パンの研究所「パンラボ」。
誌面では紹介しきれなかったパンのあれこれをご紹介します。
パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。
パンDEバーベキュー in陸前高田(パンを届ける第7回)
10月5日の夕方。
渋谷の専門学校ビジョナリーアーツでは140斤の食パンが焼き上がりつつあった。
講師を務める、トラスパレンテの森直史シェフと生徒たち(1年生と2年生)は、東北の人たちのために、終業時間を過ぎることも厭わず、食パンを作ってくれた。
私の好きなトラスパレンテのものと同レシピ、同じように国産小麦(横山製粉エゾシカ)を使って。
慎重に発酵状態が見極められ、湯気で湿気ないよう紙で丁寧に包まれて、繊細な心づかいで最後の梱包まで生徒たち自身の手で行った。
できあがった食パンは校長先生が撮った生徒たちの写真とともに、東北へ向かう車に積み込まれたのだった。

積み込んだのは、学生たちの作った食パンだけではない。
10台のバーベキューコンロと炭、それからトングや網などの調理道具。
それらは、先日行われた1日限りのパン屋「ZZCベーカリー」の収益によって、まかなわれたものだ。
いままでは、パン屋さんに作っていただいたパンを東北へ運んでいた。
今回は、パン屋さんに無償で作っていただくのは同様ながら、それを販売することでお金に換え、パン以外のものも支援できるようになった。
パン屋さんに加え、パンを買っていただいた人たち。
車の後部に山積みされた、たくさんの好意を背中に感じながら、私たちは陸前高田へと車を走らせた。

ご協力いただいた企業・団体
沖縄ハム総合食品株式会社
加藤晃
櫛澤電機製作所
グロワール
こんがりパンだ パンクラブ
三和産業
シニフィアン・シニフィエ
社会福祉法人 開く会
新光食品機械販売株式会社
長九郎農園
Zopf(ツォップ)
トラスパレンテ
富澤商店
内藤製あん
長尾農園 
日本セルプセンター
日本製粉株式会社
パネテリア ピグロ
ビジョナリーアーツ
ブーランジェリー ボヌール
ラ ブランジュリ カロン
本牧館
マルグレーテ
明治大学黒川農場
横山製粉
ラ・テール洋菓子店
リリエンベルグ
ル・プチメック
ローゼンボア
ワリバシカンパニー

また、いままで同様、今回も特定非営利活動法人NGBC(障害者のパン作りを支援する団体)のみなさんにご同行いただき、資材や原材料をご提供いただいた。

10月6日朝9時、陸前高田市米崎小学校。
仮設住宅のみなさんと、米崎町女性会のみなさんが、すでに私たちの到着を待っていた。
グラウンドに10台のバーベキューコンロが並べられる。
みんなで作り、みんなで食べる。
いわゆる「炊き出し」のように、ただ配り、ただ受け取るのではない。
全員が自分のできることを持ち寄る。
パン屋さんはパンを、お菓子屋さんはお菓子を、材料メーカーや問屋さんは材料を。
仮設住宅の人たちには場所をご用意いただき、米崎町女性会のお母さんたちは野菜を切ったり、食器を洗ったり、その他お手伝いをしていただく。
若者は力仕事を、年配者は経験や心配りを、子供たちは元気を提供する。
参加者は自分の食べるものを自分で作る。
自分で作ったものはおいしい。
食べる楽しさに、作る楽しさが加わる。
いっしょに作業し、互いに声をかけ合い、教え合い、学び合う。
コミュニケーションが生まれ、笑顔が生まれる。
もはや誰が支援し、誰が支援される側なのかわからないような、盛り上がりや一体感が生まれていた。

(リリエンベルグの小出りえさん。いっしょに作業することから会話が生まれる)

パンの先生・加藤晃さんを囲んでお母さんたちの輪ができている。
津波の被害を丘の上で辛くも生き延びた、米崎町特産の「希望のりんご」。
それを使ったりんごのマフィンを加藤さんにご指導いただいた。
りんごをコンポートしたのは、ウィーン菓子の名店であるリリエンベルグ。
仮設住宅から数台のオーブンが持ち込まれ、生地作りからみんなで行った。


(右から、ひとりおいて、櫛澤電機鈴木正明さん、マルグレーテ片山悟さん、櫛澤電機の澤畠雄哉さん、中宗根正勝さん)

(中央、ブーランジェリー ボヌール箕輪喜彦さん)

せいろが蒸気を吹き上げる。
櫛澤電機製作所の若い衆が威勢よく杵をつく。
できあがった餅に、内藤製あんにご協力いただいたあんこを包む。
加藤先生に教えてもらいながら、各自が餅作りに挑戦する。
成形はむずかしく思い通りにならない。
それがおもしろく、思わず歓声が上がる。
つきたてのもちは買ってきたものでは考えられないほどのやわらかさだった。

(右からZopfの伊原店長、グロワールの一楽千賀さん)


Zopfの伊原靖友店長には「巻パン」をご用意いただいた。
前回は、ビニール袋に入れた材料を各自が混ぜ合わせた。
それでもできたては十分においしかったのだが、伊原店長は出来に納得がいかないようで、今回はミキサーを持ち込んだ。
棒に生地を巻き付け、炭火の上でくるくる回しながら焼く。
目を離すと焦げるし、均等に焼くのはなかなか腕がいる。
子供たちには長い形状も興味を引く。
窯も必要のない簡単なパンとはいえ、目の前でパンが焼き上がることの感動は人を幸福な気分にさせるのだ。
(三和産業・佐藤和行さん。炭火で顔が熱いのでタオルでカバー)

「わー、バーベキュー! バーベキュー!」
学童クラブにきていた子供たちが歓声を上げて、走り寄ってきた。
ビジョナリーアーツの生徒たちが焼いた食パンは、食べる人各々の手によって、炭火の上でクロックムッシュに変貌を遂げる。
スライスした食パンに、ホワイトソース(日本製粉に提供いただいたパスタソース)を塗り、野菜やチーズ、それからハムをはさんで網で焼く。
焼き上がったときにできる網目の模様がかわいい。
あたたかい食パンとおかずの組み合わせは、シンプルなパンのおいしさを実感させてくれる。

クロックムッシュのトマトは飛騨の農家さん(長尾農園・長九郎農園)にご協力いただいた。
市場に出荷できない規格外のものを、ワリバシカンパニーの松本剛さんが11時間かけてはるばる運んだ。
松本さんは山村の林業を活性化させる仕事を行っている。
トマトとともにいただいた割り箸は、間伐材を有効利用することで作られたもの。

もうひとつクロックムッシュに入れられたサラダほうれん草は明治大学黒川農場で育てられたものだ。
この農場では津波の塩害や原発事故による放射能で使えなくなった農地で野菜を作る研究を行い、被災地の支援に役立とうとしている。

それ以外の野菜は、ZZCベーカリーの収益を使い、陸前高田の農家さんによって運営されている「産直はまなす」で購入した。
産直はまなすは、米崎小学校近くの幹線道路沿いにいち早く店舗をオープンさせている。
農業家たちは津波の塩害にも負けず、元気な野菜を生み出しているのだ。
復興した店がまだ少ない陸前高田で、農家のお母さんたちの明るい売り声は希望である。

まほちゃんという女の子が野菜を焼くのを手伝ってくれた。
「おらの畑だってトマトやナスできるんだぞ」とか「さぼらないでもっと野菜焼いて!」とかおしゃまなことを言いながら、最初から最後まで料理の手伝いをやめない。
彼女のお姉さんは気仙沼で料理の仕事をしている。
お母さんも料理が上手。
だから、彼女の夢は料理人になることだ。
現地まできてパンやお菓子を作るプロの職人たちの姿は、まほちゃんの目にどのように映っただろうか。
まほちゃんがどんどん焼いて、そのあと忘れてしまった野菜を、ひとりのおばあさんが丁寧に引っくり返しながら焼き上げてくれた。

野菜やソーセージ・ベーコン(沖縄ハムにご提供いただいたもの)につけるソースは、フランスで修行をした料理人でもある、ル・プチメックの西山逸成さんに考えていただいた。
ケチャップソースは子供たちに人気があったし、ゆずぽんバターは、ご高齢の方でも食べやすいよう、フレンチの技法に和のテイストを加えたものだ。

ゆずぽんバターに使ったゆずぽんは、陸前高田の八木澤商店の製品を使った。
八木澤商店は津波で店舗・工場を失いながら、ひとりの解雇者も出さずがんばっている。
2年間の熟成を経たしょうゆは全国的に評価が高く、ゆずぽんもバーベキューの野菜をとてもおいしくしてくれる。

ピタパンにゆずぽんバターを塗り野菜や肉とともに食べる。
薄いのでオーブンがなくてもパンになると、ラ ブランジュリ カロンの神林慎吾シェフが現地まできて作ってくれた。
生地を円形に伸ばす作業は陸前高田の人たちも手伝ってくれた。
三和産業にご提供いただいたチーズを使い、神林さんが即興でピザを作ると多くの人が思わず手を伸ばす。

片付けまで米崎町女性会・仮設住宅の方にお手伝いいただき、最後に記念写真を撮り終えると、誰からともなく拍手が起こった。
帰り際、みなさんには深々とお礼をしていただいたし、子供たちは手を振ってくれた。
「またきてね」
米崎町の人たちは、みんな明るく、笑顔だった。

(米崎町女性会のみなさんにお手伝いをいただいた。残った食材も、こられなかった方たちや、家族がたくさんいる方など、仮設住宅の1軒1軒にお配りいただいた)

受け取った「ありがとう」は、いつも書いていることだが、現地に行った者だけではなく、パンをお作りいただいたパン屋さん、それから今回はZZCベーカリーでパンをお買い上げいただいた方への、感謝の言葉であった。
いや、それだけではない。
このような活動ができるのは、普段パンを食べ、パン屋さんやその関連企業の利益に貢献しているみなさんの力があってこそだし、このブログを読み、本を買っていただける方がいるおかげなのである。

バーベキュー終了後には、バーベキューにもご協力いただいたりんご農家、金野秀一さんの畑を見学した。
付近の農業家のリーダーでもある金野さんとパン屋さんたちとの出会いから、新しいビジネスが生まれてほしいという期待を込めて。
りんご畑に囲まれた金野さんの家は津波を逃れたが、この集落の避難所となった和野会館の支援に尽力した。

あの日、地震のあと津波がきっとくると思っていた金野さんは、高台から海の様子を見ていた。
「波が立って、しぶきのようになったので、『きたきたきた』と思いました。
昭和35年のチリ地震のときには、広田湾ぜんぶの海底が見えるほど波が引いた。
それに比べたら引き波が小さかったので、今度の津波は小さいとみんな思った。
実際に津波がくると、堤防は波のはるかに下。
押し寄せてくる波に向かって『止まってくれ』と叫ぶ人…。
あっというまに家も畑も飲み込まれて、引いたときには家が1軒もなかった。
呆然として、しばらくじっと見ていた。
はっと気がついて、今晩みんな食べるもの、寝るところないと思いました。
和野会館(公民館)を開けて、海岸に降りていったら、
『お父さんがいない』『隣りの人がいない』と泣き叫ぶ人たちの騒ぎに出くわしました」

「それからは2ヶ月間、動ける者が集まって、ガソリンを買う人、米を買う人と手分けをして、避難所のお世話をしました。
寒さも困ったが、食糧がないのも困った。
うちはまだよかったが、3日も4日も、2人でおにぎり1個という避難所も相当あったようです。
家族を失った人は、遺体収容所になっている体育館に行って、200人も遺体が寝ているところから探さなくてはいけない。
大変でした」

「陸前高田だけでのべ10万人ものボランティアの方におこしいただいたそうです。
まだ陸前高田は支援で動いている。
自立の分は数パーセントで、機械や材料も、各種の組合や工業界から支援をいただいている。
いつになったら自立できるのか。
先が見えない。
私の娘も家が流されて、新しいうちをいま建てたところ。
引っ越しの手伝いに行ったんだけど、持ち物がなにもない。
衣装ケースが2つ、支援してもらったのだけ。
だから、手伝いなんか必要なかった。
ぜんぶ津波で流されて、なにもない
かわいそうで、涙が出る。
津波以来、涙もろくなって、すぐ泣けてしまうね」

復興は進まない。
とはいいながら、りんごは、あの日からもう2回目の赤い実をつけようとしている。
いまは津軽、それから特産のふじがこれからシーズンを迎える。
津波に襲われた木々にも、たくましく、りんごは甦ってきた。
七五三のときには、このりんご畑をバックに写真を撮る人が訪れるというほど、たくさんの実で赤く染まるこの丘は、米崎町の人たちの自慢である。

金野さんの家の前から広田湾を見下ろす。
(あの日、金野さんはこの辺りから、津波を見ていたわけだ。)
海上に浮かぶ牡蠣の養殖いかだはその数をぐんと増した。
斜面は緑に覆われて、牧歌的な風景に見え、私たちを安堵させた。
だが、実は3.11の前、ここには家々が立ち並んでいた。
それを知っているこの地域の人にとって、風景は必ずしも「復興」には見えない。

金野さんの奥さんは言った。
「しばらく私、下を見れなかったんです。
まるで見下ろしているみたいで気の毒で。
ここには津波で被害に遭ったお友だちや知り合いがいっぱいいた」

直後には無惨な爪痕が残されていたこの斜面も、瓦礫が撤去され、自然の摂理に従って植物が繁茂しはじめると、元通りの平和が戻ってきたかのようだ。
それは「回復」でもあり、また「風化」でもある。
つらい記憶はじょじょに癒え、一方で東北のことが忘れ去られようともしている。
津波の記憶は忘れなければ苦しいばかりだし、けれども忘れてはいけない。
それを乗り越えて、屈託なく笑えるときが早くきてほしいと願う。(池田浩明)

*写真はワリバシカンパニーの松本剛さん、パンクラブひのようこさん、斉藤美佳さん、池田が写した。


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パンを届ける 第6回 岩手県山田町
あの日から1年が過ぎた。
それは回復のための時間であったと願いたい。
どんなに深い傷であっても、時は少しずつでも癒してくれるはずだから。
一方で、時は悲劇を風化させる。
3月11日はじょじょに忘れられる。
もちろんそれは、心の痛みから癒えるために必要なことだが、津波の被害に遭った人たちへの共感まで失いたくはない。

以下のパン屋さん、パンに関連する団体に、ご協力いただいた。

ヴィロン
加藤企画
櫛澤電機製作所
こんがりパンだ パンクラブ
三和産業
シェカザマ
シニフィアン・シニフィエ
社会福祉法人「開く会」/共働舎
エスビー食品
ツオップ
日本製粉
日本セルプセンター
パネテリア ピグロ
パンとエスプレッソと
ファクトリー
ファミーユ代官山
不二製油
ブーランジェリー・アー
ブーランジェリー ボヌール
プルクル
本牧館
マルグレーテ
メゾン・イチ 代官山
ラ・テール洋菓子店
ラ ブティック ドゥ ジョエル・ロブション
リリエンベルグ
ローゼンボア
(五十音順)

