2月25日、東京駅丸の内のKITTE内にある書店マルノウチリーディングスタイルで開かれた。
お迎えしたのは、国産小麦の使い手である3人のパン職人、米山雅彦さん(パンデュース)、蔭山充洋さん(充麦)、割田健一さん(銀座レカン)。
米山さんは九州産、蔭山さんは自ら作った神奈川県三浦産、割田さんは北海道産の小麦を使ってパンを作る。
規定演技としてバゲット、そしてもうひとつ、自由演技としてその小麦を活かしたオリジナルのパンを作っていただいた。
銀座レカンの割田健一シェフ。
レストランのブーランジェ・シェフという立場を、ユニークな活動の起点に据えている。
割田さんは自分のパン屋を持たない。
いや、強いていうなら、彼の「パン屋」は人と人のあいだにある。
割田さんは「誰かのためにパンを作りたい」と言う。
カフェやレストランやイベントのために、その場所や料理にあったパンをオーダーメイドする。
ときには自分の友人のために、その日限りのパンを作ることもある。
TPO=Time(時間)、Place(場所)、Opportunity(場合)。
そして、素材。
ありとあらゆることを考え尽くす中から、クリエイションが生まれてくる。
『パン欲』冒頭に出てくる一面の小麦畑。
北海道・十勝にある前田農産のもの。
割田さんには前田農産の小麦を使ってパンを作っていただいた。
この日限りのバゲットにもまったく手を抜かず、何度も試作と思索を繰り返して辿り着いた。
「前田農産さんのキタノカオリをベースに、前田農産のキタホナミと、もうひとつ北海道産小麦粉を加えたバゲットです。
最初に3種類の小麦をそれぞれ1本ずつで作ってみて特徴をつかみ、どう落とし込んだほうがいいか決めました」
割田さんはずっと悩んでいた。
キタノカオリという小麦を知ってもらうために、キタノカオリ1本でバゲットを作るのがベターなのか、バゲットとしての魅力を優先して、他の小麦ともブレンドするのか。
結果、ブレンドすることに舵を切った。
「キタノカオリ1本でもおいしさは出るが、普段いろんなバゲットを食べてる人にはものたりなくなっちゃう。
広がりや深みが足りない気がして。
それが逆に1本で作ることのいいところなんですけど。
香りがもっとほしかったんで、北海道産の中でも、面白い特徴が出るキタホナミを入れました。
キタホナミはもともとうどん粉なので、3口、4口噛んだあとで、最後にねちっとする。
そういう感じがあったほうが、北海道産を食べていることをより実感できると思って」
割田さんのパンにおいてはいつもそうなのだが、伝統に裏打ちされた「バゲット」というレギュレーションは頑なに守られる。
にもかかわらず、過去に食べたことのない新しさを感じさせるのだ。
北海道産小麦のもつ、なつかしさ、野の感じ、ある意味での野暮ったさ。
それを、パン・トラディショネルという器の中へ盛ったという印象を持った。
単行本『パン欲』の中で、前田農産の畑を訪ねた一文は「パンの香りがする畑」と題されている。
私が訪ねた日。
折しも、雨粒こそ降らないまでも、たっぷりと湿気を含んでいると感じられる重い空気に覆われていたあの日の畑のことを、このように書いた。
「さっきから私の周囲に立ちこめていた匂い。
それは、キタノカオリで作られたパンが発するのと同じものだった。
中身だけ口に放りこんで、溶けるにまかせたとき、やわやわと崩れる身から立ちのぼる穀物的な香り。
米を研ぐときの匂いにも似ていて、おそらくはデンプン質が水に溶けて蒸発することによるのではないかと思った。
雨どころか湿った空気でさえ溶けだすほど繊細だからこそ、キタノカオリは口の中であんなに甘く溶けるのだ」
あの日の香りと似たものを、口に放りこんだバゲットが消え入るとき喉から鼻へと抜けていく香りの中に見事に嗅ぐことができた。
(パンはその場でカットされライブ感を演出)
そして印象的な塩。
銀座レカンというフレンチの超一流店に入って、シェフたちがいかに塩加減を大事にしているか知ったという割田さん。
塩の種類や分量を操って、パンに奥行きを与える。
「イベントは夕方だったので、味は繊細に持っていくより、力強いほうがいいと思いました。
朝だったらキタホナミ1本で軽くいくところですけど、味は強めにしました。
バゲットだから、軽いんだけど、しっかり。
塩のニュアンスもいつもよりきかせましたね。
しっかり食べたという感じがあるように。
たとえるなら、具なしの塩おにぎりを食べる感覚。
いつものバゲットより太くしました。
中身を多くしたかったんですよ。
あの会場で、皮だけ食べても、味がわかんないと思ったから。
国産小麦は皮よりも中身がおいしいはずなんで。
国産小麦のいいところは塩がのるところですね。
麦自体の味が若干薄めに感じられるので、逆に塩はいい感じにやさしくのる。
やさしいけどちゃんとくる部分があるというように」
中身が溶けはじめてのち、ミネラリーな変化が訪れ、塩の印象が強まる。
