第1章 群馬病院
朝9時、前日から夜を徹して厨房に立った志賀勝栄は、店の前に停めたワゴン車のハンドルを握った。
家に帰るためではない。
彼はこれから車を運転して旅へ出るのだ。
技術指導のための旅行であっても、自分の店シニフィアン・シニフィエの厨房を空けるのは最小限である。
夜勤明けの睡眠時間を、寝ずに労働時間へと変え、技術指導を行う。
行き先は群馬県高崎市の群馬病院である。
「入院患者が社会復帰するためのトレーニングとしてパン作りを取り入れたいので、協力してほしいというお話が、群馬病院からありました。
1年半前にスタートしました。
パンは1種類、パンペイザンだけ。
作る人にプロはいません。
看護師さんと、患者さんの中でやってもいいという人。
作業をするのは週2回。
中心になってやってくれている看護助手さんは、僕と同年代でもあり、話が合う。
そういう人じゃないと教えられませんし。
看護師・看護助手さんというのは精神的にタフであり、繊細であるということが求められる職業。
それって、まさにパン屋さんだと思いませんか?」
パン業界の第一人者というべき志賀勝栄がいわば「素人」にパン作りを教えるのはなぜなのか。
少し疑問ではあったが、新しい試みに心を動かされていることは、伝わってきた。
月1回、ないし2ヶ月に1回の技術指導はすでに1年を越え、製法を伝授する段階は完了したという。
今回病院を訪れる目的について、志賀勝栄はこのように説明する。
「ずっと仕事をつづけているとだんだん思いが変わってくる。
僕がみなさんにお願いすることは、『こういう具合にみなさんの思いをひとつにしてください』ということ。
それが大事です。
いろんな人がいるのはいいことだけど、パンを生み出すのはひとつの意志であるほうがいい。
人間がごちゃごちゃいるけど、最後はひとつになる。
漫画の『キャプテン』みたいな。
空中分解するといけないですからね。
そうならないよう、調整をします」
志賀の行う「調整」とはなんなのか。
それを見届けようと思った。
関越自動車道を北上し、群馬病院へ。
うつくしい芝生と花々で彩られた中庭を横切り、つづいて薄暗い病院の廊下をずっと歩いていく。
診察室や病室と変わらない普通のドアの上に小さな看板が出ている。
パン工房エルピス。
火曜日に生地を仕込み、水曜日にパンを焼く。
焼かれたパンペイザンは、昼食の「主食」として患者たちに供される、職員らにも予約販売される。
小さな小さなパン屋がこの病院の中で機能している。
扉を開けてエルピスの中へ入っていった志賀勝栄を迎えたのは、おばさんたちの笑顔だった。
「先生、久しぶりだねー」
「畑から野菜とって、待ってたよ」
まるで郷里に帰って旧知の人びとと会ったときのように、世間話や軽口が言い交わされる。
この60を少し過ぎた2人の婦人が、志賀の教え子である。
技術指導という言葉のイメージとは裏腹に、そこにあるのは厳しさや上下関係ではなく、ごくフラットで気さくな交流だった。
「小池さんは、家庭菜園が限りなく広くて、野菜をいっぱいくれます。
後閑さんは、手先が器用で、焼きたてのパンをきれいに切れます」
と志賀が2人を紹介する。
簡潔ながら個性をつかんだ説明に、あたたかい視線が滲んでいた。
小池さんと後閑さんは、患者たちを世話する看護助手としての仕事のほかに、ここエルピスで週2回パン職人になる。
腕に覚えがあるわけでも、希望して配属されたわけでもない。
だが、志賀の到着前にポーリッシュの仕込みを終え、いま志賀の目の前でも、なにを指示されることもなく、着々と計量をこなし、ミキサーを回す。
「季節ごとの気温の変化への対応は、1年通して指導させていただいたことで、できるようになっていると思います。
あとは、国産小麦を使っているので、それへの対応がどうかということ。
大手製粉会社さんの粉とちがって、ラインテストしていないので、季節が変わるとまったく状態が変わる」
後閑さんが質問を投げかける。
