「小麦ヌーヴォー」のキーパーソンに連続インタビューを行ってきた。 最後を飾るのはダンディゾンの木村昌之シェフ。
極めて感覚的、と同時に理論的にパンを作る木村さんは、新麦になにを思い、どうパンにしたのか。
今年のヌーヴォー小麦の評価、イベントの意義などを総括する。
食べ損ねたパンの、香りが忘れられなかった。
甘い香りの中に混じり込むさわやかな草の香り。
入り混じるさまざまな香りは複雑な襞を作りだし、たとえようもなく繊細であった。
その繊細さこそが「ヌーヴォー」なのだった。
小麦の中に潜み、挽いた瞬間から飛散していく、はかない香り。
難解な化学式で表わされるだろう数十、数百という成分が、まだ失われず、充分残っている。
このパンは私にかってないような体験を与えてくれるはずだ。
香りはそう確信させた。
「昨日よりもっと香りがあります。
今日のは、小麦袋の封を開けたばかりの粉で作った分ですから」
粉を使いきるまで、約3日。
たった数十時間でさえ、空気に触れれば、酸化の作用で、香りは変わっていく。
まるで野菜。
小麦は農産物なのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、誰もが忘れかけていたその事実を、ヌーヴォー小麦は雄弁に語るのだった。
そのパンの名は新麦ブールという。
サブレほどにも立ち込める甘い香り。
軽やかさ、毬のような弾力が支えた手から伝わってくる。
中身を嗅いだとき、草原を吹き抜ける風のような、さわやかな穀物系の香りが吹いてきた。
まるでじらすように、香りはあれほど甘いのに、味がなかなかやってこない。
ナチュラルなものは急がないのだ。
噛んで噛んで噛んで、もう飲み込もうと喉のあたりに至ったとき、おかゆに似た滋味に満ちた味わいが、じっとりと喉をうるおしていたのを感じた。
木村シェフは新麦ブールをこうして作った。
「実ははじめ、小麦ヌーヴォ−にそこまで積極的でなかったんです。
普段、農家さんから直接もらう中で全粒粉は経験もありましたし。
どこかイベントの本質を把握してなかった。
なので全くレシピを考えないままに、解禁日になってしまった。
ところが小麦ヌーヴォー解禁日当日に届いた袋をあけて触ってみた途端、楽しさがこみあげてしまって。
俄然火が付きました」
「手触りがちがうんですよね。
土や雪にいろんな種類があるみたいな、そんな感覚。
水分を感じるんじゃないのに、しっとりと感じて、でも軽い。
重みがあってべっとりしてるわけじゃなく。
この感覚は経験したことがあって、自分で小麦を挽いたときのテンションが上がる感じなんですよね。
もしくはふかふかの畑の土。
あるいは、たんぽぽの綿毛みたいに、ひと粒ひと粒がふわっとして、しっとりしている。
これはまちがいなく、吸水をまちがえる可能性があるだろう。
そう思ったので、バシナージュ(つながった生地に少しずつ加水していくこと)にして、『まだいけるのか』『これぐらいか』と、生地の状態を見ながらちょっとずつ水を入れました。
粉が届いてから10分で、もう生地ができそうになった。
シンプルに、粉とイーストと塩と水だけ。
この粉に対してなにをどうしたらいいのかということに集中して、なにも考えず、(粉の状態・性質を)感じながらやっていきました」
特にレシピを用意しなくても、パンはいつのまにかできあがっていたのだと。
「『これは、新米の炊いたごはんのようになるな』。
捏ねながら最終イメージがみるみる形作られていった。
イースト0.3%、塩2.1%。吸水100%(まだ入れられたが、吐き出す可能性も考慮した)。
パンチも必要だと感じたし、気付くとディレクト(フランスパンの基本とされる製法、ストレート法)の王道の工程を踏んでいた。
手が考える。
ぽんぽんと手が動くのにまかせた。
そのときの麦に対するちょうどよい水分量というのはあります。
セオリーじゃなくて。
粉と対峙したとき、水が入るなら入れよう。