冬のあいだ、東北自動車道から山田町への道の途中にある峻険な2つの峠は凍結し、簡単に越えることはできなかった。
4月7日、春の訪れを待って私たちは山田町へ向かったはずだったが、峠道を襲う横殴りの吹雪と、タイヤを滑らせる凍結した路面は、東北の冬の厳しさを私たちに教えるのだった。

同行するパン屋さん、お菓子屋さんは過去最多の15名を数えた。
なにが、はるかな道のりを東北まで駆けつけさせる原動力になっているのだろう。
東北の人たちの笑顔が見たい。
それですべてが解決するわけではないが、困難な状況でもうひとがんばりする力にきっとなるだろう。
厳しい仕事を自らに強いて、おいしさでお客さんを笑顔にするプロフェッショナルだから、そのことを強く信じているのではないか。

(織笠猿神仮設住宅)

今回も、佐藤直樹さん(元プロジェクトNext)のコーディネートによって、以下の場所でパンをお配りした。

織笠猿神仮設住宅
織笠小学校仮設住宅
山田高校前仮設住宅と付近の方たち 
織笠跡浜地区
織笠外山地区
織笠落合地区
船越小谷鳥地区(以上、すべて山田町)

(ベーカリーアドバイザーの加藤晃さん)

カレーパンを揚げるフライヤーの前に長蛇の列ができる。
4月の東北はまだ肌寒い。
あたたかいものを食べてもらいたいというNGBC(障がい者施設のパン作りを支援するNPO)加盟のパン屋さんの熱意によって、事前に作られた1000個もの生地、調理器具、油が持ち込まれ、その場で揚げたものをあつあつのうちに手渡す。
受け取るまで時間を要するが、それでも仮設住宅の人たちはぬくもりの周囲に笑顔で列を作る。

(リリエンベルグ横溝春雄シェフ)

家族団らんの象徴ともいえる食パンも、NGBCのパン屋さんによって、1家族に1斤分、計250斤が用意された。
劣化を防ぐため、現地まで運んだスライサーによってその場でスライスされる。
また、ウィーン菓子の名店リリエンベルグは1000個ものうつくしいお菓子を、この日のために焼き上げた。

(櫛澤電機の澤畠光弘さん[中央]が持ち込んだ手回し式のオルゴールがにぎやかなBGMを奏でる)

今回は渋谷周辺のパン屋さんにお願いし、思い思いのパンを作っていただいた。
各パン屋さんの特色が出た箱が長テーブルの上に並べられ、好きなパンをお選びいただく。
名前を聞いただけでため息が出るような名店揃いで、私自身が思わず手をだしそうになる。

(織笠小学校仮設住宅)

ファミーユ代官山はスタッフ全員がそれぞれにパンやお菓子を作ってきれいに包装し、箱に詰めていた。
それを見て、ラ・テール洋菓子店のグランシェフ中村逸平さんや、リリエンベルグの横溝春雄さんが、「心がこもっているなー!」と舌を巻いた。
メゾン・イチの市毛シェフはたくさんのパンを私に手渡しながら「自分がいけなくて申し訳ない」といった。
また、東北出身であるファクトリーの三浦シェフは、花見の客で棚から飛ぶように商品が消えていく中でも、熱い思いで東北の人たちのためのパンを作ってくれた。

(右から、成田真由美さんと姪御さん、三和産業・石崎亮さん、ブーランジェリー ボヌール箕輪喜彦さん)

パラリンピックの水泳競技で15個の金メダルを得た「水の女王」成田真由美さんが、現地で手伝ってくれた。
「言葉の力。
試合前に『がんばってください』といわれると、自分の力に変わる。
言葉ってすごく必要だと思います。
『ごちそうさま』
『遠いところからありがとうございます』
とみなさんにいっていただきました。
絆という言い方をよくしますが、私にはチームという言葉のほうがぴったりきます。
スポーツもひとりではできなくて、コーチやドクター、栄養士さんなどいろんな人に支えられている。
ここにいる人たちは、パンを通してひとつになったチームだと思います」

現地で楽しくみんなで作れるパンをと、ツオップの伊原靖友店長が企画した、巻きパン。
生地をこねるところから各自が行う。
ビニール袋の中に入れた、小麦粉、イースト、水、卵、バター、塩、砂糖を手でもんでいく。
じょじょに材料は混ざりあって、もちもちとした手応えを獲得していき、生地になっていく。

生地が形になれば、その次は発酵。
東北の寒さに負けないよう、ポケットや洋服の中にビニール袋をしまって、体温のあたたかさで酵母の活動を活発にさせる。
お腹の中にしまった女の子は「もうすぐ子供が生まれる!」と笑顔。

「これでいい?」と自分の作った生地を見せにくる子供たち。
「あと30回混ぜて」
伊原店長や、ローゼンボアの高崎健人店長が、手で触れて生地の状態を見抜く。

(ツオップ伊原靖友店長)

30分程度の発酵のあと、生地は膨らんでいた。
分割したあと、ひとりは棒を回し、ひとりは生地を持ち、というように協力しながら、木の棒に巻き付ける。

(中央、ラ・テール洋菓子店の中村逸平グランシェフ)

炭火にかざし、棒をくるくるまわしながら、まんべんなく焼き色を付けていく。
「ここもう少し焼いたほうがいいんでねえか?」
「あー、焦げちまった」
「おいしそうにできた」
いっしょに作業し、いっしょに食べる。
あたたかい炭火のまわりで、顔見知り同士が、あるいは同じ仮設住宅にいてそれまで話したこともなかった人同士のあいだに談笑が起こった。

いい手つきで棒を回し、ひとりで6本も焼いた83歳のおじいさん。
「結構うまいべ。
俺、得意なんだ、こういうの。
パン屋になろうかな(笑)」

(「仲良し同士で同じ仮設住宅に入れた」と笑うおばあさんたち)

いまの暮らしぶりはどうですか? とおばあさんに尋ねる。
「みなさんにいろいろご支援いただいたおかげで、落ち着いてきました。
どうもありがとうございました」
と感謝の言葉を口にされ、逆に恐縮し、また安堵した。
津波の体験を口々に語っていた、以前とは明らかに変わってきている。

もうひとつ変わったことがある。
パンを受け取りに出てくる人たちの中に男性の姿が少なくなった。
それはなぜなのか。

織笠猿神仮設住宅で生活支援専門員をしている赤瀬さんはこのように説明した。
「これからが、本当のダメージが出てくる。
仕事がない、お金がなくなる。
そうすると、心の力が必要となる。
例えば、同級生同士が会っても、かえって本音をしゃべれない。
『俺、つらいんだ』ってめったにいえない。
こういうとき強いのは女性。
男はプライドがあるから、稼げないと男じゃない、ってなってくる。
あまり外に出なくなって、うつのようになってくる。
首を吊って自殺した人もいる。
復興のためには、まず仕事を作るのが先。
忙しければ余計なことを考えられない。
仕事があっても、ミスマッチもある。
いまはがれき撤去の仕事がほとんど。
加工屋やってた人が急に土木作業をやれるわけがない。
現実は、男が肩身の狭い世の中」

震災はまだ終わっていない。
それは建物の破壊や物資の不足といった目に見える危機であることをやめ、心の不安という目に見えないものに変わりつつある。
支援の形も、モノから心へと変わっていくべきだ。
今回行ったカレーパンや巻きパンのような、あたたかいもの、楽しいもの、みんながコミュニケーションをする機会になれるようなものが、力になるだろう。

帰路訪れた陸前高田で、米崎小学校仮設住宅自治会長の佐藤一男さんに、震災から1年が過ぎた、いまの被災地の現状を訊いた。
「落ち着いたというか、次に何をしたらいいか、逆にわからない状況。
震災後は、気持ちに余裕がなかったが、3.11で区切りがついた。
次に何をしたらいいんだろうという気持ちに、切り替えができた」

ニュースで見ているだけでは、当事者の実感はつかみにくい。
復興は進んでいるのか、いないのか。
「その言葉に関しては、まだぜんぜん、実感がありません。
お金がまわりはじめて、復興だと思っているので。
いまはがれき処理の工賃だけが被災地に入ってきて、それに付随して、少しできはじめた飲食店にだけ、お金がまわる状況になっている」

「物資をもらう時期は、すでに過ぎたと思います。
ただ、自分らはもうすぐ大きな金を使うことになる。
家を建て、仮設住宅を出て、引っ越ししなくちゃならない。
そのために、みんな倹約に倹約を重ねている。
なにを倹約するかというと、やっぱり食費を抑える」

「いままでの生活というのは、僕みたいな漁業だったら、かき、ほたて、ほやなんかの海産物を親戚に送ると、それが親戚の親戚にまで届いて、秋には米やぶどう、りんご、柿なんかになって返ってくる。
だから、食費にお金はかからなかった。
ところが、農地も漁業施設も津波でなくなっちゃったもんで、そのサイクルが崩壊しちゃった。
だから、元の生活をするのに、倍ぐらいお金がかかるようになった。
米はいやでも買って食いますが、それ以外、食卓にのぼらなくなった。
果物や、魚、肉は食うことがなくなった。
保健所の調査でも、被災者のビタミンバランスが崩れているという結果が出ました。
食べなきゃいけないものを、食べていない」

「でも、このまま自分で買わずに、援助でもらったものばかり食べていたら、地元の店が潰れる。
5年後、10年後に店がなかったら、どこで買物をしたらいいのか。
ふだん買えるものは地元の店で買ったほうがいい。
でも、もう1品のぜいたくがほしい。
食い物がうまいという感覚をほとんど忘れている」

あれがおいしい、これがおいしいと、当たり前のように発しながら食べている者にとって、なんと突き刺さる言葉だろう。
だが本来、海の幸、山の幸に恵まれたこの地方の人たちは、都会人以上に「おいしい」ということを知っているのだ。
港湾施設がやられ、養殖筏がやられ、潮をかぶった畑の復旧も見えていない。
食べ物が生産されないし、買うお金もない。
いま必要なのは、「施す」ことではなくなった。
この負のスパイラルから逆転する突破口を見つけ、自力で立ち上がっていくように、後押ししていくことだ。
具体的には、東北沿岸部の産品を買って、域外のお金を流しこんでいくこと。
同時に、お金の流れができあがるまで、自立への意欲を奪わないような形で、ふさぎがちになる気持ちを持ち上げるような、心への支援を行っていくことが必要だ。

希望はある。
佐藤一男さんが、がれきの中を探しまわって拾いあげ、再び種をつけた養殖筏から、今年の冬、最初の牡蠣がいよいよ出荷される。
一方で、道のりは遠い。
私が東京へ帰った日、佐藤さんの次のようなツイートを見た。

「復興って、こういう漁業施設がキレイに解体されて、港が修復されて、代わりの建物が建設されて、順調にカキやホタテが出荷されてから始まるんだよね!? いつまでガンバれば良いんだろう?」
ツイートには港湾施設の廃墟の写真が付されていた。

どれほどの時が必要なのかはわからない。
だが、復興は必ず成し遂げられるはずだ。
再建された港にたくさんの海産物が満ち、商店街が買い物客でにぎわう日はきっとくる。
あきらめず、そのビジョンをしっかりと心に持ちつづけていれば。
それが実現する日まで、東北のことを決して忘れずにいよう。


佐藤一男さんが発起人となり行っている、桜ライン311
津波の到達地点に桜を植える活動。
ボランティアや苗木、協賛金を募集している。


パンラボ単行本増刷完了しました。


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パンを届ける 第5回 岩手県山田町
岩手県山田町という地名すら知らなかった。
いままで支援を行ってきた陸前高田市からさらに60キロ北。
東北自動車道のインターがある岩手県花巻から、山また山を越え、車で2時間あまり。
海まで突き出す峻険な山に阻まれて、たくさんの支援物資や義援金を集めることができる有力ボランティア団体の援助が届かない。
被災地に差し伸べられる支援は平等ではないのだ。
有名な避難所や仮設住宅がいつもマスコミに取り上げられ、政治家や芸能人の訪問を受ける一方、遠隔地にあるマイナーなコミュニティは忘れ去られる。

加えて、孤立集落の問題。
高台にあるために、津波の被害から逃れ、自宅は残ったけれど、沿岸部にあった仕事場や職場をなくして、生活に困窮していることに変わりはない。
けれども、自宅が倒壊しなかったため、被災したとみなされず、援助物資や義援金は届かない。

今回、私たちが山田町へ向かったのは、プロジェクトNextの活動を知ったからだ。
遠野市の歯科医・打越さんと北上市の佐藤直樹さんによって設立されたこの団体は、山田町の被災者に物資を届けてきた。
私財を投げ打ち、寝食を忘れて。
2人の熱い気持ちに応えたかった。

今回は、横浜市を中心に、多くのパン屋さん、お菓子屋さん、材料屋さん、パンに関係する団体の方々にご協力いただいた。

加藤企画
からくり時計のパンヤ
櫛澤電機製作所
さくらベーカリー
山角
三和産業(パン材料)
社会福祉法人「開く会」/共働舎
内籐製あん(あんこ製造)
白楽ベーグル
パネテリア ピグロ
パンステージ プロローグ
パン・ド・コナ
ピュイサンス
ブーランジェリー ボヌール
ベイクハウス コペ
ベーカリー クマ
穂の香
ボンヴィボン
本牧館
ラ・セゾン・デ・パン
ラ・テール洋菓子店
ラ ベルコリーヌ
リリエンベルグ
ローゼンボア
(五十音順)

ベイクハウス コペの店主奥山誠さんは、私に箱を手渡すとき、パンに向かってささやきかけた。
「がんばってこいよ」
まるで自分の分身を被災地へ送り出すかのように。
パンに込めた気持ちはきっと食べた人へ伝わっていくはずだ。
その信念が、職人たちを日々の労働に向かわせているのだろう。

山田町の下記の場所でパンをお配りした。

仮設住宅
織笠猿神仮設住宅
山田高校前仮設住宅
織笠小学校仮設住宅

周辺の孤立集落
山田高校付近
織笠跡浜地区
織笠外山地区
織笠落合地区
船越小谷鳥地区
計約700人

プロジェクトNextと行動を共にする女性のボランティアさんが、いまの被災地の状況を端的に説明してくれた。
「みんなお金がないから、なにを切り詰めるかというと、食事になる。
1日2食にして、ごはんとインスタントのみそ汁だけとか。
だから、東京からパンを配りにくるというとみなさんよろこんで。
パンがくるのを首長くして待ってますよ」

