158軒目(東京の200軒を巡る冒険)
カロンの厨房の奥には扉がある。
まるで部屋の入口のように見えるそれは巨大な冷凍庫である。
摂氏マイナス5度に保たれた空間で、カロンのパンは熟成を遂げる。
神林慎吾シェフは言う。
「凍るか凍らないかぎりぎりの温度です。
この温度だとまだイーストが動いてくれる。
解凍する時間も短くて済むので、作業効率も悪くならない。
(低温下で追いつめられた)酵母が不凍液(=酵素)を出す。
その中にアミノ酸(うま味の元)も含まれる」
低温長時間発酵はいまやポピュラーな製法であるが、低いとはいえ常温が一般的である。
0℃を越えたマイナス5℃はほとんど試みられていない領域だ。
「すごいことが隠されている。
プラス(常温)だと発酵してしまう。
熟成だけさせるという観点から、この温度がぴたっときた」
発酵と熟成という微生物によって起きるよく似た現象に区別をつける。
発酵は酵母がでんぷんを食べアルコールと二酸化炭素を吐き出す作用である。
これがなければ生地がふくらむことはないが、発酵が進みすぎると小麦のなかの味わいとなる部分まで酵母が食い尽くしてしまう。
一方、熟成は酵母や乳酸菌がアミノ酸などの有機酸を排出する課程をいう。
アミノ酸はうま味の元となる成分で、これが増えれば増えるほど味わいは増す。
常温では熟成を進めようとすると、発酵も同時進行してしまうので、求めるような味わいを作り出すことができない。
低温下では、発酵という酵母の生存活動をいわば「凍結」し、有機酸の生成だけを進めることができる。
「3日間72時間が最高。
バゲットは10時間。
寝かせれば寝かせるほどおいしいものもある。
リッチな生地のほうがうま味がでる。
バゲットのようなリーンなものは長くやるとぶれがち。
ストレート(基本製法)のほうが効率がいいとは思うけど、一度やるとぜんぜん味がちがうので、氷温をかけざるをえなくなる」
「魔法の部屋。
とりあえずかけときゃおいしくなる。
不思議なことがいっぱいある。
ここに入れとくと劣化が遅い。
生地だけではなく、材料も粉も劣化が遅い」
国分寺などに展開する有名店ブーランジェリー キィニョンの創立者。
だが、自ら退いて、人手に渡した。
マイナス5℃の実験室でパン作りに没頭するためだ。
「僕は経営者タイプではない。
人を使って、お金がどうこう。
僕の範疇じゃない。
八王子にいっぱいあるBASEL洋菓子店にパンを卸している。
あとは自分のやりたいことしかやってない。
思いついたら試作。
ここは自分の自由なことをやるアトリエ」
中でも、ライフワークと呼ぶべきは、バゲットの追求である。
「何百種類のバゲットを作りました。
粉、イースト量、時間。
いくらでも変えられる。
それぞれに特徴があって、このバゲットにはこれがあうという料理や食材が必ずある。
今日は魚だからこのバゲットが合うとか。
香りの強さ、粉の甘み、えぐみ。
皮のやわらかさ、堅さ。
同じ酵母、同じ粉でも、焼き込んだものと、焼き込まないものでは、あきらかにちがう」
他のファクターはすべて同じでも、焼き加減がちがうだけで個性を異にするほど、バゲットの世界は深い。
日本人とフランス人でも好みは異なるし、合わせる食事によっても、バゲットの評価の基準は変わる。
「日本人は焦げた味に対する弱さがあると思う。
ぎりぎり焼き込んだものは甘い。
ライ麦にあるような、ぼそぼそ感や酸味を、日本人はみんな嫌がる。
でも、魚や白系のソースに対しては、酸味のあるパンがすごくおいしい。
ヨーロッパの感覚にぜんぶ合わせるんじゃなくて、日本人にはこれとこれの組み合わせが合う、それを追求していけばいい。
パンだけ食べるのそんなに好きじゃない。
マリアージュのよろこびではじめてすげえなと思える。
名脇役でいいと思う」