これならもうちょっと発酵とろう。
粉にとっていいことをしよう
なんかわからないうちに、気づいたらブールにしてました。」
生地がささやくインスピレーションは、木村シェフをして、丸い形に成形させた。
ふわふわ感と、やさしいもちもち感を表現するのに、ふさわしい形。
小麦ヌーヴォーというイベントの目的のひとつは、バゲットのような舶来品ではなく、日本人の感性や嗜好に合った、日本の小麦による日本のパンを作ろう、というものだった。
木村さんはそんなことはなにも考えず、小麦に導かれるままにパンを作り、できあがったものはまさに「日本のパン」だった。
「毎日食べる炭水化物を生業にする身として、『甘い』『味が濃い』に違和感を感じていました。
もちろんパン単体ならいいし、スペシャリテとしてあってもいいと思う。
でも食卓の上にあるすべてがそうであるのはいかがなものかと。
しかるべき製法を取れば、甘みも出るし、味は濃くできます。
でもそれは『野菜の味が濃い・甘い』をよしとするように、体に無理のある偏りが感じられてしまって。
体に残らないものを作りたい。
残らずエネルギーになって抜けてくような。
お蕎麦屋さんは『売れるようにしたければ、つゆに砂糖を入れろ』と言われてるそうです。
もちろん陰陽のバランス(マクロビオティックの原理で、食べ物には陰の性質を持つものと陽の性質を持つものがあり、互いにバランスをとるべきという考え方)もあるのですが。
パン生地に偏りを生みたくなくなってきた。
中庸でありたい。
これからの課題です。
新麦ブールは味を無理に出さず無垢でいい。
でも香りは大切にしたい。
そう思っています」
新麦ブールができあがったあとも、木村さんは観察をつづけた。
「老化をテストするために、数日かけて食べていったのですが、味、香りに変化がある。これうまいな、と思ったのは翌日だったんです。
翌々日になると、いままでに感じたことのない微かな酸味が出てきました。
これはパンを差し上げた、『銀座レカン』の割田さんのご指摘で気づきました。
狙っていたものではなかったですが、それも楽しめる。
ヌーヴォー小麦は、小麦粉の状態でも変化していくし、パンになってからも変化していく。
酸化してない状態だからこそなんですよね。
ドラスティックに変動している状態にある」
初日の鋭さ。
2日目、3日目にはだんだん、いくつかの要素に感じられていた風味がまとまり、丸く、まろやかになっていく。
エイジングした小麦粉(一般の小麦粉)がすでに変化を止め、安定期にある一方、ヌーヴォー小麦はいまだ変化の途中にあった。
「小麦の旬って9月なんだな。
夏から秋にかけてという時期。
そして冬に向けて。
小麦ヌーヴォーって、季節を意識することにつながると思うんです。
旬が同じ食材を合わせる食べ方もできる。
ただパン単体で食べるのではなく、旬の食べ物と合わせて食べてみてください」
そう言いながら、木村シェフがくれたのは、「きのこのペースト」だった。
「おかずデザインさん考案のものを妻が自分なりに作ったものです。
しめじ、まいたけ、マッシュルーム、にんにく、オリーブオイル、ローリエ、塩。おそらく秋刀魚や栗も合うのでは」
小麦ブールにきのこのペーストをのせて食べる。
パンの風味ときのこの風味。
両者は同じようなリズムで、波のように寄せては返すように思われた。
食材には波動があるのだ、と思った。
そんなことに考えが至ったことなど、それまで一度もなかったにも関わらず。
小麦ヌーヴォーの意義を木村さんはこう考える。
「いろいろ考えるより、最初に農家に行っちゃったほうがいい。
東京にいると、感覚、感性が閉じざるをえない。
こっち(東京)では嗅ぎたくない匂いとか騒音とか多い。
だから感性が閉じちゃうと思うんですよ。感性が開くっていうのは、芸術に触れたりしたときですよね。
自然の中にいると、五感、第六感まで含めてむしろ開いていたくなる。