最初に向かった織笠猿神仮設住宅。
テーブルの上に各店でいただいたパンの入った箱を並べ、好きなものをお選びいただく。
どれも神奈川の有名店で作られたパンだとご説明する。
迷いながらパンを選ぶ楽しさまで味わっていただけただろうか。

(右から、さくらベーカリー中野元好さん、加藤晃さん(ベーカリー経営アドバイザー)、リリエンベルグ丸山晃一さん、ブーランジェリー ボヌール斉藤政弘さん、社会福祉法人「開く会」鈴木正明さん、三和産業・石崎亮さん、三和産業・佐藤和行さん

今回は特定非営利活動法人NGBC(障害のある方のパン事業を支援する団体)に賛同する神奈川方面のパン屋さん・お菓子屋さん、できたての蒸しパンを現地で作ってがくれた
本職のパン職人、お菓子職人たちが、店の垣根を越え、協力して仕上げていく。
かぼちゃやさつまいもなどの野菜を切って、粉と卵を混ぜ合わせ、ボイラーで蒸す。
あたたかい蒸気が人びとの期待を高め、15分のあいだみんなで完成を待つ。
その間、まわりにいた人たちと自然に会話が起こり、近況を確かめあったり、たわいもない冗談に興ずる。
いよいよ蒸し上がり、蒸篭のふたがとられると、いっそう激しく白煙が沸き立ち、人びとから歓声が上がる。
熱々のものを受け取って、その場で食べる。
根菜の自然な甘さ、小麦粉の生地のやわらかさ。
いま目の前で調理されたものを食べるおいしさは格別のものだった。

(中央・ボヌール箕輪喜彦さん)

自分の手渡したパンを笑顔でおいしそうに食べてくれる人がいる。
それを見ている私の全身にも幸福感が満ち、自然と笑っていた。
笑顔と笑顔が1個のパンの仲立ちによって生まれる。
なぜその体験によって、見も知らず、言葉すら交わしたことのない、目の前にいる人と、心がつながったように実感できるのだろうか。
宅急便でパンを送れば、たしかに同じカロリーだけ腹は満たすのかもしれないが、この実感は決して湧かない。
あるいは、パンの形や色、人の手によってしか決して生み出せない気配のようななにかが、受け取る側に、そこに込められた心の存在を感知させる。
だから、パンは人を励まし、心と心をつなぐ。

(ラ・テール洋菓子店・中村逸平さん)

パンを作るコック帽の人たちの人気は絶大なものだった。
「コックさん、コックさん」
、子供たちはうれしそうに呼びかける
ラ・テール洋菓子店のグランシェフ、中村逸平さんは積極的に子供たちと触れ合っていた。
「こんなによろこんでもらえるんであれば、労を惜しまず、もっとできることないかなって、思いますよね。
わくわくするような気持ちで蒸し上がるの待って、並んでいる人たちのあいだで、自然とコミュニケーションもできるじゃないですか。
パンやお菓子がそのツールになってくれたら。
単に1個のパンではない、それ以外のなにか。
特に子供が元気になってくれる。
子供はみんなケーキが好きだし。
子供と遊びたいと思うのは、子供がよろこんでたら、大人も心を開いてくれるかもしれないと思うから」

パンを手に盛り上がる人びとの会話は、東北弁ゆえに聞き取りにくかったのだが、先述した女性のボランティアさんが、また説明をしてくれた。
「『あんたここに住んでたんけ』
『何号棟いたっけ?』
『今度お茶っこ飲むで』
って会話が起きてた。
安否確認の場になった。
どこ行ってたかわからなかったって。
コミュニケーション生まれている。
みんな仮設住宅からこんなふうにめったにでてこない。
寒いので籠って出てこない。
代表の人に物資だけ渡して、撒いてもらっている場合が多くて。
こんなに出はって、じかにもらいにくるのはじめて見ました」

(パンの入っていた段ボールで遊ぶ子供たち。仮設住宅に入って離れていた友だちといつもいっしょに遊べるようになった)

このボランティアさんは自分のことを「無名のおばさん」だというだけで、本名を名乗ろうとはしない。
「震災前まで東京の小学校で教師をやってました。
ガンになった。
ガンに仕事を奪われました。
そのときプロジェクトNextの佐藤直樹さんに運命的に出会って。
神様にボランティアをやれといわれてるようなもの。
いまは関東でも東北の被災者は落ち着いたと思われて、物資は減っています。
でも、寒さはこれから。
孤独な老人もいるし、仕事見つからない男の人もいる。
支援はこれからが本番。
物資だけではなく、精神的にも支援は必要です」

私たちはつづいて孤立集落へ向かった。
紅葉のすばらしい景色の中を山へ分け入っていく。
山あいのなだらかな斜面に畑があり、細く舗装もしていない坂を上ったところに古い農家があった。
日本人の原風景そのもの。
豊かな自然は生命の気配に満ち、のどかで、どこにでもあるようなさりげなさがかえって、心を安らがせる。

ここは配布を行うスペースがなく、パンを代表者の中村さんにゆだねた。
おばあさんが何度も頭を下げながら私たちに東北訛りでする挨拶は感動的なものだった。
「みなさまがきて、うれしいでござんす。
なに食べたくても、津波にぜんぶ流されて、おいしいものは食べれないでござんす」

山田高校前仮設住宅で窓口になってくれたのは、阿部英恵さんという若いお母さんだった。
9月に、フードコーディネーターのサゴイシオリさんと鷏トルタロッソのご協力で、「たのしいちぎりぱん」をお送りしたのも、この仮設住宅だ。
旦那さんが営んでいたカラオケボックスは津波に飲み込まれたが、共同経営者であった知人宅の倉庫を改造して、弁当屋をはじめたという。
「家にいるよりは少しでも働いてお金を稼いだほうが」
自分のできることをみんながはじめていけば、やがてお金がまわりだし、大きな流れになるはずだ。
復興は小さい一歩からしかはじまらない。
被災のショックにめげず、その一歩が確実に印されていることは、うれしくも、心強くもあった。

その元気はきっと笑顔から出てくるのだろう。
プロジェクトNextの佐藤直樹さんは阿部さんのことをこう話す。
「支援物資を届ければ、彼女はいつも笑顔になってくれる。
本当はしんどいんだろうけど、くるたび笑顔なもんで届けがいがある。
届ければ届けるほど笑顔になってくれる。
笑顔がいちばん金かかんなくて、人を元気にできる道具。
この活動をやってるモチベーションって、みなさんの笑顔。
基本、楽しいからやってるんですもん」

(左端、櫛澤電機製作所・澤畠和秀さん)

(織笠小学校仮設住宅)

佐藤さんの実家はこの織笠地区にあった。
「あった」と過去形なのは、いまは津波によって失われているからだ。
両親は「紅屋」という食堂を営んでいたが、2人いっしょに亡くなった。
「両親と連絡取れないまま、地震から2週間後、同級生から遺体で発見されたと連絡あった。
ガソリン探すのに3日かかって、どうにか遺体確認して、火葬場探すのに1週間かかって(死者が多くどの火葬場も満杯状態だった)、ようやく盛岡から50キロ北の岩手町で焼いた。
そのあと、北上の自宅でぼーっとしてたら、『なんかやりたい』と思った。
物資を届けているのは、おやじとおふくろが世話になった織笠の人たちへの恩返し」

活動を行ったあと、佐藤さんは必ず実家跡に赴き、亡き両親に報告し、線香を供えるのだという。
女性ボランティアさん中村逸平シェフ、そして私は、佐藤さんの実家の廃墟までついていった。
海辺の集落が消え去っていた。
建物の基礎だけが残った集落跡はまるで墓場のようであったが、黄金色の夕日によって風景の輪郭は妙にはっきりとして、コンクリートが白く映えてうつくしかった。
瓦礫は片付いていたが、ときどき、おまつりで飾るちょうちんや、テレビのリモコンなどが意味もなく落ちていた。
先頭を歩く佐藤さんは瓦礫の上にとても長い影を引きずって、そのあとから私たちがつづいた。

「おやじがおふくろを看取ったのはこのへんです」
佐藤さんは線香に火をつけ、割れた茶碗の上に置いて、手を合わせた。

「おふくろは脳梗塞で寝たきりで、そのそばでおやじも横になったまま、あそこの軽自動車が止まっているあたりで見つかった」
そういって、佐藤さんが指差したのは、はるか数百メートル先の場所で、ベッドとその上に横たわった2人の人間を押し流した津波の激しさが忍ばれた。

海はここから目と鼻の先。
佐藤さんの父が、津波の危険性を知っていた可能性は十分にある。
だが、動けない妻を連れては逃げられない。
自分だけが逃げるという選択肢はもちろんありえない。
お父さんは観念し、妻と2人でいっしょに死ぬことを自ら選びとったのかもしれなかった。

「実家を継ごうと思った時期もあったんですが、親父とうまくいかなくなって、『知らん、この店!』といって、家を出ちゃった。
脳梗塞のおふくろだけは面倒見ねえとと思って、病院に入れたんですが、いつまでも置いてはくれない
仮におふくろを介護施設に入れてたら、親父がひとりでこの家に残っていた。
結果オーライだけど、2人でいっしょに死ぬことができた。
おやじがいてくれたから、おふくろをひとりで死なせずにすんだ。
おやじに対するわだかまりが消えた。
この活動は親孝行のつもりなんですよ。
だから、しんどくもなんともない。
楽しくやってます
今日も一日、みなさんが笑顔で物資をもらってくれるから、その笑顔がすべての答えであって」

佐藤さんは両親から受け継いだ遺産をプロジェクトNextの活動に注ぎ込んでいる。
両親を津波から守れなかった悔い、生きているときに親孝行ができなかったという悔いがあるからなのかもしれない。
だが、それは誰もが同じことだ。
愛するものが死ねば、残されたものは、いまは帰ってこない時間を思い、ああすればよかった、こうもできたかもしれないと悔いるほかはない。
海べりの廃墟で思う。
この震災によって失われたのは、佐藤さんの両親をはじめとする数万の命である。
生き残った私たちが、彼らにできることはなにか。
その悔いを、困難ないまを前向きに生きていく力に変えることはできないだろうか。(池田浩明)


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寄付や、Amazonウイッシュリストを利用した物資の支援、元オフコース松尾一彦さん参加のCD購入など。
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パンを届ける 第4回
募金箱に義援金を入れる、支援物資を送る。
その意味とは、単にお金やものが生活の支えになることにとどまらない。
家族を失い、大事な働き手を失い、それでも家業をつづけるために、めげずに立ち上がろうとしている人は、私にパンのお礼をいい、そしてこのようにつづけた。

「避難所にいろいろな物資が届く。
日本中の人が支援をしてくれている。
それを思うと、がんばろうという力になります」

今回の被災地にパンを配る活動は、以下のパン屋さん、パン関係の事業者のみなさんに、ご協力をいただいた。

イトキト
櫛澤電機製作所(パン機械製造)
加藤企画(パンの指導)
グロワール
さくらベーカリー
ショーマッカー
スピカ 麦の穂
SORA
三和産業(パン材料)
社会福祉法人「開く会」/共働舎
ティグレ
内籐製あん(あんこ製造)
ナチュラルパン工房&ワインサロン ワルンロティ
パンテコ
ブーランジェリー ボヌール
ブーランジュリー コシュカ
ベッカライ・ヒンメル
ベッカライ・ブロートハイム
本牧館
マリアージュ ドゥ ファリーヌ
リリエンベルグ(お菓子)
ローゼンボア
ロンシェール
(五十音順)

また、同日に、サゴイシオリさん(フードコーディネーター)、(株)トルタ・ロッソのご協力により、岩手県山田町に宅急便でパンをお送りいただいた。

あの日から半年が過ぎようとしている。
瓦礫やゴミや廃屋がむごたらしく残されたままだった景色は、訪れるたびに秩序を取り戻し、空き地に広がる夏草の緑はうつくしいとさえ感じられるようになった。
しかし、陸前高田市の中心市街地である高田町には、1戸の建物や商店さえ建たず、いまだ海水の浮いた野原のままだ。

写真で浮き島のように見えているところが、かつての海岸線である。
津波は、地震の影響で84センチの地盤沈下が起こったところに押し寄せた。
た。
波打ち際は400メートルも後退し、うつくしい松林と砂浜で知られた海岸は海に没した。
1日を境に商業地すべてが消失した。
海抜がマイナスとなったこの市街地を再建することは極めてむずかしい。
この風景は、家族や友人を失い、見慣れたものを失った人たちの心の空白を表しているようにも思える。

(右から、櫛澤電機製作所・澤畠光弘さん、ローゼンボア・高崎健人さん、三和産業・石崎亮さん、加藤晃さん(ベーカリー経営アドバイザー)、社会福祉法人「開く会」鈴木正明さん、さくらベーカリー中野元好さん)

9月3日、仮設住宅にお住まいの約1000人の方々にパンをお届けした。
特定非営利活動法人NGBC(障害のある方のパン事業を支援する団体)に加盟する神奈川方面のパン屋さん・お菓子屋さんは今回も現地まできて、数百斤もの食パン、ジャム、そしてコッペパンにその場で好きなスプレッド(マーガリン、ジャム、あんこ)を塗るサービスを提供してくれた。

高田高校第二グラウンド仮設住宅。
若くして自治会長に選ばれた熊谷さんは、試行錯誤を重ねながら、運命共同体の舵取りをしてきた。
パンを受け取る人たちの列を見ながらつぶやく。

「前向きな人が多いのでよかったです。
家族をなくした方もいることはいますが、まわりが声をかけあって、助けあってる。
いま並んでる人を見ても、絶望感を持ってる人はいない。
表情がそのまま物語ってるんじゃないですか。
みんなにこにこしてればそれでいい。
僕はなにもできないけど」

底の底を体験した人だから、人の幸福を推し量る術は、最後には笑顔しかないのだとシンプルに確信できるのだろう。
被災地にくると誰もが感じる、人びとの表情の明るさ。
ひとりひとりが個を閉ざす都会の人たちよりも、隣同士で助け合って生きていかなければならない状況が、かえって元気を生み出している。

台風の影響でときおり強い雨が降った。
モビリアでは、ホールの玄関前の軒下で1時間も前から私たちを待っている人がいた。
「また手づくりのパンが食べられるんでしょ?」
パン屋さんの気持ちは手を通じてパンにこめられ、食べる人へ伝わっていく。

前回の訪問のとき、モビリア仮設住宅で出会った87歳になるおばあさん。
櫛澤電機の澤畠社長はパン屋さんとともにしたためた寄せ書きを送った。
おばあさんはこういっていたと、娘さんから返事がきた。

「避難所から引っ越したばかりの時、この人たちがパンを届けてくれたのよ。
ここに同じ部落の人は誰もいないし、知っている人も居ないし、心細かったところに声をかけてくれたものだから、すごく心強かった。
もちろん、パンも美味しかったけどさ、何よりこの人達がここまで直接来てくれたことがとってもうれしかった」(詳細