「先生、最近、パンがふくらまないで、小さいパンができちゃうんだよね。
(レシピにある発酵温度の)20度じゃなくて21度にして、焼く前に生地がぶかぶかに噴いて(発酵が進んで酵母がたくさん空気を吐き出している状態)ないと、うまくふくらまない」
「たしかに、最近、うちでもそういう傾向があります」と志賀シェフが応じる。
シニフィアン・シニフィエとここエルピスは小麦粉も同じものを使っている。
パンに関してまったくの門外漢だったキャリア1年半の婦人が、季節の変化やロッドによる小麦粉の微妙な変化をつかんで、プロのパン職人と同様の感想を漏らしているのはちょっとした驚きだった。
ここで作られる、パン・ペイザンは志賀のスペシャリテで、志賀を招請した群馬病院長濱田秀伯さんが以前から好きだったパンなのだという。
長時間発酵で作る、カンパーニュのような、大型の食事パンである。
イーストと小麦粉と水を混ぜ合わせればその日のうちにできるストレート法(基本の製法)のパンに比べて、複雑な手順と長い時間をかけて作られる。
「ポーリッシュ法(前日に水分の多い種を作る方法)を使っています。
普通はイーストですが、パン・ペイザンは老麺(古い生地)でポーリッシュをする。
まず、老麺として使うバゲット生地を作るのに4時間半ぐらい。
さらに15時間寝かして翌日焼く。
こんなめんどくさいのなかなかない。
それをここでやってるんです」
直接イーストを投入するのではなく、1度バゲット生地を作り、それをポーリッシュ種に入れ、さらにひと晩寝かせる。
初心者だから、簡単なパンを作るのではない。
シニフィアン・シニフィエのような高級な価格帯のパン屋でしか行われないような製法を、志賀はあえて病院の中のパン屋で行っているのだ。
小池さんはドゥーコンディショナー(温度管理が自動でできる発酵機)の扉を開けて、仕込みを終えた種を示し、失敗を詫びた。
「今日、すごい緊張したんだもん、先生がくるから(笑)」
「だいじょうぶです、なんとでもなります」
その失敗とは志賀によるとこういうものだった。
「ポーリッシュがまだこない(酵母と水がなじんでない)時間なのに、老麺を入れちゃった。
でも、酵母は2時間に1回分裂する。
酵母の量は時間によるので、1回パンチしたからって、酵母の量は変わらない。
小池さんが気にするほどのミスじゃないです」
そう言って小池さんを安心させた志賀は、ドゥーコンの扉を閉めると、頭の中で何事か計算をはじめた。
そして、手近のメモ用紙にレシピを書き写しはじめた。
「なんのパンが食べたいですか?
レーズン? レーズン入れましょうか。
今日はもう1種類パンを作りましょう」
志賀がミスを咎めることはなかった。
それどころか失敗した種を廃棄せず、新しいパンに作り替えてしまった。
「どんなパンになるか、明日が楽しみね」と後閑さんと小池さんからは歓声が上がった。
柔軟なアイデアが困難をよろこびに変えるシーンを私は目の当たりにしたのだった。
志賀は言う。
「ミスって本当はミスじゃない。
ミスをミスにするかどうかは、上司の責任。
上司が価値観に合わないと思うからノーと言ってしまうんですけど、価値観をミスに合わせられるかどうかは上司が決めることです」
ミキサーに種と小麦粉と水を投入し、パン・ペイザンのミキシングがはじまった。
志賀はまとまってきた生地を自らの手で触って確認し、生地状態の見極め方を伝授した。
後閑さんは、私には到底わからない微妙な生地のちがいを感じとって、志賀に疑問をぶつけていた。
「後閑さんの言う通り、20分でいいとこいきますね。
生地がのびるでしょう。
引っ張ったときのこのつや、この感じです」
「いつもより、3分ぐらい早い感じですね。
つながるのが早い。
いまの時期はアセロラを入れないように製粉会社さんに言ったほうがいいですね。
ビタミンCを添加するためにアセロラが入れられているんです。
ビタミンCがあると、タンパク質のつながりを緻密にしちゃう。
グルテンってつながりはじめはゆるく結合しているんですけど、だんだんつながりが緻密になって、ひとつの面のようになる。
