十勝小麦キャンプレポート1『小麦畑体験バスツアー』
2014.08.31 Sunday 16:17
小麦農家、製粉会社、ベーカリーが手を携える1年1度のイベント
日本最大の小麦産地、北海道・十勝地方。
全国の人たちに十勝小麦で作られるパンのおいしさを知ってもらうため、あるいは十勝のパン屋のレベルアップのために「ベーカリーキャンプ」がはじまったのが6年前。
シニフィアン・シニフィエ志賀勝栄シェフ、元ジェラール・ミュロ山院丙蝓頬シェフ、ブラフベーカリー栄徳剛シェフなど、国産小麦を熟知した有名シェフを十勝へ招き、地元のパン屋、小麦農家、全国から集まったパン関係者と交流を深めてきた。
そこで培われた知見や人びとの絆が、国産小麦の普及にどれだけ貢献してきたか知れない。
北海道農業研究センターで育種という仕事を覗いてみる
6年目の今年も7月15〜17日まで、帯広市を中心としたエリアを舞台に「小麦キャンプ」と名を代えて行われた。
第一日目の行程は、育種、生産、製粉と、種から小麦粉になるまでの現場を、順を追って巡るものだ。
参加者をのせ、帯広空港、帯広駅を出発したバスは、帯広近郊の芽室町にある北海道農業研究センターへと向かった。
かってはほとんどが外国産小麦で作られていたパンだが、近年、国産小麦のパンもポピュラーな存在になった。
農業研究機関によって開発された新品種が日本の小麦粉の製パン適性を飛躍的に向上させたためだ。
北海道農業研究センター(北農研)の長澤幸一さんが、「育種」と呼ばれる仕事について教えてくれた。
別の品種同士を掛け合わせ、新しい品種を生む「交配」はどのように行われるのだろう。
小麦の花が咲く6月中旬、別の品種の雄しべと雌しべを交配させ、掛け合わせる。
「穂の半分ぐらいをざくっと切って、上は取っ払います。
穂の真ん中あたりにある花が成長が早いのでその雌しべを使います。
同じ穂にある雄しべは、受粉しないように、花粉を出す前にピンセットで取り除いてしまう。
お父さんにしたいほうは、花が咲きはじめた穂の下の方(花粉を出す準備段階のもの)を切って雄しべを取り出して、手であたためながら花粉を出して、それを雌しべにかける。
そうしてできた実を種として使います」
新しくできあがったさまざまな種から、いらないものをふるい落とし、優秀なものを選びだす。
目指すのは、たくさんの収量が安定的にとれ、タンパク量が多くてパンを作りやすい小麦。
「1シーズンに3000種の交配種子を手作業で蒔いていきます。
前年に花粉をつけて作った貴重な品種ですが、まずは見た目でばっさりふるい落とします。
病気のものはダメだし、単位面積当たりの収量も検討します。
製粉性や、歩留まり(粒のうちどれぐらいの割合を小麦粉として使えるか)。
パン、ラーメン、パスタ、お菓子を作って、ダメとなったら、どんどん切る。
パンではグルテンがきちんとできたかどうかや、内相のでき方を調べたり、実際に食べてみて味、口溶けなどの官能評価を行います。
この作業は1年がかり。
交配から10年でやっと1つの品種が完成する。
数万種からたった1つが選びだされます」
こうして誕生したものにはどんな品種があるのか。
それまで麺用ばかりだった国産小麦において、早くからパン用として生みだされたのがキタノカオリだった。
「小麦には、秋に種をまく『秋まき小麦』と、春にまく『春まき小麦』があります。
北農研では秋まき小麦に注目してきました。
秋まき小麦は生育期間が長いため多収(たくさん小麦がとれる)が見込まれるからです。
子実が多いということは、ひと粒あたりの栄養分が薄まりやすく、低タンパクなものが多い傾向があります。
その中にあって、キタノカオリはタンパクが高めでパンに使える品種です。
けれども、農業特性が不十分(収穫期に穂発芽したり、病気になりやすい)だったものですから、アメリカの超強力小麦とかけあわせて、ゆめちからが生まれた」
「(きたほなみのような)麺用の中力小麦とゆめちからでは、グルテンの質もちがっております。
グルテンのネットワークは、生地を作ったときにグルテニンというタンパク分子が互いにS-S結合しあうことで形成されます。