再び訪ねた仮設住宅で、おばあさんは7ヶ月のひ孫といっしょにいた。
赤ちゃんは生後1ヶ月で津波を体験したことになる。
お母さん(おばあさんの孫)はいう。
「予定日はちょうど3月11日ごろでした。
1ヶ月早く生まれてきました。
もしお腹の中にこの子がいたら、逃げられたかどうか…」

命の大切さを思った。
ある人を生かし、ある人を死に導くのは、小さな偶然にすぎないのだ。
お母さんの腕の中にいる赤ちゃんへ、「よかったね」と思わず声をかけた。

いつきても活気あふれる米崎小学校では、今回も長蛇の列ができた。
仮設住宅を力強く引っ張る自治会長の佐藤一男さんを、先日、新聞記事の中で見かけた。

4月2日に米崎小学校を訪れた菅直人首相に対し、被災者が批判的だったとする記事だ。

「記者さんは開口一番『総理がくるのが遅いと思いませんか?」。
僕は『うちにきてもらって、見てもらっただけでもいいと思いますけど』って答えました。
『来るのが遅い』とはいってないです。
いったことのないことが書かれる。
いわせたいことがあって、そのために質問しているように見える。
マスコミによる煽動ってこういうことなんだなって思いました」

このとき菅前首相はマスコミによる集中砲火を浴びていた。
自分たちの政治的主張を、被災者の口を借りて読者に信じさせようとしたのだろう。
会ったことのある私でさえ、佐藤さんが本当に発言したかのように思ったのである。
考えてみれば、多忙な中、わざわざ足を運んだ総理大臣を悪し様にいうことなど、めったにできるものではない。
伝えるべきは被災者の心であるはずなのに、それを置き忘れた報道があることを、知っておかなければならないと思った。

米崎中学校では、降りしきる雨の中、たくさんの人たちが列を作ってパンを受け取ってくれた。

自治会長の金野廣悦さんは何度もお礼をいい、お返しをくれた。
「差し上げられるものといえば、りんごぐらいしかありませんが…」
りんごは米崎町の特産品である。
青いりんご、小さなりんご。
もぎたてのりんごには、スーパーで買うものとはちがって、アップルコンピューターのマークのように、枝の先に葉っぱがついていた。

山の中の小さな避難所、自然休養村。
前回は6月25日、ちょうど解散パーティの日にうかがった。
そして今回9月3日は、代表者の菊池清子さんのお宅に、避難所のメンバーが2ヶ月ぶりに会し、元気な顔を見せあっていた。
そこには、大阪のパン屋さんグロワールからパンの小包が届いていた。
仕事をはじめたり、家を再建したり、という報告がつづいた。
「みんなが復興に向けて歩き出しているのがうれしくて」
という菊池さんの目は潤んでいた。

「この雰囲気をそのまま持って帰ってほしい、伝えてほしい」
そういいながら、私に酒をすすめる人がいた。
同席した人たちは3月11日を口々に語りはじめた。

隣町の気仙沼で地震に遭い、家族を心配して車で自宅へ急いだ人。
「運転しているとき、たまたま津波が見えたので、山へ逃げて助かった。
車が止まったところが、家並が途切れたところでなかったら、海は見えなかったでしょう。
津波を見てもなんなのかわからなかった人もいる。
それぐらい想像を超えていた。
あのとき他の車にいた人たちはいまどうなっているのか」

押し寄せる津波を見て「逃げろ、逃げろ」と大声で叫びながら、軽トラに乗って坂を全速力で駆け上がって助かった人。
「津波が水牛の群れのように見えたという人がいるし、大火事かと思ったという人もいる。
俺は津波が信じられなくて、自分が夢を見ているんだと思った」

「3月11日はものすごく寒い夜だった。
帰ろうと思っても家はないし、どこへいったらいいかわからなかった。
自然休養村にたどりついた。
電気もきてないし、ろうそくを灯してみんなで夜を明かした。
翌日、自分のものがなにか残っていないか探しにいって、日本酒の一升瓶を拾った。
それを持って帰ってみんなで飲んで、そこから助け合いがはじまった。
落ちているストーブの中に残った灯油をみんなで集めたり、食料を持ち寄ったり。
最初の一晩はひとつのおにぎりをみんなで分け合って食べたこともあったけど、翌日からは、部落の農家の人が持ってきてくれた米や野菜で、みそ汁とごはんを食べることができた」

避難所は、大海原で難破した人びとが乗り合わせた1艘の救命ボートだった。
助け合わなければ生き延びられない。
ひとりひとりで孤立していることはできない。
隣り合わせた人の運命は自分の運命そのものである。
そこへ、溺れている人に手を差し伸べるように、菊池さんはじめ、辛くも家が残った近隣の人が援助を行ったのだ。

津波とは直接関係のないエピソードが印象に残った。
足の不自由な83歳のお母さんを介護し、仮設住宅で暮らしている鈴木さん。
仮設住宅に当選し、避難所からそこへ移るあいだの1週間に、2人で小田原にいる鈴木さんの兄弟の家を訪ねた。
外に出たがらないお母さんが、遠出をして孫に会いにいくのははじめてである。
車いすで電車に乗るのはむろんたいへんなことだ。
新幹線の乗り降りのとき駅員さんがホームで待っていて手助けをしてくれる。
東京駅では東北新幹線から東海道新幹線への乗り換えを、すべて駅員さんが行ってくれた。
「親切がありがたくて、駅員さんのうしろから、涙を流しながら、東京駅を歩きました」
もし、避難所で助け合い、支援物資やボランティアに助けられる経験がなければ、この涙は流れただろうか。

おそらく駅員さんは、被災者だと知って、車いすを押したのではない。
いつも行っている仕事をしたのだろうし、こんなにも人の心に感動を与えたことも知らないかもしれない。
大事なことがこの話には含まれているように思われた。
ボランティアだけが人助けではない。
日常の仕事を、心をこめて行うことが、見えないところで誰かを救うことにつながっている。
私たちはみんな助け、助けられる関係の中にある。
見えなかったその絆が、被災地にくると見えはじめる。

自然休養村避難所はりんご畑に囲まれている。
そのひとつ、佐々木義広さんの畑を訪ねた。
「今年の夏は寒暖の差がなかったから、色がつかなくて」
りんごを育てる人は、ゆっくりしたたたずまいに、柔和な笑顔をたたえていた。
「どれでも好きなのをもいでいいよ」
と、佐々木さんはりんごをすすめてくれる。
最初に赤い実をつけたのは、さんさ、そして津軽。
11月、12月の最盛期には、いまはまだ青い、ふじが実る。

緑の中に点々とついた赤い実。
かわいいりんごの木を見ると、暗い夜に灯火を見たように、なにかあたたかいものが心を流れる。
眼下の寒々しい景色となんと対称的だろう。
米崎町堂の前、和方の集落は、海からすぐ丘になった、斜面にある。
海岸にあった、漁業施設や船、養殖いかだや海産物の直売所、そして家々は波に飲まれた。
畑もほとんどは、土をえぐられ海砂をかぶり、使い物にならなくなった。

津波は海抜20メートルの地点まで押し寄せたが、その上にあったりんごの木だけは難を逃れ、今年も赤い実をつけた。
あまりに大きなものを失ったこの集落で、りんごは希望でありつづけている。
りんごを見て知ったこと。
どんな悲劇に見舞われても、それでも希望は残される。


(池田浩明)

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パンを届ける 第3回
(陸前高田市)

多くのパン屋さんのご協力により、
パンは今回もおひとりおひとりの手に届けられた。

喉が乾き、倒れている人に、両手ですくった泉の水を届けるようなものなのかもしれない。
パンを届けることができるのは、10万人ともいわれる避難者のうち1000人、たった1パーセントの人たち。
しかも、1日3食のうちたった1食にすぎないのだ。
指の間から水はこぼれ落ち、乾いた人の唇に届くときにはもうほとんど残っていないかもしれない。
それでも、この活動をつづける意味があると、手前勝手に思っている。
少しでも、苦境にある方の力になりたい。
それは誰もが思う当然の気持ちだが、もうひとつ私には見届けたいことがある。
パンになにができて、なにができないのか。
いまなお危機にある東北で、それが明らかなるのではないかという思いに急き立てられて。
本来、匿名で行われるべき活動だが、被災された方への失礼を承知で、この場で発表させていただいている。

第3回は、以下のパン屋さんとパンに関連した団体の方々にご提供いただいた。

アンゼリカ
ウッドペッカー
櫛澤電機製作所(パン機械製造)
加藤企画(パンの指導)
グロワール
ケポベーグルズ
サクラベーカリー
三和産業(パン材料)
社会福祉法人「開く会」/共働舎
TAMAYA
ダンディゾン
内籐製あん(あんこ製造)
パネテリアピグロ
パンステージ・プロローグ
ブーランジェリー ボヌール
ブーランジェリー ラ・テール
ポチコロベーグル
ポム ド テール
本牧館
mixture
ムッシュソレイユ/ブーランジェリーカフェ・バンブー
リリエンベルグ(お菓子)
ル クール ピュー
ローゼンボア
(五十音順)

(陸前高田市立第一中学校でカレーパンを揚げるNGBC加盟のパン屋さん、お菓子屋さんたち。左からリリエンベルグ丸山晃一さん、パンの先生である加藤企画加藤晃さん、ローゼンボア高崎健人さん、社会福祉法人「開く会」鈴木正明さん、ブーランジェリー ボヌール箕輪喜彦さん)
私が取材でお世話になった杉並、世田谷のパン屋さんに加えて、特定非営利活動法人NGBC(障害のある方のパン事業を支援する団体)に加盟する神奈川方面のパン屋さん・お菓子屋さんに多くご協力いただき、現地まで車で駆けつけてもいただいた。
画期的だったのは、あたたかいパンを避難者の方々に食べていただきたいという情熱から、ガスボンベとフライヤー(揚げ物を屋外で作る機械)が持ち込まれたこと。
揚げたてのカレーパンが苦境にある人たちの心まであたためてくれたら、と私たちは期待して東北へと向かった。

(右からひとりとばしてリリエンベルグ横溝春雄さん、櫛澤電機製作所 澤畠光弘さん。陸前高田市立第一中学校にて

陸前高田市立第一中学校野球部の部員たち。カレーパンを手渡すと一列に並んで「ありがとうございましたー!」

突然ドアをノックした私たちを
仮設住宅の人たちは笑顔で迎え入れた。

日を追うごとに復興は進んでいる。
街は依然として荒れ果ててはいたが、瓦礫は1ヶ月まえより確実に少なくなっていたのだ。
避難所の人数も前回訪れたときより減少していた。
避難者の人たちの多くが、完成した仮設住宅へ移り住んでいるからだ。

(モビリア仮設住宅にて)

モビリア(オートキャンプ場)でも避難所は解散し、敷地の中にプレハブの仮設住宅が作られていた。
報道によれば、避難所の人たちが仮設住宅への入居を拒否する事態が各地で起きているという。
仮設住宅に入ればもう自立したとみなされ、援助が受けられないからだ。
避難者という立場から自宅を持つ身の上になったからといって一件落着と片付けられるのだろうか。
私たちは仮設住宅を1件1件訪ね、パンを配り歩いた。
「迷惑がられるのではないか」
やってみるまでの心配は、杞憂に終わった。
笑顔で受け取ってくれる人たちが大半だったのである。
「受援力」という言葉があるそうだ。
援助を受け入れる力のことである。
東北の人たちはすばらしい受援力を発揮して、援助者たちを懐深く受け入れてくれている。

「ふかふか、もちもちして、すごくおいしかったパン屋さんが
津波に飲まれてしまいました」

ななこさんもそうしたひとりで、仮設住宅の扉をたたくとすばらしい笑顔を覗かせた。
「パン大好き。
365日パンでもいいぐらい。
陸前高田のパン屋さんは津波でなくなってしまいました。
となりの大船渡に柳屋というパン屋さんがあって、ふかふかして、もちもちして、すごくおいしかったんですけど、津波に飲まれてしまいました。
大船渡にいけば大型店の一角ならパン屋さんがあるんですけど」
ななこさんは目を輝かせておいしかったパンの記憶を語るけれど、いまやそのパン屋はないし、陸前高田ではいまだ焼きたてのパンを買うことができない。

住宅の敷地内には大手のスーパーが仮設で営業していて、袋入りのパンも売っている。
それでもななこさんは、届けたパンをとてもよろこんだ。
「職場が流されて、解雇になっちゃって」
彼女も両親も仕事をなくしている。
幸い彼女だけは新しいアルバイトを見つけることができたが、倹約を強いられることに変わりはない。
1食を支援物資でまかなえることはありがたいという。

両親、祖父母との5人暮らしだが、家にいるのはななこさんひとりだった。
「おじいちゃんとおばあちゃんは、ずっと住んでいたところにもどりたいって、壊れずに残った長屋みたいな倉庫に昼間は戻っちゃうから。
私は仮設住宅が当たってうれしいのですが…」
一家が逃げのびていた倉庫は、浸水し、至るところ痛んでいるが、それでも祖父母にとって仮設住宅よりはいいのだと。
住み慣れた家がないことの混乱、喪失感は想像以上に大きい。

「訴えたいことがあるんです。
地震で家が損壊した人はローンが免除か半減される制度ができるといいますが、なかなか法律が決まらない。
(二重ローン問題に関して、政府は、個人が自己破産しなくても金融機関が債権放棄をしやすくする「私的整理ガイドライン」を策定する予定。)
ローンがないほうが暮らしやすいので両親はそれを利用して、家を取り壊したいと思っている。
おじいちゃんとおばあちゃんは前に住んでいた家を直してもらいたいと思っていて、無償で家を直してもらえる制度を利用したいと思っているんですけど。
家を壊すのか、直すのか、どっちがいいのかわからない。
法律が決まらないかぎり、どうにもならないから。
家のことが心配で仕事を探せない。
瓦礫の中で家を片付けているだけで、なにもできなくて」

「政治が早く決めてくれないとなにもできない」
被災地の悩みはすべてここに行き着く。

政争に明け暮れてばかりで政治はなにも決めてくれない。
…東北で話を聞いていると、悩みはそこに行き着いてしまう。
被災地でパン屋の復興が遅れている理由を岩手県パン工業組合に尋ねたところ、同じ答えだった。
この組合には、給食のパンを供給するパン事業者が加盟している。

「給食のパンを製造するには大型の設備が必要なんですが、都市計画ができないので、すぐに建てられない。
復旧したい意欲は持っているんだけれど。
早く決めてくれないと…」
釜石、宮古、大船渡といった津波の被害があった沿岸部には、パン工業組合のバックアップによって、設備の損壊を逃れた内陸部の工場から給食用のパンをピストン輸送している。
被災地へパンを届ける努力は、私たちの知らないところでいまなおつづけられる。