その弾力性に、ビタミンCが影響します」
つまり、グルテンの結合と一口にいっても一定ではなく、ゆるやかにつながる場合から、がっちりと固まった状態まである。
がっちり固まると、生地にしなやかさがなくなってしまうのだと、志賀は言う。
「完全につながった状態じゃなく、なんとなくいい加減な感じがいちばんいいです。
つながった生地なんだけど、ふわっともこっとする。
微妙なところですよね。
2、3秒すると、こんな状態になってふわもこになるんだな。
40分ミキシングしても、最終的に止めるところって、(成功と失敗は)何秒かのちがいです」
40分ミキシングして、たった2、3秒。
シニフィアン・シニフィエのパン・ペイザンにある、独特にぷりっとして、快く歯が通るあの食感は、パン作りの深い部分にある極みに到達しなければ、実現しないものなのだ。
志賀はそれを病院の看護助手さんたちに伝授しようとしていた。
ミキシングが終わり、パンをボウルに移し替えるときも、見物だった。
生地を分割・計量するとき、普通のパン屋はスケッパー(パン生地を切る包丁)を使うのが普通だが、まるで餅を作るときみたいに、ミキサーの中に手を突っ込んで生地をちぎり取り、はかりにのせていくのだった。
「まさかこんなふうにして生地を計ってるとは誰も思ってないでしょう」
と志賀は微笑む。
生地に含まれる水分があまりにも多いので、こうしたほうがむしろ効率的なのだ。
彼は論理的に考え、それが必要ないと分かれば、誰もが常識だと思う手順さえ、無視してしまう。
たとえば、ベンチタイム(分割のあとの生地を休ませる時間)も、彼の厨房ではしばしば行われない。
本当の意味で論理的であることは、常識とは逆の結論や、風変わりな方法、新しいアイデアを生む。
それが「アウト・オブ・ポジション」と志賀が呼ぶものだ。
作業を終えたあと、志賀は率先して掃除を行い、汚れた容器を洗いはじめた。
「あ、先生はやらないでください」
「僕だって洗い物ぐらいできますよ」
と笑い、いっこうに気にせず、シンクに向かいつづけた。
志賀とはじめて会った人は誰もが、高名さに反比例したあまりの謙虚さに驚くことになる。
彼の論理の中で、いわゆる「上下関係」は、ほとんど必要のないものだと判断されているのかもしれない。
それもひとつの「アウト・オブ・ポジション」である。
翌朝再訪することを約束して2人の看護助手に別れを告げ、車に戻ると、志賀はこの日のやりとりについて説明を加えた。
「あの2人のほかにもうひとり、いちばんパン好きな人がいるんですが、その人のご主人が倒れて、病院を辞めたいって言いに来てる。
自分たちだけでこれからはやらないといけなくなるかもという不安が2人にはある。
しかも、小池さんも義理のお母さんが入院して、看病しなくちゃいけない。
普段はもっと落ち着いてて、パンがどうこうという話もできるんですが、今日はそんな雰囲気がなかったですね」
発酵を待つ間もお茶を飲みながら、仕事の話ではなく、母の病状や看病のつらさを丁寧に聞き、心に溜まったものを吐き出させることを、極めて自然に楽しく行っていた。
「(群馬病院での仕事は)普段からゆるいといえばゆるいのですが。
(パン作りにも)いろんな取り組み方があります。
必ずしも、がつがつ仕事をすることがいいわけではありません。
どういうスタンスが長く付き合っていけるかはまた別物です」
志賀は店のスタッフの全員に同じ態度で接することはないし、同じレベルの仕事を要求するわけではない。
本人の資質という器の大きさを見極めながら、そこに入るだけの知識や体験を注いでいく。
まるでひとつひとつのパン生地に合わせて差し水をし、ミキシングを行い、発酵時間を変えるように。
志賀がこのような考えに至ったのは、若いときに起こった苦い体験に起因しているのだという。
30歳のとき、志賀は当時勤めていた職場の責任者をまかされていたが、若い職人たち全員に一度に辞められることになった。
