシュ生地を作るときの折る作業)も成形もとにかく丁寧です。
手で触っただけで生地の状態がわかるぐらい、感覚で覚えちゃってる」
「なんでこんなにおいしいんだろう」。
山口シェフが追い求めたロブションの秘密とは、実にシンプルなことだった。
「ひとつひとつをいかに丁寧に、いかに正しく作るかに尽きる。
その積み重ね。
材料がどうとかいうことより、ひとつひとつを正確にできているかどうかによって、差ができてしまうんだと思います。
その影響はいちばん大きい。
当たり前のことを当たり前にやってって、特別になっていく。
普通のことを普通にやっていけば、特別に変わっていく。
特別な製法とか、特別な材料とか、粉にこだわりを持つこともときには必要ですが、ベーシックな部分を考えると、正確さの積み重ねが大事。
特別な粉を使ったとしても、ひとつの工程ができていなかったら、仕上がりが平凡になってしまう。
普通のことを積み重ねるしかない」
山口さんは、ラ ブティック ドゥ ジョエル・ロブションの店頭に並べるパンを作る一方、シャトーレストラン ジョエル・ロブションで料理とともに供されるパンも担当する。
つまり、ミシュラン三ツ星評価をブーランジェの立場から支えている。
ジョエル・ロブションのように、感動の中心にパンを置こうとしているレストランはあまりない。
たとえば、ガストロノミー ジョエル・ロブションでは、食事のはじめに、パンを満載した圧巻のワゴンが登場する。
パンオレ、クロワッサン、カンパーニュ…ありとあらゆるパンから好きなものを選び、好きなだけ食べられるという夢のような瞬間が訪れる。
「レストランのパンに関していうと、レストランのシェフと相談して決めるのが大前提。
三ツ星だという意識は、プレッシャーでも、やりがいでも、楽しみでもありますが、そこに気を取られたくない。
こういう料理には、こういうパンが合うな。
こういうパンを作ってみたいんですけど、こう合わせられたらいいね。
提案して、それがサンドイッチになったり。
得られる情報は僕にとってかけがえのないものです」
最高の素材を使い、最高の料理人と渡り合う経験は、他のパン職人が熱望しても決して得られないものだ。
ジョエル・ロブション本人とも、刺激を与えあい、コラボレーションを行う。
「ロブションさんが日本にきたとき、ガラディナー(夕食パーティ)を必ず行うんですが、そのとき出せる最高の料理を出す。
アミューズでなにか出してほしいと、ロブションさんにお題を出される。
クグロフを小さいサイズで作って、バジルオリーブ、トマト、コンテチーズ、タマネギ、いろいろなものを組み合わせたサレ(塩味の発酵菓子)。
トリュフを使ったパン。
そこから派生して、セップ茸を使ったブリオッシュ。
カンパーニュみたいな生地のパンドミ。
サフランを入れてマーブル状に仕上げたパンを作ったり。
ルヴァン(自家製酵母生地)で作ったクルトンを魚にまぶして、パン粉替わりにしてポワレ(フライパンで焼くこと)して。
海藻を入れたフォカッチャ生地でバンズを作ってハンバーガーとか。
レストランの中にちゃんとしたパン部門があるからできること。
僕らの使命でもありますから。
買ってきたパンを出したりすることとはちがいます」
パンから発想して、新しい料理が生まれる。
反対に、食材のインスピレーションから、新たなパンが生まれる。
ひとつの皿の中に、パン職人と料理人が息を合わせた、最高の仕事が共存する。
そんな離れ業を演じることができるのは、フランス本国にもないパン屋ブティックがある東京のロブションだからだ。
「たとえば、アンチョビのプティ クロワッサンにしても、アンチョビペーストとグリュイエルチーズという組み合わせを考えていました。
『バジルも合わせたら』といったのはロブションさんでした。
さわやかさが加わり、締まりも出ました。
そういうのはさすがだなと思います」
プティ クロワッサン(アンチョビ)(105円)
海の塩の力がすべての味わいをぐらぐらと揺らし、強め、とろけさせる。
小麦の白い味わいにはじまって、アンチョビ、チーズ、バジルが溶けだして、どんどん強まる。
クロワッサンのバターがそれらすべてをまとめあげる。
癖の強いアンチョビを存分に味わいながらも、後味がさわやかなのは、バジルが舌に残っているからだ。
チーズ・アンチョビというコクに対して、バジルが刺激の反対色としてバランスを取る。
「アンチョビのプティクロワッサンは、砂糖を少なくして、パイっぽく、白く焼き上げています。
このクロワッサンは特にそうですが、全体にクロワッサンは白っぽく焼くようにいわれています。
フランス人の感覚からいうと、日本のクロワッサンは焼きすぎに思える。
あまり焼かないせいで、バターの風味が飛ばずに残る」
ロブションのクロワッサンは他の店と比べて際立って「香ばしい」と思っていたのだが、秘密の一端がこの言葉で解けた。
ジョエル・ロブション本人は、パンについて、特に日本のパンの状況をどのように考えているのか。
「フランスのブーランジェリーとは異なる、日本のパンに興味を持っている。
世界各地に出店して、各地をまわられて、柔軟な考えを持つようになった。