北海道産小麦に合わせた北海道産の塩。
印象深いのに、きつくはなく、むしろやさしさとして感じられる。
北海道産小麦と同じように、日本の塩もまた、日本人の体質や心性とあっているからなのだろう。
もうひとつのパンは「池田マフィン」。
私がいつもかぶっている帽子を象ったという、その形。
割田さんはプレゼンテーションにもこだわり、わざわざ型をもってきて、そこからマフィンを取りだして、供した。
キャラメルとバナナを混ぜ込んだ甘いマフィン。
全国的にも珍しい、前田農産が栽培するポップコーン用のとうもろこしからポップコーンを作り、さらにそれを砕いたコーングリッツを上にまぶしている。
キタノカオリの黄色い甘さ。
コーンやバナナの持つ、黄色をイメージさせる明るい甘さは、それととてもよく合っていた。
「国産小麦のもうひとつのよさって、フランス産、北米産に比べ、香りも味も薄いというか、より繊細なところ。
だから、なにかを練りこんだときに、素材の味が活かされる。
口溶けもいいですし。
キャラメルバナナって、けっこう味が繊細なんで、パンに練りこんで素材のよさを引き出すのむずかしい。
国産小麦だと、ちゃんと活きる」
私は壇上でこのマフィンを食べながら、本当はコーヒーを飲みたくてしかたなかった。
このイベントはワンドリンク付きで、世田谷・奥沢にあるオニバスコーヒーによるスペシャルティコーヒーもいっしょに楽しめる。
割田シェフの計算はそこまで行き届いていたのだ。
(上から、パンデュース米山さんによるバゲット、充麦・蔭山さん、銀座レカン割田さん)
パンデュースの米山さんは、九州産ミナミノカオリで作ったパンを自ら抱えて大阪から新幹線で駆けつけてくれた。
米山さんらしいバゲットだと思った。
伝統的な形とは似つかない、クープ(切り込み)のないつるつるのバゲット。
硬さよりしなやかさ。
中身はしっとりぷるぷる。
九州産らしい雄々しい甘さが湧きあがってくる。
小麦の作り手は熊本県菊池市の有機栽培農家・東博己さん。
ふさふさの土。
阿蘇山の麓にある、東さんの畑の土のことを、米山さんはそう表現した。
地域においていちはやくオーガニックを手がけた先駆者。
すべてのパンを国産小麦で作る米山さんが絶大な信頼を置く農家である。
「この粉はミナミノカオリの全粒粉ではないですが、灰分(ミネラル)の高い粉です(小麦の粒の外側のほうの風味の濃い部分まで使用している)。
ロール挽きの昔ながらの製粉機で東さんが自家製粉した粉。
ちょっとふるって皮の部分を取り除いたものです。
粉の2割を湯種(お湯で小麦粉を捏ねてでんぷんをα化させる製法)にして仕込んでいます。
国産小麦の甘さにパンチを出したいと思って。
いちばん最初はディレクト法(標準的な製法)で作ってみました。
冷蔵長時間発酵にして国産小麦の甘み出すのがいいかなと思った。
でも、それだけではちょっと物足りないかなと。
それで、湯種にしてみたらもちっとした食感もあるし、甘みも増しました。
最初に日に、湯種を仕込んで、2日目に本捏ね、ひと晩冷蔵発酵させて、3日目に焼く」
パン・トラディショネルの枠の中に踏みとどまった割田さんのバゲットとは、対照的な斬新さ。
バゲットがフランス産小麦をおいしく食べるために長年の試行錯誤によって作られた発明だとするなら、このバゲットは伝統の枠にこだわらず、国産小麦を日本人の嗜好にあった形で食べるため方法を探り当てたものだ。
「割田君がぱりっとしたバゲットもってくるやろなと思って、それとは別のものを。
クープも入れないので、水分が蒸発しないで、しっとりとコッペパンのようになる。
クープあるタイプ、ないタイプをテストしましたが、ないほうに行き着いた。
もちっとごはんのような食感が際立って表現されたんじゃないかな。
ミナミノカオリという小麦自体の風味も湯種で上がってきました。
スタッフみんな『いいね』って言ってた。
結果論として、あの粉を、僕が思う国産小麦の食事パンとして食べてもらう。
フランスのフランスパンのようにやろうと思うと、ぜんぜんちがう製法になる。
僕はこういうほうが自分の好きな国産小麦の食べ方です」
(大阪駅にあるデ トゥット パンデュース)
もうひとつは、パンデュースでも日々供している、ミナミノカオリ全粒粉100%のパン「ミナミちゃん」。
全粒粉100%のイメージとは裏腹に、みずみずしく食べやすい。
喉につかえるような嫌みもなく、すがすがしい甘さだけを味わえるパンだ。
「オーガニックの小麦なんで、風味がやさしいんですね。
全粒粉だけど、えぐみがあるかというと、そうでもない。
それでもふすまの香りを消すために、洗双糖を少しだけ入れて、苦み・えぐみを少なくしている。
ちょっとはあったほうがいいと思ってるんで。
苦み・えぐみもうまみ。
ぜんぶ消す必要はないが、少し残るようなバランスで、2%洗双糖を入れました。