パン屋は小麦を作ってる人と、東京じゃなく、出来たらその土地で会うべき。
農家さんも言葉で伝えることはできるが、畑で伝わることの大きさは計り知れない」
畑を訪れたときの、自由な気持ち、心ゆるやかな感じ。
かぶっていた重い鎧を脱ぎ捨てたような感覚。
ときどき木村さんが、都会の生活で忘れていた、自然への回路を取り戻すために、農村地帯へ出かける。
「自分も、しょっちゅう農家さんのところに行って、援農をします。
本州だと手作業が多い。刈って、はせがけ(上の写真。茎を紐で結んで棒などに干すこと)して。
生きるための疲労。ものすごくたいへんで。
やってみると、収穫がどれほどのよろこびかわかりますよね。
1年間やってきたことの成果でもあるし。
収穫はよろこびそのもの。
そのよろこびを食卓まで届けることができるのが収穫の時期。
毎年、この時期を待ちわびる。
それが食べ物本来の形だと思うんですよね。
パンは食べ物であって工業製品ではない。
それを再認識する。
農家、製粉会社、流通、パン屋、お客さん。
みんな同じ気持ちになれる。
一度そうなると、収穫のときだけでなく、種を蒔いたよ、芽が出たよ、作物が成長する経過すべてが気になるようになったり。
小麦ヌーヴォーによって、なくしちゃけない大事なことをはじめられた。
個別の農家さんとやりとりするのは、個人でしかやれなかったことですが、このイベントによって収穫のよろこびをみんなで分かち合えるようになりました」
小麦ヌーヴォーの意義とは、小麦が自然の恵みであることを意識しながらパンを作り、それをいただくということだ。
ヌーヴォー小麦だけがおいしい、という単に味だけにフォーカスするような考え方には与しない。
「ヌーヴォー小麦がすべてではなく、去年の小麦のよさもあります。
新麦のおいしさを強調することより、それ(収穫の時期を意識すること)によって得られることを大事にしています。
新麦ブールは季節限定商品として作りました。
レギュラー商品を新麦に替えるだけでなく。
フルーツや野菜だけでなく、小麦で旬を感じられたらいいなと。
わかりやすいのではないかと思いました」
「国産小麦のいいところも、外麦のいいところもあります。
大手製粉会社さんは(現状の日本の食を支える上で)必要です。
小麦を貯蔵する必要性もあります。
むしろこれは、小麦ヌーヴォーによって実感できたし。
そして本質を理解すれば、無理のある状態も見極めていけると」
小麦ヌーヴォーを通じて知るのは、食べ物の本質である。
どんな小麦も、農家が1年間、土にまみれて働くことなくして生産されない。
私たちがそれを手にするまで、製粉会社や、それを配送してくれる人など、多くの人の手を介している。
遠く、カナダやアメリカから運ばれてくる外麦であれば、なおのことだ。
収穫をよろこぶことは、1個のパンができるまでに関わったあらゆる人たちの仕事に思いを馳せ、リスペクトすること。
そして愛する人と実りを分け合うことである。
ここで、いま一度、今年のヌーヴォー小麦の特徴を製法的な面から見てみよう。
それはとれたてであるために、酸化が進んでおらず、風味に満ちている。
特に石臼挽きは顕著だし、挽きたてはなおさらのこと。
それゆえに、パン作りにおける「酸化」というキーワードを木村さんに見つめなおさせることになった。
新麦ブールを作る際、低温発酵ではなく、ディレクト法を選択したのも、それと関係している。
「まず低温発酵は酸化が抑えられる作り方(低温下で酵母が活性化しないため、もしくは酵母量が少ないため、小麦から生まれる糖が消費されず残る)。
ディレクトは、適度に酸化させていく作り方です。
エイジングによって酸化が進んでいる小麦(通常、小麦粉は製粉後約1ヶ月程度寝かせられる)に比べると、ヌーヴォー小麦は酸化させてもまだ味がある。
そんな状態のときはいましかないのだから。
ディレクトのほうが、いましかない味を表現できると思いました。
結果むしろバランスがとれた。