1分子にS-S結合できる手が2つついているグルテニンからなるものは、中力粉に多いタイプです。
強力粉はS-S結合できる手が3つついているグルテニンを一部含むものです。
したがって、より多くの結合が生まれるようになるためグルテンも強いです。
手が3つの分子がさらに多いのがゆめちからです。
ゆめちからの兄の北海259号はもっとグルテンが強い。
ゆめちからはもちもちタイプ(低アミロース)ですが、北海259号は通常アミロースなので麺にするとぷつぷつ切れる特徴があり、パスタに向いています。
ゆめちからときたほなみから生まれた「みのりのちから」という新品種は収量がすごくいい。
グルテンも北海259号と同じタイプで強く、もちもちのタイプです」
講義のあと、実験用の圃場(畑)を訪ねる。
快晴の高い空、本州とはまったく異なる、広々とした畑に胸が踊った。
広さ約1畳ごとの区画に分けられているのは、「肥料を与える時期を変えたり、種の量を変えたり、栽培条件を変え」て実験するため。
小麦はどれでも同じではなく、よく見ると品種ごとに特徴があることがわかる。
(キタノカオリ)
「キタノカオリを見てください、昔の品種よりも背が低いですよね。
品種改良を進めていくにつれ、小麦はどんどん背が低くなっています。
低いと倒れにくく、コンバインでも収穫しやすい。
桿も太くするともっと倒れにくくなる」
(北海259号)
「きたほなみは葉っぱが垂れずに上に伸びていますよね。
こういうタイプは葉が密集したところでは下の葉に光が届くので、光合成の効率がよくなり、収量が多くなると考えられております。
みのりのちからは、ひとつの根っこから枝分かれして伸びている茎が多いため穂が多くなり収量がよいです。
(ゆめちから)
「ゆめちからには野毛があります。
野毛は収穫するときにコンバインに詰まるなど、困った点もありますが、鳥から子実を防御するのに役立つ。また、光合成にも関与していると言われております。
これらの特徴が両立すると、多収量の品種になりやすいと考えております」
いろんな品種が植わっている一画もある。北海道では見られない本州、海外の品種ばかりである。
今後育種に使われる可能性がある品種を保存しているのだ。
「ここには変わり者が植わっている。
例えば、背が高く倒れやすいのは難点だけど、病気には強いとか、収量が多いとか。どっか取り柄があるものばかりです」
生命という神秘を、進歩へ結びつける。
北海道の大きな風景の中で、自然の摂理に則りながら。
何千、何万の種を生み出しては、奇跡の一品種を拾いだすという、気の遠くなる作業だった。
小麦畑を自分の目で見る感動
次に参加者はまたバスに乗り込み、実際の小麦生産農家を見学に行く。
同じ芽室町にある竹内敬太さんの畑。
ただ見ているだけではなく、実際に小麦と触れ合う。
一行は竹内さんを先頭に金色の麦が揺れる大海原へ入っていき、畑の中で話を聞いた。
「ここではキタノカオリ、キタホナミを栽培しています。
きたほなみ4ヘクタール、キタノカオリは7ヘクタール。
東京ドーム3個分の畑です。
播種されるのは秋。
トラクターで平らにした後、グレンドリルという機械で、肥料といっしょに種を蒔きます。
芽室町の種農家で生産されたキタノカオリの種を、10アール(1アールは100平方メートル)あたり、7から8キロ蒔く。
発芽のあと雪の下でひと冬を過ごす。
雪が布団となり、凍結しないようになっています。
今年は雪がなく、−20〜30℃にもなる日がつづきましたが、この畑は大丈夫でした。
近隣でも根が切れたりしてやられ、他の作物をまいた畑がある。
雪が多くても、雪腐病という病気になる。
ですから、雪が溶ける4月中旬に小麦が出てくるのですが、自分たちは出てくるまでどきどきしています。
麦を目覚めさせる、茎数確保の意味で、ここで追肥。
凍(しば)れて浮いた根をローラーで踏み固めます。
6月中旬、穂が出てくる。
花を咲かせながら出てくる。
このとき、赤カビ、青カビが生えないよう、殺菌をします」
「7月に入ると麦の色が抜けだし、ひと雨ごとに加速します。
(この日は7月15日)あと1週間か2週間すると収穫です。
その頃は天気を見ながら時には24時間体勢で動きます。