(パンが配られるのを待つ人びと。米崎小学校仮設住宅にて)

笑顔で手渡すからもらった人も笑顔になる。
相乗効果でパンはさらにおいしく、幸福なものになった。

次の支援場所である米崎小学校に遅れて到着すると、待ちかねた人たちが外にでて私たちを待っていた。
体育館にいる避難者、校庭に建てられた仮設住宅の入居者たちに、パン屋の来訪が知らされていて、それを楽しみにしていてくれたのだ。
この時刻、朝から空を覆っていた雲が裂け、光が差していた。
人びとのあいだには会話があり、笑顔があり、元気にあふれている。
子供たちは遊具のあいだを走りまわり、それが活気を生んで、大人も楽しくなっている。

(パンが配られはじめると行列ができた)

「これを待ってた!
やる気でるなー!」
リリエンベルグのパティシエ、丸山晃一さんが叫んだ。
盛り上がりが盛り上がりを生む相乗効果。
そこにパンとお菓子が介在した。
よろこんでくれる人がいるから、パンを作る側、届ける側も笑顔がでる。
笑顔で配るから受け取る側もおいしく感じられ、ますます笑顔になる。
笑顔と笑顔のあいだにはコミュニケーションが生まれ、心のつながりができる。
パンが人を励ましている実感があった。
「たかが1個のパン」を「されどパン」に変える手がかりを得たような気がした。
このシチュエーションを作りだし、幸福を呼びこみたい。
活気にあふれた空間で、パンのポテンシャルは最大限に引き出されるはずだ。
そのために届ける側がまずできることは、笑い、元気をだすことだ。

(佐藤一男さん)

「一人一役で助け合い、ないないづくしでもなんとかなった。
お祭りをいっしょにやるつながりが、いい結果を生みました」

どうして米崎小学校の人たちはこんなに元気なのか。
自治会長である佐藤一男さんに話をうかがった。
「この避難所には米崎町の人たち200人が避難していました。
以前から顔見知りではあったのですが、つながりが思いっきり広がった。
もともとお祭りのときみんなでいっしょに集まっていたので、横のつながりがあった。
そういうのがいま生きた感じです。
あれがたりない、これがたりないという状況でも、『あの人に頼めばなんとかなる』というのがわかっていたので、ないないづくしのなかでもなんとかなった。
たとえば、まかない場も、サッカーゴールとテント、流木を組み合わせて作った。
かなりの設備ができました(笑)。
避難所の中で『手伝ってもらえませんか?』と訊いたら、手を挙げてくれる人がいたんで。
一人一役みたいな感じでここまできました。
古くからの、お祭りとかのつながりがいい結果を生みつづけてきた」

(食パンを手にして笑顔の人たち)

大災害に直面してひとりひとりが孤立しているのではない。
つながりあい、笑顔を交わしあう中で助け合い、元気を出し合っている。
それが、米崎小学校が明るい理由だと佐藤さんはいう。
これはとても大事な教訓だと思う。
震災以降、「がんばろう日本」のような標語をよく見かけるようになった。
それではきっと言葉が足りない。
もっといいのは、「いっしょにがんばろう」「連帯してがんばろう」ということだ。
私たちが届けたパンでは毎日毎日の空腹を満たすにはもちろん足りないが、笑顔で手渡せば、首都圏の人たちも東北の人たちのことを思っているという連帯のあいさつになる。
それがつながりを作り出し、孤立するよりももっと大きな力を生むかもしれない。


瓦礫の中から見つかった獅子舞、虎舞。
にぎやかな祭り囃子が復興を告げるのか。

佐藤さんの名刺には「漁民」と書かれていた。
米崎町はりんご栽培と養殖漁業の町で、佐藤さんは牡蠣を生産している。
「地震が3月の仕込みの時期を直撃しました。
防波堤も、作業場も、牡蠣を養殖するイカダも壊れ、船も流されました。
瓦礫の中からイカダを拾って、松島(宮城県)から持ってきた種をつけて、なんとか例年の2割仕込みましたが、3割とれないと採算が合わないので、今年は赤字。
でも、来年は5割、その翌年は…と階段上がるつもりでやってます。
積み重ねるのが大事なので。
でも、安全ライン(海からどれぐらい離れたところに建築物を建てていいかの指針)が見えてこないので、作業場が建てられない。
衛生上、青空の下で牡蠣の殻を剥くわけにはいきませんし」
ここでもまた政治の動きの鈍さが復興への足かせになっている。
しかし、それを嘆いているより、佐藤さんは自分にできることをして、一段一段復興への階段を上がっている。

(カレーパンの実演に人垣ができる)

佐藤さんの表情が明るくなったのは、例年10月に行われる祭りの話題になったときだ。
「声かければみんなやるとは思いますが、『みんなたいへんなんでしょ』(だからやめといたほうがいいのでは)という雰囲気もあって。
私は、多少端折ったとしてもやるべきだと思うのですが。
このお祭りは、浜の大きな広場で集落ごとの踊りを披露するのが大きな流れになっていて。
道中おどりとか、獅子舞とか。
そういえばこの前、瓦礫の撤去が進んだら、獅子舞、虎舞のセットがぜんぶ見つかって。
(お祭りをやったほうがいいということなんじゃないかと尋ねると)そうなんですよ!
お祭りの役員が集まって話をしたそうなんで、今年も行われることを期待してます」
瓦礫の中から無事に発見された獅子舞、虎舞が暴れまわる姿をぜひ見てみたい。
お祭りが絆を再確認させ、それをパンがお手伝いできればもっとうれしい、と私は思った。


避難所の解散パーティーのはじまりとまったく同時刻に
パンを満載した箱が届いた偶然。

夕刻、同行したパン屋さん・お菓子屋さんと別れたあと、ひとりで自然休養村避難所に向かった。
山の上にある小さな避難所。
ここに大阪のパン屋さんからパンが届くことになっていたからだ。

前回、記事を見たグロワールの一楽さんがtwitterでメッセージをくれた。
「また第3弾がありそうなら大阪のこの小さいパン屋からでも何か」
なんの面識もないパン屋さんが自ら援助を申し出てくれたのだ。
同じお気持ちをお持ちのパン屋さんはたくさんいるにちがいないが、遠隔地では私が取りにうかがうことができない。
それで宅急便で送っていただくことを思いついた。
大阪からは午前中に発送すれば翌日の夜に陸前高田に届けることができる。
1軒1軒のパン屋さんに直接お送りいただければ、もっと支援の輪を広げることができる。
そのさきがけになればと思い、グロワールにお願いすると、快諾してくれた。
「避難所の方によろこんでいただけるのはどういうパンなのだろう」
一楽さんはいろいろ悩んだ末、いかだ型の容器にさまざまなパンをのせたものを避難所の人数分送ってくれたのである。

(自然休養村避難所)

丘の上に着くと、薄暮に包まれた建物の窓から明かりとにぎわいが漏れだしていた。
広間にたくさんの人たちが集まり、宴会が行われていたのだ。
避難所の代表、菊池清子さんはいう。
「おかげさまで、全員仮設住宅に入ることが決まりまして、今日でこの避難所も解散することになりました。
私たち勝木田集落の者は、和野自治会のみなさんにお世話になっていました(自然休養村避難所は和野集落にある)。
和野のみなさんに支えていただいたことを感謝して、『いっしょにはげます会』を6時から開くことになっていたのですが、その6時ぴったりにパンが届きまして」

なんという偶然だろう。
避難所の解散を記念して行われるパーティーの開始と同時刻にパンが届くとは。
しかも、一楽さんからお送りいただいたパンの盛り合わせはパーティにぴったりなのだった。
「びっくりしました。
パンが届くのは知っていたので、みんなでパンパーティやろうといっていたのですが。
わかっててこしらえていただいたのかなと思うぐらい」
思いの力はときに驚くべき偶然をもたらす。
避難者の方が復興への一歩を踏み出す、もっとも大切な日にパンが居合わせたことがとにかくうれしかった。


「1個のおにぎりを分け合って食べることもありました。
なにかあったら自分も人の役に立ちたいと思いました」

「勝木田、和野の集落は、秋葉神社の氏子ということでお祭りはいっしょにやるけれど、あいさつするぐらい。
絆、親睦を深めることはありませんでした。
それが、支えること、支えられることによって勇気をもらって。
この会館を提供してくれることもありがたかったですし、炊き出しのボランティアがきたら焼き肉やラーメンをいっしょにごちそうになり、釜やガスの提供、野菜運んでもらったり、お水運んでくれたり、お世話になりました」

津波は残酷である。
単なる地形と標高のちがいが隣り合った人びとを天国と地獄にわける。
それでも、隣人の不幸を自分のこととして思いやる想像力とやさしさ、受け取る側の感謝の気持ちが、他人同士を深い絆で結びつけた。

「たいへんな時期には、人って見えてくるものだと思いました。
1個のおにぎりを分け合って食べることもありました。
自分の分は少々減らしても、分けてあげる思いやり。
震災まではとおりいっぺんのあいさつしかしてなかったので、その人のやさしさに気づかなかった。
同じ避難所に住んで、やさしい人だったんだなって、ぬくもりをあらためて感じて。
なにかあったら自分も人の役に立てるようになりたいと思いました。
そのためには仮設に入って、早く一歩を踏み出したい。
独立して暮らせるようになって誰かのために役立ちたいってみんなで話しました。
そういう気持ちがあるから、前向きでいられる。
いま避難所のパーティという感じではない、明るさがあるのもそのためではないかと思います」

津波の大きな被害にあった勝木田集落にあって、菊池さん自身は、津波で家を失うことはなかった。
「うちの敷地が50〜80センチだけ高いところにあって。
家が残ったんだけど、隣の人に申し訳ない。
だから、『うち』って言葉をいえないんです。
『うちに戻る』っていったら、孫が『ばば、うちっていわないで。それはいわないことになってたよね。「下に戻る」っていって』。
自分の家が流れていくのを見た方、うしろを振り返ったら家が流されてた方がこの避難所にはいます。
命、生かされてたの、ありがたいことだなと思います」

(中央・菊池清子さん、右が和野集落の方)

和野集落の人がやってきて菊池さんと言葉を交わす。
「仮設にいっても、もっかいけんかすっぺな」
「けんかもしたけど、つながりがあった。
みんな仲間。
この絆を離さないように、やってくべ」

(池田浩明)

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パンを届ける 第2回 南相馬篇
立ち入り禁止区域の境界線、
福島原発まで20キロの地点で聞いたこと、考えたこと。


6月4日の記事
からのつづき。

手元にはなおいくらかのパンがあった。
私の脳裏には前回訪れた南相馬で出会った人たちの顔が浮かんでいた。
あの人たちはいったいどうしているのか。
パンを配るのは翌朝(5月29日)になってしまうけれど、日持ちするハード系のパンでもあったので、持っていってみようと思った。


(ビジネスホテル六角。右側が主人の大留さん。左は山梨から支援のための野菜を持ってきた方)

福島原発から20キロと100メートル地点。
国道6号は東北の大動脈だったはずなのに、警戒区域(原発から20キロの範囲。立ち入り禁止)の出現は、この街道沿いの場所を岬の先端のような、最果ての場所にした。
ここで、援助物資を集め、自宅避難者に配る活動を行っているビジネスホテル六角に、もう一度パンを届けた。
主人大留隆雄さんはこう話す。
「屋内退避が解除になったとはいっても、困ってる人が大勢いるのに、ここまでやってきていまやめたら、生殺しになってしまう。
物資を取りにくる人がどんどん増えている。
最初は200人だったのがいまは600人もいる。
逃げていた人が南相馬に帰ってきているんだけど、仕事がない」

なぜ仕事がないのか。
「農家の人が野菜をもらいにくる。
野菜を出荷できないし、自分の食べるものもない。
津波で漁港も壊れたし、船も流れたから漁業もダメ。
放射能の不安があるから会社も元のように再開できない。
工業製品も、南相馬で作ったものは外国で売れないから輸出もダメ」

この町の悲劇は単に放射能それ自体によって引き起こされているわけではない。
風評被害や政府による対応が悲劇に拍車をかけている。
たとえば、この町では病気になっても入院することができないと大留さんはいう。
南相馬市立総合病院には230のベッドがあるがそのうち5つしか使ってはいけないことになっているのは、入院患者は原発が爆発したとき自力で逃げられないから、という不条理な理屈である。
小中学校も、いまだ再開できない。
政府による緊急時避難準備区域の指定が、むしろ、現にここに住む人たちから復興へ向かう勇気を奪っている。

(この問題は前回同行させていただいた新党日本代表の田中康夫さんが国会で追求している。)



(警戒区域の検問)


ホテル六角の100メートル先にある、警戒区域の境界線までいってみた。
境界線のこちら側とあちら側で、風景は特に変わることがない。
地図にコンパスで円を書いただけの境。
それが、原発事故の被害とは別にどんな悲劇を生みだしているか。
私も福島県産はじめその近県の農産物海産物を買うことに慎重になっている。
一方で、南相馬を訪れ、そこに住む人たちの顔を見てしまったいま、テレビやインターネットで「福島県産のものは食べられない」と声高に語る声に、複雑な心境になる。
なにを食べ、なにを食べるべきではないのか。
なにかを忌避したとき、それによって打撃を受ける人はいないか。
人為的に引かれた線ではなく、ものの先にある、作り手の顔を思い描きたい。
パンを食べるときはいつも、そうしているはずなのに。



地震翌日も営業を休まず、
被災者のためにパンを焼き続けた店。

(パルティール主人の只野実さん)


いまや南相馬でも大手のスーパーが営業を再開するなど、街は復興へ向かっている。
1ヶ月前、多くの店がシャッターを閉じていたにもかかわらず、店を開いているパン屋を見かけ、明るい気持ちになったのを思いだした。
店の名は、ふわふわパン工房 パルティールという。
店主夫人の只野ひろ子さんは語る。
「幸い、ガス、水道、電気止まらなかったので、震災の翌日も店を開くことができました。
そこへ市の人がきて、パンはあるだけほしいと。
それからはフル回転で、3月12日、13、14、15。
(放射能被害の恐れにより政府から避難要請がでて、)16日に私たちも避難するまで、ひたすら焼いていました。
その間は、店にパンをだしてもお客さんがたくさんきて、すぐすっからかん。
店はどこもやってない状態でしたから。
パンが買えない。
お客さんの分を焼ききれない状態なんですよ。
材料も底をついてきたし、余震もつづいていた。
主人が相馬市まで材料を買いにいっては、津波がくるといって引き返してきたこともありました。
余震との戦いでした。
避難していた会津から28日に帰ってきて、29日から営業、1日も休まない。
南相馬市原町区には3軒のパン屋がありますが、交代で避難所に朝のパンを届けています」