すでに相当なレベルに達していたであろう彼の技術と同じことを全員に要求していたためである。
そのときから、単にパンを完成させるという狭義のパン作りだけでなく、スタッフ全体でパンを作るという、チームプレーとしてのパン作りをどううまくマネジメントするかも、彼の探求のひとつに加わった。
それは、今日のやり取りの中でも十分に活かされている。
行きの車の中で語った「調整」を、志賀はどのように行ったのか。
高いモチベーションを一方的に要求するのではない。
いっしょに話し、笑い、「共感」することによって、それを行っていたのだ。
第2章 軽井沢・銀亭
志賀が群馬病院を出たときすでに夕刻だったが、仕事が終わったわけではない。
「これから、僕が先輩に頼まれて指導している、軽井沢の銀亭(しろがねてい)に行きます」
私は思わず尋ねた、「お疲れではないですか?」と。
57歳のパン職人はすでに24時間近く起きて働いているはずだった。
「大丈夫です。
以前は40時間働いて、8時間休むという生活をしていましたから。
そのほうが効率よかったんで」
銀亭では、2人の若い女性のパン職人に出迎えられた。
ここでも軽口から会話ははじまったが、すぐに新メニューの試作がはじまった。
2人は目をきらきらさせ、志賀の言葉をノートに一生懸命書き込んでいた。
2人のうち年かさの池田さんが、作りたいパンのイメージを伝える。
「黒糖の香りがぷんぷんするようなパン。
そういうの作ったら、おばあちゃんにすごくよろこんでもらえるんじゃないかなと思って。
ロールパンにも、食パンにも使える生地をお願いします」
粉置き場で粉袋を見ながら、志賀が思いつくままにアドリブで配合を口にする。
「イーグル60%、香麦30、エペ10。
黒糖20%、塩…んー(考え込む)、1.7。
モルト0.4、種は老麺10%。
ミルク20%、水…40入るかな、もうちょっといけるかな。
バター10%」
志賀は以前、「最近ようやく、頭の中でパンを作ることができるようになった」と言っていた。
原料の配合や、種の種類、発酵時間、生地温度、生地の硬さなどで、食感や風味がどのように変わるのか、シミュレーションできるようになり、もはや試作は必要ないのだと。
彼がレシピについて考えるあの刹那、さまざまな変数に代入する数字を変えながら、複雑系で進んでいく発酵の過程の一部始終を、頭の中でスーパーコンピュータのように何度も再計算しているのだろうか。
志賀の指示した原料がミキサーに投入される。
オーナーの山崎さんも加わって、生地の状態を4人で見つめる。
池田「生地、硬いです」
志賀「じゃあ、もうちょっと水が入りますね。
まー、うれしい(笑)。
あと10%入れましょう」
池田さんが水を足し、さらに捏ね、志賀が納得する生地状態に至ったところで、最終的な生地の見極め方を伝える。
ミキサーの中の生地を見、触れただけで、完成したパンを食べなくても、志賀にとってはどんなパンになるか、かなりの程度までわかっているようだった。
「一応、明日の朝、起きれたら見にきまーす」と。
生地は12時間熟成され、翌朝に焼かれる。
自家製酵母種を使い、水をたくさん含ませたこのパンの狙いを、私にこう説明する。
「イーストを使わずに長く生地を寝かせると、食感もちがうし、膨張率も大きくなります。
水を多く入れるのは、竹谷(光司)先生も言っていましたけど、『水とともに香りは残る』と思っているからです」
そして、池田さんには、
「黒糖の香りがぷんぷんするような、というリクエストですが、申し訳ありません、黒糖は20%が限界で、そこまでいきませんね」
と言いながら、次の瞬間には、それを実現するためのアイデアにすぐ思い至る。
志賀「中に黒糖入れたらおもしろいんじゃないでしょうか。
噴火しないようにうまく包めたら、中で蜜ができる」
池田「それ、めっちゃいいですね。
おばあちゃん毎日買いにくるわ(笑)」
志賀「ほんのり黒糖の香りがすればいいというお客さんは食パンを買っていただいて、ぷんぷんするほうがいいという方には、黒糖入れたのを買っていただいたら、どうでしょう」