水分量25%、粒を指で強く押してみて潰れるよりちょっと硬い状態が収穫の目安です。
5、6時間でこの7ヘクタールの畑を収穫、工場で乾燥させます。
茎の部分はロールにしばられて、牛屋さんにいきます。
飼料や麦藁に使われる。
家畜が食べて、肉や牛乳になる大事な資源。
糞尿は私たちのところへ戻ってくる。
1年数ヶ月寝かされて、畑にまく。
次の農産物の化学肥料の低減、食味の向上に役立ちます」
キタノカオリだけで7ヘクタールもある畑がなぜ5、6時間で収穫できるのか。
巨大な外国製のコンバイン。
雨を嫌う小麦の収穫に高性能のコンバインは威力を発揮する。
小麦が収穫期に長雨に当たると「穂発芽」という問題が起きる。
長雨に当たった穂の中の実が発芽して、酵素活性が高くなり、製パン性に影響が出るので、パン用としては使えなくなってしまう(でんぷん分解酵素α-アミラーゼの活性が高くなり、でんぷんの粘度が低下する)。
特にキタノカオリのような雨に弱い品種の場合、1年間の労苦が一雨で水の泡となる。
小麦農家は天気予報と空模様を睨み、祈るようにこの時期を過ごす。
「昨年、キタノカオリは町内の9割がダメになりました。
長雨が降ったら見てるしかない。
収穫期はここで寝るんですけど(と言いながら建物の屋根を指差す)、雨のしたたる音が煙突にかんかん響くと、もう心配で眠れなくなる」
小麦は製粉され、パンとして焼かれ、はじめて食べることができる。
農家が作った小麦は農協などに一括して集められて、製粉会社などに渡る。
だから、小麦農家といえど、自分の作った作物が、誰かにおいしく食べられているというイメージを抱きにくい。
「自分の小麦を食べたことがなかった。
2年前、札幌のパン屋さんに作ってもらって、おいしいんだなとはじめてわかりました。
おいしい小麦が作れるんだな、じゃ作ろうよ。
ベーカリーキャンプにきたパン屋さんとしゃべってみて、そう思うようになった。
山泳シェフがキタノカオリのことを『世界で戦える小麦だよ』と。
意味がわからなくて、『?』マークでした。
だけど、やらなきゃいかん。
そう思ってキタノカオリを作っている。
キタノカオリは見た目は、ぼろぼろした実をしている。
はじめてできたとき、『俺、なんていう小麦を作っちゃったんだ』。
『これでいいんですか?』って、農協に訊きに行きました」
雨に弱くリスクのつきまとうキタノカオリだけれど、口溶けのとき発する香りは他の小麦に抜きん出て甘く、魅惑的である。
パン職人がキタノカオリをどれほど貴重なものと考えているか知ったとき、竹内さんは穂発芽の危険を冒しても作ろうと思った。
誰かの情熱を感じて、自分の情熱が動きだす。
小麦生産者とパン職人が出会う小麦キャンプが、どれほど有意義な場か、このことからもわかる。
竹内さんと話したあるパン職人はこのように言った。
「農家さんに会って、小麦畑を見て、パンを作るときの思いが変わってきそうです」
その言葉に竹内さんも応じる。
「つながりできるとまた小麦が作りたくなるんですよね」
キタノカオリや春よ恋、ホクシンといった品種ごとにある固有の風味。
前田農産の前田茂雄さんは自分の畑でとれた小麦を品種ごとに一本挽きして販売する。
品種の味、生産者ごとの味を世間に知らしめた立役者のひとりである。
「畑の小麦を1本抜いてみてください。
小麦の粒の皮は指ではなかなか剥がしにくいんですけど、噛むと中身が出てくるでしょ。
白いところが胚乳。
小麦粉になる部分です」
キタノカオリの胚乳は甘かった。
たった数ミリの麦粒からなぜこんなにきらきらとした甘さを発散しているのか不思議なほどに。
小麦の力。
それはキタノカオリから作られたパンを食べたときに感じるおいしさと同じものだった。
農場に持ち込まれた、移動式の石窯トラック。
地元産の素材で作られた、焼きたてのピッツァを、地元ベーカリーの雄であるますやパンが振る舞った。
農家から製粉会社、原料問屋、そしてパン屋。
さまざまな人の苦労を経て小麦の恵みは私たちの元へ届く。
そう思って畑で食べるピッツァは格別においしかった。(池田浩明)
『パンの漫画』
『サッカロマイセスセレビシエ』(東京の200軒を巡る冒険の単行本』