パルティールは新聞で取り上げられ、全国に伝えられた。
それを見てやってきた漫画家のやなせたかし氏の色紙がレジに置かれていた。
アンパンマンは傷ついた人に自分の顔をちぎりとって与え、励ます。
その姿とパルティールの活躍が重なったのだろう。


サービスパンとコーヒーを無料で提供している。
避難所にあてられた原町第一小学校の向かい側に店はあって、避難されている方がくつろぐことのできる場所になっている。
避難者のひとりはこういったという。
「避難所に入ってくるパンには賞味期限が切れそうになってるのもある。
その日に焼いたパンが食べたい。
自分で買いにきて食べたいんだ」


南相馬のご当地パン「よつわり」。
焼きたてのパンが避難所に届けられるという希望。

パルティールを紹介するのは、単に被災地にあるからではなく、本当においしいからだ。

この店の名物でもある、南相馬のご当地パン「よつわり」。
あんぱんの上の皮に十字形に切り込みを入れた形。
中には、あんこ、ホイップクリーム、いちごジャムと3段にフィリングが絞り込まれている。
店主の只野実さんによると、
「高校の部活の帰りに、よつわりパンを食べてました。
本来はジャムじゃなくてドライチェリーなんだけど。
あんことクリームは合うし、ジャムとクリームも合うじゃないですか。
だからこの3つは最高のコラボ。
3種類絞るのと上を切るのと、普通のパンより手間がかかるのにずっと残っているんだから、それだけ人気があるということでしょう。
楽天の選手も大ファン。
野球教室をやってくれた縁で球場に差し入れたとき、マー君も、鉄平もおいしいといってくれました」



あらゆる甘さが味覚の器にぎりぎり盛られた感覚。
のどにひりひり、口の中に甘さの膜が貼り付いたようだが、しつこいとは感じない。
ジャム+あんこのこてこて感をさわやかなホイップクリームが絶妙に緩和するからだ。
私たちが近づきたいと願い、一方でそれはちょっととも思っている、しつこい甘さの極限地帯へごくゆっくりと導いてくれる。
生地のふわふわさ、ごく自然な味わいも貢献している。
余計な甘さがなく、小麦の味だけを感じる。
特別でないという、そのことを特別だと思えるような。


ハード系の好きなあの人に、
もう一度パンを届けた。

前回、書かせていただいた、ハード系のパンが好きな村上さん。
その娘さんが記事を目にして私にメールをくれた。
お父さんが「死んだほうがましだった」といった、津波に遭われたときの状況を教えてくれたのだった。


(倒壊した村上さんの自宅)

「父が、大津波警報を聞いたあの日、寝たきりのお年寄りがいる近所に
『一緒に逃げるぞ!』
と声をかけに走り、
『俺達は後で行く! 初男先に逃げろ!』
と言われ軽トラックに乗り込んだ瞬間、津波に飲まれ、抵抗しても割れない窓ガラスに諦め、死を決意しハンドルから手を離したそうです。
しかしその時に孫の顔が浮かんできた、と聞かされました。
その瞬間が運命の別れ道だったのでしょう。
父と最後に交わした近所の方は遺体であがり、父は随分自分自身を責めていました」
あきらめかけたときお孫さんのことを思いだし、生きようと勇気をもって車の外へ脱出し、九死に一生を得たのだと。


1ヶ月ぶりに出会った村上さんは、前回と打って変わって、笑顔、笑顔だった。
「死んだほうがましだった」とまたいっていた。
しかし、文末に「(笑)」がついていたのである。
「こんなに仮設住宅当たんねえんじゃよ、死んだほうがましだった(笑)」
というように。
「事業するために国が5年返済で500万貸してくれるっていうけど、生きていくだけで精一杯なのに誰が1年に100万も返せる?」
と笑顔で政府に文句をつけ、
「これだけの人と体育館で暮らすんだもん、いろんな問題あるよ。
避難所に1日中いたら、頭がおかしくなっちまう」
といっては笑い飛ばした。

「地震がきて、津波がきて、それでも生きてるんだから、生かされてるんだよな。
おばあさんも病院つれてってあげなきゃなんねえしよ、孫の面倒もみなくちゃいけない。
体ひとつで足んないぐらい、自分のこと必要としてる人いっぱいいる。
だから生かされてるんだよ」

村上さんは私の持っていったパンを食べながら、そういい、笑うのだった。
励ましにいったつもりが、教わった。

笑うことの大事さ、強さを。

生きていくのだから、生かされているのだから、困難なときでも笑ったほうがいい。
ふさぎこむのでも、ただ嘆くのでもなく。

笑おう。
パンを食べ、笑おう。


ふわふわパン工房 パルティール

福島県南相馬市原町区大町2-127-1

0244-24-1771


支援物資をお送りください。

ビジネスホテル六角

福島県南相馬市原町区大甕林崎51 

0244-24-2639



(池田浩明)



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パンを届ける 第2回 陸前高田篇
(陸前高田市立第一中学校)

私たちの誤解。
避難所に食料は不足している。

私はこのように信じていた。
小中学校の体育館など公共施設があてれらている避難所は、国や県、市町村が十分な支援を行っているのだと。
実際はそうではない。
避難所の物資は、その大部分が、市民ひとりひとりの援助や義援金によってまかなわれている。
しかも、ゴールデンウィーク以降、すでに十分な物資が避難所にはあるとニュースなどでアナウンスされたことによって援助が減り、食料や生活必需品が不足しがちだという。
以上のような実情を、岩手県三陸地方の支援を行っている遠野市の医師、打越岳さんのホームページで目にしたのだった。


第2回もたくさんの名店にご協力いただいた。

パンを必要としている人たちがいる。
打越さんの紹介により岩手県陸前高田市にパンを届けることにした。
第1回は新宿方面のパン屋さんにご協力いただいたが、今回は主に東京の東側、下町方面のパン屋さんにパンをご提供いただいた。

あんですMATOBA
粉花
グリムハウス
ジュリアンベーカリー
テコナ ベーグルワークス
ヌエット・アン・アン
パン焼き小屋 ツオップ
パン焼き人
ブーランジェリー イアナック!
ブーランジェリー ボヌール
ブーランジェリー ラ・テール
ペリカン
ボワブローニュ
レ・サンク・サンス
(五十音順)

ブーランジェリー ボヌール、レ・サンク・サンスを運営する株式会社リトルハピネスの箕輪喜彦さん、菅みゆきさん、そして両店のフランス人シェフであるデリアン・エマニュエルさんには、現地までパンを運んでいただき、いっしょにお配りした。
愛パン家の渡邉政子さん、山口デザイン事務所の大野あかりさんには、自家製のジャムを作っていただいた。
また、お名前はださないが、多くの方々のご支援とご声援によって、この企画は支えられている。
みなさんにお礼を申し上げたい。

(陸前高田市の中心部)

破壊し尽くされた街。
津波の猛威は実際に見てみるまでわからなかった。

車にパンを満載し、陸前高田を訪れたのは5月28日土曜日のことだった。
津波の被害は想像以上のものだった。
海はまだ遠かった。
ナビによれば、海岸線まではまだ数キロの距離があるはずだった。
にもかかわらず街が壊滅している。
瓦礫が道の両側に散乱し、荒れ地となっている。
建物を破壊するほどの波が、こんな山間にまで押し寄せるものかと、威力に戦慄した。
前回訪れた福島県南相馬市や宮城県亘理町では街の多くの部分は温存されていた。
陸前高田はそうではない。
平野部は全滅、市役所や駅など街の中心すら完全に失われている。
パンを焼くあたたかい香りはいまだこの街に流れていないようだった。

(右デリアン・エマニュエルさん、右箕輪義彦さん)

山の上に残った小中学校や公民館に被災した人びとは逃れている。
そのひとつ450人の方が避難している陸前高田市立第一中学校を訪れ、昼食時にパンをお配りした。
用意をしていると、たくさんの方が興味津々に覗いていく。
中学生ぐらいの女の子が、階段の上からコンクリートの手すり越しに顔をだして、
「私、パン大好き」
と笑顔でいった。

長テーブルを借り、さまざまなパンを置いて、3つまで自由にお選びいただいた。
自身も被害に遭われ、この避難所で物資係を行っている村上和三さんはいった。
「朝から、パンだ、パンだって、配るほうの僕が早く食べたいって思ってました。
グッドタイミングでした。
明日、日曜日は、食事を作る係の人を休ませるために、自分でごはんを作る日になっていて、みんなカップラーメンなどを食べなくちゃならないので」
お役に立ててよかった、と思うとともに、せっかくの日曜日にカップラーメンを食べなくてはならない、避難所の現実を思い知らされたのである。

「ありがとうございました。
久しぶりに手作りのパンをいただいて、本当においしかった」
配り終えたあと、私たちのところにきて頭を下げるおばあさんがいた。
目に涙を溜めていた。
よほどのご苦労をされているのではと、震災からの経緯をうかがった。

「強い地震があったので、主人と2人、道路に出ました。
私は足が遅いもので、『自分はあとからいくから、先にいっていい』といいながら、主人は近所の人を助けにいった。
おじいさんが寝てたもんですから。
『車にのせて逃げなきゃダメだ』って、手を貸してしまった。
私だけ先に走った。
そこに大きい津波がきました。
1歩2歩、避難場所(公園のような市で事前に定められた場所)にいきかけたんですが、山に逃げたので寸前のところで助かったんですけどね。
私の前を走っていた人も、後ろの人も波に飲まれて。
私は山を伝って逃げて、暗くなったので、避難所に降りていきました」


「花もなくて、なにもしてあげられませんでした。
『ごめんね』っていいながら送ってあげました。」

「主人は亡くなりました。
私も走りながら、必ずくると思って待ってたんですけど、やっぱりダメでしたね。
助けようと思った、となりのご家族といっしょに、逝ってしまいました。
78で、元気だったんです。
面倒見のいい人だったんで、隣の人の声が聞こえたら足を止めてしまったんだと。
火葬はしましたけど納骨はまだしてないんです。
遺体が見つかるまではなにをやったか(必死だったので)わかりません。
嫁がせた娘の車に乗せてもらって探して歩きました。
避難所から送迎バスで死体安置所に行き、3月21日に見つけました。
寒かったもんで、早く火葬してあげたいなと思いまして、岩手県内の火葬場ぜんぶ電話したんですよ。
1ヶ月先まで空いてるところがなくて。
近くのところでキャンセルがでまして、『明日あります』っていうのでね、ばたばたとやりました。
なんにもしてやれなかった。
お花買って、飾ってあげたいと思ったけれど、花もなくて。
小菊だけやっと買って、『ごめんね』ってあやまりながら、送ってあげました」

(佐藤ミエ子さん。カメラを向けると「いただきものの若い人用のエプロンを着ているもので」と恥ずかしそうに笑った」)

佐藤ミエ子さんとおっしゃる、そのおばあさんはここで号泣してしまい、言葉を詰まらせた。
とても長い独り語りの引用になってしまったが、東北を襲った危機の真相を知ってもらいたく、さらにつづける。

「火葬して避難所に戻ると、玄関に花がありました。
假屋崎省吾さんという華道家の方が、菊が不足していると聞いて、避難所に届けてくださったんですよ。
2、3本いただいたんですけど、お骨を置いてるところは遠くていけないので、ペットボトルで作った花瓶に活けて、体育館に飾らせてもらいました。
いっぱいお花入れてあげたいと思ったのに、主人にはなんにもしてあげられなくて、申し訳なくて。
なにも品物がありませんでした。
紙コップひとつ買うのにも、30分、車で探してまわらなくてはならなくて」


「なにかやると体が震えてしまって。
最近まで字が書けなかったんですよ。」

「なにかやると体が震えてしまって。
字が書けなかったんですよ。
最近、やっと落ち着いてきたんですけど。
津波見たときは、腰が抜けました。
カーテンのように(垂直にそそり立って)きた。
うねるんじゃなくて、そのまま。
その上に家が浮いて流れてくる。
1、2歩進んだら転んじゃって、四つん這いで歩きました。
そのことが頭にあって、思いだすたびに震えて。
なにかしようと思うと、ダメなんですね」

(道ばたにたたずむ男性。雨の中、自宅跡に残されたものを探しているようだった)

「津波ってなんにも残らない。
うちのある場所にいっても土台石しか残っていない。
写真1枚残っていない。
地震だったらその場で残るんですけど、いまいっても瓦礫の山だけあって、なんにもないです。
こんなに大きい津波がくるとは誰も思わなくて。
訓練はしてたんですけど、想像してたのは50センチとかの津波で。
まさか堤防をこえてくる津波があると思わないから。
若い人に津波は怖いってことを伝えたいんです。
地震になったら早く逃げなくてはならないと」

(堤防は決して低くはない。大人の背丈の2倍以上はあると思われる。津波はそれを優に越えた)

佐藤さんが悩まされてきた体の震えは、おそらくPTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれるものだ。
津波は防波堤を越えてきた。
防波堤の高さとは、人間の思い描けるリアリティのサイズを示しているのではないだろうか。
日常のリアリティを超えるほどの非人間的なできごとは、地にたしかに足をつけている感覚を失わせて、思いだすたびに体が震えるほど、人を傷つける。
巨大な津波をテレビで何度も見て、私は知っているつもりになっていたが、逃げてきた人の主観によって語られる恐怖の質は、まったく異なるものだった。

「みんなに支えていただいています。
体ひとつで逃げてきたものですから、着るものも、食べものも、みなさんに助けていただいて。
いまは週に1度しかお骨があるところにいけませんが、せめて仮設住宅に入れれば、うちの人もつれてこれるから、いっしょにいられますから」

佐藤さんはいまもご主人と「いっしょにいる」。
わずかな救いだった。
たったひとりの人と何十年も連れ添って、愛して、死んだあとも懸命に弔おうとし、語りかけ、その気持ちが心の支えになる。
ご主人と2人で暮らせる静かな空間と、心の平安が、佐藤さんに早く訪れることを祈りたい。


「4階建ての高さで津波が街を消去していくのを
映画でも見るみたいに眺めていました。」

佐藤さんの体験は、ここ陸前高田では特別なものではない。
第一中学校の体育館にいる450人のすべてが、同じ恐怖と喪失を体験しているのだろう。
前述した村上和三さんは振り返る。

「地震から津波まで3、40分ぐらいありました。
自分も大事なものを家に取りに帰ろうと思えばできたのかもしれません。
でも、そうしませんでした。
山のほうに逃げて、上から街を眺めたら、中心にいくほうの道路が混んでたんですね。
山へ向かうほうではなく。
みんな津波がくることは知っていたけど、家にペットとか家族とかいるから助けにいってたんだと思います。
あの渋滞に巻き込まれたら身動きとれなくなってしまう。
そこに津波がきました。
津波が4階建ての高さで街を消去していった。
その映像だけ、前後の脈絡とかなにもなく、まるで映画を見るみたいに眺めていました」

