パンを作りだす酵母たち=サッカロマイセス・セレビシエ。
あの小さな生き物たちの話を聞きにいった。
イーストの研究者たちは、私たちの目に見えない酵母のミクロの姿を日々顕微鏡で見つめている。
酵母の基本知識
まず、基本的な事項を押さえておこう。
イースト、パン酵母、酵母。
呼び方がちがうだけで同じもの(サッカロマイセス・セレビシエ)である。
大きさは数ミクロン(1ミクロン=0.001mm)、体の表面から糖分を取り入れてエネルギーとし、アルコールと二酸化炭素を排出する。(これを「アルコール発酵」という)
酵母が作りだしたアルコールはパンの風味の元となり、二酸化炭素は生地をふくらませる。
つまり、酵母という生き物の営みをうまく利用することでパンは作られるのだ。
酸素がある環境では分裂し、数を増やしていく。
「出芽」というやり方で、まるでたんこぶがむくむくとふくらんでいくようにして分身を生みだす。
酸素がない環境ではアルコールと二酸化炭素を排出する。
これはパンの風味やふくらみの元となる。
イーストはどのように作られるか。
あまたある酵母の中からパンの製造に適した株が選ばれ、無菌状態の試験管で培養される。
その後、培養タンクに移され、糖蜜(サトウキビから砂糖を精製するときにできる余剰物質)を原料にした培養液の中で増殖する。
酵母の活動に適した温度・pHに調整されたタンク内に大量の酸素と培養液が送り込まれ、10数時間で10倍以上にも増殖する。
タンクから出ると遠心分離機で培養液から分離され、洗浄や脱水、成形という過程を経て、商品になる。
酵母は世界からハンティングしてきた
オリエンタル酵母工業株式会社の中島亮一さん、古川周平さん、佐藤彰さんに話を聞いた。
イーストを製造する元となる最初の1個の酵母はどのように選びだされ、育種されるのか。
「オリエンタル酵母では、マイナス80℃の冷凍庫内で数万種類を保管しています。
かってパン種や発酵食品などから分離した、パンの製造をしやすい株を品種改良したエリート株が、パン酵母として商品化されます。
酵母の開発者はいわばブリーダー(動物の繁殖と改良を行う者)なので、すでに持っている酵母を品種改良していくのが、世界的に主流です」
日本初のイースト会社であるオリエンタル酵母が設立されたのは1929年。
世界を渡り歩いて酵母を採取していたのは草創期のことだ。
「現在保存されているのは、たとえば、戦前にヨーロッパへ出張して分離したものとか。
いまだと防疫のための法令に抵触し問題がある部分も、許容されていた時代。
ブリーディング(育種)の技術がまだ発達していなかったこともあって、探して取ってくるのがメインの時代でした。
その頃、数多く集めたものが、いまでもストックされているわけです」
イーストでのパン作りがはじまったのは、19世紀後半以降。
それ以前は、当然だが「自家製酵母」のパンしか存在していない。
ヨーロッパには数千年に渡るパンの伝統がある。
気の遠くなるような時間をかけ、種を継いでいくことで、パンに向く酵母を選別してきたといえる。
顕微鏡こそ使っていないけれど、イースト会社が行っていることと基本は変わらない。
「ヨーロッパでは、古くからパンの文化がはじまっています。
家庭で長年パン種を継いで、その過程でセレクションされ、パンを作ることに特化している酵母。
そういうものを品種改良していくほうが、よりいいものを作りやすい。
弊社がはじまって、古くから海外に行って、種を分離できたもの。
その中から現代のベーカリーが求めるものを選んで、育種していくわけです」
試験管の中に保管された数万種もの酵母。
酵母と一口にいっても、人間ひとりひとりにさまざまな個性があるように、それぞれの酵母の株もすべて異なっている。
その中から、ユーザーのニーズに合った性能のものを選びだし、酵母と酵母を掛け合わせて、いままでにない特徴を持つものを作りだす。
「保管されている菌株には、特徴まで把握しているものもあるし、そうでないものもあります。
家系図のように、どの株とどの株を掛け合わせてできたという記録が何十年分残されている。
それを遡れば、分離元はヨーロッパのパン生地だったりします」
イーストが開発されるまで
新商品はどのように作られるのだろう。
「まずは、ベーカリーのお客様、ホールセールのお客様の求めている品質を実現できるような酵母であることが、我々の着目するところです。