試しに酸化を抑えて味を濃く、甘みが出るように作ってみて、そのことがより感じられました。
もう少し酸化させようと自然に思えた。
酸化を抑える製法は、小麦がもっと酸化してからでいい。
今はしていないのだから」
とれたての小麦が時を経るごとに酸化の方向へと向かっていくということ。
玄麦を挽き、発酵を進ませるにつれ、生地が酸化していくということ。
オーブンで焼いてパンになってからも酸化(熟成であり風化)へ進むということ。
別々だと思われていた3つのプロセスを、ひとつのつながった線として考える。
小麦ヌーヴォーのインスピレーションは、木村さんにそうしたことを意識させたのだ。
「その後、コーヒー、蕎麦の職人さんに教わり、表現したかったことが、裏付けとして繋がった。
産地、品種、焼き、変化する割り」
そもそもボジョレヌーヴォーとは、その年のぶどうのでき具合をいち早くテイスティングする目的がある。
果たして、ヌーヴォー小麦の、2014年のヴィンテージとはどういうものなのか。
「今年のヌーヴォー小麦って、全体的にたんぱくが強い傾向(*1)があり、かつ、やや低アミロなため、酵素活性が盛んです(収穫期に雨に見舞われると、穂が発芽し、小麦の中の、でんぷんを糖に変える酵素であるアミラーゼなどが活発に働くようになる)。
そのため、発酵に必要な糖が十分に生成され、発酵はテンポよく進む。
ルヴァンを使うときは特に、適切なタイミングを逃せば酸味も出やすいので、調整が必須でした。
酸化が進んでないゆえか、酵素の働きゆえか、パンになったあと老化が遅く、保水性が保たれる。
水和を長時間取らずに、ディレクトでクイックに焼いても明らかにそれを感じました」
「酸化を意識してから、新麦ブールをはじめとする商品の微調整をはじめることになりました。
初めはインスタントドライイーストだったが、たんぱくが強いためビタミンCの入らないセミドライイーストに変更。
酸化を考慮し、塩も減らせた。
石臼挽きを多く配合するものはモルトを抜いた。
充分にたんぱくのあるロール挽きの粉でディレクトには、モルトの必要性は感じます。
今年の新麦でパン・ド・ロデヴをやるときは、製法ゆえに特にゆるみの点で必要と感じた(吸水を増やしてゆるませるのは不適切だと思った)。
必要なものと、不必要なもの。
そのときふと気付く。
いまの日本の小麦で作れるものが日本のパンだっていうのであれば、レシピはその小麦に合っていて、おいしければいいと思う。
だってどの国でもきっと地粉を基準としてレシピは作られてきたのだから。
来年の小麦はちがって当然だから、また対峙すればいい」
「じゃあ、今年の小麦はなにが向いているの? っていえば、たとえば食パンが向いているんだと思います。
老化が遅いし、たんぱくも強いし、副材料も減らせる」
買ってきた翌日の朝、スライスしながら3日目と食べつづけていく食パンには、老化も遅く、体に負担にならない配合が向いているかもしれない。
いま風味に満ちたこのヌーヴォー小麦を得て、日本のパンも、素材に恵まれた本場のパン作りに追いついたのかもしれない。
「いい状態の小麦なら、ぽんぽんといいパンが作れる。
ヌーヴォー小麦によって、シンプルな本来のパンのあり方に向き合えた気がします」
(池田浩明)
*1
今年は雪解け後の4月中旬〜5月初旬(起生期〜幼穂形成期)にかけ干ばつに見舞われました。
この時期に肥料を追加(追肥)し、小麦の成長と茎数の分けつ(茎が枝分かれすること)を促します。
しかし、干ばつの影響により追肥が適時に吸収されず、茎数の分けつが例年にくらべ少ない状況になりました。(穂数が少ない)
その後の降雨により追肥が吸収されましたが、穂数が少ないため、1本あたりの小麦が吸収する肥料(窒素)が多くなったと考えられます。
そのため26年産小麦は全体的にタンパクが高めな傾向にあります。
(上から3枚の写真は池田が写す。それ以外は木村シェフによる撮影)