佐藤さんのご主人もそうだが、津波で亡くなられた方の多くは、誰かを助けようとする、愛によって命を落としたのだった。
津波のことを知らなかったわけではない。
津波がくることがわかっていたから、逃げられない人や動物を見捨てることができなかった。
もし運よく自分だけが生き残ったとしても、亡くなった家族への愛によって、なぜ助けられなかったのかと悔恨し、苦しむことになるだろう。
未曾有の危機において、愛を失うことがなかった人たち__不幸にして命を落とされた方も、たまたま生き残って愛する人のために涙を流す人も、私の英雄である。
人生においていちばん大事なものを見失わなかったのだから。
いま苦境に置かれているその人たちの愛をこれ以上裏切ってはならない。
せめてものできることとして、パンを届けたい。


山ふところにある小さな避難所で、
たくさんの笑顔に出会った。

私たちは陸前高田市内の知りうる限りすべての避難所にパンをお配りした。
サンビレッジ(スポーツドーム)、米崎小学校、自然休養村、和方公民館、正徳寺、松山公民館、モビリア、矢の浦公民館、広田小学校。
それらは三陸の山ふところに点在していた。
うねる山道を進み、田畑や林を通り抜けたところに、木造の公民館が現れる。
そこに数十人の人たちが寄り集まって暮らしている。
避難所といえば、体育館を想像しがちだが、マスコミにあまり登場しないこれらの小さな避難所に物資が十分に届いているのか心配になった。
至るところで人びとの笑顔に出会った。
特に女性たちは明るく、おどけていた。
「パン、パン、パン! パンがきたよー」
「やったー」
それは私たちを安堵させ、かえって励まされるのだった。

(サンビレッジにて)

米崎小学校でも長テーブルの上にパンを置いて自由にお選びいただいた。
すべての人がパンを取り、そろそろ撤収しようとしていたところに、さっきパンをもらったはずの男性がやってきた。
「クロワッサンをもう1個ください。
とてもおいしかったもので」
そのクロワッサンを焼いたのは、いま目の前にいるデリアン・エマニュエルさんその人だった。
「クロワッサンのレシピ、日本にきて最初に焼いたときから、ちょっとずつ変えて、もっとおいしく、もっとおいしくなるようにしてきました」
パンを作った人に、パンを食べた人が直接おいしいと伝える、偶然訪れた幸福だった。

(避難所にあてられた正徳寺。縁側に避難者のお年寄りが座っていた)

(和方公民館。小さな公民館も避難所になっている)

「私たちだけでパンをもらうのはもったいなくて。
他の避難所にももっていってあげてください。」

被災者の中の若い人、体が動く人がボランティアとなって物資を集める係や、給食係を勤めている。
もっとパンを、とすすめると、
「私たちだけがパンをもらうのはもったいなくて。
他の避難所にも持っていってください」
と遠慮する人もいた。
避難所から避難所への道は山の中だけにわかりづらい。
ボランティアの人が私たちを次の公民館へと車で先導してくれる。
そのようにしてパンはリレーされていった。
岬の先にある広田小学校へ人数分のパンを届けたときには、すでに日暮れ時だった。
お口に合ったのかどうかは心もとないけれど、いまもっとも必要としている人たちのところに、パンは届けられたはずだ。
パンを受け取るとき、パンを食べたときの笑顔が、私たちにとってのなによりの報酬だった。
避難者おひとりの幸福は、パンを届けた私たちの幸福になったのである。
パンを仲立ちとすることによって。
そしておそらくは、食べられたパン自身にとっても幸福なできごとであったにちがいない。



支援物資をお送りください。
いま避難者の方のお役に立つことができます。
下記のホームページに必要としているものの一覧があります。
遠野市の歯科医・打越岳さんが避難所や自宅避難者の方に届けてくれます。



(池田浩明)

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災害援助のスタイリング
生きるか死ぬかの限界状況にあるとき、なりふり構わずサバイバルだけを考えるか、死に直面してもうつくしくありたいと思うのか。
難問というより答えは見えていて、後者を選びとれるのは、うつくしい生き方が身に付いている人、意図しなくても自然と所作がうつくしくなってしまう人だけではないだろうか。
そうした生き方を許された人物を数少ない知人の中で探すならば、『パニック7ゴールド』での「パンラボ」連載のデザインをお願いしている、山口信博さんになる。

パンを被災地に運ぶことをどのように成功させるべきか相談したところ、山口さんは意外な返答をした。
2つの道具を貸してくれることによって。
私の頭の中にはただパンを届けるという実際的な側面しかなかったが、山口さんは美的な面について考えてくれたのである。

ひとつはパンを運ぶための布である。
コーヒー豆の袋よりももう少し細い糸で編まれた麻布に、ベルトやひもなどがついている。
フランス語で文字が書かれていて、それを読むと、医療用の素材を運ぶためのものだったことがわかる。
十字架が描かれているのも、被災地に運ぶものとしてふさわしいし、実際にもこの布が人の命を救う場面もあったのかもしれない。

もうひとつは、古びた金属製の箱にとってがついたものだった。
ちょっと見にはなんのためのものだかわからない。
入れ子状に何層にも重なった道具をひとつひとつ取り出す。
アルコールランプ、茶筒、カップ、急須、茶こし、やかん。
つまり携帯用喫茶キットなのだった。

こんな道具をわざわざ持っていかなくても、ペットボトルの飲料を買えば、それで済む、のだろうか。
火を使える場所を探し、湯が沸くまで待ち、茶葉の量を考え、急須に湯を注ぐ。
その過程が、用件の処理だけに追われる時間の経ち方から意識を引き離す。
無駄に見える作業が実は、心を落ち着かせ、自分を取り戻すために、必要十分な時間なのだった。

ペンシャープナーという言葉がある。
作家が原稿を書く前に、敬愛する作家の文章を読み、自分の文体が鋭くなるよう感覚を研ぐ、その本のことをいう。
湧きあがる湯気に茶の香りを嗅ぎ、舌の上を通り過ぎていく鮮烈さを味わい、湯の熱さを喉で感じる。
それらに心のチューニングを合わせていくと、感受性を研ぎすませられるようだった。
ペットボトルのお茶ではそうはいかない。
通りすがった、避難所で生活をされていると思しき方をお茶にお誘いしたところ、「銭湯にいく」とご辞退された。
申し訳ないとは思いつつ、かいじゅう屋の橋本さんと2人で茶を飲んだ。

地震の直後、自粛の雰囲気が世間を覆った。
不要不急なことをやっている場合ではないと。
もちろん、被災に遭われた方のお気持ちを思えば、それは当然のことであったが、一方で、誰もが同じ振る舞いを、見えない空気によって強制されるような感じに数%の違和感を覚えなくもなかった。
体育館に布団を敷いたスペースだけで過ごす避難所での暮らしには、プライバシーもないし、思うような行動もできないし、楽しみをみつけるのもむずかしい。
本当の最低限ではあるけれど、一応の衣食住が足りているいま、被災者の方に必要なのは、むしろ不要不急なことをする自由なのかもしれない。
今度被災地に行くことがあれば、体育館からわざわざお誘いしていっしょにお茶を飲めるほどの人間関係を、避難されている方と結んでみたいと思った。

最初の問いに戻るけれど、生きるか死ぬかの瀬戸際に人は美を必要とするのか。
瀬戸際だからこそ美が必要だと思いたい。
生きるためだけに生きねばならないとしたら、人生がむなしすぎる。
明日の命も知れない戦国時代、千利休が豊臣秀吉によって重用され、多くの武将から最高の尊敬を受けていたのはなぜだったのか。
生死の境にあって、一杯の茶を楽しむ余裕が、死地に活路を開くからなのかもしれない。
おいしいパンを食べることも然り、であってほしい。(池田浩明)


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被災地にパンを届ける
パンになにができるのだろう。
出発前に東京で考えたこと。

求められているのか、必要なことなのか、わからなかった。
ひょっとしたら善意の押し売りなのかもしれない。
でも、なにかをせずにいられなかった。
パンになにができるのか。
あるいは、なにができないのか。
いってみなければそれはわからないし、もしなにかできる可能性があるのなら、考えているよりもいってみるべきだ。

問題は距離である。
3月11日、私たちのいる東京と、被災地である東北は同じ地殻の波によって揺さぶられた。
ただ、そこには距離の遠近があっただけで、震源地のより近くにいた人たちは人生の土台が崩れ落ちるほどの被害を受け、遠かった私たちにとって影響はより軽微だった。
私たちは地震の前とほぼ変わらぬ生活をつづけられる一方、東北には家をなくし、家族をなくし、不自由な避難所での生活を余儀なくされている人たちがいる。

もし自分がおいしいパンを手にしているとき、目の前にお腹をすかせている人が倒れているとしたら、そのパンをきっと差し出すだろう。
でも私たちは、被災した方々と遠く離れているがゆえに、パンを差し出すことができない。
あの地殻の波が、東北を揺さぶり、つづいて東京を揺すった、数分の時間差、あるいは東北と東京の運命を分けた震度の差。
その距離がそのまま、物資や、私たちの気持ちが、東北に届くのを阻んでいる。
障害が単に距離なのだとしたら、それはきっと縮めることができる。


そうそうたる名店が
無償でパンを焼いてくれた。

厚かましいことを知りながら、取材で訪れたことのある店に連絡し、「被災者の方に車で届けたいのでパンを焼いてください」とお願いした。
輸送の関係上、新宿近辺のパン屋さんに限られたが、連絡したほぼすべてのパン屋さんに趣旨はご賛同いただいた。
ただ、すでに支援活動を行っているなどのやむを得ぬ理由でご辞退されたパン屋さんもいた。

以下、今回パンをご提供いただいたパン屋さんを記す。(五十音順)

ウッドペッカー
かいじゅう屋
カタネベーカリー
小麦と酵母 濱田屋
シニフィアン・シニフィエ
TOLO PAN TOKYO
ブーランジュリ シマ
ブーランジェリー・ボヌール
ボンジュール・ボン
ラ クロシェット
ラ・バゲット
ルヴァン        
ル・プチメック東京
ブーランジェリー ルボワ
レサンクサンス

また、はちみつ専門店ラベイユに、はちみつをご提供いただき、
パン研究家・渡邉政子さんにはジャムを手作りしていただいた。

無理なお願いをしているにもかかわらず、多くのパン屋さんに「ありがとうございます」といっていただいた。
そのときにわかったのは、誰しもが東北の方のためになにかをしたいと考えていて、それができずにいるということだ。
募金箱に義援金を入れるのはもちろんすばらしい。
でも、私たちがもっとしたいのは、自分の職業によって被災者の方に貢献することではないか。
私たちは、誰かをよろこばせるために、自分の職業を選びとっている。
それがかなったときの幸福感は金銭的に得をすることよりももっと強い感情だと思う。


パンを満載したライトバンは
放射能におびやかされる南相馬市へ向かった。

4月23日土曜日の夕刻、このブログの執筆者であるかしわで氏と私は、上記のパン屋さんを車でまわって、東北に届けるパンを集めた。
ありがたいことに、ライトバンに入りきれないかと思うほどの量になった。
それはそのままパン屋さんたちの気持ちの熱さを表すものだ。
このパンは必ず、被災者の方おひとりおひとりに手渡ししなければならない、という思いを新たにしたのだった。

現地へ同行することを志願していただいた、かいじゅう屋店主の橋本宣之さんとともに約300キロを駆け抜けて福島県へおもむき、翌朝からパンの配布を行った。
事前に新党日本に連絡し、パンを配るために、新党日本代表である衆院議員の田中康夫さんの後ろからくっついていくことを快諾いただいていた。
自分の力だけではパンを確実に手渡すのは難しいと思っていたところに、田中さんが、毎週のように東北を訪れ、食べ物を提供するなどの支援活動を行っていることを知ったのだった。

「行革パン屋」の異名をとる前都議会議員、ウッドペッカーの後藤雄一さんご夫妻は、田中康夫さんとの盟友関係もあって、自家用車を運転して駆けつけてくれた。
後藤さんはいった。
「30年パン屋やって、俺はやっとわかったよ。
パンの味は作ってる奴の人生そのものだって」

最初にパンを届けたのは南相馬市役所。
南相馬市といえば、福島原発のすぐ近くに位置し、立ち入り禁止区域である20キロ圏内を市域に含む。
日曜日の市役所は騒然としていた。
役所にありがちな事務的で淡々とした雰囲気とはちがい、地震の被害を受けた人たちがたくさん訪れて窮状を訴え、生活を再建するための手続きを行っているのだった。

秘書官の阿部さんはこう語った。
「被災者の方のための対応で精一杯で、通常の業務はまったくできません。
地震と津波の被害に原発事故が追い打ちをかけました。
とにかく原発の問題が収まってからが、本当のスタートだと思います。
屋内待機から避難準備区域に変わり、外出はできるようになりましたが、まだ元の仕事に就けない人がいます。
物資はじょじょに入ってきているが、まだ大手のスーパーが開いてないので、近隣の町へ買いにいかなくてはなりません。
小さいお子さんがいる人はツテを頼って、できるだけ遠くに避難させています。
福島からきたというと、避難先の小学校で『放射能』といわれ、いじめに遭う。
子供たちにつらい思いをさせています」
市役所のみなさんにパンを提供するとよろこんでいただいた。
「炊き出しが行われていたのですが、それが最近はなくなってしまったので、よかったです」と。

(左から田中康夫新党日本代表、ひとり飛ばして桜井勝延南相馬市長、後藤雄一ウッドペッカー店主、橋本宣之かいじゅう屋店主)

南相馬市長・桜井勝延さんは、
「市民の顔に元気がない。
まだ普通の顔色じゃないですよ」と。
見えない放射能の不安はどの瞬間にも頭からぬぐい去ることはできないだろう。
見通しもつかない中、通常の生活や仕事に戻るのはまだむずかしい。
ロードサイドのチェーン大型店はシャッターを閉めたままだった。
店が開かなければ、店に勤めている人の仕事が奪われたままなのだから、お金がまわっていかない。
買う側にとっても物資がないから元気になれないし、希望が持てない。
そうした中で、一軒のパン屋さんが営業しているのを発見し、うれしい気持ちになった。
被災地にも、焼きたてのパンの香りが、ようやくたなびきはじめているのだと。


福島第一原発から20キロと100メートル地点。
人びとに物資を配って希望を与えつづけるホテルがあった。

福島第一原発から20キロと100メートルの位置に、ビジネスホテル六角はある。
このホテルは放射能の被害によって自宅での待機を余儀なくされた方のために、援助物資を配布するなどの支援を行っている。