風味ももちろんですが、どうふくらむかが大前提。
それから、イースト臭がない、マイルドなもののほうがいい。
そういうものを選んでいきます。
どんなイーストがいいかは、お客様の製法にもよりますね。
ミキサーボウルの中に小麦粉と水とイーストが投入された時点から、発酵がはじまる。
酵母の種類ごとに、発酵スピードはまちまちである。
いきなり活発に活動を開始するスタートダッシュのきく酵母なのか、時間をかけてじわじわとふくらみ、うま味を出す酵母なのか。
さらには、味も加味される。
おいしいパンを求めて研究は進められる。
「(試験管の中で)液体で発酵させれば、発酵力はわかりますし、そのとき匂いを嗅げば香りもわかります。
けれども、焼いたあとのパンの風味がそれとリンクするかというとそうではない。
焼く前の香りだけで酵母を選ぶ技術がまだない。
パンを焼いて風味を調べます。
匂いを嗅ぐ、味わうという行為、つまり官能による評価です」
味覚の科学はここまで進んだ
バイオテクノロジーの最先端であっても、おいしいという評価は人間しか下すことができない。
だから、イースト会社の研究室では日々パンが焼かれ、食べて味わわれる。
「機械で分析することも行ってはいます。
分析することができても、それをどう評価するかがむずかしい。
こういう傾向のとき、こういう匂いになるとか、こういう食感になるとか。
でも、毎日食べている方の味覚というセンサーには及ばない。
ふるいはかけれるけど、最終的には人間の感覚が頼りです。
パンの風味分析は日々進歩していますが、トータルでこれがおいしいパンの匂い、というのを分析結果から導きだすことはできない。
嗅覚自体はむずかしくありません。
特定の官能基(匂いの元)に反応するだけです。
それが頭の中でどう処理され、イメージされるかは、ひとりひとりで異なります。
ひとつひとつの反応が、頭の中でどのように構築されるか、科学の力はそこにまだ及んでいない」
パンの風味を形作る、多種多様に渡る成分。
それらを完全に言い表せるほど、私たちの科学は進んでいる。
けれども、「おいしい」を法則化することはいまだ実現していない。
成分と成分の組み合わせがなにを意味するのか、なぜ「おいしい」という感覚が脳裏に浮かぶのか。
あたかも積み木で遊ぶ子供のように、さまざまな成分の積み木を一度ばらばらにしてしまうと、もう元には戻すことができないのだ。
「鼻をつまんで食べるとおいしくない。
味覚と嗅覚はリンクしている。
甘い匂いは食べたことがなければわからない。
甘いものを食べて、そのときする匂いから認識している。
単品単品では理解していない。
どっちかがすごく優れている人間はいない。
両方がすぐれていないと感応できない。
食べてるときに口の中から匂っている。
それも嗅いでいる。
内側からくるのか、外側からくるのか。
おいしいパンという記憶はもっとむずかしい」
ワインのテイスティングでは、鼻から感じる香りをアロマと呼び、口の中で感じる香りをフレーバーと呼ぶ。
空気によっても分解され、風に舞う成分がアロマであり、唾液で溶ける水溶性の成分がフレーバーだといえる。
融点が36度前後に存在して体温で溶けるカカオのような成分も存在するだろう。
そうした分解の性質まで加味するなら、風味の分析は極めて難解なものになる。
また、「おいしさ」は記憶とも関わる。
それはかって経験した感動に基づくゆえに、人それぞれでしかありえないのだ。
イースト研究者が語った自家製酵母
「私たちの会社ができたのは1929年。
それ以前の、イーストがなかった時代、一般のパン屋さんはどうやっていたか。
種を継いでパンを作っていました。
杜氏のような人がいて、瓶を腰に吊るしてずっと持ってて、種が駄目になると瓶の中から元種を取り出して、再生させる。
非衛生的で、再現性が乏しい(その道を極めた職人がパン作りを独占していた)。
イースト会社では純粋な状態でイーストを培養する。
パン種の中にはイーストだけじゃなく、いろんな微生物がいます。
理想的な生地の環境では酵母と乳酸菌がメジャーになって、他の微生物をよせつけない。
酵母はアルコール発酵し、乳酸菌は乳酸発酵します。
つまり、酸とアルコール濃度が高いので、他の微生物が寄ってきにくい。
そういう環境を作れば集積(=酵母と乳酸菌だけが集められる)がかかります。
その代わり、うまく作らないと、悪さをする菌が増えてくる可能性はある」