小麦自体も甘い。
香りの強い粉。
東さんの育てた小麦の力ですね」
(右から、米山さん、蔭山さん、割田さん)
マグロの名産地として知られる三浦半島の三崎。
充麦は自ら小麦を作り、パンを作る、全国でも珍しいパン屋である。
蔭山さんがこのイベントのために作ってくれた2種類。
「三浦産小麦を使ったバゲットとコンプレ。
全粒粉を20%入れています。
三浦産小麦、ニシノカオリという品種1本。
ニシノカオリは食べるときのインパクトが弱いが、噛んでいくと甘さがある」
これが三浦の小麦だという強烈な主張。
口の中で野の香りが渦巻くのだった。
「うちの畑では、たい肥に馬糞を使っています。
知り合いの乗馬クラブから大量に譲ってもらっている。
たい肥で作った土には甘さがあります。
野菜も小麦も甘くなる。
農薬も使ってないので、草が生えてくる。
それを散歩にきた馬が食べてくれる。
サイクルができあがっているんですよね」
小麦とは北海道のようなどこか遠くで作られるイメージがある。
だが、かっては全国どこでも作られていた作物だった。
もちろん充麦のある、三浦半島でも。
「小麦が三浦で作れるのも知らなかったし、身近でそういうの見てませんでした。
でも、昔の人は三浦で小麦を作っていた時代を知っている。
小麦を作りはじめてみると、70歳前後のおばあちゃんがうちの畑見て、麦踏みはこうやってやるんだよ、と教えてくれた」
小麦を自ら作る体験は、蔭山さんに、現代農業の矛盾を気づかせることになった。
「消費者にとっては、スーパーに行けば、野菜はぜんぶ同じ。
どこの誰が作ったものかわからない。
農家の側から見ても、収穫したものはJAが取りにくるものだと決まっている。
だから、せっかく農作物を作っても『おいしかった』とかフィードバックは一切ない。
たまにくるとしたら苦情ぐらい。
それではモチベーションが下がると思います。
顔の見える野菜は、買うほうも、作ってるほうもうれしい。
生産者にとっても、消費者にとっても、モチベーションに変わる。
直売所、ファーマーズマーケットがいま流行っていますよね。
お客さんと直に接して、声を聞けるのはすごくプラスになる。
1度買っておいしければ、その農家さんを目指してまたきてくれたり、お客さんも選んでくれる。
すごくいいなと思います。
農家さんと仲よくなって、『雪でたいへんだったんだよ』とか話を聞くと、野菜を食べることがありがたみに変わる。
僕が本当に伝えたいのは、パン以上に、そういう感覚なんです」
充麦はオープンキッチンである。
売り場の向こうで蔭山さんがパンを作っていて、お客さんと話をする。
パンのこと、麦のこと。
パンを買うことは単なる消費ではなく、コミュニケーションの機会になっている。
そこでは蔭山さんの人柄もしっかりと伝わっている。
顔と、思いと、パンの味が一致する。
「いつも野菜をくれる友人がいるんですが、それが食卓に上ると、そいつの話になる。
野菜を食べるとき、そいつの味を味わっているんですね。
作った人のことを思って食べるのって、大事なことかなと思います。
充麦はその感覚を売っているイメージです。
たとえば、農家って、物々交換が成り立っている。
漁師さんがサバくれたから、お返しにキャベツあげたり。
嫁の実家が農家なんで、そういうのを身をもって体験している。
作物を作った人を思って食べる経験をするの、すごくいいことかなと思いました。
それを実際に小麦でやろうと思って、店を立ち上げました」
充麦の目の前は畑。
数百メートルいけば、砂浜。
東京の近くにこんなに自然があったのだとはじめて気づく。
充麦に行くことは自然への扉を開くことである。
「最初は横須賀の町の中で物件を探していたんですが、なんかちがうなと。
『売れなきゃいけない』が最初にきていて、まず人口の多い場所でやろうとばかり思っていました。
そのうち、なんで畑の近くに出さないんだろうって、気づいた。
やりたいことをやるためにお店をはじめるはずなのに、お金を稼ぐことが最初にきてた。
お店をはじめる不安で、頭の中でごっちゃになっちゃうんですよね」
蔭山さんはこれからやってみたいことを話してくれた。
カフェの計画。
三崎付近の農家の食材を使い、充麦のパンが出るカフェを作りたいと。
それから、パン教室。
種を蒔くところからはじめ、麦を収穫して、粉にし、それでパンを作る。
こんなパン教室は充麦しかできないし、もし実現したら日本で唯一のものになるだろう。
三者三様のパン、三者三様の麦。
パン職人の生の声を聞きながら比較テイスティングすると、パンの感じ方はまったく変わってくる。
麦の作り手の思いまで、パンを通じて体感していただくことができたのではないだろうか。
ご来場いただいた方、3人のパン職人、イベントにご協力いただいた関係者のみなさま、そして小麦を作ってくれた人、蔭山さんに加え、前田農産の前田茂雄さん、東博己さんに感謝を捧げたい。