試行錯誤の末、ついに完成したバゲットは、当初思ってもみなかったものになっていた。
「カロン・セギュールという、ボルドーの重たいワインがある。
それに合うバゲットをいつか作りたいと思って、店にカロンという名前を付けたんですけど、突き詰め得いくと、カロンには合わなくなった。
おいしいバゲットを作っていけば必ず合うはずだと思っていたが、そんなに甘くはなかった。
できあがったのは、白系の魚料理に合うバゲットだった。
そのときバゲットって奥が深いなと思いました」
氷温バゲット(250円)
分厚さと、おだやかさ。
前者はフランス産小麦特有の甘さ、後者は国産小麦のものであって、その両方を含む5種類の小麦粉をブレンドしたこのバゲットは、その両方を併せ持っている。
引きの強さが硬さではなく、しなやかな弾力になっている。
ぽわんぽわんの中身に、厚みのあるハードな皮がしっかりと巻きついていて、クープのところのかりかりが絶妙、焦げも中身にふりかかると、甘さに対するアクセントになる。
フランスのバゲットは、実はそんなにおいしくないのではないか。
フランスで実際に食べてみた者がいだくそうした疑問に、神林シェフは照明を当てる。
実はパンを作るときに使う水に含まれるミネラルの仕業であると。
「(ミネラル分をより多くするために)水にコントレックスを入れるようになりました。
日本のパンは単体で食べておいしい。
フランスのパンは単体だとそんなにおいしくない。
VIRONのレトロドールは単体でもおいしいけど料理といっしょだとなおおいしい。
料理に合わせるときは、パンにもミネラル感がほしい。
以前はフランスパン専用粉を使ってましたが、いまは国産小麦やフランス産小麦の灰分の高いものを使っています。
ミネラル感(=灰分)はえぐみをうまみに変えられる。
ミネラル感がある分だけがつんときて、食事といっしょだと「あれっ」というぐらい、おいしくなる。
日本人とフランス人の味覚のちがいというのは、テロワール(土壌)であり、水であり、そういう素材を食べて育った環境のちがい。
僕たちは軟水(ミネラルが少ない)で育っている」
日本の水は一般に硬度が低く(軟水)、フランスは高い。
私たちは軟水で育ったがゆえに、ミネラル感の強い硬水の味に対して、違和感を覚える。
パンに対しても同様である。
だが、その舌をもって、パン単体で食べて、おいしいまずいと評価を下すことができない。
たとえば、フランスから上陸したとあるパンチェーンのハードパンは、それだけを食べるとミネラルの風味を強く感じてしまうが、その店が売り物にしているタルティーヌを食べたときには、本当においしい。
ミネラル感、あるいはどんな料理と合わせたとき発揮するのか、というファクターはパンを評価するときに、あまり語られなかった基準である。
そこに切り込むことで、神林さんは新しいパン文化を提案しようとしている。
「日本人に合うバゲットも可能性があると思います。
バゲットって食べ慣れてないと口の中を切る。
夏でもすっと食べられるソフトなフランスパンがあってもいい。
うまさはキープしながら、ミネラル感を落とした、日本人向きのバゲット。
和食に合うパンを作っちゃうのがいちばんおもしろいのかなと思う。
日本には洋食文化も、いろいろな食材もある。
パンって、まだまだ広められる世界観だと思う。
かっこいい食事って、心が豊かになる。
男性をもっと引きずり込みたい。
マクドナルドで育った女子にも、バゲットがある食卓を意識させたい。
きょうはバゲット買って、いっしょになにを合わせて食べるか、って発想になったらおもしろい」
バゲットのようなシンプルなパンだけではない。
副材料の入ったリッチなパンにおいても冷温熟成は真価を発揮する
72時間熟成クランベリーブール(200円)
しっとりして、やわらかい中に、弾力がある。