自分がたまたま入ったパン屋に、志賀勝栄が技術指導を行うようになったこと。
それは人生の転機になるような幸運だったと、池田さんは語る。
「いままで作っていた方法とまったくちがうので、頭の切り替えがたいへんです。
レーズン種とホップ種を合わせて、香りを出す。
粉で風味を出して、水で香りを活かす。
そんなこと考えたこともありませんでした。
そういうものづくりがあるってびっくりしました。
作ってみると、実際にお客さんの反応があるので、一目瞭然やなと思います」
「志賀さんは威圧感もなく、私たちの懐に入ってくる。
他人に対しては、つい構えがちだけど、そういう気持ちを起こさせないで、理解しやすい言葉でうまく伝える。
すごくあったかい。
なかなかそういう人と、巡り会わへん。
言葉ひとつひとつに学ぶべきものがあるので、ビデオを必ず撮ります。
なにげない会話や、仕事に対する姿勢が勉強になります」
「私、ここの責任者になったんですけど、教えることが苦手だった。
落ち込んでいるときに、言ってもらった言葉があって。
『パンは人の手で作るので、感情が入る。
人間性を磨いたら、おのずとパンはおいしくなる』」
彼女が「志賀ノート」と呼ぶ3冊のモレスキン。
そこには志賀から伝授されたあらゆることが事細かに記されていた。
彼女の口ぶりからは、仕事がおもしろくて仕方がないという感じが滲み出ていた。
志賀が言った通りに行うと、みるみるパンがおいしくなる。
魔法にかかったように、彼女たちはモチベーションを上げているのではないだろうか。
志賀は言う。
「休みがないとか、仕事の時間が長いとかじゃなくて、作り手が作ることを楽しんだらどうでしょう。
パンを作るということは、おばあちゃんがよろこんでくれるとか、そういうよろこびの積み重ね。
若い人にちょっと栄養を注いであげると、そのうち花が咲く」
それにしても、なんの用意もなく、いま聞いたばかりのイメージだけで配合を弾き出すのは、なぜだろう。
「その場で粉を見て配合を決めていきます。
やわらかさとか、味とか、食感とか聞いて、その人の意志にそぐうように。
1回目のイメージでぱっぱとやったほうが、いろいろ考えるよりいいことはよくあります。
そういうものって、お客さんにもわかりやすいし」
この黒糖パンの配合でも、志賀はアウト・オブ・ポジションへと踏み込んだ。
「食パンで砂糖20%ってどういうこと? って思うかもしれないけど。
そういう食事パンがあってもいいのではないでしょうか。
ちょっと甘いパンと肉はよく合います」
食事パンの糖分は多すぎてはいけない、という常識を覆す。
すると、糖分の多いパンと食事を合わせる、という新しい味覚の地平が開ける。
誰もやっていないからやらない、ではない。
誰もやっていないから、それを踏み越える意味がある。
踏み越えたらどうなるかは、やる前からはっきりわかっているわけではない。
だが、そのとき生じてくる新しい状況が、さらに新しい発想やニーズをドミノ倒し的に生みだす。
不測の事態を楽しむ。
志賀勝栄の周囲に満ち、彼を特別足らしめるのは、そうした楽しさの空気である。
第3章 再び群馬病院
翌朝6時、志賀はホテルから銀亭の厨房に駆けつけ、生地の状態を確認すると、休む間もなく車を駆り、軽井沢から高崎市へ取って返す。
きのう仕込んだ生地を成形し、焼成する。
2人の患者がそれを手伝う。
パニエ(カンパーニュを発酵させるための籠)に粉をふったり、洗い物をするのが彼らの仕事である。
「粉を使わないとくっついちゃうパンですいません」
と志賀がいうように、彼のレシピによるパンは成形がむずかしい。
水をたっぷり含んでいるので、形はすぐに歪むし手にくっつく。
生地を取り上げるにはコツが要り、ある種の機敏さや、思い切りのある動きが要求される。
小池さんと後閑さんは、その独特な力学に難なく対応しながら、成形を進めている。
「上手になりましたねー!