自然状態にはさまざまな菌があふれている。
そこへ小麦粉と水(そして温度や湿気)で「種」という、酵母の生育に適した環境を作りだし、酵母と乳酸菌の共生環境を作り上げていくことが自家製酵母作りである。
酵母と乳酸菌が優勢に一度傾きはじめると、pHが下がり、アルコール濃度も上がることで、さらに酵母と乳酸菌のみが居住できる環境になる。
これが、自家製酵母種の仕組みである。
「いろんな酵母がパン生地(種)の中で増殖する。
過密になった酵母どうしが交雑するかもしれないし、環境に合う様に進化するかもしれない。
ここに乳酸菌が共生し、他の微生物を寄せ付けない安定したパン生地ができあがる。
このパン生地の中で選ばれた酵母と乳酸菌が増殖する。
これには数十年という単位の日数が必要となる」
イースト研究者の目から見ると、自家製酵母作りは私たちが考える以上にむずかしい。
パンに適した酵母を育てるには多くの時間と幸運が必要である。
「自然界はむずかしい。
その中に落ちてる酵母から、パンをふくらませられるものを見つけられる確率はすごく少ない。
見つけたいのはサッカロマイセス・セレビシー(セレビシエ)1種だけ。
自然界に酵母自体が少ない中で、その数400種の中のたった1種を拾う。
たまたま拾ったその1個や2個がパンをふくらませる力のある株かというと、そうではない。
何百拾って、パンをふくらませる力があるものが1個見つかるぐらいの確率」
自然界において、酵母はさまざまな微生物との共生関係にある。
その中から酵母一種のみを取りだして純粋培養することで失われたものもある。
いまイースト会社は、自家製酵母のよさを再発見している。
「オリエンタル酵母は純粋にイーストだけで発足しました。
それは我々の反省点です。
ほかの微生物もパン生地の中にいる。
実は有用なんじゃないか。
風味づけ、味つけという点では、かなり有効。
発酵液や発酵風味液は、そうした発想から作られました。
昔ながらの植え継がれた生地を再構成してあげる。
そういう種の中では酵母と乳酸菌は共生状態にあって、お互いに邪魔しない。
乳酸菌も風味物質を出す」
乳酸菌の甘さ。
それは小麦の味わいや香ばしさと重なり合うことで、ふくよかさや複雑さなど、人にめまいを起こさせるような深さをパンに与えるだろう。
また、その土地その土地で微生物の種類が異なるということも、自家製酵母の魅力である。
世界中にはその土地でしかできないパン(種)が存在する(イタリアのパネトーネやアメリカのサンフランシスコサワーなど)。
世界中のパンをひとつひとつちがう味わいにしているのは酵母の個性なのである。
酵母の個性とはなにか
「人間にもいろいろな特徴がありますよね。
陸上がすごく優れている人のグループ。
勉強ができる人のグループ。
酵母はまずそういうカテゴリーで分けられます。
そのカテゴリーというのは、パン酵母、ワイン酵母、ビール酵母。
すべて、サッカロマイセス・セレビシーであることは変わりません。
その中に、人間と同じようにひとりひとりがいる。
たとえば、この吟醸酒にはこれしか使えないという種類があります。
それは人間にたったひとりの個性があることと同じです。
保管している数万種のうち、個性がしっかりわかっていて、いつでも製品にできるのは100種。
系統もわかっている。
分岐点になる菌種がいる(系統の始祖となる、家長のような存在)。
この系統とこの系統を掛け合わせるとかなりいい、という今までの経験則から予想して掛け合わせます」
イースト研究者という仕事。
白衣を着て研究室の中にいる知的な職業というイメージだが、聞けば聞くほど、ロマンティックなものに思える。
たとえば、いつの日かダービーを勝利するために、血統表を睨んで数百年の名馬の伝統を追いながら配合を決める牧場主のような。
育種という本質において、両者は変わらない。
たとえば、さっきまで食べていたパンをふくらませたイーストのことを想像してみる。
それはかってヨーロッパの伝統あるパン屋の生地中にいたものの子孫かもしれない。
DNAは脈々と受け継がれ、世界のまた別の場所で継がれてきたものと決してありえなかった邂逅を果たし、子孫を産み落とす。
私たちが食べるパンの味わいには、オリジナルの土地で食べられていたパンの味が幾分かはあるのだろう。
パンの一口は一瞬で空間を超え、時を超える。(池田浩明)