多角的に甘い。
砂糖やミルクや卵の入ったリッチな配合のパンだが、しっかりと小麦の風味を感じさせる。
クランベリーや、トッピングの砂糖だけではなく、生地自体からさまざまな甘さがやってきて飽きさせない。
食べた瞬間は普通のパンに感じられるが、奥の深さがあって、味わいを追いかけてしまう。
そうしていつしかこのパンにはまりこんでいて、一口また一口と食べていた。
「このパンは子供にすごくうける。
子供に食べさせて(他のパンに)負けると思わない。
子供は正直な舌を持っている。
すっと胃の中に入る感じを大事にしている。
前は、ナチュラルな食べ物がすっと入ると思っていた。
添加物を入れないからすっと入るようになるわけでもない。
このパンには砂糖も卵も乳製品も入っています。
氷温の不思議さ。
熟成を行うことで糖分が細かく分解されてストレートな糖分じゃなくなっている。
それで体になじむのかな、という気もしている。
フランスのイーストを使って、ゆっくりゆっくり3日間熟成させる。
生地のおいしいパン。
つい食べすぎちゃうんで、自分は食べないようにしています」
あんずあんぱん(160円)
白あんとあんずという甘さと酸味の組み合わせがはまる。
だが、魔力的なのはフィリングだけではない。
食べれば食べるほど、このパンのすごさがわかってくる。
水分が多く、ぐにゃぐにゃにやわらかい。
にもかかわらず、ぽよよんと弾力がある。
甘くない、白焼きの生っぽい生地が、白あんとよく合って、豆の濃厚さに対して、自家製酵母のちょっとくせのある香りが、不思議な相性を獲得している。
包んでいるようで、包んでいないような、成形しない形。
成形しきれず流れるほどしっとりとしているから、口溶けよく、あんこといっしょに溶けるのだ。
いろいろ聞いているうちに、どのようなきっかけでパン職人になったかという話になった。
それは情熱のやってくる根源を指し示すものだった。
「10代の頃、線路にのっかった人生は絶対いやだった。
でもなにをやったらいいのかわからない。
暗くて、他人と話しもできないし。
毎日悶々としてました。
大学のときたまたまパン屋で販売のバイトをすることになった。
ある日、シェフも、セカンドも、職人が全員やめて、パンを作れなくなり、僕に白羽の矢が立った。
言われた通りやるだけだったのに楽しかった。
いきなり、クープを入れることになったんだけど、なぜかできた。
なんにもできなかった僕が。
技術も美術も2以下しか取ったことなかったのに。
1週間後、パンの先生がきて、『パン作りはじめてどれぐらい?』と聞かれた。
『1週間です』と答えると、すごく驚いて『パンを作るために生まれてきたみたいだ』と。
興奮して眠れなかった。
翌日、親に内緒で大学に退学届を出した。
やっと自分を表現できるものに出会えたというよろこび。
パンを作るのが楽しくて仕方ない。
そのときも、朝6時から夜の11時まで働いて、厨房の中を走り回っていた。
どれだけ仕事の時間が長くても、あの暗黒時代に比べたら、なんにもつらくない」
カロンのパンとは神林シェフの自己表現である。
それはカロンに限らないのかもしれない。
特に変わったところのない、ありふれたパンであってさえ、「表現」なのだ。
たった1個のパンのために、たくさんの汗が流され、たくさんの時間と労力と思考が費やされている限り。
パン職人が、なぜあれほどまでに、朝から晩まで懸命に働くのかを、神林さんの話から教えてもらった。
ラ ブランジュリ カロン
JR中央線 八王子駅
八王子駅・日野駅からバス大和田坂上下車
042-682-3757
八王子市高倉町64-6(BAGEL高倉店内)
10:00〜20:00
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