もう一人前のパン職人ですね」
2ヶ月ぶりに彼女たちの仕事を見る志賀にとっても、その成長は目を見張るものだったようだ。
スリップベルト(ベルトコンベアのようにして窯の内部に生地を送り込む機械)を使って、1キロもの大きな丸いパンを窯に入れ、ピール(オールのような木べら)でパンを移動させて焼き色を均等に保つ姿を見れば、誰の目からも立派なパン職人に見えるだろう。
見る間に窯伸びし、白い生地が褐色に焼けながら持ち上がって、おいしそうなパン・ペイザンが次々とオーブンから取り出された。
それらは病室に運ばれ、患者や職員の昼食になる。
一方、昨日ミスをリカバーすることで作られたレーズンパンも成形された。
これは売り物のパンではないので、患者さんが練習のために成形したり、クープを入れることになった。
手を使う仕事はそれを行う者によろこびをもたらす。
高加水のパンの思わぬ感触や、思うままにいかないむずかしさに戸惑いながら手を動かすのは患者さんにとって楽しい体験になっているように見えた。
これも「ミスをミスにしない」ことによって生みだされたメリットである。
いよいよパンペイザンを試食する。
果たして、普通のお母さんたちの作ったパンはどれほどのものなのか。
後閑さんが切り分けてくれたものを口に運ぶ。
まぎれもない、志賀勝栄のパン・ペイザン。
深い香りを嗅ぐだけで日常から逸脱した世界観に引き込まれる。
ぷりっとした感触がハード系の食べづらさを噛むことの快楽へと変える。
白い内相は輝くばかり。
皮膜の中でゼリーのように結晶した水分が弾け出て、風味を軽やかに押し広げる。
その風味とは、小麦にこんな側面があったかと思われるほど、驚きに満ちている。
熟成が原料の力をここまで引き出すのだ。
昼食の食卓には、テーブルに載りきらないほど、たくさんのおかずが上った。
小池さんの畑でなった朝摘みの野菜たち。
ナス、カボチャ、タマネギはアルミホイルで包んで、オーブンの余熱で焼き上げる。
この食べ方は志賀が小池さんと後閑さんに教えたものだという。
キュウリは生のままを塩で食べる。
後閑さんは、庭でできたラズベリーでジャムを作ってくれた。
そして、病院の医師が、志賀との昼食をいっしょに楽しもう家で作って持ち寄ったローストビーフ。
極めつけは、これも朝採れたジャガイモで小池さんが作ったポテトサラダ。
「パンペイザンにのせて食べたら最高においしいから」
その通りだった。
小麦の味わいがジャガイモの甘みと見事に融合し、のびていく。
こんな贅沢な食卓があるだろうか。
都会では畑で取れたばかりの野菜など望んでもめったに食べられるものではない。
手のこんだものではなく、素朴だが、新鮮な野菜で作られた家庭料理に囲まれ、パンが生き生きしていた。
パン・ペイザン=農家のパンが、自らのもっともふさわしい場所を得たのだった。
シニフィアン・シニフィエのパンとは、必ずしも気取って食べるものではなかったのである。
ここにアウト・オブ・ポジションがあった。
たった1種類の食事パンを作るパン屋。
それを主食としてコミュニティの成員みんなが食べ、地域の食が支えられる。
パン作りの原点を彷佛とさせるものだった。
そのパンは必ずしも専門のパン職人ではなく、こんなふうに農家の女性たちの手によって竃から取り出されていたのかもしれない。
ヨーロッパの中世にはどこにでもあり、パンの発達には欠かせないものだったであろう重要なこの一段階が、日本では飛び越されてしまったか、かってあったとしてもいま忘れられている。
もっとも古く、同時にもっとも新しいパンの方向性。
大事なことは、このパン・ペイザンが「おいしい」ということだ。
おいしくないものが、生活の重要なピースを担う存在になるはずはないし、そうなったら逆に希望へとつながっていかないと私は思う。
長年の修行を積んだ職人にしか、おいしいパンは作ることができない。
群馬病院と志賀の試みはその常識の外側へ出ようとしている。
「(専門的な技術のない人でも)、ひとつのことしかしなければ、できるんです。
流れと機械が揃ってさえいれば。
ゆるくやってるから、慌ててやらないので、きちんとできますし。
何人かでやってるので、ミスがあっても他の誰かが気付ける」