フランスのブーランジェリーにないパンはだめ、という考えはなくて、『カレーパンやってみれば』といわれて、えっ、やっていいの? と思った(笑)。
レストランのシェフがカレーフィリングを考えてくれました。
濱田家の豆パンを食べておもしろがったり。
アメリカでもラスベガスを視察したときに、ブリオッシュ生地にジャムをマーブル状に混ぜたパンを見て、『こういうのやってみればいいじゃん』と」
「『小豆をやりなさい』
といわれて、試作しました。
最初は黒豆ときなこにカシューナッツを合わせてたら、
『バターピーナッツに変えてみたら?』
格段においしくなった。
そういう素材のコンビネーションというか、感覚的なものはおもしろいと思います。
フランス人はパン生地になにかを練り込むことを想像できない。
食事パンがメインの国なので。
この店には、レストランのシェフも、サービスにもフランス人がいる。
そういう人の考えを吸い取って、僕たちのほうから提案していくことが求められています。
僕が新しいパンを作って持っていくと、提案が返ってきて、掛け合いをして、できていく」
ロブションの厨房では、伝統と革新がせめぎ合い、フランス人のセンスと、日本人の繊細さが切磋琢磨する。
世界に類を見ないほどあらゆるパンを受け入れる日本という土地で、フランスパンの桎梏は解き放たれる。
ロブション本人もそれを楽しみ、パンの実験室だと考えているのだろう。
柔軟な発想を持つ一方で、守るべき一線もある。
「フランスパン、特にカンパーニュ、バゲットにはこだわりをお持ちで、絶対譲らない。
きたときは毎日チェックする」
バゲット ロブション プチ(105円)
「味わいの強さと、広がりが同時にある。
一瞬、他のバゲットが置いていかれるほどに」
と、並みいる名店のバゲットと食べ比べたときのメモに私は書いている。
そのインパクトは、もう15年も前、レストラン ジョエル・ロブションで料理の横に置かれたこのパンを食べたときと変わることがない。
二重の衝撃である。
つまり、バターを塗ったかのようにきらめき、ぬめる味わい、ナッツのように硬い皮といった、パン自体に対する衝撃。
これだけ個性の強いパンを食事に合わせ、また合ってしまうということ。
この皮にワインは滲みこむことなく、休まずあふれだす濃厚な風味は、ボルドーのような重い赤とも拮抗する。
「コンセプトや形はロブションさんのオリジナルですが、作り方は金林さん(初代シェフ)のルセット(レシピ)を基本にアレンジしてきました。
最初に食べたときは僕も衝撃を受けましたね。
ロブションさんにプチバゲットの位置づけを聞いたところ、箸休めだと言っていました」
フランスの有名店の名前を冠したパン屋が次々とやってくる。
ときには、度をすぎた商業主義が私を失望させることもある。
ロブションでそうした思いを味わったことは一度もない。
どんな新商品も期待の地平を必ず超えてきた。
「商売として成り立たないといけないけど、そのために変にぶれたくない。
いちばん大事なのは質なのかな。
そこでぶれなければうちのブランドは守られる。
フランスを必要以上に意識しなくてもいいんだと思います。
ロブションさん自身、『これはやっちゃだめ』というのはなく、おもしろいことをやりたがっています」
そしてこの4月、ロブションはヒカリエに進出し大きな話題をさらった。
ヒカリエ(小630円 大1575円)
個性的な酵母の香りと洋酒の香りが危険にからみあい豊潤に立ち上る。
パンの形によく固まったものだと思えるぎりぎりの加水で、切り分けただけで崩壊寸前となる。
歯にからみ、舌に吸い付くようなねっとり感と、マカロナージュ(マカロンのコーティング)した表面のかりかりの対称。
卵色の夜空に浮かぶクランベリー、オレンジピール、ピスタチオが「ヒカリ」を放ち、ありとあらゆる果実とマリアージュを繰り広げる自家製酵母ブリオッシュの奥深さを祝福する。
甘いパンでさえ、作り手の手腕によって、酵母のインパクトが具材をおいしくするのだ。
加熱した報道が、たくさんの人びとに行列を作らせ、売り場からパンが払底した。
それでも、ロブションはロブションでありつづけた。
信じられない数のパンを作りながら、「圧倒的な輝き」は変わらなかったのだ。
山口シェフは、買い物客に迷惑をかけたことは詫びながら、自身の予想をはるかに上回るパニックを乗り切りったスタッフを讃えた。
「みんなよくがんばった。
チームワークで思っていた以上の力を出してくれました」
ハイクオリティをあらゆる人へ届ける。
大行列という目立つ現象の裏で気づきにくいことだが、そこにも山口シェフとロブションの挑戦があった。
(池田浩明)
JR山手線/東急東横線・田園都市線/東京メトロ銀座線・半蔵門線 渋谷駅
03-6434-1901
10:00〜21:00
不定休(ヒカリエに準じる)
JR山手線/東京メトロ日比谷線 渋谷駅
03-5424-1345
9:30〜20:00
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(応援ありがとうございます)
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