ビジネスホテル六角のご主人はいう。
「ホテルは開店休業状態。
原発の問題に見通しもつかないのに、ホテルを営業しているといっても、お客さんがくるはずがないですよ。
じっとしていても仕方がないので、ここでなんとかみんなを助けていこうと。
もうそこまで津波がきた。
家がある人が半分、避難所にいる人が半分。
お店も銀行も開いていない、物資がない。
お年寄りに、隣町まで買いにいけといっても、車がないのだから無理。
このホテルまでだったらなんとか歩いてこれるから、ここで支援物資を配っている。
さっきの人なんかも、息子は東京の大学、お母さんと中学生の子供は仙台。
お父さんは九州で仕事いって、おじいさんとおばあさんと2人残ってる。
どこの家でも家族はみんなばらばら。
小学校、中学校がやってないんだから、子供はどこかに避難せざるをえない。
悲惨なもんだよ、死んだような暮らしをしている。
物資を配るとみんなよろこんでくれる。
この町には活気がある場所がどこにもないから、せめてここをそういう場所にしていこうと」

ここで近隣の方のためにパンをお配りした。
多くの方が列をなし、笑顔でパンを受け取る姿に、一瞬でも生活の不安を忘れていただけたのではないかと思った。
このパンが、おそらく多くの食べ物があふれているわけではないであろう、被災者の方の食卓に並べられ、家族の幸福な語らいに役立ってくれたら。
そう願わずにいられない。


「あのとき死んでおけばよかった」。
避難所に食べ物はあっても、希望はまだない。

私たちはその後、避難所となっている3カ所の小学校などをまわり、パンを手渡した。
テレビで中継された避難所に物資が集中して届く一方、小さい避難所に物資はまだまだ少ない。
南相馬市でうかがったのはそうした避難所ばかりだった。

私たちの手元には、15カ所ものお店の、さまざまなパンがあった。
やわらかく甘いパン、ハードなパンにドライフルーツが入ったものなど。
私は、プレーンなパンやハード系のパンには、はちみつやジャムをおつけしたかったのだが、時間の関係などで必ずしもそうならない場合があった。
石神第一小学校で出会った村上さんは60すぎぐらいに見える女性だった。
はちみつとジャムを手にしたまま、パンは食べずにいた。
「このパンにジャムをつけて食べるの?」
村上さんの手にはチョコレート入りの甘いパンしかなかった。
私は急いで車に戻ってハード系のプレーンなパンを取ってきた。
甘いパンに甘いスプレッドはつけたくないというこだわりがうれしかったからだ。
この方はパンが好きな人にちがいないと。

プチバゲットを手渡すと村上さんはうれしそうに、
「これ、噛めば噛むほど味がじわーとでてくるんだよなー」
と東北の訛りで何度もいいながら、食べてくれた。
硬いパンがずっと食べたかったのだと。
「私、パンがきたから、これ捨てちゃったんだよ」
とビニール袋の中に、配られた弁当の白いご飯を捨てているのを示した。
彼女の振る舞いをもったいないと非難することはできない。
体育館に敷かれたふとんの上、わずか畳数枚分の場所で、一日中すごす生活を1ヶ月以上つづけ、希望のない生活に倦み飽きているのだ。

私は長距離フェリーの2等船室に乗ったときのことを思いだした。
船上にはおいしい食べ物もないし、娯楽もないし、やることもない。
なにもしていないのに体がだるくなり、早く目的の港に着くことを待ちわびながら、ただ寝転がっているしかできなくなる。
わずか1日だけの航海でさえ。
到着する港があるのならまだましだ。
被災者の方の生活がこれからどうなるのか、政府から行き先を告げられることはない。

村上さんはパンを食べながら、語りつづけた。
「もうこの避難所が9カ所目なの。
たった3日で出ていけといわれたこともある。
次の避難所が用意されるわけではなく、自分で探さなきゃなんない。
いろいろ歩きまわった。
福島まで行ったこともある。
いまやっと家の近くに戻ってくることができたんだ。
でも1ヶ月はここにいていいらしいんだけど、その先はわかんない。
仮設住宅ができるというけど、全員は入れないらしいので、どうしてったらいいのか」

「津波で、家は瓦礫の下にある。
預金通帳も年金の書類もぜんぶ。
その手続きもしなくちゃなんねえ。
自衛隊の人が瓦礫を片づけてくれてるけど、私らにはそれを眺めているぐらいしかできない。
どこかへ行こうと思っても、最近まで外に出られなかったし、車がないとこのへんじゃ移動はできない」

「だいぶ忘れられるようになったけど、ふと我に返ると、いまでも地震のときのことを思いだす」
人は大事なことでさえ簡単に忘れていくのに、恐怖のような忘れたいことに限って、揺り返すように何度でも思いだすのはなぜなのだろうか。
地震は彼女にとって過去のことではない。

村上さんは傍らにいた旦那さんを指し、
「この人は車に乗っているとき濁流に飲まれた。
九死に一生を得たけど、『あのとき死んでおけばよかった』とよくいってる」

生きるより、死ぬほうがいい。
なんという救いのなさ。
この避難所にお腹を満たすほどの食べ物はあるけれど、希望はない。
村上さんは悲しげな表情も見せず、淡々と語りつづける。
そのことがなお嘆きの深さを感じさせるのだった。
家をなくし、家財道具のすべてをなくし、友人や家族をなくし、生きる目的も、意味もなくしている。
命は助かった。
けれども私たちは体だけで生きているのではない。
人生を形作る大きな部分を失って、それでも生きつづけることの困難を思う。
早くそれを取り戻す希望、道筋が村上さんに与えられたらと思う。

語りつづける村上さんの話をさえぎり、私はもう行かなければならないことを告げ、立ち上がった。
なんという私の不人情だろう。
「お仲間といっしょにいかねばなんねえんだね」
と村上さんはやさしくいってくれる。
「これ、避難所で配られるパン。
私、硬いパンのほうがいいから」
私はパンを配りにいって、かえって被災者の方にパンをもらうのだった。
避難所の一角に、さっき道ばたで見かけたパン屋さんの名前が入ったバンジュウがあったので、おそらくはそこのパンだろう。

車の中でかいじゅう屋の橋本さんとともに食べた。
チョコレートがあんこのように入って、生地にもココアが練り込まれたパンだった。
おいしかった。
やわらかく、すっきりした味わいで、なにより人の手で作った味がした。
まず生きていくための食べ物が地元のお店で買われ、そうしてお金がまわりはじめ、やがて復興へ向かっていくのだろう。
寄付だけではなく、被災地のお店や生産者の方を支援することがこれからは必要なのではないか。


「伝わらない、反映されない国だから」。
私たちにできるのは政治に絶望することだけなのだろうか。

田中康夫さんと話をする機会に恵まれた。
小学校の薄暗い階段を、松葉杖をつきながら足をひきずりひきずり上っていく。
地震のとき、人工股関節を埋め込む手術のために、田中さんは病院のベッドの上にいたのだという。
絶対安静だったが、矢も盾もたまらず、病院を抜け出し、被災地の支援へと向かったのだと。
私は尋ねた。
被災地の窮状をいっしょに見たいま、聞くことはひとつしかないように思われた。
「総理大臣にいえないんですか?」
「どんどんいってるよ。
だけど、伝わらない、反映されない国だから」
避難をしている方に声をかけてまわるときやテレビで見るときとはちがう、小さな声だった。
疲労と無念が少し滲んでいるように思った。
小さいとはいえ、政権の一角である与党の党首さえ、世の中を思うように変えられない。
私たちは政治に絶望すべきなのだろうか。

実は私は出発前、ある大手スクラッチベーカリーのチェーン企業の幹部に、人を通じてパンの提供を打診していた。
大量のパンを労せずして得ることができると思ったからだ。
しかし、その幹部はとても丁寧に、たいへん申し訳ないと何度もいって、協力できない旨を告げたのだという。
理由は大まかにいえば、次の一言に集約される。
「なにかあったら困る」
組織や政府が動くのを待っていることはできないと悟った。
被災地の方を救いたいという気持ちを持たない個人はいない。
でもその集合である組織は動かない。
状況を変えるには、個人と個人がつながっていくしかない。
それは単に理想論ではなく、実際にも、こうして個人営業のパン屋さんにお願いしてまわれば、たくさんのパンを集めることはできたのだった。


気づかなかった大切なことを教えてくれた女の子。
困難なとき、笑顔は希望を与えてくれる。

次に行った老人ケア施設も避難所にあてられていた。
年齢層が高いせいか、誰もがふとんに寝転がったままだった。
ここが今回行ったなかでもっとも悲しみが濃いように思われて、私はシャッターすら押せなかった。
横になっているおばあさんの傍らに女子高生ぐらいの年齢に見える女の子がいた。
パンを手渡すと、まるで花が開いたような、大きな、明るい笑いを見せた。
すばらしい笑顔だった。
彼女はこの困難な状況にあってさえ、たくさんの笑いを人びとに振りまき、数少ない希望になっている。
それは誰もができるはずの、お金も、政治の力もいらない、無償の奉仕だった。

別の建物にパンを配り終えたあと、私が戻ってくると、窓辺にさっきの女の子が立ち、ガラス越しに笑顔で何度も私に頭を下げるのだった。
「ありがとうございました。おいしかったです」
そう繰り返す彼女を見て、作り手の気持ちはきっと伝わっていると思った。
彼女に手渡したのは、どこにもないような新しい商品を高い技術で作り上げる、若いシェフの手になるパンだった。
東京でしか食べることのできないパンは、彼女にどのような印象を与えただろう。
パンは単にお腹を満たすものではなく、アートでもある。
モノクロームで塗り込められがちになる気持ちに新鮮な風を吹き込み、気分を持ち上げてくれる。
パンが彼女を励まし、笑いつづける気持ちを切らさずにいるためのエネルギーになってくれたら。
見えなくなりがちな希望が実はいまここにあることを、すばらしいセンスで作られたパンはいつも教えてくれるように思うからだ。


津波の現場のあまりの醜さに
いいあらわせない衝撃を受けた。

南相馬市を出たあと、私たちは北進し、仙台の南に位置する亘理町へ向かった。
その途中で、津波の濁流に町が覆われてしまった、無惨な傷跡を見た。
テレビで何度も見た光景だった。
にもかかわらず、その場に立つと新しい感情がこみ上げてきた。
こんなに醜い光景をかつて見たことがあっただろうか。
人は無意識のうちにも、自らの周囲をうつくしいもので満たそうとするものだが、そうした美意識と、泥や瓦礫は真っ向から対立するものだった。
ぐにゃりと曲った車は濁流の激しさを現し、トイレや風呂場の床のタイルだけ残した住宅の廃墟は、いつもの生活が一瞬にして破壊されたことを示していた。
この黒い泥の下に不幸にして被害に遭われた方の魂が、あるいは遺体さえ眠っているかもしれない。
そう想像しながら歩きまわることが精一杯で、こみあげてくる自分の気持ちにさえどのような形を、あるいは場所を与えるべきかまったくわからなかった。
まして鎮魂の方法など。
同行した人たちが立ちつくしたり、ひとりでそれぞれに物思いにふけっていたから、誰もが同じ衝撃に圧倒されていたのだろう。

15軒の名店のさまざまなパンを
290人の被災者の方に選んで食べていただいた。

亘理小学校では町職員の斎藤さんらスタッフのご協力により、夕餉の席にパンを配ることができた。
数台つないで置かれた長テーブルの上に、冒頭で記したすべてのパン屋さんのパンがそれぞれ並べられる。
避難をされている方ひとりひとりが自分の好きなパンをそこから選んで食べることができる。
こんなにも錚々たる名店のパンが一堂に会し、290人もの人たちによって共有されたことがいままであったろうか。
パン好きたる私はそんなことを思ってひそかにほくそ笑み、いっぽうでそれが自己満足にすぎないのではないか、被災者の方にとってのよろこびになるかどうかはわからないと不安にも思った。
けれどビニールの封を解くたびに立ち上がってくるパンの香ばしい匂いが、きっとよろこんでもらえるはずだと私を励ますのだった。

「これ、ぜんぶ手作りのパン?」
「早く食べたいな」
かいじゅう屋の橋本さんが、持ち込んだ大型のハードパンをブレッドナイフでスライスしていると、多くの人が足を止め、「うわーっ」と歓声を漏らす人もいた。
パンのセッティングを指揮したのは赤ら顔のおじさんだった。
私には10分の1ほどしか理解できない訛りの強い言葉で、「それはビニールに包んで」とか「1人1個にしなきゃケンカになる」とか指示を与える。
新党日本職員である岡田さんらがそれにてきぱきと従う。
そこで政党の名前は少しも告げられなかったから完全なボランティアである。
私たちははじめて出会った同士だったが、心をひとつに作業を行った。
そんなに無心でなにかをしたのは私にとって最近ではちょっと記憶にない。
それは誰のための労働だったのか。
あまりに無心だったので、そこに並んだ数百個のパンに自分が突き動かされているように思われた。
幸福に食べられたいと願うパン自身の欲望によって。
パンとは人間がパン酵母の生存を利用して作り上げるものだが、いまや私たちは反対にパン酵母によってここまでパンを運ばせられて、せっせとパンを配らせられる。
もはや誰が誰のためにパンを焼き、パンを配り、パンを食べているのかわからなかった。

東北の人はあまりハード系のパンを食べ慣れていないだろうし、食べにくいと思うだろう。
そんな危惧を私は抱いていた。
だが、ハード系のパンは見慣れていないがために、被災者の方々の興味を引くのだった。
食べ慣れたパンだけでなく、食べ慣れない新奇なパンも、沈滞した状況下では、人を励ます。
もちろん、甘くやわらかいパンも手軽に食べられてよろこばれたし、はちみつやジャムも飛ぶようになくなった。
290人が順番にパンを受け取り終わったとき、そこにいない人のためにとっておく分を除いて、きれいさっぱりとなくなっていたのだった。
本当に1日で配り終えられるのだろうかとさえ思われた、ライトバンに山積みしたすべてのパンが。
パンは余りもしなかったし、食べられない人も誰もいなかった。
奇跡のように。

被災者の方のために、パンはなにかできたのだろうか。
ひとりひとりに聞いてまわるわけもいかないし、聞いても気を使って「おいしかったです」としかおっしゃっていただけないだろう。
もちろん食べ物には好きずきがあり、すべての人がよろこぶことなどあり得ない。
避難所を去るとき、私はたくさんの人に頭を下げられた。
わざわざ呼び止めてお礼をいう人もいた。
考えて応答したわけではなかったが、「どういたしまして」という言葉をいう気にはなれなかった。
「ありがとうございました」
パンを作ってくれたパン屋さんや、名前は挙げられなかったがご協力いただいたたくさんの人に成り代わって、そう答えた。

(池田浩明)




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