パン作りの教科書の1ページ目に書かれているような、ストレート法で作る基本のパンではなく、最高峰と目されるシニフィアン・シニフィエのスペシャリテを、素人が作る。
これも常識とは正反対だ。
「(後閑さんと小池さんに)パン作りがむずかしいものという認識はなにもない。
パンを知らないわけですから、こういう段取りでと言われたら、その通りに作る。
経験のない人だからやれること。
彼らにしてみれば、初級編のパンなんて、見たことない。
いま作っているパンの作り方を聞いても、『パンってこういうものなんだ』と思うだけで、何の疑問も持たない。
レベルが高いとか低いとかいう考え方自体、おかしいのかもしれません」
群馬病院院長の濱田秀伯さんは、エルピスの試みについて、このように語る。
「群馬病院は精神科の病院です。
患者さんは長く入院します。
治りきらない慢性統合失調症ともなれば、入院期間は10年、20年。
人生のほとんどをここで過ごし、病院は自分のすみかのようになる。
病院の環境はどうあるべきか。
群馬病院は中世の修道院のあり方をモデルにしています。
畑があり、パンを焼き、村人がいる。
守るべき価値を大事にしながら、コミュニティの中でひとりひとりがそれぞれの役割を果たす。
パンを焼くのはとても大事なこと。
全員が同じものを食べ、共有する。
イメージはそういうことです」
「退院したあとは、社会の中に戻っていただきたい。
健常者でも仕事がない時代、患者さんならなおさら、退院しても仕事がありません。
自立できるよう、道を開くのも、病院の仕事。
精神科の病院には作業所という施設があります。
患者さんがものを作って売る。
ところが、それがなかなかうまくいかない。
患者さんが作ったものは、できばえがよくないこともあり、なかなか売れない。
作業所のパン屋もあるが成功する例は少ない。
だけど、ものすごくおいしいパンが作れたら、遠くからでも車で買いにきてくれるんじゃないでしょうか。
志賀さんと同じパンが作れるのなら。
いまは職員に教える段階。
ゆくゆくは患者さんだけで焼けるようになるのが目標です。
補助金の問題、採算が合うかどうかの問題もあり、現在はそれに向けた準備をしているところです」
「精神科の患者さんは臨機応変に対応するのが苦手。
発酵時間や温度をきちっと計って、毎日の条件の変化に対応するパン作りは、それが身につく。
それと、大切なのは自分のやっていることがよろこんでもらえるということ。
病気になって世間から見放されたような存在になっている。
自分のパンが世の中で役立ったり、パンを買いにきてくれるのは、ものすごく自信になる。
それを取り戻してほしい」
「いまのところエルピスのパンは職員しか買うことができませんが、予約がいつもいっぱいです。
お客さんにさしあげても、群馬病院ではこんなにおいしいパンを焼いているのかと、驚嘆されます。
群馬は米どころで、パンはあまり食べない。
エルピスのパンを食べて、パンってこんなにおいしかったのかと思っていただける。
これは非常に意味が大きい。
パンを焼くなんて思いもかけなかった、ただのおばさんが焼いているんですよ(笑)。
最初は失敗もあったが、志賀さんの指導がよくて、やる気を出させてくれた」
群馬病院での試みは、コミュニティをパンによって活性化させるためのケーススタディとして有効かもしれない。
たとえば、過疎の農村でパン焼き小屋を立ち上げる。
余暇を持つお年寄りなどが、パン作りに関わってもいい。
本当においしいパンならば、パン屋と地元の産物を使ったレストランなどを併設すれば評判を呼び、遠くから客を呼ぶことができて、経済が活性化されるだろう。
もちろん、地元の人がおいしいパンを日常的に食べることができるようになる。
そこで生産される小麦を地産地消することができる。
こういう試みが各地で起これば、国産小麦の消費拡大と、自給率の上昇につながる。
帰りの車の中で、志賀はこんな話をした。
「現場に立つことを、一生やめるつもりはありません。
頭の中で想像してても、できることは限界がある。
日々、現場に立っているからこそ、技術的な進歩がある。
机の上からはなにも生まれてこない。
福田元吉先生(JPBの創設者で、志賀の師)のよくおっしゃっていた言葉ですが、
