165軒目(東京の200軒を巡る冒険)
私にとって、小さな宝物のような店だった。
昔、ブレッドボードの近くに住んでいたことがある。
そうでなければ見つけることができない。
メディアで派手に取り上げられているわけでもないからだ。
だから、通りすがりでこの店を見つけたときのよろこびはひとしおのものだった。
パンが食べたくなったとき、おいしいものが手に入ったとき、自転車を走らせる。
思えばそうしてブレッドボードは私の日常になっていった。
店主の津野薫さんはこの店を開く前、アンデルセンで技術指導や店づくりに携わっていた。
「おふくろが、パンが好きでいつも食べてました。
うちは広島で、原爆で焼け野原だった戦後すぐのころからアンデルセン(高木ベーカリー)におふくろはよく通っていた。
なんでも、アンデルセンの創業者は戦地から広島に帰ってきて、生きるよろこびをみんなに与えようと、『なんでもやってやるんだ』という意気込みでパン屋をはじめたそうで。
おふくろが買ってくるアンデルセンを食べて育ち、僕もパン好きになりました。
大きくなって大学に入ってもやることが見つからないままで、そんなときおふくろが『アンデルセンに面接行ったら?』って(笑)」
パンではなく、ブレッド。
ブレッドボードのパンはアメリカで育まれた。
「3、4年、現場に出たあと、希望してアメリカの子会社に行きました。
5年間ニューヨークにいました。
アメリカのパンは、当たり前ですけど、すごくヨーロッパ的ですよね。
菓子パンとか惣菜パンじゃない。
日本人にとっての米のような、食事パンが中心。
バゲット、ライサワーがあって、食パンもある。
スペインのパン屋さんに2週間ぐらい、生活をともにするぐらい、つきっきりで教えてもらいました。
カルチャーショック。
スペインのやり方で種を起こして、本当に時間をかけて作るパンを見せてもらいました」
まだ自家製酵母が日本ではあまり広まっていなかった時代に、パンの原点を目の当たりにしたことが、津野
さんの基礎になっている。
「欧米ではパンが生活の中に入っている。
パンはキリストの体、ワインはキリストの血だといいますけど、その感覚がわかった。
パンが人間の体を形作っている。
そういう気持ちで作らなきゃいけないと思います。
素材を生かしながら、生活に密着してパンを作る。
僕、コックでもなんでもないんで、小麦と酵母を使ってパンを作る。
ただ、それだけです」
アメリカの洗礼を浴びたのは、パンだけのことではない。
雑貨に彩られたこの店のインテリアは、いっしょにアメリカへと同行した夫人の仕事である。
「家内は雑貨おばさんと呼ばれています(笑)。
前職は雑貨屋。
ちょうど僕らの年代というのは、雑貨がブームになったはしりで、この人はその栄枯盛衰をぜんぶ見てきた」
カリフォルニアでオーガニックの素朴なレストラン「シェ・パニース」を開き、世界的に有名になったアリス・ウォーター。
かわいいイラストが載っている彼女のレシピ本は奥さんのお気に入りだという。
「シェ・パニースが大好きなんです。
絵本をコピーしてパウチして貼っています。
私たちがちょうどアメリカに行ってたころ、アリス・ウォーターの『ベジタブル』という本が出た。
出版記念のイベントに行ってサインをもらいました。
握手もしてもらって(笑)」
パンの味は本物だったとご主人も振り返る。
「アクメ・ブレッドとカフェ・ファニーをガレージでやってる頃で。
すごくおいしかったなあ」
客がひとりかふたり入ると、もういっぱいになってしまう。
写真をうまく撮るアングルさえ見つけられないほどの狭さ。
この小さな店で経営を軌道に乗せているのは。アンデルセン時代の経験則が生きているからだ。
「アンデルセンの商品構成の通りにやったのがよかったですね。
スイート6割、食事パン2割(うちフランスパン1割)、惣菜パン2割。
それを基本に試行錯誤でやってみようと。
うまくはまりました。
これでいいんだ。
でも、長い目で見たら、常連のお客さんについてもらわないといけないんで、食パン、イギリスパンは安めに設定しました。
そこの利益は我慢して、おいしいのを一生懸命作る。
儲けは少なくなったけど、お客さんはついた。
製造は完璧にやるんだけど、接客は隙があったほうがいい。
かわいらしく、フレンドリーに、一歩引いてあげる」
イギリスパン1.5斤(273円)
店主の狙いにものの見事にはまっていたのかもしれない。
このパンを朝食べるためにブレッドボードに通い出したのだから。
なんといってもこの食感。
やわらかく沈み込み、ある地点でコシにぶつかる。
それに抵抗されつつ、戯れる。
いっぽうでパンは溶けつづけるから、噛むことが快感になる。
この食パンの魅力は、甘さではなく、リーン(シンプルな小麦の味わい)であること。
皮の香ばしさ、中身の小麦味は、塩気に高められ、噛むごとに濃厚になっていく。
カンパーニュを作って食事の中に入り込もうとしているんですが、なかなかむずかしい。
食べ方がむすかしいとお客さんが思ってしまうんですよね。
やっぱりカンパーニュのオープンサンドが究極ですね。
新鮮な野菜と、チーズとハムに、ドレッシングかけて食べたら天国。
あとは、亜麻の実のパンなんか、ドライブのときにいい。
旅行のときって甘いものを食べがちなんだけど、こっち食べたほうが、体もよくなりますし。
キャラウェイシードのヴァイツェンミッシュブロート(ハーフ240円)
このスパイスの使い方は新しい。
キャラウェイシードの、ミントに似たすっとする香りがパン全体から立ち上っている。
それはライ麦の香りに通じるところがあって、その香ばしさに寄り添って一体になる。
舌先を刺激するわずかな酸味もそれと響きあい、ライ麦のコクをいっそう燃え上がらせ、口の中を吹きすさぶ。
ストライプの入ったバナナ型のキャラウェイシードがトッピングとして散りばめられているのもかわいい。
アーティチョークとハーブのフォカッチャ(231円)
噛んだ瞬間、マリネしたアーティチョークの酸味がほとばしって、口がいっぱいになる。
その鮮烈さゆえに、背後からじょじょに高まってくるフォカッチャ生地の風味が、よりいっそうあたたかく感じられる。
パンの甘さにもキレがある。
アーティチョークが消え去ったあと、滲みこんだヴィネガーだけでおいしく食べられるほど、このフォカッチャは秀逸である。
「おいしいってなんだろう。
自分がおいしいのがいちばん。
自分の店で残ったパンを食べたとき、『これうまいなー』って心から思えなきゃだめですよね。
お客さんに『おすすめは?』って聞かれるんですけど、『ぜんぶです』って答えます。
おいしいパン作るっていう使命感ですよね」
自分が本当においしいと思ったものだけを出すということ。
自分と客を分けないということ。
パン職人の良心とは、一言でいって、これに尽きるのではないか。(池田浩明)
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