『我々の制服はコックコート。
あれを着たらしゃきっとする』
死ぬ前日まで厨房にいたい」
「日々、材料に触れていて、材料に対する見識があるからこそ、新しいアイデアは生まれてくるんじゃないでしょうか。
使わないとわからない。
格闘するからわかってくることがあります。
原料の規格書に書かれていることは、それを作った人が予測した製法(ストレート法、中種法のような一般的な製法)の範囲内です。
僕みたいな方法(長時間発酵や高加水など一般的な製法を超えたやり方)だと、(原料のパフォーマンスも)変わってきます。
目に見えない部分、それは酵素やアミノ酸の働きなどのことですが、そこまではまだ解明されていません。
計り知れない未知数の部分。
そこに対応させるように温度や水の量を机上で決定するのは、現段階では無理。
だから厨房で格闘する意味があるんです」
通常製法を超えた、原料が予測不能な振舞い方をする世界では、誰も作れなかった新しいパンが生まれるチャンスが拡大する。
志賀は、そうした実験的な空間に身を置こうとしている。
志賀と話をしていると、パン作りというものが、普段考えられていたものとまったくちがった様相で立ち現れる。
頭の中のシミュレーションと厨房で起こる現実が追いかけ合いをする。
不断に理論を作り替え、新しい現実に合うよう果てしのないバージョンアップを行う。
パン作りとはなんと知的なゲームなのだろう。
アウト・オブ・ポジションに接近するためのもうひとつの近道は、偶発的で、アクシデンシャルな事態を呼び寄せることだ。
志賀勝栄は、この旅は人のためにしているのではなく、自分のためだと強調した。
「僕がいちばん勉強になっていると思っている。
他人から見たら、(病院で指導するようなことは)レベルが低いと思っているかもしれないけど、僕はそう思っていません」
パンのいろはを知らない人たちにパン作りをゆだねる。
そのような現場はきっとミスや事故が起こりやすく、普通の人ならなるべく避けようと願うだろう。
そこに常識を覆す発想が生まれてくる契機がある。
アクシデントは、志賀勝栄が待ち構える、歓迎すべき事態である。
そのために、彼は寝ずにハンドルを握って、新しい現場へ駆けつけるのだ。
「志賀という枠を飛び越えたい。
よその厨房に行って仕事をすると、勝手にチャンスが訪れる。
そのとき必死に考えたことが、次のなにかに役立つ」
新しい状況の中で仕事をすること、外部の人間とコミュニケーションをすることは、志賀にとってアウト・オブ・ポジションへの跳躍台なのだ。
「技術の範囲の広がりも、普段の厨房の中では、2次元的な気がしている。
実はタテヨコだけではなく、高さがある。
(技術指導に行くと)自分がいままでタテヨコの平面だけでぽんぽんと決められたことが、できなくなる。
タテヨコじゃないものが3次元にもっとあるかもしれないじゃないですか。
それはやってみないとわかりません」
アウト・オブ・ポジション。
○か×か、善か悪かという2次元=二元論からの逸脱。
私たちは、決して解決することのできない困難のなかに捕われていると考えがちである。
困難を解決し、そこから抜け出すためのアイデアは、いま気づけないとしても、3次元目に必ずあるはずだというのが、志賀の信念である。
「みなさんが『もうないだろう』と思っていたら、それがチャンス。
『もうないだろう』というのは、考えなくなっているだけなんです。
やり方が他にない、ということはない。
人類は宇宙の4%しかまだ知らないと言われています。
食品は、先人の知恵によって作られるということは確かですが、やり方はそれだけではない。
それをいつも疑っているのが僕」
私たちは困難な時代に生きている。
(たとえば原発や放射能やエネルギーの問題)
だが、困難とは2次元でとらえているからそう思っているだけで、解決策はアウト・オブ・ポジションに必ずある。
志賀がパン作りにまつわる数々の問題にまったく新しい視点から解答を与えてきたことを考えてみよう。
パンの世界で起きていることは、おそらくこの世界全体に適用できるはずなのだ。(池田浩明)
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